先駆者小山内薫
岸田國士


 演劇の分野において、明治時代は真に革新と名づけられるやうな芸術運動も、啓蒙事業も殆ど企てられてゐない。

 末松謙澄等によつて主唱された演劇改良会の実体は、周知の如く、在来の歌舞伎劇を「文明開化」の名にそむかぬやうな粉飾でこれを品位ある外客接待用の、また子女教育に害のない催し物たらしめようとした一部「有力者」の余技的発案にすぎず、この機運に乗つて、かの新派劇の発生を見たけれども、これまた、視野の狭さによるマニエリスムにより、演劇の近代化といふ肝腎な役割を果すべくして果し得なかつた。

 坪内逍遥は、自他ともに演劇革新の大先達を以て許してゐるにも拘らず、その業績はシエイクスピヤの擬古体訳に示される歌舞伎の伝統の教壇的再生であり、その指導下に集まつた演劇のアマチュアは、いはゆる現代の科白劇の初歩的技術をも身につけずに終つたのである。

 森鴎外は、そのなかで、独り、日本の新しい演劇の方向を、専門家としてではなく、むしろ、外国文学紹介の卓越した見識のうちに漠然とながらこれを指し示した。即ち、泰西近代戯曲のいくつかの現代語訳は、完璧とはいへないけれども、いはゆる西欧近代劇運動の流れを「文学的に」当時のわが劇壇に注ぎ入れる、極めて大きな効果をもたらした。しかしながら、彼の創作に成る戯曲は、内容の点でも、形式のうへからも、それほど演劇の近代化を目指した跡はなく、少くとも、彼の描く舞台のイメージは、歌舞伎俳優のある者が演じることを前提として怪しまなかつたやうに見うけられる。

 島村抱月が坪内と袂を分つた理由は、表面はどうであれ、島村は、劇文学者として、坪内とは全く別個の存在であつた。彼はその資質と才能とを芸術座の健全な育成のために、より活かすことができたら、その業績は、一劇団乃至一女優の名と共に亡び去るべきではなかつた。とはいへ、彼も亦、演劇指導者としては、根本的な一つの問題を忘れてゐたやうに思はれる。つまり、新しい演劇が職業として成り立つために、時代は何を求めるかといふ問題である。


 小山内薫は、わが国の演劇がこれらの人々の手引によつて僅かに近代化の方向を探りつつ、しかもなほ、舞台には過去の幻影が長く尾を曳いてゐる時代に、はじめて劇場の内部との交渉をもちはじめたのである。

 即ち明治十四年生れの彼は、同三十七年二月、東京帝国大学英文科一年の学生服をまとつて、当時川上一座から独立した新派俳優伊井蓉峰の真砂座出演の手伝ひといふ仕事から演劇活動の第一歩を踏み出した。

 それまでに既に、モオパッサンの短篇、特にマアテルランクの『群盲』の翻訳によつて、森鴎外に認められ、『ロミオとジュリエット』の翻案を伊井一座に提供し、など、文筆活動の方面でも、なにがしの仕事はしてゐたが、彼を決定的に舞台芸術に結びつけ、演劇人として、名実ともに、演劇のために生涯を捧げようとする明治以後最も華やかな知識人たらしめた素因は、いつたいどこに在るか。

 環境と時代とがこれほど雄弁にそれを語る例はけだし少からうと思はれる。青年期よりその晩年にいたるまでのあらゆる精神の遍歴は、各種の資料によつてほゞその輪郭を捉へることができ、その限りに於て、彼が何ものであつたかの結論を下すことは容易である。

 小山内薫は津軽藩の蘭学医にして軍医の職についた小山内玄洋の長子である。母は幕末旗本の家に生れ、遊芸を嗜み、社交を愛した。一時広島に住み、薫はそこで幼年時代を過したが、やがて東京麹町に居を構へ、妹八千代とともに、知的要素に恵まれたいはゆる「山ノ手」有閑階級の典型的な家風のうちに成長した。伝統的な都会趣味と明治開化のハイカラ味との混合が、その家風の色調となつてゐたことは、想像するに難くない。彼の級友武林夢想庵が、その住居の印象を「意気で高等な」と極めて暗示的な表現で語つてゐるのをみてもわかる。

