遂に「知らん」文六(三場)
岸田國士
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河津文六
妻 おせい
倅 廉太
娘 おちか
梶本京作
お園
其他 亡者、鬼など大勢
時──大正×××年一月三十二日
処──大都会の場末
舞台は麺麭屋の店に続いた茶の間であるが、正面は障子の心もちにて全体に白幕。──プロセニウムに近く、炬燵に向ひ合つて、文六とおせい。──極度の不安。
家具類は置く必要なし。──夜である。
文六は、独酌で盃を傾ける。もう、大分酔ひがまはつてゐる。
おせいは、時々袖を眼にあてる。
天井裏で、ゴトンといふ音。二人──殊に文六は、水をひつかけられたやうに首を縮める。二人は、笑ひもせず、顔を見合はす。
文六 廉太のやつ、一体、何処へ行つてやがるんだらう、今ごろまで……。
(沈黙)
おせい ほんとなんでせうかね、一体、地球がつぶれるなんて……。
(沈黙)
文六 (頤で二階を指し)おちかは、もう呼ばんでいゝか。
おせい いゝぢやありませんか。どうせ今夜限りの命なら、一つ時でも、先生のそばに……。
文六 それがいゝことかどうか、おれにはまだわからん。
(遠くの方から賑やかな楽隊の音がだん〳〵はつきり聞えて来る。群集の歌ひ喚く声。やがて、正面の白幕に一団の人影が映る。舞踏者の群れである。男女の入り乱れ、踊り狂ふ光景が暫く続く)
文六 (独言のやうに)また始まつたな。
おせい (これも独言のやうに)どういふつもりでゐるんだらうね、あの人達は。
(楽隊の音次第に遠ざかり、人影消え去る。長い間)
文六 (居眠りをしはじめる)
おせい あんた、風邪を引きますよ。
文六 (夢現にて)おれは、何んにも悪いことをした覚えはない。
おせい ねえ、あたし一人、ほうつといちや、いやですよ。
文六 うん……? いま、すぐだよ。
おせい あんたつてば……なんて呑気な人でせうね。居眠りなんかしてる場合ですか。
文六 うん……お前にはいろ〳〵苦労をかけたよ。
(遠くから、今度は三味線と太鼓、笛などの囃子が聞えて来る。それがだん〳〵近づくと、白幕に、三味線を弾くもの、太鼓を叩くもの、笛を吹くもの、扇子をかゝげて舞ひ歩くものなどの影が遠くまた近く映る)
おせい あんた。
文六 (答へない)
(囃子遠ざかり、人々去る。間。突然、二つの人影が現はれる。両方とも刃物を振り上げて、身構へる。時計が十一時。おせい、驚いて、文六の傍に身を寄せる。立廻りが始まる)
おせい (悸えて)あんた、いよ〳〵時間ですよ、もう……。
文六 (答へない)
(一つの影が、もう一つの影に触れたと思ふと、一方が、ばつたり倒れる。おせい、文六の肩に顔を押しあてる。一つの影、走り去る。遠くで、人を呼ぶ声)
左手に厳めしき城門。その並びに、「受付」と書いた窓口。
舞台中央に一列のベンチ。「亡者控所」と書いた立札。
文六、前場の服装にて、右手より現はれる。あたりをキヨロキヨロ見廻した後、受附に近づき、内の様子をのぞく。
文六 一寸、お尋ね致します。
女の声 (勿論、事務員らしき口調)なんですか。
文六 私は河津文六と申すものですが……。
女の声 河津文六さんですか。(傍らの誰かに)ちよいと、あんた、名簿を見て頂戴。
別の女の声 ないわ、そんな名前。戒名を聞いて御覧なさい。
女の声 あなた、戒名はなんておつしやいます。
