対話
岸田國士



これは雑誌「悲劇喜劇」が、現在の演劇に対する種々の質問を読者から蒐め、

同誌編集部がそれを要約して提出した問題に対して感想を述べたものである。



演劇をつくる人と制度


編集部 今度「ピカデリー劇場」がアメリカ流のプロダクション制度による新しい実験劇場として発足したので、演劇をつくる人と制度といふやうな問題を中心にして御話を伺ひたいと思ひます。

 実は昨日、正宗白鳥さんに久しぶりに遭ひましてね。いろんな話が出たんですけれども、正宗さんは東京に出ると芝居をなかなかよく見られるんですね。昨日も僕の顔を見て、「いつたい今の芝居はこのままでいいのか──?」(笑声)といふ話から非常に激しい調子で「なんとかこれはしなくちやいけないんぢやないか」と云はれる。正宗さんがさういふ調子で話をされることも非常に愉快だつたし、またさういふ機会に正宗さんがどういふことを考へてゐられるか僕は聴かうと思つて、それからいろいろ話が発展したんですけれども、「いつたいこのままでいいのか──?」と正宗さんが云はれるそのいちばん大きい原因は、東京へ出てきて芝居をときどき見て失望されることが多いんだらうと思ふんですね。正宗さんは新劇はもちろんだし、歌舞伎も文楽も、なかなかまめにみられるやうですが、とにかくさういふ話から、歌舞伎は今の若手の俳優がいつたい前の時代をつぐだけの役者にこれからなれるかどうか──? どうも新しい道を開拓しようといふ意欲がないし熱意も見られないで旧態依然とした状態ぢやないだらうか、あれではもう駄目ぢやないか、といふ意見。それから新劇の方も作家がなかなか出ないし、劇団もいつたいどこに向つてゆかうとしてゐるのかどうもよくわからない。新劇の方がさういふ状態だといふことは、正宗さんの意見ではやつぱり小山内薫のやうな人がゐないからぢやないか。マア小山内薫が左団次と提携して自由劇場をはじめ、更に築地小劇場を創立し、ともかく日本の新劇を或る方向に引つ張つてゆかうとしたあの熱意と理想を正宗さんはなかなか高く評価して、ああいふ人物が今ゐないことが新劇にとつての不幸ぢやないかといふ意見です。

 僕はさういふ話を聴いてゐながら或る点には同感し、或る点はまた僕流の考へ方があると思ひましたけれども、歌舞伎についていへば、なるほど曾ての左団次とか勘弥とか猿之助が自分で新しい道を開拓しようと努力をした、あの機運が今まつたく見えなくなつたことは現在の歌舞伎の将来性を疑はせる原因だと思ひます。新劇の方は、なるほど小山内薫はゐないかしれないけれども、マア今の時代の小山内薫は、例へば千田君にしろ、村山君にしろ、それから久保田氏、岩田君をはじめ不肖ながら僕にしろいくぶんさういふ役割をしてゐるわけだ。けれども、ただ、僕自身の場合、非常に反省させられることは、やつぱり芝居に全力を打込んでないといふこと、この点は僕なんか、果して全力を打込んでどれだけのことができるか疑問だけれども、ほかの諸君はこれからといふところだと思ふ。結局正宗さんの意見に対して僕が同感であることはやつぱり芝居に全力を打込んで、しかも現代の演劇の革新といつてもいいし、新しい芝居の樹立といつてもいいけれども、さういふ仕事に没頭するやうな有能な人の出現を待つといふことが一方で考へられると同時に、演劇界全般に亘つて、人の問題と同時に制度や組織、さういふ問題をまた考へていつていいんぢやないかといふこと。すべての解決は新しい人が必要であると同時に新しいシステムが必要である。新しい人といふのは出現を待たなければならないのですが、新しいシステムはみんなで考へて努力をして或る程度改革ができる。

 そこで現在の演劇界の広い意味での制度といふやうなものの欠陥を考へてみますと、ただ単に一つの劇団の組織とか機構とかいふことぢやない。もつと大きな日本の演劇界そのものの機構にわれわれはもう少し眼をつけて、新劇に関係してゐる人たち全部の力で必要な改革をしてゆかなければならない。演劇界全体の制度のいちばん大きい欠陥、新劇の発展を阻んでゐるやうな大きい欠陥は、僕はやつぱり演劇界に巣喰つてゐる不合理性、その不合理の最大なものは封建的な因習コンヴエンシヨンともう一つは必ずしも封建的とは云へない非計画性だと思ふんです。

 さう考へてきますと、現在の新劇が徐々に発展はしてゐると思ふんだけれども、或るところですぐ壁にぶつかつたり、或は大きな廻り道をしたり、時によると挫折したりするといふのは、どうも今言つたやうな演劇界に根を張つてゐる封建的なもの或は間に合せ的なものにあるやうに思ふんで、それを打開する方法として、僕は、新劇が立つてゐる地盤そのものを再検討して、できれば新しい試みをやつてみる、最も合理的なシステムで封建的な一切の影響力から脱し、殊にそれを制度の面から新しい近代企業としてもつと計画的に仕事をしてみること、これが僕は一応面白いことだと思ふんです。たまたま今度のピカデリー劇場が新劇のために開放された。そこでこのピカデリー劇場の運営はまつたく白紙といつてもいい状態で出発できる。さうなると、ピカデリー劇場の運営の仕方いかんによつては、新劇と必ずしも狭く考へないで、日本の現代の芝居の面貌を一変するやうなことが少くとも試みとしてはできるんぢやないか。それで大いなる期待をピカデリー劇場にもつてゐるわけですが、聞くところによると、ピカデリー劇場の運営に対しては総司令部の演劇関係の部門では相当に強力な注文をつけてゐるといふ。もちろん命令の形ではなくなつて、希望といふ形で示唆を与へてゐるさうですが、その細目を聴きますと殆どどれも至極尤もなことで、しかもそれにも拘はらず、こんなことが日本の実情でできるだらうかと思はせることなのです。つまり、これまで、その尤も至極なことが、実にいい加減にうつちやられてあつたことを不思議に思ふんです。なるほどさう云はれてみれば、それをやらなければ日本の芝居の現代性は確立できないやうなすべての条件を含んでゐることを僕は知つて、これはどんなことをしても、万難を排して、速かに実行してみなければならない。それを新劇関係者が傍観しないで、自分たちの力で成功させなければならないといふことを僕は非常に感じた。その項目はいづれピカデリーの運営委員会から公式の発表があると思ひますけれども、僕が聴いたことはかういふことなんです。

 一、運営委員会の特色は、従来の興行資本からまつたく独立したもので、それは決して営利的な目的をもたない。これは西洋のいろいろな国々では一種の公共的な組織体だといふこと。

 二、プロデューサーシステムをとる。これはどういふことかといふと、凡そ芝居に関心をもつて、今の日本でかういふ芝居をやらせてみたいと思ふ人は誰でも自分の思ふやうな芝居のプランをそこへ持ち込める。そこに新しい門戸が一つ開かれたといふこと。今までは、例へば現在のいろんな芝居に対して不満をもつてゐても結局興行資本家がウンと云はなければ芝居ができない、たとへ出来たとしても、これは非常に限られた少数の見物を相手に社会の片隅でこそこそ仕事ができるにすぎない。ところが誰でも芝居のプロデューサーとしてその才能と手腕をふるふ機会が与へられるといふことは、大劇場で、相当な観客を動員し、いろんな意味で非常な責任を負ふことになる。成功するか不成功に終るかは別問題として……とにかく斬新なアイデアが実現できる道が開かれたといふことになるのです。これは日本の演劇界における革命だと思ふ。玄人、素人を問はない、一つの演劇的な夢が実現される一つの道が開かれたことに非常に重大な意味がある。

 三、劇作家の上演料が、入場料金のパーセンテージで支払はれる制度にすること。これまた日本では初めてのことで、ただそれが初めてで珍しいといふことに意味があるんぢやなくつて、当然さうあるべきことがやつとその通りに行はれるといふことに意味があるのです。もしそれができれば、これはやつぱり大きな結果を生むと思ふんですね。それはなぜかといふと、今までの興行資本の手で興行が行はれる場合はもちろんのこと、いはゆる新劇団がいろんな作品を取上げて上演する場合も、劇作家の上演料は云はばおぼしめしである。(笑声)これだけしか出せない、或はこれだけ出せば黙つてゐるだらう、といふ標準なんです。ところが現代における芝居といふものは、そのレパートリイが舞台の魅力の大きい領域を占めてゐる。さうだとなると、芝居が成立するための経済的な条件から云つても上演作品の云はば市場価値とでもいへるやうなものが合理的に計上されていい筈です。これはいろんなデーターを考へて最も合理的なパートを与へなければならない。それには最初からその計算を全く新しい方式で出すのはたいへん複雑なことだと思ひますけれども、これはずゐぶん長い間西洋で行はれてゐることで、だいたいこの標準が一〇パーセント……アメリカの例はよく知りませんけれども、今の総司令部の係官の意見ではやはり一〇パーセントぐらいが適当だらうといふ。僕の知つてる範囲で、フランスではそれ以上のものがずゐぶん沢山あります。これは普通の原稿料とか印税とかと同じやうに、作家によつて、或は作品によつて、或は劇団の特殊事情によつて多少の開きはあつてもいいと思ふけれども、一〇パーセントといふことはまづ標準として適当だと思ふ。さうすれば、作者は現在の日本の実情からいつて、小説を書くのとやゝ同じくらゐの率の収入になる。それはどういふことかといふと、相当の劇作家が脚本を書いてゐては生活ができないといふ事情をみればわかる。さういふ事情から脚本を書くことを渋つてゐる作家がなくはないといふ。上演料次第でいい作品が生れるとは限らないが、さういふ一面も十分考へられると思ひます。

 四、今までの芝居は特に日延べといふやうな方法もありましたけれども、普通は公演の期日を最初に決めてしまひ、特別な事情のないかぎりそれで打切るといふ習慣に対して、今度はロングランができることが一つの特色ですね。ロングランができるといふことは一方からいふと、非常に不入であるとか或はぶざまなものはいつでも打切つて止められる。これがちよつと日本では画期的なことだと思ふ。だいたい芝居といふものは我慢して見られる程度のものは見る必要はないんだからね。(笑声)たいしたもんぢやないけれども、マアやりはじめた以上仕方がないから一ヶ月なり十五日なりを打つといふものならない方がいいんで、今まではさういふものが相当あつたと思ふんですね。それを今度のやり方によつて……日本の芝居が全部さうなるのではなく、たつたひととこだけれどもさういふことをやるといふことはやはり全体に大きい刺戟となる。それからロングラン・システムで見物が喜んで来さへすればいつまでも長く続けてやれるといふこと、これはまた受ける芝居が必ずしも芸術的に勝れてゐるとは云へないわけですけれども、とにかく或る選択のもとに取上げられた作品が見物を喜ばせ、相次いで見物の足が絶えない状態ならば、見たい人にはできるだけ多く見せることが芝居としては最も望ましいことだ。さういふ途が今度開かれることは、その作品を書いた作者はもちろん、それを上手に演じてゐる俳優、またその舞台を指導した演出者、すべてにとつて愉快なことで、殊にそれによつてその芝居に関係した人々が経済的に潤ふことになれば一石何鳥かわからないことになる。最初に云つたやうに、日本の現在の実情ではいろいろな障碍があつてやつぱりさう簡単にできることだとは思ひませんけれども、とにかくやつてみるといふことは必要ですね。

 五、次に運営委員会といふものがあつて、ただピカデリー劇場の経済面の運営をするだけでなくつて、いろいろなプロデューサーの案を検討し採択の自由をもつてゐる。採択の自由をもつてゐるといふことは一つのそこに理想がなければならない。これはピカデリー劇場が企業体ぢやないんですから、利益といふ点での、つまり儲かる芝居が理想的な芝居だといふ今までの企業資本家の理想とは非常に違つた理想でなければならない。今までの個々の新劇団ぢやむろん一つの理想をもつてやつてゐますけれど、これから大きい劇場が利益から離れた理想をもつて、しかもその理想を一貫してレパートリイの上に示せる劇場ができたといふことは非常に大きな新しいことで、ただ運営委員会がどこに理想をおくかといふことが問題ですね。これは運営委員会がいづれ公表するでせうからここで臆測はしないが、ただ注文はしたいんだなア。

 最初にピカデリー劇場が新劇に開放されたと云つたことはちよつと言葉が実は狭いので、アメリカ側でも日本の新劇の人に接触をしてゐて、そこで新劇新劇といふ言葉が使はれるから新劇といふもののあることを知つたといふ程度で、われわれの概念でできてゐる新劇といふ言葉は実はアメリカ人には通じないと思ふ。ピカデリー劇場を特にさういふ種類の芝居に開放しようといふ意図は、われわれの考へてゐる新劇といふ枠の中にある芝居に開放する意味ぢやなくなつて、むしろ僕の推測ですけれども、当り前の意味での現代の芝居といふことだと思ふんですね。市民が見て楽しみ、しかもその楽しみが健康な楽しみであり、それが芸術的に見ても或る水準に達してゐて、云はば人間の愚昧さとか、ただ本能だけに訴へるやうな、早く云ふと俗情だけに訴へる芝居といふものをわざわざ育てようといふ意図はない。日本の現在の芝居を外国人の眼で見ると、歌舞伎といふものはなるほど完成した芸術だらうけれども、なんとしてもこれが現代の人たちの生活に必要欠くべからざるものだとは思へないだらうと思ふんですね。

 それから今度は日本で云はれてゐる軽演劇の部類に属するものは、これまたなかなか注意してみるとこの中に新しい芝居の芽もあるし、非常に健康なものもある。しかしさういふ芝居が、現在のところでは、目指してゐるところがまだ低い。例外はむろん認めるとしても、全般からいつて非常に安易なものだと思ふ。もつとどんどんと自分はかういふことをやつてゐるんだといふことを誇りうるやうな仕事にならなければならない。さういふ一面がまだ充分に僕は備はつてないと思ふ。

