落葉日記(三場)
岸田國士




東京の近郊──

雑木林を背にしたヴイラのテラス


老婦人

アンリエツト


秋の午後──


長椅子が二つ、その一方に老婦人、もう一方に青年が倚りかかつてゐる。それが毎日の習慣になつてでもゐるらしく、二人とも、極めて自然に、ゆつたりとした落ちつきを見せて、静かに読書をしてゐる。

老婦人は、純日本式の不断着、ただ、肩から無造作に投げかけた毛皮の襟巻が、さほど不調和に見えないほどの身ごしらへ、身ごなし。

青年は軽快な散歩服。無帽。


収  (書物が手から滑り落ちるのを拾はうともしないで)少し歩きませう。

老婦人  (書物から目をはなさずに)もうあと二三枚……。

収  (起ち上り、黙つて相手が読み終るのを待つ。が、なかなか済みさうもないので、また腰をおろす)

老婦人  (目をあげずに)静かになさいよ。

収  (漠然と)静かにしてゐます。


長い沈黙。


収  (独語のやうに)あなたほどのお年になられても、まだ、ものに凝るやうなことがおありと見えますね。

老婦人  ……。

収  ものに凝るといつても、そのことに熱中する、つまり、われを忘れてどうかうといふやうなことはおありにならないでせう。やめようと思へば、何時でもおやめになれる……。それをやめないでいらつしやるのは、ただ、ほかになさることがないからなんでせう。少くとも、ほかのことをなさるのと、別に違ひはないからでせう……。さうでせう。してみると……。

老婦人  (相変らず目を伏せたまま)また、うるさいから……。

収  (笑ひながら、しつつこく)ねえ、お祖母さま、あなたは、世の中の人間が、みんな、さういふ風に、老眼鏡をかけ、背中を丸くして、宗教の本を読んでゐれば、それで間違はないと思つておいでになるんでせう。

老婦人  間違がなけれや、どうなのさ。やかましいね、ほんとに……(書物を青年の鼻先につきつけ)これが宗教の本ですか。

収  (聊か拍子抜けがしたやうに)なんだ、アナトオル・フランスか……。La Vie en Fleur……。あんな爺にかかり合つてると、ひどい目にあひますよ。

老婦人  余計なことを言つてないで、用意をなさい。(起ち上らうとする)

収  (それを制して)その前に、お祖母さま、一寸、お話しておきたいことがあるんです。(間)此処でもいいでせう。

老婦人  ……?

収  それぢやどうぞ……(と、老婦人を再び座につかせて)変だな、すこし……?

老婦人  なにさ、早く云つたら……。

収  今、言ひます。かういふ話をする時は、そんなに顔を見ないで下さい。

老婦人  あなたが下を向いてゐればいいでせう。それで、わたしに、どうしろといふのさ。

収  もう御存じなんですか。

老婦人  なにを……。まあ、いいから云つてごらん。


間。


収  お祖母さまは、アンリエツトをどういふ処へお嫁にやらうと思つていらつしやるんです。

老婦人  あのをお嫁にやるのは、わたしぢやない。立派なお父さんがあるんだもの……。

収  しかし、そのお父さんは、外国にばかりいらつしやるし、お母さんが亡くなられてからは、お祖母さまのあなたが、何もかも引受けていらつしやるんでせう。さうすると、結婚のことだつて、あなたが、いいつておつしやれば……。

老婦人  まあ、お待ち……。わたしには、それや、幾分の責任はある。しかし、ただそれだけさ。あのは、自分で自分の道を選ぶやうに教育してあるんです。

収  どうかしら……。

老婦人  なんです、失敬な……。お前こそ、まだ海のものとも、山のものともわからないぢやあないか。今やつてゐる法律なんか、何になるものか。アンリエツトは、あれで、なかなか頭のいいだからね。

収  僕には勿体ない……。お祖母さまは、一体、どういふ男が、お好きなんですか。

老婦人  わたしがかい。

収  (一寸まごついて)お年は別として……。

老婦人  どうして? だから、お前は駄目なんだよ。若いばかりが女ぢやあるまい。笑ふなら云つてあげようか、気障でしやうがない、お前みたいな男は……(怒つたふりをする)

収  (とぼけて)おぐしに松葉がひつかかつてゐますよ。

老婦人  (こだはらずに、取つて棄てる)

収  お祖母さまは、いくつの年にお嫁にいらつしやつたんです。

老婦人  どうして?

収  どうしてでも……。

老婦人  わたしは、早かつた……。十八の春……。アンリエツトの年に、わたしは、もう女学校をすまして、例のパリアニさん、あの人のお母さまのオリガさんのところで、伊太利語の勉強をしてゐたものだ。

収  お祖父さまが、羅馬から迎ひに来て下さるのを待つていらつしやつたわけですね、お祖父さまが、その頃……?

老婦人  お年かい? さあ、兎に角、お前みたいに若くはなかつたよ。口髭を生やして、堂々たる紳士だつたから……。

収  堂々たるはいいな。お祖母さまも、その頃は、楚々たる令嬢で……。

老婦人  あたり前さ。お前のお母さんほどせいは高くなかつたけれど、アンリエツトみたいに、おちびさんでもなくさ……。

収  さうですとも……。その上、乗馬と幅跳びがお得意でね……。

老婦人  (笑ひながら)それはうそ……。

収  ねえ、お祖母さま、あなたが、お祖父さまと御一緒に巴里でお写しになつた写真が、この間、お母さまの手文庫から出て来たんですよ。裾のしぼんだ黒いカアプを、かう、軽くひつかけて……。あれは、ルユクサンブウルでせう、誰かの像の前で、鳩に餌をやつてらつしやるところ……かういふ手つきで……。それを見て、僕は、「へえ」つて云つたきり、そこへすわつてしまひました。

老婦人  そんな写真があつたかね、お祖父さまはどうしてるのさ。

収  お祖父さまは、これはまた、どうかなさればよささうなものを、ステツキを両手で、かう、水平に持つたまま──器械体操でもするやうにね──つくねんと、若い美しいお祖母さまの横顔を見つめておいでになるのです。

老婦人  何を云ふんです。

収  なるほど、髭だけは立派ですね。

老婦人  さうですか。

収  さうです。

老婦人  あの頃の写真は、さうだ、随分長く出して見ないから……。わたしの処にも、そんなのがある筈だ……。へえ! ぢや、あん時だ、きつと……。


長い沈黙。


収  お祖父さまと云ひ、うちのお父さまと云ひ、アンリエツトのお母さまと云ひ、みんな早死をしたんですね。

老婦人  早死をしたね。イヴオンヌなんか、まだ三十にもなつてなかつたんだからね。

収  僕も早死をしさうだな。今度は、まあ助つたやうなものだけれど……。

老婦人  お前は、それがいけないんだよ。すぐに自分を弱いものと決めてしまつて……。

収  決めてやしませんよ。だから、今日だつて、テニスをやらうつて云へば、例の、柔道二段が、君は駄目だつて、やらせないんです。アンリエツトはまた、それをいいことにして、僕の方を振り向きもしないんです。

老婦人  Tu es bête!