文六 戒名……戒名と申しますと、あの、私は……救世軍……。
女の声 救世軍……何ですか。
文六 あの、耶蘇教の……。
女の声 救世軍耶蘇教居士ですか。
文六 (曖昧に)へえ。
別の女の声 (名簿を探しながら)救世軍……耶蘇教居士と……。ない、ないことよ。何時葬式をやつたか聞いて御覧なさい。
文六 葬式もなにも……実は、その、昨夜でござんしたかな……例の、地球と彗星とが衝突いたしまして……。
女の声 (別の女に)気ちがひよ、これや。
文六 まだ、さういたしますと、こちらへは通知がまゐつてをりませんのですか。
女の声 しばらく待つてゐらつしやい。調べてあげますから。
文六 (考へ込みながらベンチの方に来り、思ひ出したやうに再び窓口に向ひて)あのう……お尋ねいたしますが、先刻、河津せいと申すものがまゐりませんでしたらうか。(答へがない)家内でございますが……それから、もしや……(窓がガタリと閉まる。文六、あつけに取られて口を噤み、ベンチに腰を掛ける)
(この時、右手より、一人の亡者、何か考へ込みながら現はれる。)
亡者甲 (一寸、文六に笑ひかけ)こゝに待つてゐればいゝんですか。
文六 失礼ですが、あなたも、やはり、昨晩のあれで、お亡くなりになつたんでございますか。
亡者甲 昨晩のあれといひますと……。いゝえ、僕は、一昨日の朝、病院で死んだんです。
文六 へえ、何か……。
亡者甲 昨晩、何かあつたんですか。
文六 (膝を乗り出し)実はね……なるほど御存じありますまいな、実は、一昨日の夕方でした……。
(この時、また、右手より、亡者乙、白髪の老人、白衣に勲章の大綬をかけ、杖をつきながら現はる。つかつかと受附に至り、何事か呟く)
女の声 あら、また、いらしつたの。
亡者乙 (苦笑しながら)今度は、いよいよほんものぢやよ。
別の女の声 (名簿を探しながら)えゝと、金山高成さんはと……一月十九日……いゝわ。
亡者乙 もうぢきかね。
女の声 (別の女に)もう三人だから知らせてもいゝわ。
別の女の声 (電話を掛けるらしく)あゝ、もしもし、事務所へ願ひます。事務所ですか……。あのね、一人、まだ通知の来ない亡者がゐるんですがね、そつちにも来てませんか、え、河津文六つていふんです……いえ、男よ、もう爺さんだわ。(文六、眼をつぶる)まだ聞いてないの。戒名はね……。え、ぢや、さうして頂戴。
亡者乙 (独言のやうに)久しぶりで歩いたらいゝ気持ぢや。(文六の隣にかける)や、皆さん、わしは、元老院議長の金山ぢや。どうぞよろしく。
文六 (恭しく頭を下げ)私も、元老院の書記をしとつたことがございます。閣下がまだ副議長をしてをられたころでございますから、例の大正十二年の震災前でございます。
亡者乙 はゝあ、さうぢやつたか。
文六 (親しげに)長らくお患ひになつてをられましたやうに、新聞で承知いたしてをりましたが、ついお見舞にも……。
亡者乙 いや、どうも、今度は弱つたよ。なにしろ(胃を押へ)こゝが利かんのでな。
(此の時、城門の扉が、サツト開き、士官の服装をした青鬼と、下士らしき赤鬼、兵卒らしき黒鬼が、それぞれ武器を手にして現はる)
赤鬼 (亡者一同に向ひ)みんなこゝへ出ろ。
(文六を先頭に、亡者甲、乙、程よき処に並ぶ)
青鬼 (赤鬼に向ひ)点呼。
赤鬼 はツ。(名簿をひろげ)今から調べる。大きい声で答へろ。音羽久一……。