 新劇の方は、これもいろいろ努力をしてゐるけれども、まだ一般市民……民衆の心を捉へるやうなものがごく少ないわけですね。さうすると文明国の演劇として見るとどこかに空白がある。早く云ふと、だんだん歌舞伎、新劇と見せられていつて、これだけか、何かまだあるんぢやないかといふ気がするんですね。文明国には例外なくそれがあるんだからね。それはいつたいどういふものか──? 僕の考へで云ひますと、今まで日本で新劇といはれてゐたものがだんだん成長し、或は完成味をもつてくると自然にそれが一つのプールの中に入つて、これがその国の代表的な芝居になる。多くの見物に喜ばれ、同時にその国の演劇的な水準を代表する芝居といふものになつてくる。早く云ふと、国際的にいつても一国の演劇文化を代表し、それが一つの見本になるやうな芝居といふもの、これが日本にはたしかに欠けてゐる、さういふものを生み出し、或はどつかに隠れてゐれば表面に引つ張り出す、といふことを僕はアメリカの方も考へてゐるんだと思ひます。ピカデリーの運営委員会もそれを理想にして貰ひたいと思ふんです。

 さうなると、さういふ芝居は日本の現実のいろいろな条件からいつてどこから出てくるかといふと、僕は新劇から出ますといふことは云ひ切れないんですね。これは或は軽演劇からも出うる可能性が充分ある。更に歌舞伎劇も新しい道を発見すればさういふところへ参加できるし、またできるやうにしなければならない。殊に歌舞伎の若い俳優はさういふ一つの目標をハツキリもたなければならない。それから素人の演劇の中からも出る可能性が大いにある。

 さう考へてくると、運営委員会は眼を広く日本の演劇界全体に放つて、どこからでもさういふ要素を吸収して、日本に現代の芝居を作るんだといふ目標をなるべく早く具体的に示して欲しい。もちろん現在の新劇団がそれをなしうるといふ自負はもつてゐていいんだけれども、運営委員会としてはその自負だけに頼つてゐては僕は狭いんぢやないかと思ふ。あるプロデューサーが提示した案を運営委員会が検討する場合にも、今云つたやうに、自ら狭い殻を作らないことと、あまり手をひろげすぎて、水準を低く下げないことが、僕はゼツタイに大事だと思ひます。どうかすると、すぐ間に合はないといふ事情がこれからキツと出てくるだらうと思ふけれども、その場合にこれはすこし困るけれども、まあまあ、といふやうなところで、運営委員会が、知らず識らず妥協しないやうに、充分警戒し、一切の努力を惜しまないで欲しい。さうしてこのピカデリー劇場にはかういふ水準でなければ採用されないんだといふ認識を早く一般に与へてしまふ。それにはひと興行ごとに運営委員会の側としてもそれに対する意見を公表して、その次にもちだされる企画に対して一つの指針を与へるやうにして欲しい。

 今云つたやうなことが実現しても、そのために日本の演劇界がすぐ一変するとは思はない。これはピカデリー劇場だけがさうなるにすぎないのですけれども、さうかといつてその仕事を過少評価してはならないと思ふ。日本のやうに演劇の歴史が云はば中断されてゐて、クラシックと近代的なものとの繋がりが非常にもろい国では、演劇に於けるアカデミズムの確立がともかく急務だと思ふ。仮りに今云つたやうな理想がピカデリーに或る程度実現されて、ピカデリーそのものとしてはまづわれわれが満足するやうなものができても、それはまだやつとアカデミズムの第一歩だと思ふ。そのアカデミズムといふものがやがてハツキリ樹立されれば、その限界といふものをむろんもちながら、なほ且つ一般演劇界に与へる影響は大きく、そこでアカデミズム本来の役割を果してゆく。そこは気長にわれわれは見守らなければならない。それと同時に、そのときにこそ日本の本当の意味での先駆的な新劇運動が生れてくる。生れるとすぐに栄養失調にならない新劇運動が生れてくる。僕らは実際を云ふとその新劇運動に期待をかけます。ピカデリーはそのときには華やかな存在ではなくなるだらう。むしろ地味な役割を演じることになるのです。新劇運動に養分を供給する土壌になるといふ役割にかへつて貰ひたい。

編 御話に出て来た「現代の芝居」ですが、これが日本にないといふことは文化生活の上の大きな問題だと思ふんですが、岸田さんの御考へになつてる「現代の芝居」といふ意味を……

 今までわれわれが現代劇といつてゐたのは現代生活の中から生れ、現代生活を如実に表現した芝居といふふうに云つてはゐますけれども、現代生活といふものは結局表面的な物的な面だけでなくてむしろ精神の面が大きいでせう。さうなると、舞台の上に現代人の生活、現代の世相がそのまま現れてゐなくなつても、それはいい。古代の生活がうつされてゐても、それが現代人の精神生活をくぐりぬけ、現代の芸術として生れたものならば現代劇……。さういふ意味では現在の歌舞伎俳優を現代的な作品によつて現代劇ができるわけだ。こんなことは当り前のことだが、念のために云ふだけです。

編 さういふ理想にピカデリーが進んでゆくとしまして、そのほかにも外国のいろいろな新しい演劇運動を取入れたり、もつと側面的な意味でアヴァンギャルド的な演劇の仕事をやつてゆくやうな団体もできるわけですね。新劇の或るものはさういふ役割を果すわけでせう。すると、さういふものがピカデリーにも反映もするでせうし……。

 反映もするでせうし、それがそのまゝピカデリーに入つて、その新劇団としての公演ができるやうになる。それがつまり、新劇の成長であり完成なんですよ。その代り、もう新劇ではなくなるわけだ。日本の大劇場に進出することは表面上景気がいゝけれども、実は新劇としてはいくらか堕落を意味してゐたんだ。それがやつぱり日本の特殊事情ですよ。西洋でもブールヴァール劇といふ通俗劇の中には文字通り卑俗なものもありますけれども、ブールヴァール劇場で公演されるもので新劇の大人になつたものが沢山ある。さうなつてゆくのが当然で、新劇が永久に新劇であり、新劇以外に通用しないといふことは、つまり発育不良の人間と同じです。さういふ人も劇団も西洋には沢山ありますね。それはみんな歴史の陰に消えてしまつた。むろんその時代においては何かの役割を果したらうけれども、その影響力は長くもないし、或る意味においてはそれは一つの不運な存在だといふことですね。

 例へて云ひますと、フランスの自由劇場、Le Théâtre Libre がだんだん発展をしていつて、アントワーヌ André Antoine を中心とする職業劇団になりましたね。しかし職業劇団になつても取上げるものは通俗的なものでなくつて、例へば大したものぢやないけれどもまづブリユウ。それから、クウルトリイヌやルナールのものもやつた。民衆にアッピールするもので、しかも、芸術的なものだ。ところが、自由劇場生え抜きの作家で、最も新鋭の闘士であり、理論家であり、純粋な芸術家と考へられてゐたジャン・ジュリアンは到頭大劇場の作家にまで成長しないで、自由劇場が大きく発展する前に仕事を中絶してしまつた。それは、先生自身の仕事が民衆から遊離してゐたことを示すものです。これは先駆者の或る種の人たちのもつてゐる特色でもありますけれどもね。さういふものを目指す必要はないわけですね。さういふものになりがちなんだ日本の新劇作家は。かく云ふ僕もその一人だが……(笑声)

編 だいたいピカデリー劇場は戯曲中心の芝居に進んでゆくと思ふんですが、そこで今度は戯曲に対する岸田さんの夢を……日本にどういふ戯曲が出てくると思ひますか、また出てきたらいゝと思ひますか。

 僕は一と口に云ふとね。今の新劇作家の作品がそのまま成長してゆく……成長してゆくことがすなはち民衆の心を捉へるといふことであればこれはいちばん結構だと思ふんだけれども、またさういふゆき方と別に、ピカデリー劇場のやうな劇場に最も適当した作品がどこからか生れてくるといふ気がするんですよ。突如として生れてくるかもしれない。さういふ場合にその作家はいつたいどういふ特色をもつてゐるだらうかといふことを考へますとね。これはいはゆる文壇的な修行や生活の中からは生れてこないと思ふ。やつぱりひろい視野をもつた生活人の中からだと思ふですね。生活人の素質をもち、しかも文学的な才能をもつてゐるといふ人でなければさういふ作品は書けないと思ふんですよ。さうしてその作品を書く心構へといふところから、或は野心といふ面から考へて行くと、ちやうど大新聞に長篇小説を書くやうなつもりで戯曲を書く人、それはどういふことかといふと、数ヶ月の間大新聞に長篇小説を書くといふことは非常に責任を感ずるんですよ。新聞社に対する責任もあるけれども、とにかく読者に対する責任ですね。読まなきや読まないでいゝといふ大胆不敵な人もあるかもしれないが、書くつもりになつた以上読まれないのは淋しい。読まれる以上面白く読んでもらひたい、退屈させることは禁物です。なんとなく、非常に責任を感ずるんだ。この責任といふ言葉は……僕の云ひたいことはちよつと違ふ点もあるんだけれども、その責任を感ずるといふことは今までの戯曲作家にあまりないんですよ。

編 重荷といふと語弊があるかしれませんが、さういふものですね。

 重荷といふと消極的でやゝ気持が滅入るが、責任に立ち向ふ気持は、もつと明朗であつていゝでせう。近ごろは十五日になつたけれども、前には三日か四日の新劇の舞台にせいぜい人がきたつて多くても数千人。その見物がいはゆる選ばれた見物です。面白くなくつても感心させるやうなところがあればいい。(笑声)極端に云へば、「感心しにこい」といふ気持で脚本を書いてゐるところもなくはない。これでは責任を感じてるとは思へないよ。芝居はこれでは駄目ですね。

編 現在の戯曲にはさういふところが大いにあるといふわけですね。

 さうですね。これは何もピカデリーにかぎらないけれども、芝居といふものは僕は見物をぢかに前において或る時間見物席に縛りつけて動かさない仕組になつてるものですからね。みんなを感心させるとか、或は考へさせるとかいふ要素もあつてもいゝけれども、それはおのづから作品の中にさういふものが含まれるといふだけであつて、作家としての心構へとしてはやつぱり見物と対等の立場で作品を書くべきだと思ひます。見物を教へるとか頭を下げさせるといふ心懸けはもつてのほかで、お互は、人間として対等の立場だ。対等の立場で語るといふのはどういふことかといふと、つまりこれは対話の精神を重んじるといふことですな。戯曲は対話の形式で書かれるといふこととは別なんだ。舞台と見物とは対話をしてゐるんだ。対話といふことは相手の云ふことも聴かなければならない。相手は沈黙で答へてゐるかもしれないけれども、相手に耳を傾けるといふことは自分の云つてることが相手にどの程度わかつてもらへたか、それに対して相手はどういふ反応を示すか、相手をぢりぢりさせたり、退屈させたり、不必要に疲れさせたりといふことは、これは無礼です。そして仮りにそれが激しい議論でも、二人の議論によつて最も妥当な第三の意見といふものを生み出すための議論だといふことを忘れたくない。相手を言ひ負かすために議論をするのは、特別の場合です。これが対話の精神だ。これこそ戯曲家が戯曲を書くときの最も大事な心構へだと思ふ。それがやつぱり新劇にはなさすぎるね。それから今の通俗劇も対話の真の精神から遠い。お客を大いに意識してはゐるが、お客に媚びお客にへつらつてゐる。これぐらい対話として卑しいものはないと思ふ。新劇が、傲慢で無愛想なら、一方に愛想のいゝ通俗劇がある、と思ふのは間違ひで、傲慢と卑屈とは、対話の精神に反する二つの著しい悪徳です。

編 対話の対象を、現代の大衆と云つても甚だ漠然としてゐますが、つまり作家の見る現代精神との対話があれば、そこにモダン・プレイが生れてくるわけですね。

 対話の相手たる観衆は、結局、民衆であり、人間であるわけですよ。その民衆がどうかすると俗衆の相貌を呈することがありますけれども、あくまでもこの二つは違つた質のものとして考へたいですね。

編 岸田さんは最近「戯曲家は繊細ばかりぢや駄目だ、粗野な精神が必要だ」と云つてられるやうですが……

 それは現代のこの社会情勢と人心の動向から考へて、戦後に、よく云はれる、混乱してゐるといふか、或はすさんでゐるといふか、さういふ時代の民衆に訴へるものとしては、繊細だとか、或は複雑だとか、持つて廻つたものとか、或は必ずしもひとりよがりぢやないんだらうけれども、あんまり象徴的なものとか、さういふものよりも簡明直截であつて、しかも力強いもの、曲線的であるよりも直線的な、さういふ傾向、色彩のものが今はいゝんぢやないかと思ふんです。ところが日本人の特色は曲線的だからね。さういふ意味で作者自身も人間改造が必要で、或はさういふ素質をもつた新人たちが初めて登場してくるといふことにならないと、今の作家たちがさういふふうに自分を変へようと思つたり、さういふものを書いてみようと思つても僕はなかなか駄目だと思ふんですよ。多少はどうにかできるでせうけれどもね。

編 では最後に結論として、ピカデリー劇場運営委員会への希望を……

 結論になるかどうかわからないが、恐らくピカデリー劇場の運営委員会は議論百出でせう。それはいいんですが、それがどういふ結果がそこに現れようとも、それに対して一般の批判を仰げばいゝ。さうならなければどうしても運営委員会の独善といふことになりますからね。少くとも理想をもつて或る方向を示すことが必要だね。さうでなければてんやわんやだよ。(笑声)運営委員会は経営的な面と芸術的な面で、それぞれエキスパートであるに越したことはないが、専門家であるより常識をもつた社会人であることが大事ですね。さういふ意味からいつて、僕は少数でいゝから専門委員なり特別な相談役なりといふものが必要だと思ひます。



戯曲と小説


編 雑誌で戯曲公募を続けてゐる関係上、戯曲家志望の人達と話す機会が多いんですが、この頃の若い人達には、舞台も余り見てないし戯曲も読んでゐないで、たゞ何となしに戯曲を書いてみるといふのが相当ゐるんです。戯曲も小説もシナリオも書かうと思つてますといふんで、小説と戯曲の違ひなんかも別に深くは考へてゐない人がゐるんです。それと関連するんですが近頃の編集者や読者の側でも戯曲についての認識がない。小説も戯曲も同じ読物として考へてゐる。だから戯曲が雑誌に載つた場合に読者がくひつかない。読み辛いといふんで雑誌にとりあげない。ところが、外国のものはとりあげるんですね。例へば、この間ヴィルドラックの古いものが『個性』に載つてゐたし、『マヤ』もとりあげてゐる。これはジャーナリスティックな意味もあるでせうが、外国のものが日本の戯曲より読みいゝといふこともあるかもしれない。だいいち岸田さんのものの方が菊池寛とか真山青果のものに比べてズツと読みいいと思ふんです。さういふ点で、たいへんぶしつけな質問ですが、岸田さんは戯曲が活字になるといふことを意識してお書きになつてゐるのでせうか。