長い沈黙。


老婦人  寒くないかい、お前、何も上へ着なくつて……。今日は、風が冷たい。

収  一と月ぐらゐ、すぐたつてしまひますね。(間)ここへ来た時は、まだ白楊ポプラの葉が、こんなに黄色くなつてませんでした。兎に角、もう、病人とは見えないでせう。

老婦人  見えない。だけど、もうあと、一年間は用心をするんだね。また何時かのやうなことがあると……。

収  (急に暗い顔をする)海岸行きを止めて、もう少し、ここにゐたいなあ。


間。


老婦人  寒くさへならなけれやねえ……。何しろ、冬向きぢやないよ、ここは……。

収  どつち道、僕はここにゐない方がよささうですね。

老婦人  どうして?

収  どうしてつて……。お祖母さまは、一番、そのわけを御存じなんでせう。

老婦人  さ、もう、そのことを云ふのはおよし。男らしく、さつさとつておしまひ、ね。お祖母さまもわるかつた。もつと早く、お前の心持ちを酌んで、できるだけのことをすればよかつたんだけれど……。もう、今になつては、どうすることもできない。お前はこれから、どんな幸福でも……。

収  得られるつておつしやるんでせう。僕さへ、それを望めばね。しかし、お祖母さま、僕は、今が一番幸福なんですよ。いいえ、ほんとです。アンリエツトは、まだ時々は僕と二人きりで遊んでくれます。朝の食卓は、毎日僕たち二人だけの為めに用意されてゐるでせう──お祖母さまは、遅くお目覚めですからね。

老婦人  Pauvre garçon!

収  今だつて、御覧なさい、もう日が暮れる、また三人きりになれる。さう思つただけで、気分がこんなに、いいぢやありませんか……。

老婦人  (青年の肩に手をかけ)気分がいいなら、泣くのはおよし。さ、その辺を一と廻りして来よう。

収  ……。

老婦人  さ、お起ち……。


この時、運動服姿の少女が、ラケツトを振りながら、現はれる。


アンリエツト  ああ、喉が渇いた。

老息仰人  もう済んだの。

アンリエツト  だつて、ボールが見えないんですもの、暗くつて……。

老婦人  それや、さうだらう。

アンリエツト  でも、まだ御飯ぢやないでせう。あら、どうなすつたの、収兄さま?

老婦人  シヤトオブリヤンに泣かされたんですつてさ。

アンリエツト  小説を読んでお泣きになつたの? 可笑しいわ。

老婦人  それより、お前、弘さんは……。

アンリエツト  ええ、それがね、お祖母さまのとこへ、左様ならをしに来ようとしてらしつたのよ。さうしたら、そら、あの柿の木を見て、柿を取るつてきかないの。だから、あたし、お祖母さまに伺つて来るから、待つてらつしやいつて、さう云つて来たの。

老婦人  まだ熟してやしないでせう。

アンリエツト でも赤いことは赤いわよ。だから、取つていいこと?

老婦人  ああ、それやいいけれど、怪我をしないやうになさいよ。

アンリエツト  ええ。(行きかける)

収  (起ち上り)僕も取らう(かう云つて少女の後を追ふ)

老婦人  つるやにさう云つて、物乾竿を出してお貰ひ。

収  ああ、さうだ(裏の方へ走つて行く)

老婦人  (叱るやうに)また、走るんぢやありません。


すると、入れ替りに弘が現はれる。


アンリエツト  あら!

弘  もう遅いから、僕、帰りますよ。また叱られちやわ……。

アンリエツト  (つまらなさうに)どうして……。

弘  柿は明日あしたでいいでせう。

アンリエツト  明日でいいでせうつて、御自分で云ひ出したくせして……。

弘  (快活に笑ひながら)さよなら、小母さん(帽子を脱ぐと、いきなり、全速力で走り出す)

老婦人  みなさんによろしく。


弘が去つた後へ、収が竹竿を持つて出て来る。


アンリエツト  (その竹竿を取らうとする)どら、貸して……。

収  君ぢや駄目だよ。

アンリエツト  いや、あたしが取る。

老婦人  アンリエツト!

アンリエツト  (その方をちらと見て、投げ出すやうに竹竿を収の手に渡す)あたしにも取らしてね。


二人姿を消す。


老婦人  (両人を見送つた後、再び書物の頁を繰る)


長い沈黙。


アンリエツトの声  あれがいいわ。もつと、こつち……、そら、そこよ……。赤いのがあるぢやないの……めくらね。

老婦人  (時々声のする方に気を取られるらしい。それでも、すぐに、書物の上に目をおとす、音読をし始める)J'étais loin d'être un beau garçon et le pis est que je manquais de hardiesse. Cela me nuisait auprès des femmes.

アンリエツトの声  まあ。そんなにひどくしちや、傷がついてよ……。あたしに貸して……(間)大丈夫よ……見てらつしやい。

老婦人  (音読する)Car j'estimais que le plus grand péché d'une femme est de ńêtre pas belle.

アンリエツトの声 どうするの。樹へ登るの……。あぶないわよ。

老婦人  (一寸、耳を聳てる。が、すぐに)Je remarquais que dans le monde, beaucoup de jeunes genş qui ne me valaient paş plaisaient et réussissaient mieux que moi.

アンリエツトの声  その枝に、いつぱい赤いのがつてるぢやないの。ええ、その、あなたが乗つてらつしやる枝……。

老婦人  J'ai toujours cru que la seule chose raisonnable est de chercher le plaisir.

アンリエツトの声  (一段声を張り上げて)あら、お祖母さま、あのねえ、収兄さまがね、柿の樹の高い処へ登りました。

老婦人  (顔を上げて、心持ち眉をひそめるが、すぐにまた目をおとし)Il n'est pas difficile de s'apercevoir si un homme est heureux ou malheureux. La joie et la douleur sont ce qu'ou dissimule le moins, surtont dans la jeunesse.

アンリエツトの声  いやよ、いやだつてば……。お祖母さま、収兄さまが、あたしに、渋柿をぶつけます。(はしやいで)そんなことをすると、かうしてよ。


長い沈黙。


老婦人  Ils étaient jaloux, haineux, ambitieux. Jétais indulgent et paisible; j'ignorais ĺambition.

アンリエツトの声  あら、いいの、そんな無茶なことをして……。

老婦人  Il ya de ces passions violentes qui font les grands hommes et dont je ńavais pas ĺétoffe.

アンリエツトの声  お祖母さま、収兄さまがね、柿を皮ごとたべますよ……。よろしいんですか。ずるいわ、そんな……。

老婦人  (だんだん、落ちつかぬ様子を示しだす。目を書物から放し、時々、声のする方を見る)

アンリエツトの声  お祖母さま。

老婦人  なんです、やかましい。

アンリエツト  お祖母さま、あのね(姿を現はす)あのね、収兄さまがね、柿の樹の上でお昼寝をするんですつて……。目をつぶつて、腕組みをして、てるの。いくら棒でつツついても、起きないわよ。

老婦人  いたづらするんぢやありませんよ。もう降りるやうに、さうお言ひ……。

アンリエツト  (笑ひながら去る)

老婦人  (しばらく黙読を続けてゐる)

アンリエツトの声 収兄さま、早く採つて頂戴よ、暗くなつてよ。(間)いやね、もう少し左、左よ、左だつたら……。それや、右ぢやないの……。そこよ、手がさはつてるのにわからないの、それ、それ、ええ、それよ。

老婦人  (再び音読を始める)Mais ce dont je m'aperçus après une longue observatioņ ćest que le désir embellit les objets sur lesquels il pose ses ailes de feu, que sa satisfactioņ décevante le plus souvenţ est la ruine de ĺillusioņ seul vrai bien des hommes.

