俳優と現代人の生活(対話5)
岸田國士
|
A(編集者) 先月、日本の俳優は、芝居するという目先のことにとらわれすぎて、演技にフクラミがない、というようなお話がありましたが、これはやはり歌舞伎なんかのやり方と関係があるでしようか……。
岸田 それはなくはないと思いますがね、でもあんまりないと思う。
A 歌舞伎の演技には、特殊の造型法みたいなものがあつて、演技者は中心点だけを非常にはつきりと押し出して来ますね。
岸田 そりや歌舞伎の役者が新劇をやるとそういう事になるかも知れないが……、西洋の芝居を勉強して来た演出家が演出した芝居が大体そうなつてきているね。これはやつぱり現代人の生活というものの観察のしかたが足りない所の方が大きくはないかと思う。そうして近代リアリズムというものの、日常性に結びついた魅力を深く掴んでいない結果だと思う。だから、些末主義に陥るとはいうけれど、実際は、リアリズムから、だんだんトリビアリズムに落ちこんで行つたという歴史が日本にはない。それはリアリズムというものの底をついて、デカダンスとしての些末主義じやなくて、リアリズムの上すべりをして安易にそこへ走つてしまつた些末主義だと思います。
A 例えば新劇の役者なんかで非常にうまくなつてくると新派に似て来るとか、歌舞伎に似て来ると言われますが、そういうのはどうでしよう。
岸田 それは、うつかりすると、役者に限らず一般日本人の中に偶然あるものの演劇的表現ですね。つまりわれわれの現在の生活、俳優の場合には役者としての生活がまだはつきり残つているんじやあないか、過去の俳優の生活から切り離されていません。それは劇団の中の雰囲気をみてもすでにわかりますね。いわゆる歌舞伎、新派と絶縁した雰囲気じやあない。
A 永く俳優をやつていると、演技をするということに慣れてしまつて、戯曲を素材として、新しい芸術作品を創り出すということから離れてしまう。……
岸田 それは多少はあるでしよう。しかし芝居そのものが自然にあるマンネリズムに陥る、型にはまるということはあつても、それは、今迄あつた型に帰るとは限らない。別の一つの型が出来そうなものだ。歌舞伎や新派の役者と同じ生活感情がまだどこかに残つている。
A 具体的に言うと杉村さんが新派々々と言われるが、私は拝見してみてそうは思わない。似ているものはあるが……違つていると思う。それで杉村さんは満足しているかといえばそうじやあない。どうしていゝかわからない。苦しんでいるという。それでいけないならばどうしたらいゝか、という苦悩を非常にもらしているという話をきゝましたが。
岸田 杉村君なんか僕に言わせるとあれでなかなか現代の女性ですがね。しかし、なかなかという程度であつて、完全なる現代女性といえるかどうか。これは別に非難じやあない。そんなに完全な近代女性というものはまだまだ日本じやあ稀れにしか生れていない。自分の育つた環境からいつても接触した社会からいつても、いまの日本の社会を離れた女性のタイプというものはなかなか生れませんよ。だから杉村君も大体は現代女性であつて完全なる近代女性でないという事は、あえて杉村君に限りませんが、杉村君の場合のように俳優としてあすこまで育つてくると、目立つてそのことが、かれこれ問題にされるんだな。一つの女優のタイプとしてわれわれの論議の的になる。そういう杉村君の中にある日本の過去の女性のカゲが、これが今度は役者として舞台に立つた場合にやつぱり演技のはしばしに出てくる。例えば一人の女が身の上話をする時、その表情が全体として、日本の女であるという以上に、過去の女性の完成された美しさ、或は作法というものを無視できない。幾分は違つた、新しい、自由な表情も含まれるだろうが、やつぱりそこには伝統や風習から離れきれない、一つの標準に寸法を合わせて行く。そうなると、それを芝居として、一方、今日まで練りあげて来た旧い舞台の型が、歌舞伎の女形の型として最もそれを誇張して示しているわけだから、どこかそれに似たものになつてくる。
A 杉村さんは本当に苦しんでいるらしいですね。これはハタでそれに対して協力出来る面があれば協力してですね……。いくらなんでもあれだけの役者なんですから。落ちこんだ穴から脱出してゆく方法というものをどうしても考えてゆかなければならないと思うんですが……。
岸田 僕らもその為には色々の事を考えないわけではないが、それはもうなんですよ……杉村君が自分で考えて、自分にとつてもし不利なものなら、どんどん切り捨てゝゆくより仕方がない。どうも批評家がそういうものを適切に批評して、杉村君がほんぜんと悟るというものじやあない。