 いまの質問のなかに問題がいくつもあると思ひますがね。それを順序を追つていへば、若い人、殊に全然素人がものを書いてみようとするとき、ハツキリ戯曲と小説との本質的な違ひがわからずに書くといふ事実は、これはずゐぶんあると思ふんですが、さういふ人たちに「戯曲と小説との違ひはかういふものだ」といふことを教えることはちよつと短かい時間ぢやできないことなんでね。それは後廻しにすることにして、差当り後の方で問題になつた、小説は活字として読まれるといふことは普通だけれども、戯曲が活字として読まれる場合に読者としてとつつきにくい、或は編集者としてもそれを雑誌に載せるのをちゆうちよするといふことはわれわれにとつても重要な問題ですが、だいたい僕の考へは、やつぱり小説は活字として読まれるのが当り前だし、戯曲は活字として読まれるといふこともあつていゝけれども、しかしなんといつても変則だと思ふんですよ。その変則だといふ意味は、戯曲を読む訓練があつて初めて活字として読んで面白いのだが、その訓練が全くないとこれはたしかに読みづらいだらうと思ふ。従つて、編集者としても、さういふ訓練のない読者を予想した場合に戯曲を活字にするのはこれはちゆうちよされるだらう。ですから戯曲を載せるのは、さういふ戯曲を活字で読む訓練のある読者を予想するか、或は読者にさういふ訓練を与へようとするか、どちらかの条件がないといけない。これは僕はハツキリいへると思ふ。それなら活字として読んでとつつきにくいとか、或は面白くないといふことの原因のなかに、戯曲作家、戯曲そのものの方になにか罪があるんぢやないかといふこと……これはやつぱり二つあつてね。活字として読んでは、仮りに戯曲を読む訓練が或る程度あつても、なかなか戯曲の全貌といふものがはつきりイメージのなかにこないやうなさういふ戯曲もなかにはある。ところがさうでなく、活字として読んでも鮮明に舞台のイメージが浮ぶやうな戯曲もあると思ふ。これもふた通りあるけれども、ただいちばん厄介でどうにもならないのは、戯曲が下手なために読んでも面白くない。これはしかし、よほどの名優が舞台でそれにいろんなものを附け加へてやるのでなければ舞台にかけても面白くない芝居ですから、ちよつと救ひがたい。それから出てくることだけれども、やつぱり活字として戯曲を読む場合小説を読む場合と違つて、どうしても戯曲の要求する速度でそれが読まれて、その速度につれて戯曲の瞬間々々のイメージが捉へられるといふことが絶対条件だから、それを例へば散文を読むやうに勝手な速度で、少くとも、速度を無視して読んでは戯曲の大切なものが逃げる。さういふ読み方をしては困ると思ふんですよ。楽譜を楽器を使はないで読むときに、頭のなかでリズムをはかりながら読んでるやうに、その戯曲が要求する速度でその戯曲のリズムに乗つて読むといふことができなければやつぱりダメです。さういふことを要求しない戯曲があるとすれば、これは全然読む戯曲──レーゼ・ドラマだと思ふ。ただ問題は、雑誌が小説と戯曲とを取上げるときに、小説よりも戯曲の方に厳だといふことがあるとすれば、全体に戯曲の質が文学的にみて小説よりも低いからだと僕は解釈ができるんです。

編 読み辛いといふこと以外にですね。

 さう。もう一つは、戯曲を読んでとつつきにくい、面白くないといふことは、ごく一般の読者についていひますとね、なんといつてもやつぱり僕は日常生活のなかで言葉といふものがさう重要に考へられてないこと、言葉の魅力といふものを身に沁みて読者が感じてゐないといふことが非常に大きな原因だと思ふ。われわれの日常生活のなかで語られる言葉の審美的な訓練があり、さういふ文化が或る程度高まつてゐれば、戯曲に対する興味が活字として読む場合にもつとズッと出てくるんぢやないか。ですから、仮りにおんなじ程度の知識水準の人でも、都会生活をした人と非常に文化程度の低い田舎の生活しか知らない人とでは、戯曲の読み方、殊に興味のもち方がずゐぶん違ふんぢやないかと思ふ。それはまた、おんなじ都会人でも、さういふ言葉の文化といふものがわりに発達した地方、生活環境、これはむろん封建時代から続いてゐるわけだが、さういふ育ちの人と、最近、商業資本によつて発達したやうな都市の出身者とではその感覚が非常に違ふと思ふんです。

編 そのお話はよくわかりますけれども、今度書く方の側に立つて、いま岸田さんのおつしやつたやうな戯曲のもつてるリズムのことを考へると──岸田さんあたりから、或る近代人のもつてゐる繊細な心理的なセンスを追つかけるところから生れるリズム、それを考慮に入れてお書きになりだしたのではないか。それ以前の菊池さんのものは読み辛いと思ふんです。……舞台にかけてみると面白いが、リズムはポツン、ポツンとしてゐる。例へば「父帰る」は構成としては完成されたものをもつてゐるけれども、読んでみるとポツン、ポツンとしてゐる。外国の戯曲はリズムがポツン、ポツンしてないといふことですね。

 それはいまいつたやうに、菊池氏がやつぱり地方出身の人だといふことですね。都会生活もほんとは数代を経ないとそこまで身についたものになりませんね。久保田氏なんかはさういふところで特色のある作家でせうね。対話としての言葉に対する感覚といふ点で、いろんな戯曲作家を頭に浮かべてみても、やつぱり都会育ちの戯曲作家と地方から出た人とでは、かなり質の違ひがハッキリすると思ふんです。むろん、決定的なものぢやありませんけれど。

編 久保田さんの場合と岸田さんの場合とを比べると、久保田さんのあのリズムの美しさと全く違つたリズムが、岸田さん、或は「劇作」派の都会育ちの人、或は外国にいつた経験のある人には出てゐるといふ点。フランスの近代の戯曲作家のものを読んでみても、そのリズムがどこか違つた点をもつてゐるといふことは近代人なのですね。都会といはず田舎といはず──大部分都会でせうが、さういふ近代人の心理を扱はうと意識的にやつているところと、さうでない面とで違ひが出てくるといふことはありませんか。さういふことを岸田さんは意識してお書きになつてるんですか。

 さうすると、書く対象の問題といふことになるでせうね。それはたしかに違ひませうけれども、近代人の心理の働きだけがリズミカルなものとは云へませんね。さういふものぢやなくて、むしろ、戯曲の素材となるべき現実の捉へ方、舞台を通じての、その表現のしかたのなかに、時間芸術としての制約を生かすうへで、どうしても、構成と文体の両面から、自分の好むところのリズムがそこに生れるわけで、全体のトーンに応じたリズムの撰択と偏向とは作家の特質に従つていろいろでせうね。これは僕一個の意見ですけれども、やつぱり芝居が対話から成立つてゐる以上、対話といふもののもつてる魅力の可能性と限界といふものを真剣に考へる作家もあつていゝと思ふ。さういふものはさう重要でないと考へる作家もゐていゝがこの二つの流儀が生み出す戯曲の性格はずゐぶん違つてくる。それを考へない流儀の戯曲は、だいたい戯曲としてはつまらないと僕は思ふだけのこと……。

編 岸田さんが初めてお書きになられた頃、岸田さん以前の日本の戯曲作家の対話のリズム、さういふものに対して相当意識して、さういふリズムでない新しいものを表現しようといふお気持はあつたわけですか。

 僕らが書きはじめた時代に、現役作家として書いてる人たちのなかで戯曲の文体といふものをチヤンと身につけてる人はいくたりもゐなかつたと思ふ。だからほかの点で勝れた才能をもつてゐても、戯曲作家としてかういふつまらない対話を書いてゐるんではダメだと……それはなぜかといふと、現代人の生活のなかからこれだけの対話しか引出せないといふことの呑気さを僕は歯痒ゆく思つた。その前の時代になれば、南北でも黙阿弥でももつと鋭い感受性でその時代の人間の言葉を生き生きと捉へてゐる。ただ近代人でないといふだけで、立派に戯曲の文体を作りあげた作家ですからね。僕がそれを強調したことが実は、大へんな誤解を招いた。僕が会話の面白さを唯一無上のものと思つてゐるやうに曲解した人も多かつた。それはあくまでも誤解だと思ふんです。(笑声)会話を面白く書くことは、芝居を面白いものにする一つの条件で、その対話の魅力は戯曲文学の重要な要素ではあるが、あくまで、初歩的な、言はば、戯曲の文体が戯曲の文体であるために、どんな戯曲家でも、それはもう卒業しなければならない小学校だ、といふことを僕は強調したはずなんです。さういふことはいちばんやさしいことで、戯曲作家なら誰にでもできなければならないことだ、それが一人前だからといつて特別に目立つなんていふことは、これはどうかしてゐるといふことですね。それは西洋の芝居なんか、脚本としては文学的にいつて大したものぢやないものが、チヤンとその時代の人間の対話になつてる。そのために芝居を見てゐて退屈でないといふ……大した感動は与へないかも知れないが退屈でないといふことがざらにあります。戯曲作家が徒らに見物を退屈させるといふ罪悪を犯してないといふことはいへると思ふ。

編 ト書が戯曲のなかに出て参りますね。それが久保田さんの場合も岸田さんの場合も、対話のリズムとチヤンと合つたリズムで運んで行くと思ふんです。作家のもつてる対話のリズムが相当意識されてト書に入つてるやうに思ひます。それが或る意味で戯曲を読み易くしてゐると考えますが……

 それは理解を助けるといふことですね。演出家なり俳優なりにこのセリフはかういつて貰ひたいといふことですからね。読む方からいへば、そのト書を読めばそのセリフのイキは或る程度飲み込めるわけだから、一つの戯曲がリズムに乗つてゆく手助けにはなるんですよ。

編 だけど、ピランデルロとかクルトリイヌとか、あのあたりの戯曲になると、初めに書いてある情景までが、対話のリズムがその戯曲から浮び出るテンポを意識して書いてるんぢやないかといふ気がするんですが……

 それは僕は戯曲のジャンルが確立してゐるためだと思ふ。戯曲のジャンルがある程度一つの戯曲のトーンを決定するんですからね。そのトーンが題名にもト書にも出てくると思ふんです。

編 さうすると若い人の場合、相当ト書といふことについてもやつぱり全体との関連ですね、それに対する注意がト書に払はれなければならない。

 少くとも文学として見る場合は、それも作品の一部分ですから、全体の調子のなかに収まつてなければいけないんだらうと思ふんだけれども、しかし非常に簡潔だとか、丁寧だとかいふ外に、抽象的な表現をしたり、特別にリリカルな文章でト書を書く人もありますがね。なかにはそのためこけおどしみたいになることもあるんだけれども……。

編 だけども、例へば人物の心理の対話のリズムを読者や演出家や俳優に感じさせるために、舞台では不可能なことだけれどもト書に書いとくといふことはどうなんでせうか。

 それは特殊な場合にさういふことはあるかもしれないけれども、不可能なことはないと思ふ。理想といふ程度ならあるかもしれないけれども……理想と不可能とは同じだといへばそれまでだが……。

編 これは具体的な例なんですけれども、三好十郎の『おりき』といふ戦争中書いた戯曲があるんですね。読んでると面白いんですが、それを「俳優座」が、築地小劇場の試演会でとりあげようかといふことになつて、みんなで読合せをやつてみたんです。すると、とつても舞台でできないといふことがわかつたんです。できないといふばかりでなくつて、千田君なんかの意見では、作者が「おめえたちにはできないだらう……文学的な表現としてかういふ表現をしてゐるんだけれども、おめえたちにはできないだらう」といふ気持で書いてゐる。これは無理だらうといふことになつたんです。(笑声)例へば、うしろを向いて立つてる「おりき」の気持や動きを、美しい文学的な表現で描写してゐる。読んでると、面白いんですけれども、役者の限界として背中を向けてこれだけの心理をね、理想としてできないことはないだらうが、殆ど不可能だといふんですね。

 その例をそれだけとつて考へれば、それは僕は作者の悪戯だといつても差支へないと思ふね。しかし、うしろ向きにはなつてるけれども、この俳優はかういふつもりでかうやれ、うしろ向きの表情の何処かにそれがおのづから出るんだといふ、さういふ暗示的な一つの表現として受取れば受取れるんだけれども、それが少し行過ぎると作者の悪戯になるでせうね。そしてそれは戯曲を読むときだつて、或る人物がうしろを向いてジッとしてゐるならば、それは人物のうしろ姿として頭に浮かべてゐればいゝことで、そこまで要求するといふことは、いまいつたやうに或る一定の速度で読まれなければならない戯曲としては無理なこと。ただ問題は、舞台の上で見ると黙つてゐる人間が眼に見える。脚本はそこにあるものが書かれてゐる以外は忘れられてゐるんです。読者はその人間が聴いてるものとしてあとの人物のセリフを読まなければならないのに、聴いてるといふことはいつの間にか忘れるため、脚本を読むときのイメージはせるんですね。それはたしかにありますね。それぢやそれを補ふにはどうすればいゝかといふことになると、僕らがやるのは、ここに人物がをるといふことを読者に思ひ出させる。そのため適当にその無言の人物の名前を書いて、下に「……」を書いたりしますね。それは舞台でなく活字で読まれる場合の一つの用意ですね。それからマア三人ゐるとして、一人の人物は待つてる。二人の会話がある。二人の会話だけでいゝが、これはただ聴いてるだけだが、会話で運んでゆけばこの人物の名前は数頁にわたつて出ないといふ場合でも、あひだでこれに話しかけさせる。これは舞台の上でも或る意味で、間を黙つてる人物の「間」がもてないといふことを救ふことにもなるけれども、読者にはこの人物がゐることを思ひ出させる。さういふことなんかも必要なこと……。

編 これは単なる注意を喚起するだけでなく、さういふことをするために戯曲のリズムが出てくるといふ……。

 それはさうです。複雑さといふか、ふくらみをつけることになる。

編 たいへん初歩的なことを聴くんですが、対話ですね。岸田さんは、小説も戯曲もお書きになるわけですが、この前、舟橋聖一氏に座談会で会つて話を聴いたら、「小説は楽だよ」といふんですよ。「対話といふのはギリギリのところをつぎつぎにゆくからなかなか辛いけれども、小説は地の文でいろいろ余裕をもつことができるから楽だよ」といふことを話してゐたんですね。また川口松太郎といふ人は「俺は芝居を書いてゐたから会話はお手のもんだ。会話で繋いでゆけば小説なんか書くのはわけない」といふ。いろいろ話があるんですが、小説の会話と戯曲の会話はお書きになつてゐて違ひがあるんでせうか。