 彼は学校では優秀な成績ををさめ、家庭では相当やんちやん坊主であつたらしい。もちろん父亡きあとの一家は、財政上の困難にも遭遇し、彼は長子として、ある意味のあせりを感じたに違ひない。ことに人並すぐれた頭脳と才気とをいかに用ふべきかについて、おそらくは、当時の秀才が悉く思ひ悩んだ如く思ひ悩んだことと思はれる。その時、文学芸術の世界が彼を自然に招いたこと、しかも、そこに至る最も卑近な道が彼の日常生活と直結する劇場の門に通じてゐたことは、また決して偶然ではなかつた。

 青年期の彼が、一方、舞台芸術の魅力に惹かれながら、一方また、求道の心に燃えて内村鑑三の許に走つた理由は自らも失恋の結果と称してゐるが、彼の生涯を通じて、その言動に現はれる狂信的ともいふべき精神主義、まつたくユウモアを欠いだ一種の深刻癖は、耽美享楽の追求に於て人後に落ちなかつた半面となんら矛盾するものではなく、彼にあつては、たゞ、性格としての自己分裂が、思想的苦悩とは関係なく、そのまま不安の相貌を呈するにすぎなかつたのである。

 演劇はもちろん彼を捉へて放さなかつたが、彼の教養と時代感覚は「明日の演劇」が未墾の土壌であり、その開拓こそ、あらゆる意味に於て自己に課せられた使命なりと信ずるに至つた、その道程には、もちろんさまざまな好運と努力とがあつた。今日よりみて、彼が、その当時、演劇革新の運動をリードする最も有力な条件をいち早く身につけたことは、注目に値する。その条件とは、第一に、西洋近代劇運動の消息に一応通じたこと、第二に、文学界の新機運と結び、高名な作家たちをその背景にもち得たことである。

 そして、更に重要なことは、ちやうどこの時代ほど、演劇界が彼の如き人物の出現を求めてゐた時代はないといふことで、彼はまさに、寸刻を誤らず登場する俳優の如く、ひろく世人の注目を集めた。


 演劇革新の運動にはおのづから一つの目標がなければならぬ。明治以来今日まで、いはゆる「新劇」と呼ばれるものは、この運動の実践に外ならぬけれども、未だなんびとも、この「新劇」の行き着くところを明確に指し示したものはないのである。

 たゞ「新しい演劇」の要素としては、内容形式ともにさまざまな要素を挙げることができる。その「新しさ」の程度に於てもまた、各人各様の要求があり、それはそれでよいのであるが、小山内薫は、そのなかにあつて、比較的早く、そして鮮明に日本演劇の近代化といふ旗幟を掲げ、外国文献の渉猟により、またその後自ら欧洲の土を踏むことによつて、ほとんど唯一人、徐々にではあるが、西欧近代劇の日本版を作製する試みに成功したのである。

 明治四十二年十一月、日本新劇史上画期的と称せられる「自由劇場」第一回の公演が、旧「有楽座」の舞台で行はれた。演し物は、イプセン作、鴎外訳の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』、主演俳優は、小山内を「片腕以上」と恃む洋行帰りの若き歌舞伎俳優市川左団次である。

 自由劇場の旗挙げは、まことに一時代の芸術運動がなし得る最も華々しい効果を収め、主脳の一人にして演出者たる二十九歳の小山内薫は、忽ち劇壇、文壇を通じての花形となつた。


 自由劇場は当然のことながら、甚だ短命であつた。しかし、彼のこの経験は、欧洲劇場巡礼のために、貴重なものとなつた。

 彼には、演劇理論の師がいくたりか欧洲にあつた。直接には最もスタニスラフスキイの影響を受けたかと思はれるが、ラインハルトとクレイグは、ともに、彼の主張の拠りどころとなつてゐた。

 第一次欧洲大戦後の先駆的な動きも、彼は怠らず見守つた。たゞ、彼の注意は、主としてロシヤ及びドイツに向けられ、従つて、彼の理論と実践を通じ、演劇創造のシステムは飽くまで「演出」第一主義であつた。

 近代劇運動の一面が、その出発に於て、「文学」の位置を高く舞台に要求するものであつたに拘らず、そして、彼も亦、自由劇場創立の時代は、十分に演劇の文学的内容を重んじながら、次第に、その説を変へて行つたのは、欧洲の先駆劇、殊に、クレイグからメイエルホリド、フックスなどに至る一種の機械主義の影響を受けた結果であらう。

 ともかくも、小山内薫の出現によつて、わが国の演劇愛好者は西欧近代劇の舞台について語り得るやうになつた。彼はまた、その点に於て、多くの劇作志望者に希望と刺激とを与へた、とも云ひ得る。