A いまお話が出た戯曲が舞台にかかつている場合に演出家とかその他の協力者が色々と俳優に戯曲を理解させて、いくらかでもそういう方向を暗示するという事は出来る可能性はないでしようか。
岸田 僕自身は演出家として適任だとは思わないが、だから、僕は標準にはならないが、今の演出家じや、だれだつてそれは出来ないと思いますね。それをやるとむしろ危険の方が大きい。早く言うと結局形をつけてやらなければならない事になる。これは一番ごまかせますが、早い話がそこは新派的だからやめなさいといつても、その人によつては無意識にやつている事があるかも知れない。新派的であるからいけないという事であれば、ただある部分を削り取るより仕方がない。よさせる方法がない、それを防ぐためにもつと新派を離れたものを、早く言うと現代的というか、あるいは西欧的な一つの形でゆく、そういう感じとか表現をつけさせる。それは築地小劇場の初期に行われたやり方だ。志賀直哉さんの言葉を借りて言えば「火の通らん」芝居、舞台という事になる。この言葉は非常に面白い言葉だと思いますね。翻訳劇は火が通つていないからつまらない……。
A これは杉村さんばかりじやあないが、田村さんはじめ他の全部の俳優が持つている。たゞ杉村さんがずつと舞台をふんでいるだけに、特にはつきりしている。
岸田 杉村君の場合について言えば、やつぱり芸熱心で、相当古い芝居の芸というものを色んなところから取り入れ、それで自分の演技を豊かにしようと努めたんだ。歌舞伎の役者にしろ、新派にしろ、杉村君がみて美しいと感じたその部分を何か自分の演技の中に取り入れようとする努力を可なり意識的にやつた時期がある。ですからこれが新派だから、この美しさを新劇に取り入れるにはどういう風にして取入れるか、という過程に少しの飛躍があつて、またある意味において古い芝居の型に知らず知らずのうちに近よつたという事は僕はあると思いますよ。杉村君の持つている旧日本的な女性というものは別にしても……しかし、それは、全く無関係じやあないよ。
A それを考えますといくらか直せると思いますがね。
岸田 いけないと気がつけばね。……しかし、歌舞伎や新派の真似がしたい、それも自分には面白いとなると、どうかね……。いまは恐らく気がついていると思う。それを、意識的に古い芝居のこういう美しさというものは、古い芝居の美しさであるばかりでなく、永遠の芝居の美しさだ、それをむしろ思い切つて取入れるという一つの態度ね、そのために少しはくさいなんて言われても、そんなことは歯牙にかけないで、敢然として自分の好むところを行つてさ、それで、一代の仕事を完成させていくのも面白いさ。しかし周囲の忠告に耳を傾け、自分もそれに対していろいろ反省するという風であれば、それは杉村君の一つの発展への過程でもあるし、僕はそういう風にみている。
A 今度は「ママの貯金」の田村さんを問題にしていただきたいんですが、……
岸田 田村君の個人の批評になるが、僕はあの人が永く舞台を休んでいた。そうして久し振りに舞台に立つたのがこの前の自作の戯曲ですが、その時と今度と二回を通じてみて、僕は田村君はやつぱり十年間も舞台を休んだことで、俳優としては損をしていると思うね。しかし、その損は非常に大きなプラスになるものを同時に持つて来た。それは何かと言えば、田村君の人間としての成長です。それがすぐ舞台の上で物を言つている。これはそれほど光彩りくりとした形では現われて来ないが、しかし田村君が俳優としてのトレーニングをしばらくやればそれが大きな力になると思う。そういう力を身につけて来ている。それには田村君の十年間に亘る人生修業というものもあつたんでしようが、それと同時に、脚本を自分で書いた。という事が非常によかつたのではないかと思われますね。これはやつぱりものを考える、一つの頭の中で人間像を造形する。そういう訓練をしたという事と、両方で田村君の人間的成長というものにはかなり寄与しているのではないか、そういうものを身につけて先生は再び舞台に戻つて来たが、……ですから、この間の「ママの貯金」はその意味から言つて、演技そのものはどこかやつぱり軋るようなところを見せている。まだどことなくのびのびとした豊かな所は出ていませんけれども、人間として、人物としての重量というものを十分に感じさせる。それは同時に俳優としての貫禄にもなるものですが……俳優の貫禄という言葉よりもむしろあの場合は人物の重量で、そうしたものを出し得たという事、これはまあ、たいしたことだ。