 これは違ふのが本当だと僕は思ひますね。つまり小説で会話にする場合、それを会話にする必要は場合によつていろいろあるけれども、戯曲の会話のやうな一つの制約は要らないですからね。いまいつたリズムとかね、暗示的な会話とかね、或は白といふところを黒といつて本当は白なんだといふことを匂はせる、さういふニュアンスは必要ないんだ、小説では……。

編 戯曲の会話の方がズッと暗示的であるといふことですね。

 さうだ。小説では黒といつてゐて白と心のなかでは思つてゐるんだと、地の文で必要ならばいくらでも詳しく書けるわけだ。さういふ意味からいふと戯曲の会話は暗示的であるといふことと、戯曲としてのリズムをもたなければならないといふこと、それから会話と会話との間ですね。間といふものが重要な一つのリズムのいちモメントだといふことがあつて、小説の場合と全然違ふけれども、さうかといつて小説の会話といふのは、非常に小説がリアリスティックなものならば、──リアリスティックな文体の小説ならば、やつぱり会話は少くとも、生きた語られる言葉でなければならないとは思ふんですけれども……。さうだなア、僕らは小説も書いてて、会話がくるとホッとしますね。そして会話を書きすぎるんです。「これぢや小説にならないぞ」と思ふんです。会話をさせると時間が経たないんですよ。(笑声)

編 それで、いまおつしやつたやうな意味で陰影のある会話をつい使つてしまふといふことがありますか、小説で……。

 あります。ただ変なことになるけれども、いまの比較的若い中堅作家ですね、小説作家の会話を見て、小説としてもひどいと思ふなア。それは今の日本の読者の感覚が言語文化の面からみて、それを平気でゆるしてゐる。封建的な意味の敬語をなくしてしまふのはいゝ。しかし、使ふ必要のある限り、敬語といふものがデタラメでは困る。……なんといふかなア、非常に野暮つたいね。小説のなかの会話の地位は考へてゐるでせうが、会話がどういふものだといふ感覚、これは非常にないと思ふんです。こんな言葉遣をこの人物がしちやおかしいといふ言葉遣です。極端にいへば、「うちのお子さんが……」といふ調子さ……(笑声)ちよつと困るね。さういふことにまた僕は不必要と思はれるほど神経質なんです。読むにたへなくなつちやうんだ、その小説が。地の文だと文章が下手でもほかの見どころで魅力を感じることがあるけれども、会話にちよつと欠陥があるとその小説は読む気がしないくらゐ索然としますね。これはやつぱり戯曲作家の悲哀かなしさだよ。(笑声)

編 もう一つ、お書きになつてゐてどつちの方が楽なんですか、小説をお書きになるのと……。

 妙なことをいひますがね、楽なことは小説なんだ。楽しいことは脚本なんだ。だから僕は小説をアルバイトとしてゐるんだ。(笑声)

編 それは岸田さんにアルバイトといふお気持があるから楽なんでせうか。それとも小説そのものが戯曲より楽なんでせうか。

 白状すればアルバイトだから……。本当に小説に打込んですればもつと苦しくもなるだらうし、もつと楽しくもなるだらうと思ふんですよ、僕の場合は。

編 全体としてみて、小説の方が全体に統一されたイメージですね、作品の……。それを戯曲ほどあつためて、ありありとイメージが頭に浮かんでこないでも小説は仕事にかかれるといふ楽しさはありますか。

 僕の場合はさうでない。脚本でもおなじですよ。全体が頭の中でできあがつてから書くといふことをしないから……。非常に即興的な要素が僕には多いんですよ。それはチッとも自慢にならないんだ。だから非常に不出来なものが沢山あるんです。(笑声)

編 でも、一般的にはどうでせうね。

 その人の流儀だと思ひますね。だからもうチヤンとしたコンポジシヨンとして、或る場合には幕切れのセリフも頭のなかにできて書き出すといふ、さうしなければ安心できない、またさうしなければ満足なものができないといふ人と、さうはとてもできない、またさうしてもなんにもならない、仮りにさうしておいても書き出せば必ず違つて来る。そのときそのときにふつと浮んで来るものを、次ぎ次ぎにつかまへるやり方……お先真暗なところを手探りで行くやり方……をかしいけれども、いくらあらかじめ考へたつてとても思ひ浮ばないやうな思ひつきが、いよいよとなると、ひよいと飛び出す。書いてゐるとわれながら、冷静になればさうでもないんだけれども、(笑声)「うまいことを考へたなア」と、さういふことはやつぱり僕らのやうにサッとぶつかつてゆく流儀の者にはあるんですね。チヤンとコンポジシヨンを整へて書く人は、その代り建築家が設計を引いてそれを眺めながら実際の物に移してゆく大きい喜び、或は得意さはあるだらうが、僕らにはそれはない。

編 コンポジシヨンは決つてないでも、人物のイメージが鮮明に浮かんできて筆をおろすといふことで、小説より素材をあつためておく時間が永いといふことはありませんか。

 一般的にはそれもどうかうといへないことでせうね。僕らもかなりさういふ意味でそれぞれの人物を長くかかつて具体的に頭のなかに作り出し、場合によつてはノートしてやつてみても、その結果の方が自分として満足できるかといふと、さうでもないことがありますね。もう考へてもゐなかつたやうな人物が途中で飛び出して……飛び出してといふんですが、恰も飛び出すやうに必要になつて、しかもそれを入れたため場面が急に生きてくる。あわてて前の人物のなかにそれを書入れるといふことがやつぱりあるし……。

編 さういふ戯曲に対する心持はお書きはじめになつてから今までの長い間に──最近では『速水女塾』をお書きになつてるわけですが──作家として変りはありませんか。

 そのかぎりにおいては変りませんね。

編 ほかの面ではいろいろ変りは……。

 それはありますね。近頃は非常に変つてきたんですよ。

編 どういふ点ですか。

 一と口にいふと、もう少しドギツイものがなければいけないといふことだ。

編 さういふ戯曲が出てきたらいゝといふのでなく、岸田さん自身もさういふものが書きたいといふこと?……。

 ええ。ナアニ、これは書かうと思へば書けるといふことがあるんですよ。いままでは避けてきたんだ。

編 『速水女塾』のときはさういふ気持はあつたんですか。

 まだまださうでもないですね。

編 それは非常な変り方ですが、どういふところですか。

 それはやつぱり見物ですね。新劇の見物を見てて……尊敬する見物を見てて、「なるほど僕が書くやうなものはかういふ人たちを楽しませることができない」と。それは返す返すも見物を軽く見てでなく、それは尤もだといふ気持がするんです。

編 作家として内面的な……いままでので満足できない、もつと違つたところにゆきたい、それがドギツイものを求めてるといふんぢやないのですか。それもあるんですか。

 ないなア。それはできたらドギツクない方がいゝなア。自分を偽る、曲げる、といふことぢやありませんが、この前も話したやうに、僕は見物との対話をしてゐると思ふんですよ。低い声で話をしてゐたのでは相手がついてきてくれない、遊んでくれないといふ気持ね。やつぱり早くいふと、自分が孤独であるといふことに対して、それにただ満足することはむしろ一種のエゴイズムだといふ反省があるわけだ。もつととにかく人と共にあるといふことを考へなけりやいけないといふ……しをらしいでせう。(笑声)

編 一番影響をうけられた作家は……戯曲家で……。

 意識的にこの人をお手本にして書いてみようといふことはないですがね。僕が脚本を読み芝居をしてみて、つまり自分の質に合ふといふんですかね、非常に魅力を感じたといふ意味で自然に影響をうけたらうと思はれる作家は、やつぱりチェエホフですね。それからミュッセですね。これは僕がもしいつてよければ先生といつてよいと思ふ。ポルトリッシュとかルナールなんかいろいろな意味で僕が学んだところはありますけれどもね。ただやつぱりそれは学ぶところがあつたといふ程度でね。傾倒したといふのはチェエホフとミュッセだなア。

編 いま岸田さんは、もう少し粗野なものを戯曲のなかに自分でも出したい、さういふ戯曲が現れてくるのはいいとお思ひになつてをられるとすると、さういふ観点から考へて、いまの若い人が読んで大いに影響をうけたらいゝといふ作家は?

(即座に)シェークスピア!(笑声)それはシェークスピアですよ。その問題を簡単にいひ切れば、僕もシェークスピアをもつと勉強しなければいかんといふことだなア。今度の『ハムレット』(オリヴィエの映画)は非常な勉強になるものですね。アレは勝れた芝居をアレだけに映画的なものにしたといふ点で可能性の極限に達したものだと思ふ。とにかくシェークスピアの戯曲といふものの面影をアレだけ映画といふ手段で伝へたといふこと、それがチッとも映画として演劇に降伏した姿でなく、その点で非常にオリヴィエは偉い男ですね。しかもそれが芝居をやつてる者には勉強になるし、それから日本の映画人なんかもさういふ点で注意してもらひたいなア。

編 ところが恐ろしく日本の若い人はシェークスピアを読まないんですね。若い人だけでなくわれわれクラス(四十代)が読まないんでね。

 シェークスピアのものはいまの時代から見るととつつきにくいところがあるんですね。これは英語を完全に読みこなせる人が原文で読む場合と違つて、なかなか翻訳のしにくいものだらうと思ふなア。シェークスピアの英語といふものがなかなか英語をちよつとやつたんぢや読みこなせないものでせうね。殊に戯曲の文体としてはね。なにかちよつとした洒落とか、あのなかの哲学めいたセリフなんてものが非常に表面的にしか受取れなくつて、あのセリフとしての力、重量、色調が正確に感じられるといふことが少いですね、翻訳としては。それが今度の映画なんか見るとおぼつかない英語の力でタイトルを頼りに見てもわかりますね。

編 フランスぢや、シェークスピアの影響はどうなんですか。

 一時あつたといふことが文献にありますし、さうだと思はれる作品もあります。尤もフランス人にはシェークスピアはてんで肌に合はない一面があるんです。さういふ意味ではフランス人はできあがつた性格をもつた民族ですね。日本人にさういふところがあるかどうか?……フランスでシェークスピアの影響をうけたのは十八世紀ですがね。その頃のフランスの文化と日本の現在とを比べてみて、日本の方がもつとズッと生な原始的なところをもつてるから……一面老衰したところもあるけれども、文学の領域でシェークスピアの影響といふものをまだ受入れられる余裕があると僕は思ふんですよ。さういふものがわかればね。

編 「悲劇喜劇」の「ハムレット」の対談会でハムレットは「なぜ読まれないか」といふ話が出て、誤つた翻訳がシェークスピアといふものを日本的に古めかしい歌舞伎調にした。この罪が非常に大きいといふ意見が出ましたがね。つまり坪内さん攻撃理論ですがね。

 それは幾分あるかしれないけれども、やつぱり戯曲をやらうといふやうな人が翻訳に頼つてちやダメだからね、こりや……

編 さういふ意味ぢやないんですがね。若い人たちになにかふるめかしいものだといふ観念を与へた。例へば、チェエホフを読むとか、イプセンを読むとか、ストリンドベリイを研究するとかいふ熱情、それをシェークスピアに対してもたせなかつたといふ点でね。

 その翻訳といふこともあるかもしれないけれども、やつぱりシェークスピアの時代に対する理解が非常に少いと思ふね。あの時代が非常に大事ですね。シェークスピアの味はひを味はうのが……。さういふ意味での歴史的な研究、とまではゆかないでも歴史的な感覚が少いですね、現代の日本人に。これはシェークスピアに限らず古典の受入れ方にそれと同じ形がありますね。

編 マアしかしシェークスピアを読ませたいと……いま言下にシェークスピアとおつしやつたんですが、その読ませたいといふお気持ですね、それはどういふ点ですか……非常にむづかしい問題ですが……。

 それはなぜシェークスピアが偉いかといふ問題と同じでね。これはいくらいひつくしてもいひ切れないほど複雑ですね、この偉さといふものは。差当り現在の日本の芝居にプラスするなにかがあるといふこと、それから僕ら自身、もつとシェークスピアを勉強しなければならないといふこと、そのことからいへばね。簡単にいふと、その複雑さをまづ挙げてもいゝんだ。つまり、どんなインテリ層にだつて面白く愬へるものがあるし、それから一般大衆もやり方によつて、見せ方によつて、面白く片唾を呑むところがある。それはどこからきてゐるかといふと、高いものと低いものがあるといふ単純なことぢやないですね。高く見えてそれは普遍的であり、低く見えながらそれは或る奥行をもつたものだといふ複雑さね。これは天才のみがよくすることだから、簡単に学ぶといふことはできませんけれども、しかしアレほど広い意味で大衆に訴へる演劇といふものはやつぱりあゝいふ戯曲のジャンルと、シェークスピアの流れを汲んだ才能でなければできないと僕は思ふ。それからもう少し消極的に考へれば、シェークスピアの複雑さ、豊かさといふものは、ただ自分の好みやなんかで、狭く、とりすました潔癖さといふものがないところからも来てゐると思ふ。東洋的な言葉でいふと「清濁併はせ呑む」といふやうな寛弘な精神があつて、自分の作品を与へる相手といふやうなものにり好みをしてないなア、チッとも。俺のものはかういふ人たちにだけ見せればいいんだとか、かういふものがわからなければ勝手にしろといふやうな、さういふところが全然ない。逆に、君たちに見られるのはちよつと恥かしいんだが、といふやうな卑下も全然ない。くる者全体を楽しませようといふ極めて自信のある、しかも、愛想のいい戯曲です。これが劇作家の本当の精神だと思ふ。そのためにはどういふことが必要かといふと、マア、シェークスピアが自分で到達した哲学があそこに完全に語られてゐるだけでなく、日常生活のなかの卑近な庶民の感情を十分に自分の感情として取扱つてゐて、しかも単調な色褪せた生活のなかに新しい刺戟と色彩とを盛らうといふ意慾が、結局作品を日常生活から遊離させないで、しかも夢幻の世界、異常な歴史のなかへ観客と共に歩を運ぶ努力をしてゐる。だから或る人にとつては眼をそむけたいやうなグロテスクなものも平気で取入れてるし、しかし、それぢやあ、それでシェークスピアを見離すかといふと、さうできないものが一方にあるといふ、さういふ複雑さ、豊かさを、少しは学ばなければならん。それから作品の対象としてゐる見物に対する信頼と一種の思ひやりね、さういふものは、僕ら、考へてみると恥しいほど足りなかつたといふこと……。

