雲の会
岸田國士


 新しい演劇の芽は、どういふところに発生し、その芽はどうすれば健全に伸び育つかといふことを、私はこの二十年絶えず考へつゞけて来た。

 理窟のうへでは、それはもうわかりきつた話なのだが、実際問題としては、どうにもならないところがあつて、日本の新劇は、その歴史がもう可なり長いといつてもいゝのに、思ふやうなかたちになかなかならない。さうして、今になつて、一番これはまたどうした、ことかと、われながら不思議に思ふことは、演劇といふ社会が、新しい運動を含めて、まつたくといつていゝほど、他のすべての社会、殊に、文学芸術のあらゆる分野から自然に孤立してしまふ傾向があるといふことである。

 かりに私といふ一人の人間が、例へば、小説家にも詩人にも、美術家にも、音楽家にも、友人があり、それらの友人としばしば顔を合せてゐるとする。しかし、私は、それらの友人の誰一人にも、自分の書いた戯曲の上演を観てもらはうと思つたことはなく、また自発的に観に来てくれさうな友人はほとんどゐないといふのが事実である。

 これはどういふことかといふと、私のさういふ友人たちは、そろひもそろつて、「芝居を観ない」のが普通のことになつてゐるからで、われわれもまた、さういふ人々にも観せられる芝居をやらうと心掛けてゐないからである。

 ところが、一方では、さういふ人々に興味がありさうな芝居は、現在の観客層なるものには、とつつきにくいものではないかといふ、おそれを抱いてゐる向きもある。これもあながち無理とはいへないけれども、長い眼でみると、そもそも、演劇の新しい芽は、さういふ雰囲気のなかからは決して生れない。

 そんなら、どうすればいゝかといふと、なんでもいゝから、さういふ連中を、無理にでも劇場に誘ひ出して、彼等もまた、芝居にとつて無縁な存在ではなく、気が向けば舞台をそれぞれの立場で利用し、演劇創造の喜びを味つてみようといふ興味と希望とを抱かしめるほかに手はないのである。

 私のみるところ、彼等の芝居に対する「気むづかしさ」は、決して、演劇関係者がひそかに信じてゐるやうな点にあるのではない。なるほど、そのなかには、演劇そのものを軽蔑し、或は、毛嫌ひしてゐる君子もなくはないが、多くは、現在の日本には、退屈な芝居しかないとタカをくゝるか、または、時間をつぶして観に行くほどの楽しい空気がどこの劇場にもないといふことを知つてゐるからである。

 さういはれゝば、私なども、返す言葉はないのである。しかし、それを黙つて引さがる代りに、なんとかしなければならぬと思ひたつたのが、そもそも、今度「雲の会」といふ集りを作つた動機のひとつである。

 私が、さういふつもりで、はじめ、身近な若い友人に相談をもちかけると、演劇に関係のある連中はむろん双手をあげてこれに賛成した。演劇に直接関係はしてゐないが、かういふ話をすれば、すぐに通じさうな人々に、それぞれ手わけをして協力を求めた。もちろん、その間に、いろいろ議論も出て、それはたゞ演劇だけの問題ではなく、文学芸術の各領域に、それと似た現象が既に生じてゐるのだから、かりに演劇を中心に考へるとしても、それがまたおのづから、他の領域になんらかの刺激を与へ、少くとも、演劇といふものを再認識することによつて、文学のあらゆるジヤンルの特質と、限界とを明確に打出すことができるかも知れぬといふ意見が、有力になつた。

 言はゞ、演劇の窓を開くことが、私一個の念願であつたのだけれど、その窓は、内に開く窓であると同時に、外にも開く窓であることを、私は、この集りの最初の一歩で感じとつたことは、まことに予測せざる収獲であつた。

 そこで、この集りの目的を、ある一人は「文学の主体化」といふ言葉で説明しようとしたが、これはもつと詳しい註釈をつけないといろいろに受取れさうな表現で、公けに使ふつもりはなかつたが、ともかく、さういふ看板を外からすでにかけられてしまつたかたちである。別に否定する必要もないから、いづれ、仕事が進むに従つて、その真意が明かになるのを待つことにしよう。

 私一個の立場から言へば、単なる橋渡しのやうな役目をつとめるつもりであつた。私と親しい関係にある若い劇作家仲間と、それらの仲間を通じ、更に、このひとならば気軽に腰をあげてくれるだらうと私が勝手に目をつけた小説家、詩人、批評家など、数十名に、まづ相談をもちかけてみたのである。一、二の例外はあつたけれども、その大部分は、非常に快く、この呼びかけに応じてくれ、どうしてもつと早くこのことに気がつかなかつたかと、却つて自分の迂闊をわらひたくなつたほどである。