あの役のあの母親の解釈とかなんとかいう事になると、田村君は田村君なり安全な無難な道を通つている。その為にほとんど破綻もなく、立派に芸術賞に値する演技になつたけれども……、僕に言わせると多少物足らない所がある。それは田村君自身も十分わかつて、この間の芸術賞の受賞式の時のあいさつで言つていたそうですが……もう少し荒々しい、たくましい、のびのびとした演技をこの次にやつてみたいという事を言つていたそうですがね……。それだけ田村君自身がわかつていれば僕はもう言う事はないがね……。とにかくそういう演技をやるにしても、この次に田村君は恐らくなんの破綻も見せないだろうと、僕は思つている……。そうしてね、あの人には以前からそうした慎重な、ひかえ目なところがありましたけれども……、あの芝居をやるのについて、これは将来外国の芝居をやる場合に、やつぱり考えなければならないと思う問題は、日本人が外国人になる。つまり日本人が外国人にふんする可能性ですね。いままでの外国劇ではそういうことを考えないでやつたやり方がずい分あつた。しかし田村君の場合はその点でなかなかいゝ。私がいま安全と言つた事はその点にあてはまる。あの程度の外国人なら、日本の俳優でも出せる。しかしあの人物の場合の田村君の行方がまず安全だというのであつて、他のどういう人物をやる場合でも田村君があゝいうやり方で外国人が出せるかと言えばそうじやあない。われわれが外国の芝居の魅力の一つとしている異国的なあるいは、バタ臭い味が出せるかどうか、疑問だと思う。だからそのためにも一工夫する必要があるんじやあないかと思いますね。これはさつき杉村君の場合にも言つたように日本女性的のものを多分に持つている人と、それからよしあしは別として、日本女性的のカラからかなりぬけ出ている女優さんとずい分違うんじやあないか、こういう事は女優さんとしてもかなり知つていて芝居をするだろうが……演出家は特に親切な忠告をしなければならない筈ですね。この役者ならこういう行き方があるという風にね……。それから外国人にふんしてやる場合、特に大事な事は、その外国人のいろんな個人的な条件と同時に、その国籍乃至民族が何人かという事であつて、この国籍或は民族の問題は翻訳劇の場合はどの外国人も一緒にしない事、地方的な雰囲気を出すためばかりではなく、人間として、脚本の人物をほんとに活かすためですね。田村君があの芝居をやる決心をしたのも、あれは純粋なアメリカ人の家族ではなく、スカンヂナヴイアからの移民であつて、いわゆる一般にアメリカ人といわれるタイプから離れてもいゝ、もつと北部ヨーロツパの田舎者らしい、従つて、そう日本人ばなれした型が必要ではないという有利な条件を考えてのことらしい。これは田村君らしい賢明で慎重な、しかもそれは外国の芝居をやる場合に登場人物の国籍という事を十分に考慮しなければならぬという事と一致したわけですね。
A 色々お話を伺いましたが最後に若い俳優志望の人たちの育て方、どうして育てゝゆくかその方法、あるいは自分で育つてゆく気持というものが、いまのお話をきいていると違つて来なければならないじやあないかと思いますけれども、その点どういう風にお考えになつていますか。例えばいま文学座でも俳優の養成をやつていますが、そういつた俳優志望のものの俳優になるという考え方、概念、そういうものに何か相当違つたもの、違つた考えを持つてもらわなければならないではないか……、
岸田 俳優の養成という事は結局芸術家の養成ですから、……しかし芸術家の養成という事は本当に責任を持つて出来るのか、別の言葉で言うと、どういう素質をのばすことによつてそれが可能であるか、あるものを注入するなり、力を加えるなりして、のばす部分が芸術家の素質のどういう部分なのか、そこを下手に間違えると、とんだことになる。つまり、俳優の演技もそうで、結局、教えられることは、ごく基本的なことだけ、しかも、それを非常に厳密にやらなければならないということです。だから、いかに俳優養成の完備した機関があつてもその機関の指導だけでは一人前の俳優にはなれない。養成所というものは、俳優はこれだけのことを先ず身につけなければならぬという、その道筋だけを教え、更に、その道筋を踏み外さないような心得を教えるところです。従つて逆に俳優養成所で勉強しようとすれば、俳優養成所にこれだけの事は期待出来る。これ以上の事はどうしても、ほかの方法で、自分で身につけなければならない。