編 セリフの点ではどうですか、シェークスピアのはフランスの作家のもつてるセリフの陰影とは違つた意味の陰影がありますね。

 それはあります。力強いダイナミックなリズム……。

編 或る意味でいふと、シェークスピアの陰影の方が歴史的にみても普遍的だと思ふんです。さういふ点なんか……。

 そりや、いまの複雑さからきてゐるでせうね。シェークスピアといふ。……僕もシェークスピアといふ実体はよくわからないけれども、作品を通してみればね、それが複雑であり豊かであるといふことなんだけれども、さういふ作家の偉大な天才から湧き出た作品ですからね。それは陰影にしろ、なんにしろ、もつと深い陰影であり、リズムにしろもつと高らかなリズムだといふことがいへますね。なんといつたつてシェークスピアは第一人者ですね。ただ、いまいつた普通の人間がそれぞれの好みをもつてゐて、シェークスピアのなかに或る一部の好みに合はないものがあると思ふんですよ。

編 シェークスピアの影響は現代戯曲ではアメリカにいちばんはつきり現れてるやうですね。

 さうですかね。

編 「ウインター・セット」を書いたマックスウェル・アンダーソンなんかは意識的に取入れてゐるやうですね。

 アメリカの作家は大衆性を非常に考へますがね。さういふ点でお手本といへばシェークスピアにくるのは自然だし、それから近世の演劇の革新運動では、シェークスピアはそのときどきに浮かび上つてくるんですね。フランスでもさうです。いま申上げたやうに十八世紀にシェークスピアが登場した。これはクラシックからロマンティシズムの運動に移るその過渡期に、芝居の方ではシェークスピアが紹介されて、新しいジャンルの方向がきまる一つの契機になつている。恐らくあの「フィガロの結婚」が出る前にシェークスピアの全集翻訳が出たはずです。さうするとこれはフランス人の好みでシェークスピアを真似たといふところがボーマルシェのなかになきにしもあらずだ。

編 日本ぢやシェークスピアの影響をうけてる戯曲家は、自分でもいひ、はたでみても、さういふ影響をうけてゐるといふ戯曲家はないですね。

 本当か? といはれるからね。(笑声)

編 だけど、出てこなくちやいけないわけですね。

 僕らも現代生活を描いて、シェークスピア的な何かがそれに現れるといふ芝居を想像してみて、想像つかんですね、なかなか……。それともう一つ映画なんか見て、最近僕がそれを強く感じたんだけれども、とにかくシェークスピアが偉大な詩人であるにしても、日本の現代語でね、シェークスピア的な劇詩といふものが書けるかといふことね。さういふ点でかなり懐疑的にはなりますけれども……しかしさういふ才能といふことを別にして、形式とか調子とかいふものでシェークスピア的なものはいつたいどういふ形で生れてくるだらうか。さうして誰にそれができるだらうか。どういふ勉強をした人ができるだらうか。といふことは僕もいろいろ考へてるわけだけれども、とにかく詩人であり人生通であり、そして或る程度遊蕩児であり、宗教的な信仰をもつてゐるか、さもなければ、常に正しいものの味方になる勇気をもち、そして今日でいふ知識人であるといふやうな作家ね。まだ資格で落してゐるかしれないが、マア、ちよつと考へても、それだけ多面的な素質をもつてゐなければダメだなア。

編 アメリカのいまの作家にはアメリカ的に非常に翻訳されてゐるんですがね。意識的にさういふ方向へゆかうゆかうとしてゐるんぢやないですかね。

 マアさうかもしれませんね。

編 テネシー・ウィリアムズが詩人ですし、マックスウェル・アンダーソンも詩人ですが、さういふ詩人がリアルな現代生活を題材として、複雑なストーリイを組みたてながら、人間に共通普遍なシンボリックなドラマを創り出さうとしてゐる点。

 それがね、やつぱりアメリカのものとしてわれわれが読む場合に、さういふものが出てくる可能性は想像できるわけだけれども、アメリカの社会といふものは日本の現代の社会よりももつと弾力性があつてね、どういふものが出ても、人間がどういふことをしても、そんなにをかしくないほどのね。なにかいゝ意味で混沌としたところがあるんぢやないかと思ふね、アメリカといふ国が……。日本といふ国は非常に痩せてゴミゴミしてゐるけれども弾力がないものね。ちよつと型破りな人間が出てくればをかしいといふ感じがする社会でせう。そのクセ少しづつ変つてゐる人間ばかりなんだけれどもね。

編 変つた人間を作家がをかしくなく書ければいいんですね。アロハのアンちやんでもなかにはいいのがゐるんですね。(笑声)

 主人公にはならないね。(笑声)

編 主人公にしていゝのが千人のうち一人ぐらゐはあるかもしれない。(笑声)

「酔どれ天使」か……(笑声)それはさうですよ。大詩人の眼から見ればその辺に主人公はころがつてるんだらうけれども……。

編 いまの戯曲家は現代生活との繋がりが一面的なやうな気がしますね。

 それは甚しくさうですね。だから僕はそこに人生通といふ言葉を挙げたけれども、日本に人生通といはれる人は作家で幾たりかゐるでせうが、一面的な人生ですね。人生といふものはさういふものぢやないといふ気のする人生だね。あなたの人生といふやつだね。しかし、その自分の人生といふものさへ本当に通じてゐる人が少いから、少くとも自分の人生をもち、それに通じてゐれば人生通に見えるんだなア。

編 最後に、いまの戯曲作家のなかから新しい夢をみたすやうな作品が出るか出ないかといふことを……。

 それは由々しい問題で迂闊にはいへないよ。(笑声)いまの若い人たちは厳しい批評はいづれは受けるでせうけれども、いまは野放図に甘やかして書かした方がいゝと思ふなア。それでなければみんな早く手堅いもの手堅いものといふことになつてしまふのはいけないから……。

編 ともかく岸田さんの時代や私たちの時代よりも、いまの若い人の方が一家をなしたやうな気持になるのが早いですね。

 これは戦後の特殊な事情ぢやないですか。戦後のジャーナリズムの新人の取上げ方といふ特殊なことですね。

編 しかし、いゝことぢやないですね。一家をなした気になると今度はそいつを守つてゆかうとしますからね。フリーな題材で、思ひ切つたものが書けないですよ。岸田さんあたりがいままでの殻を破つたものをパッと書いて下さるとみんな真似るんですけれども……。(笑声)

 しかし、さういふときに年寄の冷水といふ批評もありますからね。(笑声)



俳優と劇作家


 このまへに、これからの日本の芝居の行き方といふやうな問題に触れて、僕が現代の風潮からいつて例へばかういふ種類の芝居が求められてゐるのぢやないかといふやうな臆測をしたけれども、それがかなり間違つてゐたといふことを感じた。例の「山鳩の声」がかなり見物に喜ばれたといふこと、それから今度の「文学座」の「ママの貯金」も予想以上に観客の足を引いたといふこの二の事例からです。世相険悪な時代は人心も荒々しくなつてゐることだし、相当刺激の強いものでなければ見物が喜ばないのぢやないかといふ事をこの前、僕は申したけれども、これは必ずしもさうではなく、やはり一般大衆が健康でそして平和な感情や、比較的落ついた生活の幸福といふやうなものにも一種のあこがれを持つてゐるといふこと、芝居の世界でもさういふ舞台がある程度観客にアッピールするといふことがわかつた。作家にしろ演劇の企画者にしろ必ずしも刺激の強いもの、といふことを考へる必要はない。しかし観客が舞台に求めてゐるものをもう少しひろい眼でみると、ともかく、自己解放といふことを確かに求めてゐる。それは自分の現在の生活の中においては求められない一種の幸福感といふか、あるひは平和な雰囲気、人間的な感情の交流といふやうなもので、これを十分に舞台で見る事が出来たら非常な魅力だらうと思ふ。だから作家としても演劇の関係者としてでも舞台でさういふものを与へることをもつと本気になつて考へるのが一番正しい道だといふことを僕は感じたのです。昨夜ピカデリーの「親和力」を見ました。はじめてのピカデリーの創作劇で、「フィガロの結婚」「山鳩の声」それから今度の「親和力」といふわけですが、その間いはゆる実験劇場の試みとしてどういふ成果があつたらうか、といふことを期待して僕は見に行つたのですが。その時僕が「俳優座」の当事者に率直に言つたことはね、少し重苦しいけれども、しかしいゝ仕事だと思ふ、とかういふ簡単な批評ともあいさつともつきませんが、僕として感じたまゝを伝へて来ましたけれども、それをもう少しふえんしてみると久板君のあの仕事に対して僕は無条件に賛成はできないが、また、頭から不成功だつたとも思はない。といふことは最初からあのピカデリー劇場を目当にして書いたものではないだらうが、いまの時代にしかも久板君の立場で、あゝいふ形で時代の苦悶、乃至作家としての久板君の悩みをぢかに訴へることはやつぱり観客に対して不親切だと思ふ。なるほど観客の大多数があれと同じか、それに近い悩みを悩み、日常生活をかなり暗い気持で送つてゐるものが多いと思ひますが、それに対して久板君がおれもかういふ悩みを悩んでゐる。周囲をみてもかういふ悩み多き人が色々な形で苦悶の表情を持つてゐるといふことを見せるだけでは観客は満足しないし、またそこに演劇としての美しさを感ずるとはいへないと思ふ。あれを久板君がもう一歩つき進んで自分の苦悶の表情といふものを示さないで、また周囲の人々の色々な悩みといふものをそのまゝぶつつけないで、それに対して作者として自分はかういふ態度をもつてこれから生きてゆかうと思ふ、といふつまりあの芝居の幕切れの心境から出発した舞台を私は見せてほしかつた。あすこまで見物を連れていつてそして作者の心境を示して見せるといふことは、ある意味においての救ひにはなるが、その救ひを得るための努力を見物に同時にしひるのは、これは演劇作者としては少し見物に負担をかけすぎる。とくに舞台がピカデリー劇場であるために、最初から作者の意図を信頼し、作者と共にあの問題を考へるといふ様な見物が大多数とはいへないために、いくらか観客との間にギャップが出てゐる。このギャップをもつと埋める工夫も、必要だつたと思ふ。演出や演技の上で、ある程度それができたんぢやないか。さう私は感じたのですが、そこで一応「親和力」といふ作品から離れて現在の芝居といふものを考へてみると、実は、ピカデリー劇場から出て色々のことが頭に浮んだのだが、その感想を追つてゆくとこんなところへ来たのです。ヨーロッパでもアメリカでも色々新しい芝居が出てきてゐるし、また日本でも戦後色々の作家が力作を発表してゐるけれども、芝居の歴史といふ点からいへば、なんとしても現代の演劇といふものは芸術として危機にあるといふことです。危機にあるといふことは必ずしもいまだけが危機だといふことではなくていままでしばしば危機に見舞はれてゐるけれども、現在の演劇の危機といふものは非常に特殊な性格を持つてゐる。それは将に日暮れなんとすといふやうな感じだ。つまり演劇の運命、演劇の将来といふものに対してかなり僕は悲観的になつてきてゐる。それはどういふわけかと言ひますと、戯曲の生産といふ点からいつても、俳優の演技からいつても、あるひは劇場の経営からいつても、どこにも芸術としての進化の跡がみられない。つまり非常に不吉な言葉であるが末路の相貌を呈してゐると私は思ふ。しかしそれなら演劇に失望してゐるかと言へばさうではない。演劇の革新といふものは何か、もつと根本的なところへ眼をつけなくてはいけないのであつて、それは例へば戯曲が戯曲としての文学性を高めてゆくといふ様なことだとか、戯曲が演劇の本質といふものを追及してもつと舞台的なものにならなければならないとか、あるひは俳優の演技がたゞ技術的に巧みなだけでなく、もつと人間性の深いものを表現するやうにならなければいけないとか、もうそんな議論だけではどうにもならないところへ来てゐる。僕はやはり演劇というものは、最初から最後まで、つまりアルファからオメガまでを俳優が担当しなければならない。それが本当だといふことを僕は感じたんです。他の言葉で言ふと、つまり今迄は、特に近代において、演劇は戯曲を支柱として、土台としてつくられたといふやうな常識から一歩踏み出さなければならない。舞台の上では、俳優が俳優であるといふことと、つまり、彼は同時に劇作家であり、舞台装置家であり、演出家であるといふところまでつき進んでゆかなければ、ほんとの舞台芸術といふものは生れない。芝居が戯曲家と俳優と装置家と演出家の協力によつて成立つといふことは一つの手段であつて、それが今日までは最も有効な手段であつたが、あくまでも手段に過ぎなかつたので、終局は俳優がやはりいままで劇作家の仕事とされてゐたやうな領域へ足を踏み込む。また演出家の才能とセンスをも持つし装置家の仕事も俳優自身でするといふところまで、これは理想の姿だがそこまでゆくといふことでなければ、演劇は芸術として恐らく限界がきてゐるといふことを僕は感じたのです。それでさうなると劇作家はどうなるかといふことになるが、戯曲といふ文学のジャンルがいつの時代までつづくかといふことは知らないが、戯曲はあくまでも、実在の劇場、舞台をはなれて存在するだけの独自な文学性を主張する。演劇は専門戯曲家の作品を利用するといふことがあつてもいゝ。俳優もすぐれた劇作家の作品を材料として、自分の芸術創造の一つの契機にすることはよろしいけれども、しかしその場合には、作家はその作品が自分の手から離れて、他の創造者──芸術家の手に委ねられたのだといふことをはつきり知らなければならぬ。舞台の成功、不成功は作者の与り知らぬこと、一切の責任が俳優にある。それが若し優れた芸術になつてゐればそれは決して自分の手柄ではない、また自分の目指したものが出てゐなくてもその舞台がそれなりに美しいものなら、その俳優に対して敬意を表し、礼讃を捧げればそれでいゝんであつて、それこそが劇作家の立場だと思ふ。さういふ風に考へてくると、劇作家といふものは戯曲といふ一つの文学のジャンルを追及するだけで、それが舞台にかゝるといふことはもちろん予想してもよろしいが、しなくてもよろしい。予想する場合にも、劇作家としては、一つの新しい舞台のイメージを持つたところで、それが実際の舞台の上で実現されるといふことを期待するのが間違ひで、僕はそれはたゞ希望に終る場合の方が多いと思ふ。西洋では自分の作品が舞台に上演されて非常に満足の意を表し、申分ないどころでなく、自分の書いた作品よりももつとすぐれたものになつてゐるといふやうなことをお世辞でなく言ふ人もゐるが、これはやはり一つの錯覚だと思ふ。自分のねらつたものが舞台に完全に出てゐる。と思ふことは厳密に言ふと自分の書いた通りの言葉が舞台で喋られてゐるといふことだけで、作者の頭のなかに描いたイメージとはずゐぶん距離のあるものだと思ふ。つまり、別のものになつてゐるのだ。その距離をあまり問題にしないのは、戯曲作家の読者に対する譲歩が慣例となつてゐるからだ。自分の書いたものと違ふのが当り前だといふことを、もつとはつきりさせる必要がある。それを日本では作家が自分で書いたもの、その通りのことが舞台の上で再現されるやうに思ひすぎてゐる。さういふところに劇作家が逆に色々の束縛を受けてゐるんぢやないかと思ふ。また不必要な失望感におち入り、劇作家が舞台に対して無理な要求をするといふことがいままであるんぢやないかと思ふ。そんなことを僕はピカデリーからの帰り道に考へましてね。さて、そこで、われわれをも含めて劇作家が演劇と手をつなぐといふことは、もちろん今すぐに不必要だといふんぢやないし、或は、今はまだその必要が大いにあるかもしれないが、これには、はつきりした一つの限界がある。演劇といふものは、結局俳優に責任を持つてもらふといふことである。このことを僕はこの話の冒頭に言つておきたいと思ひましてね。さうなるとさつきちよつと話が出たが素人演劇だね。自立演劇とかいふものの在り方も僕は演劇といふものの性質から言つてやつぱり団体自身が自分たちの脚本を持ち自分たちの目的にそふ演劇活動をすべきであつて、何か他にある色々の芝居の模倣といふことでは駄目だと思つてゐる。例へばかういふ脚本があるからやつてみよう、といふことはやはりさつき言つたやうに方便としては差支へないが、窮極の目標、ことに理想的な姿といふことを考へる場合には、自分たちの手で脚本をつくり出す、そしてそれを自分たちの流儀で舞台にかけるといふこと、その場合において学生演劇とかあるひは自立演劇のそれぞれの目的といふものを非常にはつきりさせることが出来るんぢやないかと思ふ。たゞ芝居の真似をするといふことが目的であるんだつたらこれは少くとも演劇の専門家としての僕の立場では何も言ふ必要はない。かりに教育家の立場だつたら、あるひはまた父兄の立場だつたら何か言ふこともあるが、演劇の関係者の立場としてでは何も言ふことはない。たゞ僕はさういふ演劇の専門家の立場でもし注文をつけるとすれば、やはり演劇は芸術でなければならないといふことで、少くとも芸術創造の一つの仕事としてみてゆく。その場合に自立演劇とか学生演劇が演劇を芸術としてつくり出してゆくといふことの可能性とか、方法とかが問題になつてくる。