 たゞ遺憾なことは、彼によつて見出された才能は二、三に止まらないが、彼の手によつて育成された劇作家は一人もなかつたことである。

 自由劇場の捲き起した興奮は、公平にみてやゝお祭り騒ぎの感がなくもなく、程経て、辛辣な批評も現はれたやうであるが、ともかくも、その場合の小山内薫を、やはり、当時、何人も企て及ばなかつた「新しき演劇的雰囲気」の醸成に最も成功した一演劇指導者の典型とみることは誤りであらうか。


 大正十三年春、独逸から帰来した土方与志と相謀り、その出資によつて、日本最初の「新劇常設館」築地小劇場を創設した時、彼は、これを最後の足場として、純粋な演劇的生活に没頭しようと決意したやうである。

『築地小劇場建設まで』といふ彼の当時発表した文章のなかで、──「私の今まで踏んで来た道は悉く錯誤であつた事を認めます。私にとつて一番密接だつた自由劇場の運動をもその中へ数へ入れる事が出来るのです。やつと私はそこまで来ました、やつと私はそこまで来たのです」といふ一句が、誰の目にもつく。

 一見おそろしく謙虚にみえるかかる述懐のなかに、小山内薫の支持者を途方に暮れさせ、彼の批判者を焦ら立たせるなにものかがある。

 彼は詩を書き、小説を書き、戯曲を書き、そして、多くの感想と評論を書いた。しかし、彼は、なにを措いても、新知識に富む舞台指揮者であり、演劇教師であり、特に、若き演劇愛好者にとつて一種の偶像的存在であつたやうに思はれる。

 そのことを彼自身、誰よりもよく知つてゐた。彼は、そこから一歩も退かず、また、一歩も踏み出すことを敢てしなかつた。そこに悠々と腰をおろしてゐたわけではない。それは時によると不安極りなき立場であるにも拘らず、それはまた同時に、彼の身についた役柄のやうなものとなり、彼は常に好んで先駆者の道を歩まうとしながら、先駆者の不運と苦難とを甘受する勇気はなく、むしろ、流行の尖端を行くものゝ誇りに似た優越感を味つてゐたのである。

 彼は、新しい演劇の樹立を目指して、最後まで闘つた。しかも、彼の目標とする「新しい演劇」の正体を、彼自身つねに見失つてゐた。なぜなら、彼には、形の新しさは一応理解できたけれども、精神の新しさにはどこかなじまぬところがあり、芸術家としての感受性に優先する生活人としての趣味と風習に於て、多分に、非近代的、非国際的なものを包蔵してゐたのである。従つて、近代の演劇、ひいては西洋の演劇の、わが国在来の演劇と厳密に区別されなければならぬ一点に関して、彼は、理論のうへでも、実際のうへでも、やゝ敏感でないと思はれる節々があつた。

 それにも拘らず、彼の終始口にしたところは、「歌舞伎でも新派でもない新しい日本演劇」であつた。そして、さういふ新しい演劇への道は、先づ西洋近代劇の移植に在りと信じてゐたのである。

 この自ら気づかぬ矛盾が、圧倒的な名声に比して、彼の生涯の業績を極めて影響力の少いものにした。


 築地小劇場の旗挙に先だつて、彼がしばらく教壇に立つた縁故のある慶応義塾の公開講演で、「日本の作家のものは今のところ演出慾をそゝられないから、西洋戯曲の翻訳をしばらく続けて上演する」、と公言したことが、はしなくも劇場一部の物議をかもしたのは、まことに興味のある事件である。すなはち、彼の眼にも当時の戯曲の生産は甚だ貧しく、かつ、彼の演劇的抱負に適ふ劇作家は一人もゐないといふことを、彼は率直に述べたのである。率直にすぎたといふ批難は当るかも知れないけれども、彼は、かゝる重大発言をなす以上、それを失言とみなされるやうな安易な表現によつてこれをなすべきではなかつた。事実、多彩で重量のある西欧戯曲の前で、日本の片々たる雑誌戯曲がいかに舞台映えのしないものか、そのことだけなら、小山内を俟たずして誰もが知りぬいてゐることである。しかも、そのことを、演劇革新の名に於て、厳しく警告するに応はしい当代の人物は、まさに彼をおいて外になかつたのである。

