劇の好きな子供たちへ
岸田國士
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子供たちが集まって劇をするということは、楽しい遊びであると同時に、おたがいの勉強であるということを忘れないようにしたい。
楽しい遊びであるからには、思う存分、自分が面白いと思うように、そして、人も面白がるようにやるのがいい。自分だけが面白く、人にはそれほど面白くないというようなやり方、あるいは、人を面白がらせようとばかりあせって、自分はそのためにかたくなったり、したくないことをしたりするのは、たいへんまちがったやりかたである。
劇というものは、がんらい、見せる方と、見る方とたがいに力をあわせ、気もちをそろえて、そこにできあがる美しい全体の空気を楽しむものなのである。
見せる方だけがいっしょうけんめいになり、見る方はそれをただ、じょうずだとか、へただとかいって、見ているのは、ほんとうに、子供たちの楽しい劇とはいえない。それは、いろんなよくない結果を生むはじまりである。
劇がおたがいの勉強になるという意味は、劇にしくまれた「物語」の内容が、なにかしら新しいことを教えるばかりではない。第一に、劇というものは「話し言葉」のもっとも生き生きとした使い方、人間の表情のもっとも正しいあらわし方によって、ひとつの面白い場面がつくりあげられるのだから、劇をほんとうに面白いものにするためには、どうしてもみんなが、「話し言葉」の美しさと、表情のけだかさとを身につけ、それを正しく読みとる訓練をしなければならない。
美しい「話し言葉」や表情は、役者や俳優を職業とする人たちにかぎらず、すべての人間に必要なことであって、それはちょうど、自然の美しい風景をながめたときと同じように人の心をひきつけ、印象づけて、こころよい感じをあたえる。
昔から、「話をしてみるとどんな人間かわかる」といわれているように、「話し言葉」や表情によって、その話そうとすることがら以外に、その人の年齢、男と女の区別、性格、教養の高い低い、職業、またはどこの国かとか、なんの時代かまではっきりとあらわれるものである。
これだけでも「話し言葉」がどんなに大切かよくわかると思うが、「話し言葉」の美しさをいつも心がけているということは、つまり国語を大切にするということであり、劇をすることによって、劇を見せる方も見る方もこの訓練が自然にできるはずだから、君たちの熱意は、やがて、最近のみだれた国語の品位や魅力のかいふくに大きな役割をはたすことになるのである。
それと、もうひとつ。劇がおたがいの勉強になるわけは、はじめにいった通り見せる方と見る方とが、力をあわせ、気もちをそろえることが大事なので、そのためには、劇を舞台にかける前から、なるべく、いろいろなめんどうな仕事を、みんなで分担をきめて手つだうようにしなければならない。ここから、劇という仕事のはじめから終りまでを、仲間同志が仲間どうしらしく責任をもち、同じ目的にむかって協力する精神と、ふくざつな仕事をもっとも順序よく、むだを少なく、完全に仕上げる技術とをやしなう機会が得られるのである。これは、めいめいの立場からいえば、やがて社会に立って一人前の働きをするうえに、ひじょうな強みとなり、全体の立場からいうと、そういう訓練のできた人々の集りからは、もっとも進歩した社会が生れるわけなのである。
劇が子供たちにとって、面白い遊びの一つだということは、だれでも知っている。
それでは、劇のどういうところがそんなに面白いかというと、これはなかなかむずかしい問題で、子供たち自身には、そんなりくつはわからなくってもいいが、ただ、間違ってはならないことは、「なにかの真似をする」ことだけが面白いのではないということである。「もの真似」も面白いには面白いが、それだけならサルでもやるのである。だから、劇の人物がどんな人物でも、ただそれらしい真似をするだけでは、ほんとうに面白いものにはならない。ことに、一番いけないことは、劇の真似をすること、どこかで見たことのある劇の真似、あるいは俳優の真似をすることである。
ある人物に扮するということは、子供が子供なりの空想で、その人物を頭のなかに描いたそのままを、思いきって、自分のからだ、顔つき、動作、衣裳、声、言葉の調子、などで作りあげることである。