編 さつき伺ひました演劇の危機でございますが、演劇がたそがれにあるといふやうなことをはつきりお感じになつたと言はれますが。それは、日本の場合ですか、それとも演劇芸術全体としてですか。

 全体としてです。

編 例へば「山鳩の声」とか「ママの貯金」などをごらんになつてもさういふことをお感じですか。

「山鳩の声」でも「ママの貯金」でも今まですでにあつたものですよ。たゞちよつと趣きをかへたり順序を工夫したり、つまり技術的に云つて新しい味を出した程度のもので厳密にいつて、あの中に芸術の創造は何もないですね。だからあれは芸術といふよりもむしろ娯楽に近い芝居だと思ふ。しかし無価値ではない。演劇といふものの立場から言へばね。演劇が娯楽といふものであるなら、あゝいふものこそいゝ見本だと思ふ。

編 いまおつしやつた危機ですが、その危機を乗切る道、例へば俳優……

 俳優がもつと創造者にならなければだめですね。

編 日本の場合ではまださういふことはないが、外国の場合なんか、さういふ傾向のものがいくらかありますか。

 つまり俳優にして、同時に作者であるといふ存在はあることはありますが、それと、これとはちつと違ひますね。ある特定の俳優が作家としての才能を持ち、その俳優の書いた戯曲をある一座が上演するといふことでは解決しない。個々の俳優がもつと創造者といふやうな状態になることが目標にならなければならない。例へば何か二つの違つた才能を一人のものが持つといふやうに受取られるが、それが一体になつたものが演劇の純粋の形ぢやないかと思ふ。ところがいま演劇の歴史を振返つてみるとそれに近い時代が、かつてはあつたね。

編 つまりもとに戻るわけですね。ギリシヤの時代に……。その度合ですが、特に日本では俳優が芸術家としての機能を持つといふことが外国と較べて少ない……。

 歌舞伎があすこまできたのは俳優が芸術家だつたからですよ。劇作家も俳優の思ひつきを取入れて書いてゐる。特に舞台に翻訳された場合にはいはゆる原作といふものとはずゐぶん形の変つた舞台が出て来てゐる。それが芝居の純粋な形ぢやないかと思ふ。ところが歌舞伎の俳優といふものは時代のせいもあつたが、日本では特に特殊な階級にあつたため完全な人間ではなく、一つの畸形的な人間であつた。そのために歌舞伎といふものは一つの畸形的な芸術になつてゐると思ふ。近代人としてのすぐれた俳優がもしさういふ力を発揮すれば僕はまた別なものが出てくるのぢやないかと思ふ。

編 外国の場合には最近さういふ努力がいくらかあるのぢやあないですか。日本に較べて……。

 意識的にさういふ努力をし、さういふ方向に進んでゐるかどうか僕にはわからない。

編 コポーなんかはどうですか。

 先生はむしろ戯曲に奉仕した側の人だな、戯曲に演劇の全生命を求めた。さういふ意味で一種の古典主義者なんです。

編 最近アメリカで、外国劇の演出に当つて、原作を非常にアレンヂしてゐるらしいが特にサルトルの「汚れた手」をずゐぶんアレンヂしたために原作者と問題を起してゐる……。

 それは日本で言ふ翻訳劇の問題として興味がありますね。外国の芝居を他の国でそこの国の言葉で上演する場合に、ある程度アレンヂしなければ原作の本当の意味と面白さを伝へることが出来ないといふ原理が新しく問題になる訳です。あまり原作の一語一語にとらはれてしまつては原作を理解させる障害にすらなるといふことをね。そこはなかなか程度があつてむづかしい。それはしかし演劇の本質論といふものと少し違ふんぢやないかと思ふ。いまのサルトルの原作をアメリカでどういふ風にやつたか、原作の逐字訳と対照してある雑誌に発表されてゐるさうだが、僕は読んでゐませんが、その話を聞いて、非常に面白いから、是非日本にもその訳の対照を発表してくれと言つたが……。僕は日本で外国劇を訳す場合逐字訳で原作に忠実であればまづ無難だといふ気がするが、上演の時はたしかに困る。第一、長すぎる。第二に、むづかしくなりすぎる。しかし、どうすればよいか、といふことは僕には見当がつかない、そこはアメリカ人はきつと単純に思ひ切つたことをしてゐると思ふ。

編 しかし外国の場合は戯曲を素材として大事にする。文学的の価値といふものを高く買ふ。戯曲を舞台芸術を表現するための素材として使ふといふ考へ方があるんぢやあないかと思ひますが……。優秀な役者の間には……。

 それはありませうね。しかしそれは恐らく日本でも歌舞伎の役者や新派の役者にはあるんぢやあないかね。つまり新劇が文学者の指導によつて、それからさらに近代の文学運動に併行して進んで来たゝめに文学尊重の一つの傾向の中で、言はば非常に窮屈な形で原作尊重といふことが行はれてゐた。しかし果して本当に尊重したことになるかどうかはまだ問題にしなければならない点がある。

編 新劇の俳優のいままでの育て方、いまおつしやつたやうな俳優、つまり芸術家としての俳優が育つやうに持つてこないで寧ろ戯曲の人形となるやうな俳優の育て方をしてゐた。

 さういふことも言へませうね。

編 しかし例へば芸術家としての俳優を育てるやうな方向に進んだとしても、まだ演劇のたそがれが感ぜられるとすれば非常に大問題ですね。

 いや、俳優が独立した芸術家になりさへしたら、演劇の将来は洋々たるものでせう。だが、一、二の例外があるといふ程度では、僕はこの先が案じられる。これがつづく限りね……。演劇はたそがれだと思ふ。それから戯曲はやはり舞台で上演されるといふことだけを条件にすればこれ以上に進化発展する余地はないといふ考へ方です。

編 戯曲家が、会話を通じて自己表現をする芸術家だと考へれば、これからもつと自分のイメージを拡げてラジオや映画やその他の聴覚に頼るあらゆる表現形式を利用した大きな綜合形式のものを書きたくなるでせうね。

 さう、あくまでも散文と区別された、いはゆる抒情詩に対する劇詩の道を行く以外にないと思ふ。

編 私共の雑誌で「劇芸術への懐疑」といふ特集をやつたのですが、今村君といふ映画の批評家が、ともかくいまの演劇は行詰つてゐる、といふことを理論的に堂々と展開して、そしてどうなるかといへばラジオや映画を利用するほか色々の新しい機構を利用する以外演劇は成りたたないところまで来てゐる。さういふ大きな機構を持つ新しい演劇形式は資本主義の経済機構では出来ない。さういふ形のものを実際にやつて観衆を動員し得る社会組織は共産主義しかないといふことを言つてましたが……。

 僕の考へはそれとはまた違ふ。演劇といふ独立した芸術といふものは、総て今言つたやうな形になれば発展の可能性はある。在来の舞台を意識しなければ、いまの段階では、やつぱり戯曲が文学のジャンルに徹することは出来ませんよ。その上に立つた理想を私はいつてゐる。理想は現実の舞台を意識する必要はない。空想の舞台、ワクのない舞台、それは一つの演劇的な世界、戯曲的な世界といへるやうなイメージが、戯曲文学として新しい生命を形づくると思ふ。舞台の制約といふことが戯曲の美を生むといふのが今までの演劇を対象にした一つの理論だが、もしその舞台が今までの劇場の舞台に限られてゐては困る。それでは発展性がない。将来が非常に危ぶまれると思ふ。私のいまの考への段階はやはり定形詩といふものから自由詩が生れる段階だと思ふ。

編 さういふ意味で舞台の上にある自由さを求めるといふことはアメリカのテネシー・ウィリアムスとか其他の現代作家の中にはいくらかあるやうですね。いまお話の出た「ママの貯金」といふやうなものはありきたりのものかも知れませんが、あゝいふ娯楽本位の芝居でも少しでも何か新しい形式をちよつぴり入れるといふやうなことが……。

 それはいままでの幕といふやうな制限を撤廃して、自由に数多くの場を使ふとか、舞台をできるだけ立体的に使ふとか、映画的手法を取り入れるとか、さういふことは別に新しいこととは思はない。非常に古くからやられてゐる。むしろある意味から言ふと繰返しですね。それはやはり舞台の制約といふものの中でそれを別の形で生かさうとしてゐるものですね。

編 それと共にその他のアメリカ作家のもの、例へば先だつて日本でやつたソーントン・ワイルダーの「ミスター・人類」などをみても、なにかいままでの形式で書いてゐてはもどかしくてしかたがない。新しいテンポとかリズムとかいふものを戯曲の中にもちこまうとしてゐる。さういふ在来の戯曲のテンポやリズムに対するもどかしさがアメリカの戯曲家たちに、形式の変化を追つかけさせてゐるやうに思へます。その点で、岸田さんが新しい戯曲をお書きになる場合に、形式上のことでなく、何かリズムやテンポの上でいままでのものを破るといふやうなお気持が、どこかで起ることはございませんか。

 新しいリズムといふ言葉は、その場合適切だが、リズムがまあ代表するやうな感覚的な新しさといふものは、今までの舞台でも戯曲でも求められてゐるし、作者も意識的に無意識的に、とにかくさういふものをやはり出さうとすると思ひますね。

編 「ママの貯金」のことにふれていただきたいと思ひますが……。この間も田村秋子さんとお話したのですが、非常に大衆的な戯曲だが、日本の大衆的戯曲と較べてちよつとばかり違ふところがある。そのちよつとがどうも大変なちよつとなのだといふわけで……。

 ちよつとばかり違ふといふことは、つまり違ふといふところだけについてみればやつぱり作者、これは原作者、脚色者を含めてですがね、ちよつと言葉を訂正補足するかも知れないが「全人間的」な生活を描かうとしてゐる。更にこれを別の言葉で言ふと非常に円満な常識物語を語つてゐるといふことですね。そこから何が一体出てくるかと言へば、ごく卑近な意味で健康な人間味といふものが豊かに出て来てゐると思ふ。これがちよつとにしては実は大きな違ひだな。さういふ作家はやつぱり日本には少い。どうも少しづつではあるが、みんな日本の作家は風変りなことを求めすぎる。風変りな物の言ひ方をしすぎる。勢い、悪い言葉でいふと、畸形的だと思ふ。大した才能ではないが、やはりヨーロッパとかアメリカ、つまり西欧文明の中に育つた人間は、まづ人間といふものの全ぼうを掴まうとしてゐる。さういふものを掴めるといふことは、自分が全人間的に育つてゐるといふこと、さういふところからくる視野の違ひだね。かう一つ一つの面をとりあげると、どれだけさういふものが高度にするどく掴めてゐるかといへば、それは大したことはない。それ程高度のものでもなくまたそれ程するどい、深いものでもない。しかし、どことなく、どの人物もふつくらと描かれてゐる。類型にはちがひないが、血の通つた姿で舞台に出してゐるといふ、そこが魅力のひとつになると思ふ。「ママの貯金」は、初日と楽の日に見て、さすがに二度目には少し退屈したが初日に受けた印象で、あゝいふ方向にゆけばもつと面白くなるといふことを僕は座員にも言つたのだが、作家としてこの作品から大したものを学べるとは思はない代り、どうもうらやましかつた。あゝいふのを伸び伸びと書いてゐられる作家の自信をね。