アンリエツトの声  もういいわ、それくらゐで……。ほんとに、いいのよ、もう沢山……。(声がふるへる)もうよして頂戴……、そんなに上は、あぶなくつてよ、ねえ、収兄さま、もういいつて云ふのに……(泣声になる。急に、高い声で)お祖母さま、収兄さまが、云ふことを聴きません。ずんずん高い処へ登つて行くんですよ……細い枝のところへ……。

老婦人  (びくつとする)収、もういい加減にしないかい。


長い沈黙。


アンリエツトの声  それ御覧なさい。(間)え! みんなで……? 随分あるわ……。い、う、い、お、つ、う、ななあ、こことを、十一、十二……十三……

老婦人  (また、読む。今度は、やや、高い調子で)

O Thébains! Jusqúau j'our qui termine la vie

Ne regardons personne avec un oeil d'envie.

Peut-on jamais prévoir les derniers coups du sort?

Ne proclamons heureux nul homme avant sa mort.

アンリエツトの声  あら、どうするの、そんな上へ登つて……収兄さま、駄目よ、駄目よ、その枝は駄目、……後生だから、降りて……。

老婦人  (此の時、突然何かに悸えたやうに、書物を放した手を、痙攣的に、口のところにもつて行く。そして、アンリエツトの「あツ、あぶないツ!」といふけたたましい叫び声が聞える前に、もう立ち上つてゐる)


──幕──




老婦人

アンリエツト

一枝

つる


翌年の三月下旬の朝──


前と同じ長椅子が二つ、その一方に老婦人、もう一方にアンリエツトが倚りかかつてゐる。

二人とも、読みかけの書物を膝の上にのせたまま、黙つて、何か考へてゐる。

少女は喉に湿布をしてゐる。


老婦人  もうぢき本郷のお叔母さまが見えたら、御挨拶だけして、すぐあしたのおさらひをするんですよ。

アンリエツト  ええ、でも、十時には弘さんがいらつしやるのよ。

老婦人  今日は、まだ、テニスはいけません。

アンリエツト  どうして……?

老婦人  どうしてつて、お前、やうやく熱がとれたばかりぢやありませんか。

アンリエツト  ぢや散歩は……?

老婦人  今日、一日、ぢつとしておいで、ね、好い子だから……。この次の日曜は、テニスでもなんでもなさい。弘さんには、蓄音機でも聴かせておあげ……。

アンリエツト  あの方、蓄音機なんかお嫌ひよ。

老婦人  そいぢや何が好きなのさ。

アンリエツト  あたしの声を聞くのが好きなんですつて……。

老婦人  (可笑さをこらへて)お前の歌かい?

アンリエツト  歌でもなんでもよ。あたしが黙つてると怒るわよ。

老婦人  「怒る」とはなんです。

アンリエツト  お怒りになります、そいぢや……。

老婦人  やれやれ……。お前のお相手には持つて来いの人だ。ぢや、お祖母さんには、後生だから、もう少し黙つてておくれ。お前と一緒にゐると本なんか読めやしない。

アンリエツト  だつて、お祖母さまは……。

老婦人  もう沢山……。口を縫ひつけとくから……。

アンリエツト  (唇を結んだまま──口を縫はれたつもりで──声を立てて笑ふ)

老婦人  (それには相手にならずに、書物の頁をくる)


長い間。

つる現はる。


つる  お手紙が参りました。

老婦人  (手紙を受け取り、開封する)本郷へ電話をかけてね、もう奥さんはお出掛けになつたかつて聞いてごらん。

つる  はい。(去る)

老婦人  (手紙を読む。手紙は外国郵便である。可なり長文である。それは、身内の者からの懐しい便りに相違ない。それはまた、ある重大な意味を含んだものでもあるらしい。そして、最後に、いろいろな云ひ知れぬ感動を、読むものの心の隅々に残すものでなければならない)

アンリエツト  (この間、祖母の顔色と、その心持ふるへてゐる手先に、不断の注意を払つてゐる。つひに堪りかねて)お父さまからでせう。

老婦人  (黙つてうなづく)

アンリエツト  (雀躍して)なんて……。あたしには……。

老婦人  (手紙の頁を一枚一枚あらためて見る。封筒の中をのぞく)御免、御免、これがさうだ……。さ、あつちへ行つて、ゆつくりお読み……。

アンリエツト  どうして、此処で読んぢやいけないの。

老婦人  此処でもいいさ……。少し、静かにして……。(読みつづける)

アンリエツト  (これも夢中になつて、手紙を読む)

老婦人  (一度読みをはつて、更に読み返す)


つる現はる。


つる  あの、本郷の奥さまは、もう一時間ばかりまへにお出掛けになつたさうでございます。

老婦人  ああさう。ぢや、もう見える時分だから、用意をしてね。

つる  はい。(去る)

老婦人  (手紙を封筒にしまひながら)お父さまから、なんて?

アンリエツト  一寸待つて頂戴よ。むつかしいことが書いてあるの、あたし、わからないわ、ここんとこ……。

老婦人  読んでごらん。

アンリエツト  いやあよ。

老婦人  おや、お祖母さんにも……?

アンリエツト  だつて……。ぢや、お祖母さまのところへは、なんて……? あたしのこと書いてある。

老婦人  書いてあるとも……。お前のことばかりさ。

アンリエツト  ほんと? 何か、あたしのこと、云つておあげになつたんでせう。ひどいわよ、お祖母さまつてば……。

老婦人  どら、読んでごらん。

アンリエツト  ぢや、あたしがいいとこだけね。……──「十一月二十日出の手紙、旅をしてゐたので、今日やつと受け取りました。字も文章も、だんだん上手になつて……」──いやなお父さまね、ここはいや……──「あの写真で見ると、ずゐぶん肥つたやうだが、なかなか可愛らしい……」──お笑ひになるから、いや。駄目だわ、どこを読んでも……。

老婦人  そんなことばかり云つてないで、みんな読んだらいいぢやないか。

アンリエツト  ぢや、ここだけね。──「収さんはお気の毒なことだつた。その場にゐたお前もさぞかしびつくりしたらう。止めても聴かなかつたと云ふのだから、お前に罪はないわけだが、一緒に遊ぶときは、誰とでも、よく気をつけないと、さういふ取り返しのつかないことになる。お前に怪我がなくつて、まあ、よかつたが、木登りなんか、女の子はしない方がいい」──しない方がいいですつて……。

老婦人  (目に涙をためて)収のことはそれだけ……?