亡者甲 はい。(一歩前に出る)
赤鬼 戒名は。
亡者甲 近隣迷惑妻惚居士。(あたりを見まはし、一寸、もぢ〳〵する)
赤鬼 在世中の職業。
亡者甲 音楽家。
青鬼 (優しく)専門は。
亡者甲 ヴアイオリンです。
青鬼 (我が意を得たりといふやうに)へえ、さうですか、君がヴアイオリンをね。実は僕も、音楽は非常に好きでしてね。自分でも、ヴアイオリンを少しばかり……。なあに、ほんの真似事ですよ。こゝぢや、何にしろ教師がみんな亡者ですからね。噂に聞いてゐた向ふの人が、こつちへ来ると、から駄目ですね。僕なんか、やつぱりラヴエルかストラヴインスキイ以後のものでないと弾く気もしないし……。
亡者乙 足が冷たくてしやうがないが、なんとかならんもんかね。
赤鬼 口を利くんぢやない。
青鬼 まあ、判決でも済んだら、ゆつくり話しませう。(赤鬼に、続けろといふ合図をする)
赤鬼 姓名は音羽久一……戒名が近隣迷惑妻惚居士……職業は……。
亡者甲 音楽家。
赤鬼 位階勲等。
亡者甲 は? いや、ありません。
赤鬼 (青鬼に向ひ何か耳打ちしたる後)よし……その次、金山高成。
亡者乙 わしぢや。
黒鬼 わしぢやとは何んか。
亡者乙 (よく聞き取れぬらしく)あ、戒名をいふのか。
赤鬼 (青鬼と顔を見合せて笑ふ)これが、例の一遍、送り返された奴であります。
青鬼 (うなづき)いゝから調べろ。
赤鬼 戒名。
亡者乙 一遍死殿復生院天下狼狽居士。
女事務員 (大声にて笑ひながら顔を引込める)
赤鬼 在世中の職業。
亡者乙 元老院議長……正一位……。
赤鬼 まだ、まだ。位階勲等。
亡者乙 正一位大勲位公爵。
(此の時、女亡者丙、疲れた足を引摺りながら現はれる)
青鬼 (赤鬼に)また一人来た。序に調べちまへ。
赤鬼 はツ。その前に、あれをやりませう。(文六を頤で指す)お前はと……姓名。
文六 河津文六と申します。
赤鬼 戒名は。
文六 実は、その、私は……耶蘇教の方でございまして、これには、いろ〳〵、事情もございますが、一口に申しますと……。
青鬼 そんなことは、後で聞かう。戒名なしとしとけ。
赤鬼 はツ。在世中の職業。
文六 麺麭屋でございます。大正十二年の震災前までは……。
赤鬼 最近のだけでいゝ。
文六 へえ。
赤鬼 位階勲等はないな。
文六 それがあるんでございます。以前、日独戦争の時に、元老院の書記として、勲八等瑞宝章を賜はりました。それをまた、こゝには生憎持参してをりませんが(亡者乙の大綬を横目で見て)ちやんと……。
赤鬼 よし。(女亡者丙を院で招き)えゝとお前は、気賀むらの……だね。
亡者丙 (はにかんで)はい。
赤鬼 戒名は。
亡者丙 (気取つて)あの、独身其実多情信女と申しますんでございますんですよ。
赤鬼 在世中の職業。
亡者丙 あの、女医でございます。産科婦人科と小児科を専門にいたしてをりますんでございますんですけれど……。
青鬼 詳しいことはいゝです。
亡者丙 あの一寸伺ひますが、わたくしの信仰といたしましては……。
赤鬼 何かいふことがあれば、後で聞くから。(独言のやうに)位階勲等はなしと。
青鬼 終つたね。
赤鬼 はあ。ぢや、連れてまゐりますか。
青鬼 (うなづく)
赤鬼 気をつけツ。
(一同、姿勢を正す)
赤鬼 (黒鬼に)上等兵は先頭。(黒鬼一同の右翼に列す)右へならへツ。
(一同、右へならふ)
赤鬼 番号!