編 最近翻訳物が随分多く上演されてますが、その上演の態度とか方向といふものをどうお思ひですか。

「山鳩の声」「ママの貯金」とこの二つを例にとつてみれば、日本では画期的な芝居だと思ふ。画期的といふのはあゝいふ芝居はもう数十年前に日本の創作劇として生れてゐなければならないものです。それに対してこれでは不満だといふので先駆的な芸術運動として新劇が生れなければならなかつたのだ。つまり新劇の相手が日本にはない。新派と歌舞伎を相手にしてゐたのが、そもそも、今日の新劇の不幸ですね。一般の芝居好きが、現代の芝居として、なにも観に行くものがないといふことは、ちつとも新劇関係者の責任ぢやない。これは、近代日本の興行者の責任です。日本の新劇のそもそもの起りは歌舞伎や新派では時代の演劇としては古くさい。もつと新しい感覚で現代の生活を描いた芝居がほしい、さういふ要求を、市民と共に抱く作家なり興行者がゐなければならなかつた筈だが、もしさういふことを考へるものがゐたなら、たとへ西洋からお手本をもつて来るにしても、いきなりシェークスピアやイプセンでなく、もつと、ほかの通俗作家、ブールヴァール作家といはれる作家のものを、手際よく輸入した筈だ。さうなると、それだけでは困るといふので、それに対抗して、坪内氏や小山内氏が起ち上つてくれたと思ふ。順序がちよつと逆になつた。しかしそれでも日本の新劇はあれで、いい勉強をしたと思ふ。いろんな意味でね。

編 翻訳物を取りあげる態度ですね。選択の仕方にも昔は少しかたよつたものがある。

 さう、片よりすぎた。

編 築地小劇場の翻訳劇の舞台と「ママの貯金」とか「山鳩の声」なんかの舞台との違ひはどういふ点でせう。

 築地小劇場はやつぱり西洋の芝居の尖端ばかりを撰んで紹介した。その尖端は、ピラミッドの底の上に聳えてゐるんで、その底にいろんなものが積み重なつてゐる。それを誰もほんとに取入れようとしなかつたんですね。日本の興行者は実に怠慢だと思ふ。つまり役者が日常の生活感情をすなほに出すことだけで、当時の日本の芝居は新鮮な魅力になつたのだと思ふ。こんどの場合だつてそれだけである効果をあげてゐる。特に「山鳩の声」なんかは日常の生活感情を比較的すなほに出すことが出来る俳優だつたから、あれだけ面白いものになつたのです。新劇の役者が日常の生活感情をすなほに出す上に役の複雑な性格とか、特殊な思想とかを出さうとする努力があつて、そのために人間といふものをたえず一ひねりしてみせようとしてゐる。日常の生活感情を舞台の上に出すといふことは、これは初歩のことで、まねだけぢやいけない。素人でもそんなことは出る、さう思つてゐた。ところがさういふものが今度の芝居の魅力になつてゐる。非常に演技がすなほで、無邪気とさへいひたい位です。轟夕起子のやつた役なんかは新劇の役者ではあの手ばなしの感情表出はできない。あれをみて新劇の女優は不満に思ふだらうし、あれでは芝居ぢやあないと思ふところがあると思ふ。ところがさういふところが、あの芝居では逆に魅力になつてゐる。微妙な問題です。

編 「ママの貯金」の田村さんのものなんかどうですか。

 田村君はさすがにあの脚本の性質を呑みこんですなほにやつてゐるんぢやあないかと思つたね。すなほにやるといふことは、日常茶飯事的にやるといふことぢやない。母親が子供を可愛がる普通の感情を、先づ第一に表面に押し出す、さういふやり方をすればそれがすなほといふことになる。人物の特殊性に重点をおきすぎないことだ。それが芝居では大事なことなんだが、それがいままでおろそかになつてゐた、ただ作者の意図と称して特殊性ばかりを重要視してゐた傾きがある……。

編 「親和力」の場合はどうでせう。

 あの「親和力」は構成として観念がすこしむき出しだが、人物のつかみ方はリアリスチックですね。特に、久板君のものとしては、非常に心理劇の色合の濃い作品です。あゝいふ作品を上演する場合には、演出者も俳優も久板君が言はうとしてゐることだけを舞台に出さうとしないで、もう一つ前に当然含みとしてあるものを力強く出す工夫と努力が必要だと思ふ。もつとありますね、出すことが……むしろその中から久板君が言はうとするものを滲み出させる演技の仕方があるんぢやあないかと思つてゐる。久板君が言はうとすることをすぐ出す。つまり最短距離で出させるといふことは、新劇の一般の傾向と余り距離がないと思ひますね。そのために見物は不必要な努力を強ひられる。作品の重苦しさといふものはさういふ手加減でもつと救はれると思ふ。非常に大事なせりふを、大事だからといつて力を入れて言ふ。これは芝居の上で常識になつてゐるのだが、逆に、それだけ低く、静かに言ひ、前後で十分に、その部分を浮き出させる手を使ふこともできる。さうすると、その白の重要さが、別の形で、見物の胸にかがやいて来る。俳優の演技なんかにも随分工夫する余地があると思ふ。声を上げて泣く場合なんかにもね。その声の上げ方の解釈をすぐ先に出さうとするやうな行方、演技のニュアンスが非常にうすれてゐる。重苦しくなる。

編 劇評の在り方といふものについて何か……。

 劇評といふものはやはり普通の所謂文芸批評とは少し性質が違つたものだと思ふ。新聞なんかの劇評といふものはやつぱり演劇の芸術性と娯楽性との微妙な関係をよく呑込んだ批評でなければならない。だから芸術的な演劇の価値といふものはある標準ではつきりさせなければならないと思ふ。この芝居はかういふ観方をすればかういふ楽しさがあるといふ事を親切に教へてほしい。あるひはこの芝居は楽しまうとしてもどうしても楽しめない芝居だといふことも時には酷評としてあつてもいいがね。つまり芸術の娯楽性といふものを一応勘定に入れた批評であつてほしい。劇場に集まる見物は芝居といふものに対して色々先入感を持つてゐる。だから劇場に行つて楽しむといふその楽しみ方は見物によつてかなりの違ひもあるし、それからまた一般大衆、ことに現在の大衆といふものはさう広い楽しみ方を知らない人たちではないかと私は思ふ。この芝居にはかういふ楽しみがあるからそれを味はなければ意味がない、といふ風なことを教へてもらひたいと思ふ。例へば久板君の作品の場合でも、恐らく非常に漠然とした、つまりこの前の「山鳩の声」はとても面白かつたから今度もいつてみようといふ見物には面白くないと思ふ。それぢやあ「山鳩の声」は面白いと無条件にいふ劇評家がこんどの「親和力」は面白くないと一概に言ふとすれば、その劇評家は、一般の見物となんら変らない感覚の持主だと思ふ。親和力は恐らく作者としては演劇の娯楽性といふものを多少は意識してゐるかも知れないが、さういふものを犠牲にしてもといふほどつきつめた気持で書いてゐる。だから普通のやうに芝居を楽しみにゆくといふ見物は、あの中で一体何を楽しむべきかといふことになつてくると、これは劇評家の解説によつてずゐぶん違つてくる。もちろん楽しくないものを楽しいと強弁して見物をあざむく必要はないが、さういふ心構へであの芝居をみなければならないと思ふ。そこで僕は劇評家に注文したいことはあゝいふ僕でさへ重苦しいと感じた芝居、苦しいといふことは楽しくないといふことになるんですが、それぢや僕はあの芝居を見て後悔したか、見た時間が惜しかつたか、といふとさうではない。やはり見てよかつたと思ふね。見てゐる間はある程度の緊張感もあつたし、また一種の楽しさも全体を通じてとは言ひ切れないが、刻々にあつた。それは娯楽といふのには少し窮屈かも知れないが、ある種の知的な対話に交つてゐるやうな快感はある。それはやつぱり精神の娯楽だと思ふ。大体精神の娯楽といふものをいまの劇場の見物は忘れてゐる。感覚的の娯楽の面といふことにとらはれすぎてゐる。この精神の娯楽といふことは、これはちよつと説明しにくいことだが、しかしこれはどうしても僕は演劇の本質として、さういふ要素がもつと一般見物の間に受けいれられて、いいと思ふ。作者の苦悶をそのまま訴へるといふことに対して、それをそのまま苦悩として受取らないで、同感とか同情とか、あるひは時によると批判のかたちで、うけとる。別の意見によつて作者と討論することもできる。さういふ喜びとか、楽しさがやつぱり精神の娯楽に属すると思ふ。さういふことが全然出来ない見物も中にはあるが、とにかくさういふやうなことを援ける劇評の役目を考へてみてほしいと思ひますね。