アンリエツト  ええ、それから、ここは飛ばしてと……。

老婦人  どこを飛ばすのさ。

アンリエツト ──「この次は仏蘭西語で手紙を書いてごらん。お祖母さまに直していただかないでだよ」おつと……読んぢやつた。


この時、つるに案内されて、一枝が現はれる。喪中に相応はしい日本服。


一枝  お変りはいらつしやいませんか。

老婦人  ありがたう。あんたこそ……。

一枝  御勉強? アンリエツトさん。

アンリエツト  (会釈)

一枝  お風邪はいかが……。もう、およろしいの。

老婦人  家に引込んでるのが嫌ひなで……しやうがないんだよ。よく、早く出て来られたね。

一枝  でも、楽しみにしてゐたんですもの。(あたりを見廻し)一箇月ぶりですわね。すつかり春らしくなつて……。

老婦人  ぢや、あつちへ行かうか。

一枝  いいえ、ここがよろしいの。(椅子を引き寄せる。すわる)

アンリエツト  ぢや、叔母さま、御ゆつくり……(去らうとする)

一枝  あら……どこへ?

老婦人  あんまり長く外にゐると、またなんだから……。あとで、呼んであげます。

アンリエツト  (去る)

一枝  もう大丈夫だと思つてゐましたのに、此処へ来ると、やつぱり……(目にハンケチを当てる)

老婦人  それや、さうだらう。


長い沈黙。


一枝  柿の木、もうお伐らせになりましたのね。

老婦人  あれで、なかなか手間が取れたんだよ、運び出すのに……。まる一日がかりだつた。倒したのを見ると、随分、大きな樹さ。根も掘り出して、持つて行かせたの。あの跡には、収の好きだつた「もつこう薔薇」でも植ゑようかと思つて……。

一枝  ……。

老婦人  わたしも、秋から、すつかり老い込んでしまつた。

一枝  そんな心細いことをおつしやらないで下さい。お母さまは、あたくしなどよりは、ずつとお元気ですわ。お楽しみがおありになるせゐでせうね。

老婦人  楽しみつて、あんた……。

一枝  あたくしなんか、その後、本を読む気もしませんもの……。

老婦人  それはまた、別さ。わたしのは、これや、病気だもの。

一枝  そんな御病気なら結構ですわ。でも、こんなことぢやいけないとは思ひますの。近頃、また、更紗を描いてみてるんですのよ。碌なものは出来ませんけれど、あれでまあ、暇潰しにはなりますから……。

老婦人  それはいい。こんだ、見せて貰ひに行かう。それから、もつと気の晴れるやうなことしてみるんだね。もう、テニスなんか、駄目かね。

一枝  あたくしがですか。おやおや、どんな恰好でせう。

老婦人  恰好なんかどうだつて、やつぱり気持を明るくするのは、運動に限るやうだね。

一枝  ……。

老婦人  音楽なんかも、いいだらうけれど、あれは、また、自分で自分に強ひることができないから……。

一枝  さうですわ……。多少、機械的にでもできることでなければね。

老婦人  相手がゐてくれるといいんだよ。


長い間。


一枝  相手がゐてくれるといいんですわ。どんな相手でも……。


長い間。


老婦人  収なんかも、病気のせゐもあつたらうけれど、何か運動のやうなことをしてゐる時だけだつたからね、快活らしく見えたのは……。

一枝  あの子は、運動は、あんまり好きぢやなかつたんですけれどね……。

老婦人  それが、やれば、ああなるんだから……元気さうに……。面白さうに……。

一枝  アンリエツトさんと一緒だつたからでせう、それは……。

老婦人  そればかりぢやないよ。


長い沈黙。


一枝  子供の時から、木登りなんか、ただの一度だつてしたことはないんですけれどね。全く不思議なくらゐですわ……。あの日に限つて……なんだつて、また……。

老婦人  もう、それを云つたつて、仕方がないさ。(手紙を見せながら)今、晃からも云つて来たんだけれど……。

一枝  お兄さまは、もう御存じなんですの。

老婦人  あの知らせを読んだのが、二月二十日と書いてある。──冬の間、アルヂエリヤの方をまはつてゐたらしい。

一枝  よく旅にお厭きになりませんわね。

老婦人  あれから、もう十年、地中海のぐるりを歩きまはつてゐるんだからね。──娘の大きくなるのも見ずに……。

一枝  お独りでね。

老婦人  ……。

一枝  アンリエツトさんをお呼びにならうとはなさいませんの。

老婦人  若い娘が、旅で一生を送る考古学者についてまはつても仕方があるまい。以前のやうに、巴里に落ちついて、研究をしてゐるんなら別だけれど……。


長い沈黙。


一枝  あたくしね、昨日、本棚の整理をしてゐましたら、収の日記を見つけましたの。

老婦人  日記をつけてゐたのかい、あの子……。

一枝  飛び飛びなんですけれどね……。どの日附を見ても、Hがどう云つたの、Hがどうしたのつて書いてありますでせう。Hつて誰かと思ひましたら……。

老婦人  アンリエツトのことだらう。

一枝  ええ。あたくし……始めて知りましたの。


間。


老婦人  Pauvre garçon!


長い沈黙。


一枝  ちつとも、気がつきませんでしたわ。(間)──随分苦しんだらしいんですの。

老婦人  よく黙つてゐてくれたよ。──自分でも、いろいろ考へてゐたらう、出来ない相談だと云ふことを……。

一枝  従兄妹同志ですけれどね……。

老婦人  それにしてもさ……。よく黙つてゐてくれた……。

一枝  ええ。

老婦人  それに、アンリエツトは、あの通り勝気な娘だから、収にはどうかね。今更、そんなことを云つたつて始まらないけれど……。

一枝  西洋人の血が交ると、ああなるもんですかね。

老婦人  なにがさ。

一枝  いいえ、気性がね。

老婦人  気性は、あんた、お父さん似だよ。

一枝  さうでせうかしら……。さう云へば、収もお父さん似ですわね。

老婦人  あんたのとこのは、弟のくせに、誰からでも兄さんと間違へられるほど大人しかつた。やつぱり、早死をする子さ。──さういふことを、つくづく、此頃、思ふやうになつたよ。(ボンボンを一つ口に入れ)どう、一つ……。いいボンボンだよ。

一枝  ありがたう、たくさん……。


この時、奥から、蓄音機で、マスネエのエレジイが聞えて来る。


一枝  どなたか来てらつしやるんですの。

老婦人  弘さんだらう。アンリエツトのテニスのお相手でね、なかなかしつかりした青年だよ。

一枝  ああ、何時か、いらしつた、あの元気のいい……。

老婦人  少し仲がよすぎるやうだけれど、まあ、まあ……(微笑)

一枝  (これも、強ひて、笑顔をつくり)さうですわ。──なかなかね。


長い沈黙。


老婦人  晃も、無頓着なやうで、やつぱり、残して行つた娘のことは気になると見えて、今日なんかも、先々のことを、色々相談して来てゐるんだがね。──わたしも先は見えてゐるんだし、かうして手許へ置くのも、少し気がかりになり出したよ。

一枝  ……。

老婦人  その時になれば、どうかなるとは思ふんだが……やつぱりね。

一枝  ……。

老婦人  イヴオンヌは、どうしてか日本の気候に慣れないで、たうとうあんなことになつてしまつたけれど、母親の無い女の子は可哀さうだね。「ありがたう」と「今日は」といふ言葉を覚えに、遥々海を渡つて来たやうなものだつた……アンリエツトのお母さんは……。

一枝  ほんとですわ。

老婦人  今日は、どうしてまた、こんな話ばかりするんだらう。

一枝  あたくしの滅入つた顔を御覧になつたからですわ。来るときは、それは晴れ晴れした気持で出かけて来るんですのに……。


室内に慌しい足音が聞えると、急に、窓のカーテンが開く。アンリエツトの姿があらはれる。


アンリエツト  ここから御免遊ばせ。あのね、お祖母さま……弘さんが急に大阪へいらつしやることになつたんですつて……。

老婦人  なんだつてさ……。

アンリエツト  どうしてですか。

老婦人  へえ。弘さんに、ここへいらつしやいつて……。

アンリエツト  (走り去る)

老婦人  アンリエツトの顔を見たかい。

一枝  (うなづく)


蓄音機が止る。──弘、アンリエツトと共に現はる。


老婦人  ほんと、大阪へいらつしやるつて……。

弘  (一枝と老婦人に会釈した後)今朝おやぢから云ひ渡されたんです。出し抜けなもんだから、面喰つちまひました。

老婦人  大阪へは、お勤めの口がきまつたんですか。

弘  それもあるんですけれど……。ええ、まああさうなんです。

老婦人  それはおめでたう。会社? 銀行?