 この集りは、一種のサロンであり、クラブであつて、もとより、なんの特典もなく、なんらの義務も課せられてゐない。参加を求めたくても、然るべき手蔓がなかつたり、よそ目にもあまりに忙しさうだつたり、かういふことにまで引つ張り出すのは多少気の毒と思はれる向きは、ひと先づ遠慮することにした。

 さて、この集りは、どういふ仕事から手をつけたらいゝか、といふ相談の結果、まづ、会員が日をきめて、主な新劇の上演を見物し、その後で、茶でも飲みながら雑談をしようといふことになつた。そして、第一回の観劇会が、先月俳優座のストリンドベリイ劇、第二回が、今月の実験劇場(イプセンのヘッダ・ガブレル)といふ風に、着々、実行されつゝある。

 第一回の観劇後の雑談は、われわれにとつて、非常に有益であつた。小林秀雄は翻訳劇といふものは絶対に芝居として成りたゝぬといふ悲観説をとなへ、井伏鱒二はしばしば芝居の舞台から小説の新しい発想を拾ふといふ経験を語り、中村光夫はいくら不完全なものでも外国劇の上演は、それなりに面白いと弁護し、三好達治は戯曲殊に、外国戯曲の翻訳が「語られる言葉」としてどれほどの用意が払はれてゐるかを指摘し、永井竜男が戯曲を書く意志のあることを一同が確認した。

 私は、第一回の集りに加はつた二十数名のうち、いくたりかゞ、もう芝居見物はごめんだと、第二回には、顔をみせなくなるのではないかといふ心配もしてゐるのだが、それでもせめて、さういふ機会に誰それが来るなら出掛けてみようといふ興味だけは残しておいてくれることを祈つてゐるのである。

 実をいふと、この会の真の面目は、この出発のすがただけをもつて、その全貌と断定し去ることはできないと思ふ。現在のやうな基礎のうへに、実に、多くの周囲の支へと、より新しい世代の結集とが必要である。

 おそらく次回の集りには、そのことが議題となるであらう。

 現在までの参加者は既に四十三名に達してゐる。私が君もはいつてくれといへば、なぜおれを後まはしにした、などゝ拗ねたりは決してせぬ友人のいくたりかを、まだついでがなくて、そのまゝ残してゐる。しかし、それは追々といふことにして、さしあたり、これから考を書いてみようといふ意志をほのめかしてゐる、若い小説家や詩人に、是非とも仲間入りをしてもらはなければならぬ。それから、いつか舞台の仕事を手伝つてみてもいゝとひそかに考へてゐる音楽家や美術家に、早くその機会を与へるやうにしたい。

 これまでとは全く違つた意味で、新しい小説の脚色を試みることも、この会の仕事のひとつである。

 演劇の仕組まれて行く過程といふものは、今まであまり劇場と接触のない芸術家にとつては、いろいろな意味で、興味があるだらうと思ふ。それは、もちろん単なる好奇心を満足させるやうなものではない。われわれのやうに、もうなれつこになつたものには、つい見落されてゐるある創造機能の解剖図がそこに示され、却つて、芸術の他の領域に於ける新しい生理学の発足に寄与するところはないだらうか。

 私は、会員諸君の多数を、時として芝居の稽古場へ案内する計画を立てゝゐる。

 会員それぞれの、この会に対する期待や、興味には、いくぶんまだはつきりせぬところや、ひとりぎめのところがあるかも知れぬが、それはそれで差つかえないと思ふ。さういふものが、いづれは、渾然と融合してひとつの共通の希望となる時があつてほしい。

 私は、私なりに、この会の健やかに成長するすがたを思ひゑがいて楽しんでゐる。

 いつか、会員たる演出家と詩人と音楽家と美術家とが、めいめいの表芸を持ち寄つて、一つの演劇的スペクタクルを創り出すといふやうな試みは、決して夢ではないと思ふ。日本に今日までさういふ形式の舞台芸術が生れなかつたのは、別に不思議はない。東京といふ近代都市にさへ、このまゝはふつておいては「雲の会」がいつの間にか、あちこちに生れるといふ地盤がないからである。

 専門家は専門の限界を知ることによつて、より大きな力の一部となることができるのだと思ふ。

 かくあるべき劇場が、まだ、存在しない。

 それをまづ作るためにも、この会は、なんらかの役に立つであらう。しかし、それよりも、私の空想は、かゝる劇場がいつかわれわれの集りの場所となり、そこが、あらゆるインスピレーシヨンの泉となることである。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店

   1992(平成4)年617日発行

底本の親本:「文学界」

   1950(昭和25)年111日発行

初出:「文学界」

   1950(昭和25)年111日発行

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2011年219日作成

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