俳優の魅力について


 日本の今の芝居を見て、今のままの形では色々不満もあるが、またよくここまで来たと思ふ所もある。さういふ所をひつくるめてこれから一体どういふ方向に進まなければならないか、といふ事を考へると、どうも新旧二つの時代々々の必然的な移り変りを考へてゆく前に、やつぱりどうしても日本の芝居が歌舞伎、新派といふものから現在の新劇に移つて来た、その過程で比較的見落されてゐた大事なものをここではつきり掴む事が一つの先決問題であつて、その方がわれわれにとつて大事な問題だといふ気がする。それではその大事なものは何か、といふと一体俳優といふものはどういふものか、といふ事から考へてゆかなければならない。その一例なんですが、きのふアメリカ映画の「陽気な家族」といふのを見てね、なかなか面白い、見物も喜んで見てるんですが……さてそれぢやああの映画の何処が面白いか、といふと、なる程あの映画で取扱つてゐる主題、それから映画作者のスマートな才気といふものが無論一方重要な要素ではあるけれども、しかしなんといつてもあれを映画としてみる場合に、あの中へ出て来る役者が、それぞれの人物をどういふ風に活かしてゐるかといふ事だと思ふんですよ。あすこへ出て来る人物は何れもそれほど新しくつくり出されたタイプといふものではなくて、アメリカの市民の中にザラにあるタイプの中から類型的とも思はれる人物が選ばれてゐるんです。それでゐて、アメリカの市民生活がある程度戯画化され、なかなか辛辣な味もふくまれてゐるのは、日常生活の面白い観察と、俳優が現代の一市民として身につけてゐる生活感覚とが、ぴつたりしてゐる、そこから、人間的な雰囲気も濃く出て来るし、喜劇的なシチュエーションもユーモラスな情景も自然に浮びあがつて来る。つまり俳優が演技以前の素質としてそれぞれの人物のイメージを自分の肉体で掴んでゐるといへるのです。そしてその感覚にはまつたく狂ひがないといふ事である。これがあの映画の面白さといふものをしつかり支へてゐる。あれとおなじやうな喜劇を、むろん日本の現代生活に取材して日本の俳優で作るとしますよ。それはまつたく別のものになつてしまふ。別のものではいけないといふのじやない。あゝいふ種類の喜劇を作らうとしても、別のものになつてしまふ。早くいへば、あんなに、やはらかな、ふくらみのある、明るく健康なものにはならない、といふことがいひたいのです。あのアメリカ映画は、そりや、たいしたもんぢやない。平凡な喜劇といつてもいいのだが、出来あがりは、ともかくちやんと楽しめるやうになつてゐる。ごく大ざつぱにいへば、俳優が、みんな現代の生活人として、健全な生活感覚をもち、映画で現はさうとするものを、新たに演技として工夫する前に、ちやんと自分の生活のなかにもつてゐる、それを間違ひなく、素直に出せばいゝ、といふところがあるのです。では、いつたいどこからさういふ素質といふものが生れて来るかと言へば、人間に対する興味の持方が、はつきりいふと非常に人間的だといふ事から生れて来る。普通の人間が普通に面白がるやうな事がらに対して、日本人は案外無関心です。それが舞台なり、或は、映画なりになにかの形で、影響しないわけはない。俳優がある人物を面白く表現する能力にどこか欠けたところができるわけです。だから「陽気な家族」の中での面白い場面をひろつてみると、日常生活の中から誰でも拾ひ出せる面白さであつて、俳優が特にむづかしく工夫したものではない。そのために、演技の質としては、さういいものではない。けれども、しかしせめてあそこまでは行つてほしいといふものです。新聞広告を出して、ある弁護士の家でハウスキーパーを雇ふわけだが、女と断つてないからといつて、変な男が、鞄をさげて押しかけて来る。その男のタイプがちよつと変つてゐる。変つてはゐるが、やはり、みんなが「なるほどね」と思ふやうなタイプです。それを演じてゐるなんとかいふ俳優が、また、その変つた人物の型をちやんと過不足なく、その俳優のために書かれた役のやうにやつてゐる。その一つの場面をあげると弁護士である亭主がその男にゲンコツを食はせるところがある。いきなりこの鼻づらへダアンと握りこぶしをぶつける。ところが、その男は、表情もかへないですつと顔をよけるんだ。ゲンコツは顔にあたらず、ドアの柱へぶつかる。弁護士は顔をしかめるが、その相手は、ゲンコツをよけておきながら、けろりとしてゐる。そのケロリのしかたがなんともいへず可笑しい。チャップリンなんかも、この味をふんだんに使つてゐるが、西洋の喜劇のひとつのねらひです。さて、日本の俳優にこの味がなかなか出せない。どうちがふかといふと、日本の俳優だと、いつでも、こういふとき、殴られるといふ事実にこだはりすぎる。自分がそれをうまくよけたといふ事実にこだはりすぎる。自然のやうにみえて、実は芝居としては面白くない小うるさい反応を示す。驚いたり、構へたり、ざまあみろといふ風な顔をしたり、わざとお道化て自分の方から笑つてみせたり、なにかしら、さういふ反応を示さないと承知できないところがある。それでは、あんまり、当り前すぎて、喜劇味を平板なものにしてしまふ。相手のやらうとしたことも、自分のしたことも、なんにも気にとめてゐないやうな表情の、この場合、どんなに適切なものかは、すこし芝居のわかるひとにはわかる筈なのです。僕はこのコツを日本の役者にもつともつと参考にしてもらひたいね。この場合にその表現は俳優の演技には違ひない。俳優が全く無意識的にやつたとは思はないが、しかしあれは自然にあゝやりたくなつた、或はやらずにゐられなかつた演技であつて、さういふところがふんだんになんでもなく映画の中に取入れられてゐるといふ事は、西洋の映画と日本の映画との違ひになつてゐる。あの役者は一体うまいのか、それとも当り前の役者なのか、ちよつと区別しにくい、さういふ場合が度々あるでせう。まあ私はあの役者はそんなにうまいとは思はないが……役者として当然出来なければならない事はやつてゐる。早く言ふと水準に達してゐる姿である。だから天才的な俳優が天才的な演技を見せる場合にわれわれの受ける感動といふものはこれとはまた違つたもので、非常に大きな芸術的な喜びを感じるけれども、さういふものの前に、普通の役者が当然出来なければならない水準といふものをわれわれは日本の芝居の場合に考へてゆかなければならないと思ふ。役者ならばここまでの事は当然出来なければならない。それは演技の練達といふよりも、その前に、人間としての健全な生活感覚とでもいふか、豊かな人間的魅力といふか、さういふものをもつと身につけなければならないと思ふ。さういふものが日本の芝居の中では存外お留守になつてゐる所がある。これが現在の芝居をやる場合に、俳優自身も色々不必要な手さぐりもしなければならないし、ことに演出家が余計な事まで役者に指図をして、そして出来あがつた結果が非常にスマートでなく、ギクシャクしたものになる最大の原因だと思ふ。そこでこの問題の根本に入つて来るわけですけれども、役者がある役を受取つて、それをどういふ風に演じ、どうしてその役を面白く活かさうかとあれこれ工夫研究する過程を僕などが想像すると、役者が自分自身にもつてゐるもの以外に、あれかこれかと、眼を配つてゐるやうにみえるのです。つまりその役をやるのに必要な色々の材料を、脚本の中から求めようとするのはまあいゝとして、実際のモデルや、色々な人間のタイプの中からことさら押し出さうとする。平生から、自分の頭のなかに、ちやんと積み重ねられた人間のいろいろなイメージといふものが、実に貧弱だといふ気がするのです。自分が持つてゐる色々のものをまづ選択してそこから、一つの人間の像を作りあげるといふ自信もないらしいし、また、さういふ準備もしてゐないやうです。普通に成長した人間、精神的にまづまづ健康にのび育つた人間ならば、自分の中にかなり色々なものを既に蓄積してゐる筈なんですから、それを少し整理して一つの人物を組立て、それを舞台で活かさなければならない。さうすると結局かういふ事になるわけですね。脚本の中に描かれてゐる人物といふものは、これは一人の人物の型紙みたいなものですね。それを舞台の上に実際に活かし出すことは、文字通り俳優の精神と肉体なんですから、舞台の人物をどんな意味に於いても、ほんとに魅力ある存在にするのは、俳優自身についてゐる一切のものを外にして、いつたい、何があるといふのですか。脚本の魅力は、これは、俳優の力如何によつて、どうにでもなるものだ。つまり俳優が舞台の上で脚本によつかかつてゐる、つまり脚本の力に引きずられてゐるといふ状態では、舞台は決して面白くならない。また、演出者に頼つて、その指図で動いてゐるにすぎない、といふやうな印象を与へる演技といふものは、芝居としての魅力を非常にそぐ。演劇は、もつと脚本とか演出者の意図とか、さういふものを、軽々と掌の上に乗せてやるといふこと、俳優自身が自分の中にある精神的、肉体的要素を、舞台の上で、十分に選択し、整理して見せるといふ所へ、日本の芝居を持つてゆかなければならないと僕は思ひますね。その事はいはゆる俳優が地で芝居をするといふ事とは何の関係もない。それは何故かと言へば地でする芝居といふものは整理も選択もされないのが特色だからです。そこがはつきり違ふ所だと思ふが……地でゆく芝居といふものが、これまで、時によると舞台の上で何か新鮮な魅力を発揮したといふことは、私は役者にとつて、相当長い間年期を入れたいまの俳優にとつて、たしかに頂門の一針だと思ひます……いま日本では俳優が相当長い間年期を入れて、早くいふと、芸がうまくなると、いつのまにか、ある型にはまつて来る。役者になるといふことは、普通の人間なら持つてゐていゝはずの人間的な面白さ、ある種の魅力をだんだん失ふ傾向がある。舞台にゐるといふ意識と、人間生活の表現といふ事実との間に知らず識らず、大きな隙間ができるわけですね。そこで、芝居といふものが、もう一度俳優を中心として、考へられなければならない時代に来てゐると思ふのです。今では、つまり、近世になつて、芝居も他の事業と同様、一つの分業になつてしまつた。私はその分業自体が悪いといふのではない。芝居といふものが興行者、俳優、戯曲家、演出家といふやうな、いろいろな専門に分れてしまつてゐることが、近代の演劇の姿であつて、これで演劇をある面では一歩進めたといふ事は言へるけれども、しかし、この分業の弊が、また、今日ほど甚しくなつたことはないと思ふ。仮に分業でもいゝから、協力が完全に、理想的に行はれゝば、まだいゝのだけれども、それが或る時は縄張争ひになり、或る場合には、一方が一方を押へつけ、その機能を甚だしく阻止する結果になる。こゝがなかなかむづかしいところだが、日本の新劇の歴史をみると、未だ嘗て、俳優が、その占めるべき地位を公平に与へられた例はなく、その余波が今日に及んで、新劇の舞台はなかなか、大人にならない。脚本と舞台のギャップが、いつたいどこから来るかといふと、作者も俳優も、芝居そのものの魅力について、互に、自分勝手な解釈で進まうとしてゐるところから来ると思ひます。演出者も亦、それとおなじです。まあ、僕に言はせると、今や、新劇の舞台といふものは、俳優、演出家、作者それぞれ、自分の受持ちについて、共通の理念がなく、互に責任のなすり合ひみたいなことをして、結局、三者、三スクミの状態だ。個々の俳優について言へば、俳優の芸術の独立性と演劇の中に占める地位について相当強い主張を持つてゐる俳優もあると思ひますけれども、新劇全体については、少くとも僕の見る所では、俳優といふものは非常に何かに頼りすぎてゐて、芸そのものが萎縮してゐる。そこで、順序から言ふと、俳優の領域をもつと推し展げる所へ重点を置く、少くとも戯曲、俳優がもつとしのぎを削る時代になつて、それから今度は、徐々に俳優の芸一色で舞台を塗りあげる。むろん、俳優の芸のなかには、現在作者、演出家の領域と考へられてゐる部分を多量に含ませなければならないが、とにかく、さういふ時代を僕は目指してゐる。つまり、演出、戯曲は俳優の演技の中に吸収されてしまふ。それを僕は理想として頭にゑがいてゐる。少くとも現在の俳優諸君はさういふ意気を持つて、芝居の運命を自分たちが背負つてゆくといふ気持で進んで欲しいと思ひますね。

編 さういふ意気で進む場合に、たゞ俳優が中心だといふ考へ方になつてくれるだけでは具合が悪いんですね。

 さうです。いつでも、人間が自分の力を過信したり、あるひは自分で背負ひきれないものを背負ひこまされるといふ事は結局そのものをゆがめたり色褪せたものにしたりする原因です。早く言ふと、俳優の領域がせばめられるといふ事は、俳優にそれだけの力しかなかつたといふことも言へると思ふ。しかしそこは矢張り微妙な所で……、それでは俳優にそれだけの力がなくなつた原因は何かと言へば、それはやつぱり俳優だけに責任があるのぢやあないと僕は思ひますね。日本の新劇運動といふものが決して自然発生的に出来たものぢやありませんからね。そこにはいくたりかの指導者がゐて、今日まで来てゐるから、その指導者の責任が非常に大きいと思ふ。ですから、ここで今までの指導者に対して、僕は敬意を払ふ半面において、ある程度の批判といふものを加へてゐる。そして次の時代の人たちが、またわれわれの時代に対して批判してもらはなければならないと思つてゐます。かう考へて来ると僕のいま考へてゐるやうな明日の演劇といふ課題は、決して悲観的なものではないのです。

編 いまの俳優中心の場合ですが、中心と言へば変な言ひ方ですが、その中心になるにはさつきからお話になつてゐた、つまり俳優が戯曲の役によつて自分の中にあるものを想ひ出しそして育てゝゆくといふ習慣をもつともつと強くして、さういふ事によつて俳優自身が大きくなつてゆく、育つてゆくといふ事が大切なわけですね。

 実際にはそれも大事な一つの道には違ひない。結局それはしかし一つの道にすぎないでせうね。もつと大きな、根本的な道は、矢張り実際の社会なり実際の人間生活といふものの中から、人間として、また、芸術家としての栄養を取ることだと思ふ。それにはつまり人間生活の中から、当然普通の健康な人間ならば感じとらなければならないやうな要素を、芝居の要素として、どんどんもつと自分の身につけることでせう。

編 これは日本社会全体の風潮からと思ひますが、さつきの意味で日本の役者はふんがいするとか、相手に対して、対応する姿勢、つまりすぐ応待する姿勢、さういふものがいまの日本につきまとつてゐて……相手を観察し周囲を観察する余裕がない……。

 なくなつてゐる。しかしそれは日本人が本質的にもつてゐないものぢやあないですね。やつぱり非常にあわたゞしい最近の日本の社会の移り変りから、自然に気ぜはしくなつて……。これは日本人の本質ぢやあ決してないといふわけは、現在の日本人のさういふ傾向を、日本人自身で味気なく思ひ、それを魅力があるとは思つちやゐないわけだから……。これは、自然に、たゞ受身の立場で、現実の生活の影響だけを受けて育つて来た人間では……それはやつぱり役者になる資格がないといふことですね。

 役者の演技といふものは、どうしたつて、その役者の実生活の延長になるわけですから、演技をいくらあゝしろ、かうしろと言つても、ふだんの生活の中でその人の頭の働かせ方、ものの感じ方に、それだけの素質がなければ、これはもう望みがない。やつぱりさういふ所から一つの革命が行はれなければならない。革命にはちがひないが、さつきもいふとほり、これは、決して、ないものねだりぢやない。日本人のなかにも、もう既に、それだけのものを身につけた人もゐる。たいていの日本人は、さういふものをみんな眠らせてゐるんだと思ふ。外国の芝居や映画をみて、かういふ所が、面白かつたとか、ああいふ所がよかつたといふ場合に、それが俳優の演技についていつてる場合でも、その面白さ、うまさは、きつとたいがいの日本人には判つてゐるにちがひないのだ。それを、自分たちの生活のなかから、ひろひ出す訓練をしてゐない。俳優の場合もさうです。面白いから、あゝやらうと思つても、ちよつとできない。

編 『陽気な家族』のお話ですが、私はみてをりませんが、アメリカでは日常ありさうなもの、人間像にしても、ありさうなものにして見せる力、これはいま岸田さんがおつしやつたいはゆる演技以前のもの、力ですが、さういふものが日本の役者にはありませんね。

 出て来ないね、それは、むろん、アメリカばかりでなくヨーロッパのどこの国にだつてあるが、さういふものをあたかも特別な演技であるが如く日本人は見てはゐないかねえ。専門家でも、うつかりすると、さういふ間違ひをやりかねない。日常的なものを自然に演技の中に取り入れることは、既にそれが演技だと言へばいへるのだが、そいつは、ちよつと違ふんだ。西洋人は、素人でも、舞台に立つ立たないは別として、おのづから身につけてゐる表情の豊かさ、柔軟性と関係がある。さういふ演技以前の日常生活の中でそれを何処かでやつてゐる、その魅力が芝居や映画に出て魅力になるといふ性質のものを日本の役者にも注意してみてもらひたい。それから作家も、舞台といふものを考へた場合に、さういふものは、俳優が適当に自分でやる、それで間違ひはないのだ、といふ、安心感があれば、つまらない些末なことや、余計なセリフなどはぶいて、ぐんぐん人物と人間関係を突つ込んで書ける。また、一方、さういふ日常生活の観察による魅力によつて、戯曲を、普遍的な面白さで包むことができるんぢやないかと思ふ。話がすこし前へもどるけれども、それがアメリカものに限らない例として、いつか見たディトリッヒのなんとかいふ映画で、この時はある俳優と一緒にみたのだが、ディトリッヒの扮する中年近いお母さんが子供に行水をつかはせてゐる。タライでね。子供はなかなかぢつとしてゐない。だから、オモチヤを握らせておくんだが、こんどは、それが、からだを洗ふ邪魔になるもんだから、おッ母さんは、それをひよいと取りあげて、横に置くと子供が手をのばしてそれをつかむ。それをまたお母さんが取り上げて横に置く、子供がまたそれを取らうとする、おッ母さんは、その手を払ひのける。それを、二三度繰り返す。その時のお母さんの科と表情がなんともいへず、いゝ。つまり、実にその年頃のかういふことは毎日やつて平気になつてゐるお母さんなんだ。日本の女優がさういふ場面にぶつかると、まず、自分はお母さんの役だぞといふ意識を表面に出しすぎて、却つて、味をなくしてしまふことが実に多い。そのことばかりにこだはつて、何か特別なことをしようとする。自然でなくなり、ギゴチない結果になる。

編 かういふ言ひ方も出来るわけですね、日本の俳優といふものはやつぱり芝居するといふ観念にとらはれてゐて、舞台の上に、大きな人間像を描き出すことを忘れがちである。さういふ人間像を描くのにどんな演技が必要かといふ事を考へることよりも、目前の芝居の演技にすぐ対応しなければと、……その方に余計、気をとられる傾向がある。さうも言へませんか。

 それはね、俳優の演技だけぢやない。もつと大きく言ふと日本人全体が、さうなんですよ。目先の事しか考へない。つまり全体の中で一つの行動の釣合ひといふものを考へない。その時その時のはづみである観念に囚はれてしまふ。一種の神経質だね。極端なものは立派な神経衰弱だ。それが芝居の演技の中に出て来る。これが芝居をふくらみのない、カサカサしたものにしてしまふ。話をする場合でも、視線を適度にそらすといふ余裕をみせる技術が実に下手ですね。顔を見せ合はないと話をしてゐるやうな気がしないといふ傾向がありますね。背中を向けて話をしろといふ演出家の注文を受けた役者は実にやりにくさうだね。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店

   1992(平成4)年617日発行

底本の親本:「現代演劇論・増補版」白水社

   1950(昭和25)年1125日発行

初出:「悲劇喜劇 第九号」

   1949(昭和24)年101日発行

   「悲劇喜劇 第四巻第一号」

   1950(昭和25)年11日発行

   「悲劇喜劇 第四巻第二号」

   1950(昭和25)年21日発行

   「悲劇喜劇 第四巻第三号」

   1950(昭和25)年31日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2010年95日作成

2011年111日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。