弘  さあ、どつちへ廻されますか。はじめ、いろんなことをやらされるらしいんです。

老婦人  実地研究といふわけですね。大阪には、お知合ひがおありになるんでしたね。

弘  ええ、おやぢが心易くしてゐる人で、いろんな事業に手を出してる人なんですがね……。その人のうちへ、まあ、預けられるわけなんです。

老婦人  それで、何時、おたち?

弘  それが可笑しいんです、この月曜なんですつて……。服を作るひまもないんですからね。

老婦人  この月曜つていふと、(指を祈り)あと四日ですね。前から、ちつともお話はなかつたんですの。

弘  僕が行くことですか。それが、前から、僕をくれつていふ話だけはあつたんです。

老婦人  おや、お養子にいらつしやるんですの。

弘  ええ、まあ、早く云ふと、さうなんです。


このあたりから、アンリエツトは、今にも泣きだしさうな表情になる。


老婦人  (この様子を見てとつて)アンリエツト、あつち行つてね、つるやに、お昼の用意はどうか聞いておいで……。もうぼつぼつかかるやうにつてね。

アンリエツト  (縛めを解かれた小羊のやうに走り去る)

一枝  失礼ですが、向うのお嬢さんは……?

弘  (手真似で)これつぱかりの子供ですよ。

一枝  でも、あなたが、まだお若いから……。それや、お楽しみですわね。

弘  (笑つてゐる)

老婦人  まだお決まりになつてるわけぢやないんですね。

弘  まあ、決まつたやうなものです。考へたつてしやうがありませんからね。その代り、いやだつたら、何時でも出て来ますよ。

一枝  まさか……。

老婦人  そのお嬢さまとは、もう何遍もお会ひになつてるんでせう、きつと……。

弘  二度……三度……でしたかな。だつて、十六なんですよ。

老婦人  可愛らしい奥さまができるでせう。

弘  すぐ結婚しやしませんよ。

老婦人  (笑ひながら)それや、さうでせう、どうしたつて……。

一枝  (笑ふ)

弘  (頭を掻きながら)養子つて、いやなもんですつてね。

老婦人  さうとも限りませんわ。ぢや、なんですね、東京へは滅多に出ておいでになれませんね。

弘  (快活に)出て来ますよ。アンリエツトさんがどうしてるか、見に来なくつちや……。

老婦人  (一枝を顧み)まあ……それは、それは……。

弘  当分は日本にいらつしやるんでせう。

老婦人  ゐますとも……。わたしをはふつて、何処へ行くものですか。ねえ、一枝……。

一枝  (目で笑ひながら、うなづく)

弘  (少しまごまごして)それでも、また、お父さまの御都合で……。

老婦人  あ、それは、どうなるか、わかりません。どうせ、何時か、わたしは、一人きりになるでせう。

一枝  あたくしがゐますわ。(弘に)ねえ。

弘  さうですとも……。

老婦人  一人になるのが寂しいと思つたのは、もう五六年も前のことですよ。

一枝  あたくしなんか、お母さまのやうには、なれませんわ。

弘  僕の母も寂しがりで、今朝から泣き通しなんです。

一枝  やつぱりね。下がおありにならないから……。

老婦人  なあに、子供は親のことなんか考へてやしないからね。

一枝  ……。

老婦人  行きたい処へは、さつさと行くし……。死にたい時には、さつさと死ぬし……。

一枝  (寂しい微笑)

弘  いやだなあ、小母さんは、皮肉で、……。

老婦人  (笑ひながら)日曜毎に、テニスをしにいらしつた家を、お忘れになつちやいけませんよ。

一枝  (これも、強ひて笑顔を泛べ)それから、柿の木から落ちて死んだ男の子のゐた家をね。

老婦人  さう。

弘  (面を伏せ)忘れません。

老婦人  アンリエツトも、これから、テニスのお相手がなくつて、寂しがるでせう。


この時、突然、窓のかげで、アンリエツトの啜り泣く声が聞える。一同、その方を見る。


老婦人  (異様に緊張した表情で)弘さん、それぢや、今日は、お話はこれだけにして置きませう。おたちになる前に、もう一度いらしつて下さい。お別れに、お茶でも飲みませう。アンリエツトは、少し気分が悪いやうですから、失礼させて頂きます。

弘  はあ、では、御免下さい。いづれ、また……(会釈して去る)


沈黙。


老婦人  アンリエツト……(返事がない)アンリエツト……(静かに起ち上り奥にはひる)


やがて、彼女は、アンリエツトの肩に手をかけ、いたはるやうにして現はれる。


一枝  どうしたんですの。

老婦人  (元の座につき、アンリエツトを膝の上に抱きながら)泣くひとがありますか、そんなことぐらゐで……。

アンリエツト  (恥かしさうに老婦人の胸に顔を埋める。が、何を思つたか、急に、其処を離れて、奥へ逃れ去る。階段を駈け上る足音)

老婦人  (あつけに取られて、一枝と顔を見合せるが、不図、或る予感が頭をかすめたらしく、急に席を起つ。しかし、思ひ直して、今度は、足音を忍ばせながら、静かにアンリエツトの後をつける)

一枝  (独り取残された形で、無意識に席は立つたものの、ぽつねんと、二階の上を見上げてゐる)


長い沈黙。


暫くして、老婦人が相変らず足音を忍ばせながら現はれる。極度の不安から解放された時の、やや疲れたらしい顔つき。


一枝  大丈夫ですの。

老婦人  なにが? アンリエツトかい。(それに答へず)やつぱり、いけなかつたね。

一枝  でもね……。さういふもんですわ。

老婦人  (溜息をつき)またかと思つた。

一枝  え? またかとは……?