 彼は、ここに於ても、理想家肌の現実主義者なる面貌を遺憾なく暴露した。彼は一面、日本演劇の水準に底知れぬ不満を抱きながら、己れも亦、その水準に立つものであることを、故ら認めようとせず、ゴーヅン、クレイグあたりの演出万能の一流派を理論的な楯として、一旦築きあげた領域を何人にも犯さしめぬといふ身構へを示す結果になつた。たゞ、かゝる弱点を彼のみが非難されなければならぬいはれはない。穿つていへば、彼はその晩年に於て、彼が順調にかち得た劇壇の最高地位に対する代償を求められたのである。


 小山内薫は、年少にして、鴎外、独歩、藤村に近づき、文壇及び芸術界の錚々たる名前に早くも取り巻かれ、その存在は、スタアトと共に、既に華々しく、そして、独自なものであつた。それは、いはゞ、知識人の文化的センスを代表し、最も俗悪な社会とされた演劇界に単身乗り込んだ最初のチャンピオンといふ趣きがあつたからである。

 近代文明国の演劇の在り方をおぼろげに察してゐるにすぎぬ当時の知識青年小山内薫は、一躍、日本演劇革新の使命をその双肩に担ふ立場におかれてしまつた。自ら求めた道とはいひながら、それはあまりに重荷であつたに違ひない。外国演劇の知識は、忽ち、彼を一方の権威とはしたが、実際運動の面に於ける彼の理論の体系は、容易に受売りの域を脱し得ず、ために、わが演劇界の特殊な歴史に挑戦する有効な武器は、旗印以外には、何ひとつ用意されてゐなかつたのである。

 彼自身、そのことに気づかぬ道理はなく、自らの仕事を或は研究と呼び或は実験と称し、度々演劇学校の必要を力説し、時には彼自ら舞台に立つ決心をほのめかし、たまたま、未熟な新劇が直ちに大衆に呼びかける危険を云々したかと思ふと、翻つて、商業劇場のために通俗劇の筆を執る冒険を試みた。

 彼が、時代の要求に応じ、まさに出るべき時に出で、占めるべき地歩を占めた稀有の頭脳と才能の持主であつたことは疑ふ余地はないけれども、今日その業績を仔細に調べてみると、岡倉天心の美術に於ける、或は下つて山田耕筰の音楽におけるほどの足跡をさへ演劇の畑に残してゐないのは、果して彼の力量の不足によるのであらうか。筆者はさうは思はない、不幸はたゞ、彼が後年に至つてそれを認めたやうに、演劇革新を目指すものの第一の障碍を、なにを誤つてか障碍と見做さず、不用意にこれと手を結んだことにあつたのである。既成演劇の楽屋裏のバチルスは、若い彼の魂をどれほど虫ばんだか。しかも彼は、そのバチルスの作用をも演劇創造の悦びのうちに加へざるを得なかつた。その意味に於ては、多くの先駆者の例にもれず、彼もまた一人の犠牲であつたといへないことはない。


 昭和三年の秋、小山内薫は、ソヴィエット・ロシヤ革命十年祭の賓客として、文学芸術方面でロシヤと関係の深い秋田雨雀その他数名と共に招かれ、日本演劇界を代表する第一人者としての歓迎を受けたが、帰朝早々、その翌年、彼が実質的に主宰する築地小劇場内部に思想的対立が芽をふきはじめ、芸術的には進歩の側に同情をもちながら、身をもつて左傾を示すほどの政治的関心はなく、つひに、劇団の経済的危機に直面しつゝ、一歩一歩事志と違ふ情勢のうちに、突如胸部の致命的疾患の発作に見舞はれ、その年の暮れ、ある記念会の席上、四十八歳の比較的短い生涯を終つたのである。

 なにはともあれ、巨星墜つの印象を世人に与へた。彼の死について、実に多くの人々がそれぞれ感ずるところ、想ふところを活字にした。彼の接触面のひろさ、風貌の鮮やかさを物語るものであるが、真に彼の事業を理解し、その功績を正しく伝へる文章は久保栄著『小山内薫』を除いてはあまり多く発表されてゐない。

 彼は、何事を成さんとし、何事を成し遂げたか。評価はまさに下されてもよい時であるが、彼の成し得なかつたことを見事に成し得る者が現れない限り、彼は依然として、日本新劇運動の最大の指導者たる地位を譲らぬであらう。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店

   1992(平成4)年617日発行

底本の親本:「近代日本の教養人」実業之日本社

   1950(昭和25)年61日発行

初出:「近代日本の教養人」実業之日本社

   1950(昭和25)年61日発行

入力:門田裕志

校正:Juki

2011年925日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。