そこではじめて、誰の真似でもない、また、誰にも真似のできない、一人の人物のすがたが浮びあがる。それは、脚本のなかに文字で描かれてある人物をもとにしてはいるが、しかし、それはもう、演技者としての君が、君の空想と君の才能と、君の肉体とで、新しい生命をふきこんだ人物である。
その人物は君とともに生き、君とともに見物の前に立っている。その人物が、君の口をかりてしゃべり、君の眼をかりてよろこびの瞳をかがやかし、君の手をかりて涙をふくのである。
この奇蹟のようだが、なんのふしぎもない、手品のようでいて、すこしのごまかしもない、舞台の人物の「生きている」すがたこそ、劇の面白さをつくりだすもとなのである。
劇の面白さがそこから出てくるにはちがいないが、劇を面白くするには、それを十分に利用し、それをできるだけ印象の深いものにしなければならない。
すぐれた脚本は、そのために書かれたものである。しかし、脚本がいかにすぐれていても、それだけでは劇が面白くなるというわけにはいかない。脚本が舞台にかけられるときは、その運命を、演出家と演技者にまかせることになる。活字でしめされた一つの「セリフ」でさえ、演出家の解しゃく、演技者のくふういかんによって、まったく違った印象をうけることがたびたびある。ときによると逆な意味にもなってしまう。この「セリフ」はこの場合どういうふうにいうのがいちばん正しいかを考えることはもちろん必要だが、正しいばかりでは劇としてはまだたりない。いちばん面白いいい方をはっきりつかまえることが、なによりも大事なのである。そして、いちばん面白いいい方とは、子供たちにとって、いちばん自然ないい方だということを忘れてはならない。
そこで、劇を面白くするには、人物の「セリフ」を面白くきかせることが、大事なことの一つだ、ということがわかった。
この「セリフ」の面白さは、いつでも、「こっけい」すなわち、「おかしさ」ばかりふくんでいるものとはかぎらない。いちばん面白い「セリフ」とは、その人物の気持がじつによくあらわされていて、その人物がそのときそれをいうのが、なによりもその人物らしいと思われるような「セリフ」をさすのである。それはどんなにこちょうされていても、また、どんなにひかえ目であっても、そこには真実というものがあふれている。その真実にふれることが、劇を見るものにとって、なにより面白いのである。
つぎに、劇の面白さは、日常生活の中でみられるものの面白さとは、おのずから違っているので、舞台の幕が開いている間は、たえずてきとうな速度で何かが進行している。その流れに自分も知らず知らずのせられていく心地のよさが、その一つである。
だから、劇は、いつでも、止ったり、つかえたり、しぶったり、よどんだりしてはならない。ときには急に、ときにはゆるやかにということがあっても、またときには、高らかにはげしく、ときには低く静かにということはあっても、いつもすらすらと気持よく、あるはやさで進んでいく、きまった調子が出ていなければならない。それはちょうど音楽が奏せられるようなもので、つぎからつぎへとくりひろげられる場面は、セリフとセリフ、動きと動きのつながりでできている音譜の演奏だと思わなければいけない。
稽古をつめばつむほど、演出家の目が行きとどいていればいるほど、劇が面白くなるのはそのためである。
見物はほかのことを考えたり、舞台のあらさがしをしたり、あくびをかみ殺したりしなくなる。いきもつかず舞台に見入り、耳をすまし、劇のなかの人物といっしょに、自分もよろこんだり、悲しんだり、怒ったり、思案したりするようになる。そして、そのことが、知らず知らずのうちにそうされてしまうのが、劇の面白さになるのである。
やりなおしはできない。がそうかといって、用心ばかりしたり、間違えてばかりいたり、手さぐりのもどかしさを感じさせたりしては、劇はその面白さの半分を失う。一旦舞台に立ったら、忘れたり間違えたりすることを心配しないで、そのときはそのときで、自分の役の性質をとりちがえない範囲で、前後のつながりをうまくつなぐようなその場の智恵を働かせばよい。