老婦人  さうだ……泣きたいだけ泣くがいい。女は……、若い女は、涙と一緒に悲しみを流してしまへるんだからね。


──幕──




老婦人

アンリエツト

つる

医師


その年の秋の午後──葉の落ちつくしたポプラ。


窓が開いてゐる。室内は、よくは見えないが、ただ、老婦人が、忙しさうに出たりはひつたりしてゐる様子が見える。

アンリエツトの、「お祖母さま、一寸、いらしつて……」といふ声が二階から聞える。

つるが、家から出たりはひつたりする。

やがて、外出の服装をしたアンリエツトが先に立ち、老婦人、続いてつるが現はれる。


老婦人  (時計を見ながら)まだ少し早いね。今から行くと、一時間も待たなくちやなるまい。

アンリエツト  少し早いめに行つた方がいいことよ。叔母さま、五時に向うに行つてらつしやる筈よ。

老婦人  あ、さうさう、お父さんは、お前にキツスをなさるかもしれないから、びつくりしちや駄目だよ。

アンリエツト  キツスなんかなんでもないわ。あたし、お父さまがお立ちになる時のこと覚えてるの。お髭が痛くつて、どうしようかと思つたわ。お祖母さまはなさらないの。

老婦人  お祖母さんもしたいんだけれど、これは、お父さんの方で、びつくりするだらう。


かう云ふと、急に、片手を額にあて、もう一方の手を、アンリエツトの肩に支へて、ひよろひよろツと前にのめらうとする。アンリエツトと、つるが、慌てて、抱き止める。


アンリエツト  お祖母さま、どうなすつたの。

つる  御隠居さま……。


両人は、老婦人を、長椅子に倚らせる。


つる  お医者様をお呼び致しませうか。

アンリエツト  一寸、電話をかけて……溝口先生のとこね……早くよ……。

つる  (走り去る)

アンリエツト  (泣き声で)お祖母さま、御気分がおわるいの。何かお薬は……?

老婦人  (力なく手を振る)

アンリエツト  (老婦人の額に手をあて)おつむり、下げていらしつた方がよくはありませんの。

老婦人  (角の立たないほどに)お前が、あんまりせかすからさ。(間)──心配しないでいいよ。


長い沈黙。


アンリエツト  あつち、どうしませう。

老婦人  もう少し休んで……。すぐなほるだらう。


つる現はる。


つる  今すぐお見えになります。丁度、お出かけにならうとしてらつしやる処でございました。

老婦人  なに、一寸眩暈がしただけさ。お医者さんなんか、よかつたのに……。少し喉がかわくやうだから、熱いお茶を一杯入れて来ておくれ。

つる  はい。(去る)

アンリエツト  今日は、いらつしやらない方がよくはないこと?

老婦人  なあに、大したことはあるまい。──わたしが迎ひに行かないつて法はないよ。

アンリエツト  でも、かうやつてると、遅くなりやしないかしら……。

老婦人  うるさいだね、大丈夫、時間はあるつて云つてるぢやないか。──お前だけが待ち遠しいんぢやありませんよ。お父さんだつて、お前一人がお迎へに出てゐても、およろこびになりはしないよ。


長い沈黙。

つる、茶を持つて来る。


老婦人  (静かに、茶を飲む)応接間を綺麗に片づけてね。それから、食堂の電球を取替へておくこと、忘れないでね。

つる  はい。

老婦人  (自分で脈をみながら、独言のやうに)年を取ると意気地がなくなるね。──御免よ、アンリエツト。お祖母さんは、今、少し意地の悪いことを云つたね。さうぢやない。お前のお父さんは、お前の顔を見に帰つてらしつたんだ。だから、お前が一番にお父さんの前に出て、「お帰りなさい」つて云ふんですよ。さうしたら、何んておつしやるだらう。お父さんは、先づお前を両手で抱いて、「よく長い間おとなしくお留守をしてゐたね」つて……。それから、お前の頬をさすりながら、「お母さんそつくりになつた」つておつしやるだらう。(間)つるや、もうここはいいから、早く晩の支度をしておいで……。よしやはまだ帰らないかい。

つる  はい、まだ……。あの人はお使ひが遅いんで困ります。

老婦人  お前だつて早い方ぢやないよ。さ、お医者さんが見えたら、ここぢやなんだから、上へ上らう(時間を見て)まだ二十分は大丈夫……。(起ち上らうとするが、また椅子に倚りかかる)をかしいね、どうもまだいけない。

アンリエツト  もう少し、このままにしてらしつた方がいいことよ。(外の方を見る)お苦しいんですの。

老婦人  いいや、かうしてれば、どうもない。──誰か、このまま、そつと、東京駅まで連れて行つてくれるものはないかしら……。

アンリエツト  (面白がつて)椅子ごと?

老婦人  ああ、椅子ごと担いで……。なんだと思ふだらう、みんな……。

アンリエツト  人がたかつて来るわね。

老婦人  息子の帰りを出迎へに来た、年取つた母親の、惨めな姿だと知れば、笑ふものもあるまい。どら、その襟巻を取つておくれ。

アンリエツト  (老婦人の肩に毛皮の襟巻を着せかける)

老婦人  かうしてると、裾が寒い。何かかけるものを……。

つる  (奥にはひる)

アンリエツト  そんなにお動きになつちや駄目よ。

老婦人  お前も、そこへ掛けたらどう。立つてちや草臥れるだらう(アンリエツトの、帽子からはみ出てゐる髪の毛を直してやりなどする)お前にこの帽子は一番よく似合ふね。どれ、あつちを向いてごらん。よし、よし……。お父さんに会つたら、なんて云ふの。

アンリエツト  (云ひにくがつて、からだをひねる)

老婦人  なんて云ふのさ。──黙つて、さうしてるのかい。

アンリエツト  ほかに沢山人がゐるの。

老婦人  さあ、どうだか……。誰にも知らせなかつたかもしれないね、あの人のことだから……。尤も新聞には出てゐたんだから、帰つて来ることは知つてても、着く時間なんかわかるまいしね。昔のお友達やなんかとは、どうなつてゐるんだか……。

アンリエツト  でも、お父さまは、有名な学者なんでせう。

老婦人  仏蘭西ではね。それが却つて、日本の学界に容れられない理由らしいね。収のお父さんなんかは、あれで、三十そこそこで博士になつたんだけれど、お前のお父さんからは馬鹿にされてゐた。学問の系統が違ふと、ああまで排斥し合はなくつちやならないのかね。

アンリエツト 収兄さまのお父さまは、人類学の方でせう。

老婦人  ああ、さうだ。それや、アルケオロオグとしちや、お前のお父さんは、世界でも、第一人者だよ、今ぢや……。


つるが、羽根蒲団を持つて来る。


つる  (それを着せながら)あの、先生がお見えになりました。

老婦人  それぢや、失礼ですが、こちらへつて……。


つる去る。やがて、医師を案内して来る。


医師  どうなさいました。

老婦人  (元気を装つて)いえ、なんでもないんでございますよ。一寸眩暈がいたしましたの。此間中からの疲れが出たんでございませう。

医師  ははあ、今日は、いよいよ、お着きの日ですな。今、お出掛けのところだつたんですか。

老婦人  はあ、丁度出掛けようとして、ここまで参りましたら、ふらふらつといたしましたものですから、かうやつて、休んでをりましたんですの。

医師  ここぢや御窮屈でせう。まだ、ふらふらなさいますか。

老婦人  今、ここぢやあんまりだと思ひまして起ちかけたんでございますけれど、なんですか、まだ……。

医師  (脈をとりながら)ははあ……。

老婦人  何時か、かういふことがあるだらうと覚悟はしてをりましたんですけれど……。

医師  覚悟は大袈裟ですな。いや、大したことはありません。

老婦人  例のぢやございますまいか。

医師  いや、いや、それとは違ひます。やはり、軽い脳貧血でせう。大分、お気をお使ひになりましたらうからな。

老婦人  ええ、もう二度とないことでございますから……。

医師  お舌を一寸……。は、結構……。(瞼などを見たる後)それでは、お胸をざつと拝見して置きませう、念のために……(胸に聴心器をあてる)たしかなものです。御心配はいりません。ですが、今日は、安静になすつていらしつた方がいいでせう。