(一同、番号をつける)
赤鬼 そのまゝ、右向け右ツ。
(一同、右を向く)
赤鬼 しつかり、歩調を取つて、前へオイ。
(一同歩調をそろへて歩き出す)
赤鬼 オイチ、ニイ……オイチ、ニイ……オイチ、ニイ……。
(文六、後を振り向き、然し、立派に歩調を取つて歩く。隊列が門の中に消え去る。般若の顔が窓口からのぞく。)
文六の家の茶の間。
柱時計が十一時十五分を指してゐる。文六とおせい、第一場の如く、炬燵に向ひ合つてゐる。
文六は、今、眼が覚めたばかりといふやうな顔をして、あたりを眺めまはしてゐる。
おせい、茫然自失したる態にて、文六の顔を見上げる。長い間。
おせい ちよいと、あんた、どうしたんでせう。もう十一時すぎましたよ。
文六 (之には答へないで、時計の方を見る。全く無表情)
おせい うそだつたんでせうか。
(この時、二階より、京作、おちかと共に降りて来る)
京作 どうしたんでせう。
(長い間)
おせい 先生この時計は合つてをりますでせうね。
京作 (手に握つた懐中時計を見せて)合つてますとも。
おせい 間違ひだつたんでせうか。
京作 さあ。外も静かですね。
(京作とおちかは、長火鉢に向ひ合つてすわる。京作、巻煙草を取り出す。おちか、火鉢の上に手をやり、火箸で火をつまんで京作に差し出す。京作、それをつける)
京作 (おちかに)寒くはありませんか。
おちか (かぶりを振る)
(この時、戸外が急に騒がしくなる。「号外」「号外」と呼ぶ声。京作、勢よく起ち上り、外に飛げ出す。しばらくして、一枚の号外を手にもち、帰り来る)
京作 (読む)地球滅亡説は誤り──彗星の奇蹟的進路変換──人類の生命は神と共に永遠なり。中央気象台長望月博士、泣いて罪を天下に謝す。世界各国天文台の研究報告を待つて、博士は引責自殺の覚悟あり明午前一時公式の経過発表をなすはず。えゝと……警視庁急告示。一、市民は速かに生業につき、秩序ある生活に復すべきこと。一、今回の流言により、災害を蒙りたるものは、一週間以内に所轄警察署に申出づべきこと。災害の種類程度、加害者の判明せるものはその住所姓名、災害を蒙りたる時刻等。一、申出に際しては、二名以上の保証人を同行すること。
おちか (京作の手から号外を奪ひ取り)もういゝわよ、あとは読まないだつて。
京作 (恐る恐る文六の方に向ひ)どうでせう、かうなりました上は、やつぱり、わたくしに、おちかさんを、何にするやうにして頂けませんでせうか。
文六 (黙つて炬燵の上に顔を伏せる)
京作 (おせいに)お神さん、あなたからも一つ、よろしく、そこを……。
おせい さあ、どういふことになりますか。そりや、あたくしは、もう、なんですけれど……。
(戸外に叫ぶ声、笑ふ声、泣く声などが聞える。それが、一としきり鎮まると、今度は、例の三味線、笛の囃子と、ラツパ、太鼓の楽隊が聞え出す。それに交つて、「こら、こら、静かにせんか」「早く家へはいつて眠ろ」「職務の妨碍をするかツ」といふやうな声が聞える。群集の喚声。「軍隊が来たツ」といふ声。あとは寂寞)
おせい (いきなり、文六の手を取りて泣き出す。文六はうつ伏したまゝでゐる)
京作 (おちかの手を握り、感極まつた笑ひ方をする。おちか、うつとりとして、その手を頬にあてる)
(俄かに、表の戸が開く。廉太が飛び込んで来る。一同の顔を見比べる。一寸、もぢもぢする。)
おせい あらツ!
文六 (廉太の顔をしげしげと見守る)
廉太 お父ツつあん、よかつたね。
おせい お前、何処へ行つてたの。
廉太 新町公園……。
おせい なにしにさ。
廉太 何にしたつて……。
おせい 寒いね。まあ、障子をお閉めよ。
廉太 (一寸、障子の外に眼をやり、云ひ出し悪くさうに、文六に向ひ)お父ツつあん、僕ね、あの、可哀想な人を連れて来たんだよ。公園の森の中に倒れてたんだ。女の人なんだけれど……。僕、その人を介抱して、やつとこゝまで連れて来たのさ。どうしようかな。(文六答へない)家ん中へ入れてもいゝだらう。
おせい 病人なら、早くいれておあげよ。外は寒いぢやないか。
廉太 (この言葉に勢ひを得たらしく、いそいそ店先に行き)おはいんなさい。
(廉太の後ろに続いて、二十前後の、恐ろしくけばけばしい扮りをした、それでゐて、ひどく不恰好な女が現はれる。閾ぎはに手をついて、一同に挨拶する。)
おせい さあ、こつちへ、火のそばへいらつしやい。お加減が悪いんですつてね。
女 (口の中にて)いゝえ、もう、お蔭さまですつかり……(図々しい媚びのある眼附)
廉太 (少しきまりが悪いのと、少し得意なのとが、半分半分の笑ひ方をする)おちかお茶ある?