これを即興というのだが、この即興のできる訓練は劇をやるうえに大切で、人間である以上、どんなにおぼえたつもりでも忘れることがあり、どんなに練習をしても、とっさに手違いができることもあるのだから、そこを、ただいいかげんにごまかすのではなく、劇の面白さをへらさぬように、そくざの機転で、たくみに補うことは、これまた、劇の劇らしいところである。
即興とは、前もって考えたり、おぼえたり、練習したりしないで、いきなり出たとこ勝負で作りだすものをいうのである。
劇にも、前にいったような場合を別にして、あらかじめ脚本を土台にして稽古をしたのでなく、舞台に出るときに、はじめて役があたえられ、それぞれの人物は舞台の上で、たがいに勝手なことをしゃべり、そうしながら、だんだんに話の筋をとおしていくという特別なやり方がある。これを即興劇という。
子供の劇も、いい脚本があれば、それをちゃんと上演するのもよいが、すこし年かさの子供は、たまには、この即興劇をやってみるのも面白いと思う。これはこれとして面白いばかりでなく、あたり前の劇をやるための、たいへん役にたつ勉強である。
ただのとんちくらべのようになることもあるが、それだけでもむろん面白いだろうけれども、劇はあくまでも劇なのであるから、たがいにとんちをきそいながら、一方でたがいに役の関係をはっきりさせあい、場面としてのまとまりを、うまくつける努力をみんながしなければならない。
そこには、おかしいあぶなかしさがあり、思いがけない詩的な空想のひらめきがあり、ずばりと真実のまとにあたることがあり、とんちんかんのとぼけた味わいがあるのである。
見せる方は、はじめから自信のあるはずはなく、自分ながら、なにをやっているのかわからなくなり、冷汗をかきながら、苦しみ、もがき、照れ、また、気をとりなおして、いろいろ手をつくすのだが、けっきょく、よろこぶのは見物で、しまいには腹をかかえて笑わないわけにはいかなくなる。例の表情遊戯の応用という趣きもあるにはあるが、相手があり、言葉も使え、まったく面白さの性質がちがう。そのうえ、その人物がなにを考えて、なにをするかを、直接に説明するのであるから、これを見ている方は、ただ、げらげら笑ってばかりいないで、ほんとに面白い瞬間を生み出した演技者には、怠らず、また、遠慮なく拍手をおくらなければならぬ。見ている方も、やがてかわって、見られる方にまわる。そして、みんなが楽しみ、みんながたがいにきたえあうのである。
この場合、羽目をはずすということについて気をつけなければならない。
劇にかた苦しさは禁物であるが、即興劇となると、なおさらくつろいだ気持で、思うぞんぶんのことをした方がよい。しかし、そのために、げびた真似をする危険がしばしばある。いくらおどけたことをいっても、いくらおおげさなかっこうをしても、それはかまわないけれども、程度をこえたわるふざけ、見ぐるしいじょうだんだけは、つつしまなければいけない。見ていて顔が赤くなるようなことを平気でしたり、いったりして、それで人を笑わせるつもりになると、これはたいへんなことになる。
劇の面白さのなかには、舞台にでる人物の、人間としては感心できないところ、みにくいところをうまくあらわしているような面白さがないことはないが、その人物に扮している演技者まで、そのために、感心できない、みにくい人間にみえては、その劇は、もう劇としてほんとうに人の心を楽しませるわけにいかないのである。
舞台の演技というものは、げびた役を演ずる場合にも、一種の気品をたもつところまでいくのが理想であって、それは、その演技者の人間として、また、芸術家として、おのずからそなえている、ほこり、品位のあらわれである。
俳優を職業とする人間のうちには、そのことを忘れて、ただ、げびたことのすきな見物のごきげんばかりとろうとするものが多かった。だから、昔から日本では、役者というと、芸人という名前で、いくぶんいやしい職業のように思われてきたのである。
近頃は、専門の俳優のなかには、ちゃんとした心がけをもち、学者や教育家や技師などとおなじように、芸術家として、尊敬すべき仕事をしているものもずいぶんある。しかし、劇といえば芝居のことである。芝居といえば、役者の芸を見せるものである。役者とは、昔、河原乞食とさえいわれた、いやしい職業のものを指すということになると、君たちの好きな劇は、いったいどうなるのか?