老婦人  無理でございませうか。

医師  御用心をなさるに越したことはありませんな。私が伺つた以上は、お止め申すより外はありません。

老婦人  少しぐらゐの無理なら……。

医師  それがいけません。平常ふだん、人並はづれて御養生家でいらしやるのに、今日はまた……。それや、特別のなんでせうが、一つ御辛抱を願ひます(頭を掻きながら)驚きましたな、どうも……、奥さまに、私から、こんなことを申し上げなけれやならないなんて……世の中も変れば変るものです。

老婦人  から、意気地がございません、かうなりますと……。

医師  お察しします。

老婦人  (涙をふきながら)諦めませう。アンリエツト、それぢや、お前、一人で行つておいで……。行けるね。本郷の叔母さまを見つけてね、一緒にお父さまを探してお貰ひ……。つるやを連れて行くかい。

アンリエツト  いいわ。

老婦人  途中は大丈夫だね、いや、やつぱりつるやを連れておいで。

アンリエツト  いいのよ、お祖母さま。東京駅なら、わかるわ。

老婦人  さうかい。本郷の叔母さまは、婦人待合室で待つてらつしやる筈だからね。時間はまだゆつくりだから、慌てないでもいいよ。

アンリエツト  お父さまは、どんな服を召していらつしやるかしら……。

老婦人  さあ、それはわからない。お前、お顔をよく覚えてないんだね。叔母さまは、いくらなんだつて、覚えてる筈だ。(考へて)ぢやね、かうするといい。──この写真を持つて行つて、見くらべてみるさ、汽車から降りる人の顔を一々……(さう云つて、笑ひながら、頸にかけた鎖を外し、アンリエツトの頸にかけてやる)

アンリエツト  (その写真を一つ時見つめてゐる)

老婦人  鼻の横に大きなホクロがあるから、それを目標めじるしにしてね(医師に笑ひかけ)丸で昔の「親を尋ねて」みたいですわね。叔母さまが訊いたら、一寸気分がわるいのでつて云つておくれ。お父さんにも、出がけに眩暈がして倒れたなんて云つちやいけませんよ。さあ、あんまり遅くならないうちに、出掛けなさい。(つるに)運転手は、何処かへ行つてやしないかい。

つる  (走つて外に出る)

アンリエツト  (いそいそと)行つて参ります。(走り去る)

老婦人  (黙つて、それを見送る)


長い沈黙。


医師  お嬢さんを御覧になるのがお楽しみでせうな。

老婦人  倅でございますか。ええ、それや、もう……。年寄なんか、こちらでいくら待つてゐましても……。

医師  なに、それは、また、別ですよ。


長い沈黙。


老婦人  去年の今頃も、先生がかうして駈けつけて下さいました。

医師  ああ、さうさう……。しかし、どちらも、違つた意味で、私が不必要でしたな。──あの時は、全く、手の下しやうがありませんでした。

老婦人  あたくしが、ここに、かうして、書物を読んでゐましたんですよ。

医師  さうでしたか。お驚きになつたでせう。

老婦人  変なものですわね。あの子が──収つて申しますんですが──柿の木へ登つて柿を取つてゐることは知つてゐたんでございますよ。危いことをする、早くやめてくれればいい、さう思ひながら、つい、止めることもせず読む方にばかり気を取られてゐたんでございませう。

医師  よくあることです。たしか、お嬢さんもその場にいらしつたんでしたな。

老婦人  あれが何か、大きな声で、しきりにあたくしに云ひつけてをりますのが耳にはひりながら、どうしたと云ふんでせう……あれで、一度か、二度、注意はしたと思ひますんですけれど……。

医師 どうも怪我といふものは、こいつ、予め、なんとするわけにも行きませんしな。

老婦人  それがね、後から考へてみますと、ただの怪我ぢやないらしいんですの。こんなこと、申し上げていいかどうか存じませんけれど……。

医師  いや、それは伺ひますまい。医者はただ、与へられた場合の処置さへ講じればよろしいのです。立ち入つたお話は、お互のためによくはありますまい。それに、あまり、また、お話が過ぎると、お疲れになりますから……。もう暫く、かうしてゐて、お部屋へお連れしませう。大分、冷えて来ました。

老婦人  あの柿の木は、その後、伐らせてしまひましたの。

医師  伺ひました。

老婦人  その跡へ、「もつこう薔薇」を植ゑさせましたんですけれど、よくつかないらしいんですの。収といふ子が、あの花が好きでしてね。

医師  はあ。(脈をみる)


長い沈黙。


老婦人  なんですか、胸騒ぎがして……。

医師  (黙つて脈を見つづける)


つるが現はる。


つる  (医師に)何か御用はございませんですか。

医師  あ、それぢや、一寸、わたしの家へ行つてね、……いや、伴のものにこれを取りにやつて下さい。(紙片に何か書きつけて渡す)

つる  はい。(退場)

医師  御気分は……?

老婦人  少し頭痛が……。

医師  静かになすつていらつしやい。すぐよくなります。汽車は、何時ですか。

老婦人  五時三十分……。

医師  (時計を見ながら)五時三十分と……。

老婦人  間に合ひませうか。

医師  何がですか。

老婦人  お隠しになつてはいけません。仰しやつて下さい。ほんたうのことを……。

医師  ほんたうのことと云ひますと……。

老婦人  丁度必要なだけ……。(溜息)

医師  なにがです。

老婦人  あたくしの命が……。

医師  御常談おつしやつちやいけません。

老婦人  (苦しさうに)ここでは困ります。

医師  ええ、今……。

老婦人  つるや……。

医師  女中さん……。


つる、急いで現はる。


老婦人  つるや、わたしを、向うへ連れて行つておくれ。

医師  いや、一寸待つて……。奥さん、なんでもありませんよ。これくらゐのことはざらにあります。

老婦人  それやさうでせう。

医師  お連れする前に、一寸、カンフルを一本しときませう。

老婦人  注射ですか。

医師  必要はあるまいと思ひますが……。

老婦人  そんなら、よしませう。痛い思ひをするだけ損ですわ。

医師  そんなことおつしやらないで……。

老婦人  そんなら、このまま、ぢつとしてゐませう。

医師  それだけはつきりなすつていらつしやれば文句はありません。(つるに)お床の用意は出来てゐるんですか。

つる  はい。

医師  お二階でしたな(間)それではと……(考へる)何か、下に敷くものはありませんか。もう暫く、このままの方がいいでせう。


つる奥に去る。やがて、クツシヨンを二つ三つ持つて来る。


医師  それで結構(老婦人の腰の下、肩の下などに敷く)どこか、お痛いところはありませんか。

老婦人  頭が……。

医師  (脈をとりながら)それは、御心配いりません。平常ふだん、ああいふ風に申し上げてあつたものだから、若しやとお思ひになるのでせうが、この通り、心臓はたしかなのですから、決して怖くはありません。動脈硬化も、奥さんぐらゐの程度なら、まだまだ……。(間)お顔色がだんだんよくなつて来ました。(つるに)お宅には、ウヰスキーかなにかありませんか……葡萄酒でもよろしい。