という事をはつきりさせてから入らなければならない。そこは指導者によつてははつきりさせているでしようけれども、どうも若い人たちが養成所に期待するところが多すぎるというより、むしろ何かねらいがはつきりしていないところがあるように思う。この事は若い俳優志望の諸君に僕自身の言いたい事ですね。だから俳優養成機関とか、俳優の演技の先生というものから学び得ない俳優の領域というものはそれじやあ一体どうするか、といえば、そういう事は恐らくあなた方の雑誌なんかで絶えず指導しているわけだろうがね、これもまた一種の悲観論になりますがね……、実際若い俳優が現実の社会、自分の生活をつゝんでゐる身辺の雰囲気の中から必要な栄養を十分にとる事は非常に困難な実情ですね。しかし、決してできなくはないのだ。
A 生活自体がですか……。
岸田 日本人の現在の生活自体がですね、もつと色々の所で色々のものを見たりきいたりして、いゝ刺戟がつくられるような社会というものが当然あるわけなんだが、そういうものが非常にね、若い人々から絶縁された形でしか存在しないんだな。……例えば人が話をしているのをきいていても、話の内容は別として、その話の仕方の中から、自然に人間的な表現のいろいろな美しさというようなものを、十分に感じとる機会が非常に少ない。実際は、世間一般が無感覚になつている上に、俳優を志望する青年男女はそういうところが仮にあつても近づけないような事情が多すぎる。そういう意味で非常に不幸な時代だと思いますね。まあ、これも一例だが、声の出し方でも、日常生活のなかで訓練されなければ俳優養成所に入つていわゆる発声法を習つても、それは音楽的な発声法で、俳優としてもつと大事な「演劇的」発声法、つまり、人間の性格と関係のある「声」の出し方はなかなか身につかない。これはいわゆる「美声」とは違うので、生理的な条件とそう関係はない。だから、実際は子供の時から、家庭、学校を通じ更に社会的な生活を通じて、一種の声の「審美学或は心理学」とでもいうものが、各個人の声を、無意識に鍛えるべきであつて、文明国ではそれが実際にある程度まで行われている。特定の人が指導したり注意したりするだけじやない。社会そのものが文明の感覚で人間の声を色々なニユーアンスをふくめて、洗練させていつているんです。日本でも過去の時代にはそういう文化があつた。頓狂な声とか、金切り声とかさびのある声とかそういう事が言われたのは、声に対する審美的道徳的批判があつた証拠ですからね。それが現在は、人間の声なんかなんの批判の対象にもなつていない。毎日、いろんなスピーカーから叫ばれている声は、およそ末世的な、荒みきつた、野蛮な声の見本です。だから舞台の上で人間的に魅力のある美しい肉声というものが稀にしかきかれなくなつた。非常に薄つぺらな無教養を露骨に示した、荒れた声が多いですね。俳優養成所でもせめて、そういう「声の審美学」ぐらいはやつてほしい。が、それは、観念的に一応頭に入れることができるだけで、声の実質は研究所だけではどうにもならないでしよう。
A お話を伺つているとだんだん悲観的になつてしまう。
岸田 ともかく、そういうことに気がつかなければいけませんね。気がつけば何か切抜ける方法を考えるが、気がつかない事がむしろ僕は悲しむべき傾向だと思うね。だから、芝居をみても、将来を考えると、暗憺たる気持になる場合が多い。このまゝではなんとしても困る。自然に時代が解決してくれるとは思えない要素が多すぎる。やつぱり一応それらのことに気がつく事がどの程度に厄介な問題かということを肝に銘じて知ることがまず大事だ、ということを僕は強調したいね。声の問題なんかは、特にいま気がついたからといつて、すぐあすからどうなるものでもないが、……まあ、これは、大事なことが案外軽くみられ、注意がお留守になつている一例にすぎません。
A 色々有難度うございました。きようはこの辺で……
底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「悲劇喜劇 第四巻第四号(四・五月号)」
1950(昭和25)年5月1日発行
初出:「悲劇喜劇 第四巻第四号(四・五月号)」
1950(昭和25)年5月1日発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年10月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。