劇というものに対する誤解が、まだ君たちのまわりにあると思う。
劇は、けっして、本来、いやらしいものでも、あさましいものでもない。しかし、やり方しだいで、いやらしくも、あさましくもなるものである。
子供たちを見物とし、子供たちを演技者とする子供の劇は、ときにはおとなの助けをかりることはあっても、なるべく、子供たちだけの手で、はじめからしまいまで、やり通すのがいい。脚本をえらび、役をふりあて、稽古をし、装置や衣裳をくふうし、見物を集め、舞台の幕をあけ、見物をおくりだすまで、子供たちの智恵と力とを十分にふるうのがよい。
ことに、脚本のえらび方については、それをえらぶはんいを、信頼する大人の誰かに相談するだけにして、いくつかの候補作品のうちから、みんなでいろいろな意見をだしあって、どれかにきめるというふうにしたいと思う。
それが、なぜいいか、どこが面白いかを、みんなが十分にのみこんでかかるのが、一番、劇をやるのに大事である。だから、できれば、脚本も、ほかにもとめるかわりに、自分たちでつくるのが、なによりものぞましい。
これはむずかしいことのようだが、実際は、むずかしいことぐらいなんでもない。それほど、面白く、かつ、有益なことである。
一人で考え、一人で書かなくてもよい。いくたりかが相談して、まず、物語りの筋を考える。
筋にはむろん、主題というものをふくませる。主題とは、作者が、その物語をとおして、見物になにをいおうとするか、たとえば、ほんとうの勇気とはこの人物のこういう行動のようなものをさすのだ、とか、こういう親をもった子供の気持はこうありたいものだ、とか、もし人間にこんなことができたらさぞ痛快だろうとか、そういう作者の考えを忠実におりこまなければならない。
物語りの筋がざっとできたら、その物語りをくみたてるために必要な人物を、こんどは、一人一人頭のなかで作りあげる。筋といっしょにうかびあがってくる人物もあろう。人物のなかには、主題と筋のはこびに深い関係をもっている人物もあれば、ただ筋の進む途中、ある場面だけで用のすんでしまう人物もある。主要な人物について、まず、みんなが、自分の空想で、その役柄からいって、ぜひこうでなければならぬという、効果のある舞台への出しかたを研究する。
こうして、一人一人の動き、一人一人のセリフを、みんなが相談をして、一ばんてきとうで、一ばん面白いのにきめていくのである。
最後に一人が、全部をはじめから読みあげる。それをまた、みんなで、気のついたところをいって、なおすところはなおす。
やがて、その脚本を台本にして、稽古にかかるのだが、稽古中も、みんなが、劇をできるだけよく、面白くするために、どしどし意見をだし、演出者が最後に、それを、採用するかどうかをきめ、最後まで、みがきをかける。
演出者は、演技者と同じように、劇をする上になくてはならない人であり、劇の責任者である。
演出者の仕事は、俳優の演技や衣裳、舞台装置など、すべてのくふう、せいとんを指揮するばかりでなく、その作者のいおうとしていること、考えていることと、それを俳優が、自分の解しゃくやくふうによって、演技することとの、完全な調和と融合をはかることにある。
その上で、その俳優の才能や経験、そのほか特殊な素質にあうような演出の仕方をしなければならない。
劇は、おおぜいの協力によってできあがるものである。舞台に立って演技をして見せるものはもとより、装置、効果、照明、衣裳などの受持のために舞台の裏で働くもの、一の劇をしあげるための、費用や時間のやりくりをするもの、劇場全体の秩序、火気、通風、清掃などのことに気をくばるもの、見物を気持よく劇場にみちびき、安心して席につかせ、忘れものや紛失物もなく家にかえす一切の世話をみるもの、劇のすんだあとのいろいろな始末をするもの、など、いずれも、みな、劇の仕事のなかにふくまれているのである。
子供といえども、このことを忘れて劇をするというのは、どこかで大きな間違いをおかしていることである。
劇の楽しさ、面白さは、舞台を中心とし、そのまわりにかもしだされるすべての人の、たがいにおなじ感動をわかちあうよろこびだ、ともいえるのである。
したがって、見物は、舞台に立つ人々とおなじように、あるていど、劇を楽しく、面白くすることができる。
それは、見物が、劇を見る立場にいながら、見せる立場の人々をよく理解し、これをげきれいしながら、十分に気をつくし、労をねぎらいながら、つねによき見物であるようにつとめるならば、おのずから、舞台は活気をおび、俗に油がのるという結果になるのである。そして、見物席の、しんけんでなごやかな空気は、それだけでも、見物のめいめいを愉快なすがすがしいきもちにさせる。
劇場は、まことに、社会のひながたである。文明社会は、よい劇、すなわち、すぐれた舞台と、心がけのいい見物とをかねそなえた劇場をもっているものだといえよう。
子供の劇場は、かれらが、将来どういう社会を作るかを予言しているのである。
君たちのすきな劇は、これからの社会をもっといい社会にする劇であってほしい。
底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「学校劇の事典」実業之日本社
1953(昭和28)年1月16日発行
初出:「少年少女 第三巻第三号 別冊付録『劇の読本』」
1950(昭和25)年3月1日発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年10月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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