つる  葡萄酒ならございます。

医師  少しどうぞ……。


つる奥に去る。やがて、葡萄酒を持つて来る。


医師  (それを老婦人に飲ませる)平生、少しづつ、召上つていらしつたんですな。(瓶を検めながら)これは、なかなか、上等な品物に違ひない。なんですか……ハ…ウ…テ……サ…ウテルネ……。

つる  オート・ソーテルヌでございませう。

医師  (つるの顔を見上げ)なるほど、耳学問といふやつで……。

つる  (口を抑へ、声を立てずに笑ふ。が、急に真顔になり)御隠居様、お寒くはございませんか。

医師  さやう、少し、薄いやうですね。もう一枚、何か……。(体温器を挟ませる)


つる、奥にはひり、別の羽根蒲団を持つて来る。


老婦人  先生はお寒くはありませんか。

医師  いや、わたしは、太つてますからな。

老婦人  もう何時でございませう。

医師  今が、きつちり五時です。

老婦人  ……。

医師  折角の日を、どうも残念でしたな。

老婦人  あたくしは、もう息子を一人失くし、嫁を一人失くし、孫を一人失くしたんですからね。それから、もう一人の息子は、十年間もあたくしをうつちやらかして、旅へ出たまま帰つて来ようとはしなかつたんですもの。それでも、自分の手許には、さきほどのあの孫娘を、世の中にたつた一つしかない宝のやうに、大切に預つて、可愛がれるだけ可愛がつて来ましたのが……それさへ、今日、赤の他人に奪はれてしまふんです。赤の他人も同様です。それは、旅から帰つて来る倅のことを申すのではありません。もう一人の男です。もう一人の、何処からか、不意に現はれて、あたくしの息子だと云つて、大きな顔をしてゐる男です。

医師  ……。

老婦人  これは自分の娘だ──さう云つて、また、あたくしの手から、あのアンリエツトを攫つて行かうとしてゐるんです。あたくしの倅なら、そんなことはしない筈です。ねえ、さうぢやございませんか。

医師  ……。(体温器を外して見る。首を傾ける。不安らしい表情)

老婦人  あのアンリエツトの為めには、あたくしは、殆ど、一人の男をさへ殺しました。その男とは、やはり、あたくしの可愛がつてゐた孫です。父親を失くして、一生目を曇らせてゐるのかと思はれるやうな、あの寂しい男の子……。このあたくしですよ、あの収を殺しましたのは……。(溜息)

医師  奥さん。

老婦人  ええ、さうです、柿の木から……。あの柿の木のてつぺんに、アンリエツトの心臓が、赤く、ぶら下つてゐたんですもの……。

医師  奥さん。

老婦人  (殆ど口の中で)頭が……頭が……。


長い沈黙。


老婦人  (だんだん興奮状態になる)一枝、ゆるしておくれ。お前の、かけがへのない一人息子が、ああまで思ひつめてゐたアンリエツトの目に、その頃から、弘といふ青年が映つてゐた──それから、その青年の方でも、アンリエツトを──かう思ひ込んでゐたわたしが、この春、どんな悲劇を見せられたか、一枝、お前だけは、ちやんと、それを知つてゐるね。

医師  (老婦人の脈をとる)

老婦人  お前は、その時、収のことを思ひ出してゐた。さうして、わたしを、例の目で見てゐた。わたしは、この一年間、お前のその目を、どれだけ避けようとしてゐたか。お前は、なんにも知らないといふだらう。誰がそれを知つてゐやう。だが、お前は、やつぱり、母親だもの……。子供の運命については、神の声を聞くことのできる母親だもの……。お前は、その敏感な母親の鼻で、わたしの罪を嗅ぎ当ててゐたんだね。

医師  (益〻不安な表情)

老婦人  (息苦しさうに、しかし、朗らかな声で)

O Thébains! Jusqu'au jour qui termine la vie

Ne regardons personne avec un oeil d'envie.

Peut-on jamais prévoir les dernies cous du sort?

Ne proclamons heureux nul homme avant sa mort.


長い沈黙。

つるが、白い布の包みを持つて、恐る恐る近づいて来る。医師の手に包みを渡し、何やら小声で囁く。医師、うなづく。


医師  (老婦人の耳許に口を寄せ)大分およろしいやうですから、向うへお連れしませう。

老婦人  お黙り……。お前はお父さんと何処へでも行くがいい。お祖母さんは、もう用のないからだだから、お前たちの邪魔にならない処にゐよう。

医師  風邪でもお引きになるといけませんからな。

老婦人  アンリエツト……。どうして、お前は、何時までも、そつちを向いてるの。怒つたのかい。何も、そんなに怒ることはないぢやないか。

医師  (つるに目くばせしながら、老婦人のからだを起さうとする)

つる  (それを、向う側に廻つて、手伝ふ)

医師  (突然)あ、いけない、いけない。(手を放す。急いで、注射の用意をする)本郷に御親戚があるんでしたな。電話がありますか。

つる  はい。

医師  あまり、びつくりなさらんやうに……それでも、至急、おいでを願つて下さい。

つる  御病気だと申し上げてもよろしいんでございますか。

医師  勿論、さう云つて……。

つる  本郷の奥様は、只今、停車場の方へ、お宅の旦那様をお迎へに行つておいでになる筈でございますが……。

医師  こちらへ、御一緒に見えるんですか。

つる  さあ、それは……。

医師  兎に角、お知らせだけしといて……。ほかには別に、お知らせするところはありませんな。

つる  あたくしでは、一寸わかり兼ねますが……。

医師  よろしい。取敢へずお願ひします。


つる、急いで退場。医師、注射をする。


老婦人  アンリエツト……アンリエツト……。

医師  今、すぐ……。もうぢきです。

老婦人  収、何をそんな顔して見てるんです。そんな処に、誰もゐやしないよ。

医師  (老婦人の脈をとる)


長い沈黙。

この頃から、夕日があたりを染め、老婦人の顔に、一種、荘厳な光を浴びせはじめる。


老婦人  (やや穏やかな調子に復し)そうら、帰つて来た……。もう少し遅いと、母さんは、お前の顔が見えなかつたんだ。さ、こつちへおいで……。海は荒れなかつたかい。(間)よく帰つて来てくれたね。あんまり遅いので、母さんは、お前が道に迷つたんぢやないかと思つて心配したよ。まあ、どうしたの、その埃は……。


長い沈黙。


みんな揃つたかい。収はどうした、収は……(間)あ、誰か、早く……。(間)免しておくれ、みんな、免しておくれ……。わたしは、ただ、少し、長生きをしすぎただけだ……。ただそれだけだ……。


日が沈み終つて、舞台、次第に暗くなる。


──幕──

底本:「岸田國士全集2」岩波書店

   1990(平成2)年28日発行

底本の親本:「落葉日記」第一書房

   1928(昭和3)年525日発行

初出:「中央公論 第四十二年第四号」

   1927(昭和2)年41日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2012年14日作成

2018年115日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。