おちか (突慳貪に)お茶なんかないわよ。
京作 さうだ、火も起さなくつちや。(自ら台所に炭取を取りに行く)
おせい (起ち上り)あたしがしますよ。(台所に行かうとして、京作の後を追ふが、もう遅い)あらまあ、すみません。(炭取を受け取つて、火鉢につぐ)お腹でもお痛かつたんですか。
女 (廉太の方を見て、にらむやうな眼附きをした後で)ええ、いゝえ……。
廉太 (引取つて)この人はね、悪い奴につかまつて、ひどい目に遭つたんだよ。(間)僕が、あの森の中へはいつて行つたら、此の人が倒れてるだらう。びつくりして起して見たら、此の人なのさ。それから、僕……。
おせい 何時のこと、それや。
廉太 (何気なく)昨日の晩さ。
文六 (黙つて、廉太の顔を見る)
おちか (おせいに)あら、駄目よ、そんなに吹いたつて。(時々、廉太の方に反感を含んだ視線を投げかける)
廉太 (弁解らしく)この人は、歩けなかつたんだよ、昨日は……。しばらく家へ置いてあげてもいゝだらう。行く処がないんだつていふから……。
おせい お宅はどちらです。
女 ずつと田舎なんでございます……。
おせい それで、東京へは……?
女 店へ勤めてゐたんでございますけれど、もうそこは出ましたもんですから……。
廉太 ほら、終点の前のうち洋食屋ね……。
おせい 御覧の通り、家も手狭でしてね。置いてあげたいのは、山々ですけれど……。
廉太 おツ母さん。
おせい お前も、家はこんなだつていふことはわかつてるのに……。
廉太 それがね、おツ母さん……(あたりに気を兼ねて)僕……。
女 いえ、あたくしは、かまはないんでございますよ。どうせ知らない土地ぢや御座いませんし、御迷惑なら、すぐにでも……。
廉太 あのね、おツ母さん、僕……この人と約束したんだよ。結婚するつて……。
女 (廉太に)あたしは、かまはないのよ、どつちでも……(おせいに)この方がたつてとおつしやるもんですから……。
おせい (当惑して)場合が場合でなければねえ……それや、なんですけれど……。ねえ、お父ツつあん、どうしたもんでせうね。
文六 (黙りこくつてゐる)
廉太 (文六に)お父ツあん、いゝだらう。ねえ、さうしてくれなきや、僕……。
文六 (突然顔をあげ)どうするといふんだ。
(長い沈黙)
女 (ゐたゝまらず)あたくし、これでお暇しますわ。
廉太 (女に取縋り)そんなことないよ。
女 そんなことないつたつて、こんな場所に、あたしがをれますかよ。
廉太 だから、今、話をつけるよ。お父ツつあん、いゝかわるいか、どつちなんだよ。(声がふえる。訴へるやうでもあり、脅すやうでもある)
文六 (恨めしげに廉太の顔を見上げ)お前やつぱり帰つて来たのか。
(長い沈黙)
京作 昨日から、ずつと公園にゐたんですか。
廉太 えゝ。
京作 (二人の顔を見比べる)食べものはどうしました。
廉太 (元気づいて)この人が、どつかへいつて、パンを貰つて来てくれたんです。水は、噴水の水を飲みました。(思ひ出を辿るやうに)僕は、家を出ると、すぐに教会の丸尾先生の処へ行つたんです。戸が締つてゐて開きません。声をかけても返事がないんです。
京作 それで。
廉太 それで僕は家へ帰つて来ようと思つたんですけれど、公園の方があんまり賑やかなもんだから、一寸行つて見たんです。どの樹蔭も、どのベンチも、人で埋つてゐました。それが、どこを見ても、年寄と子供は、一人もゐないんです。どこを見ても、二人づゝ一と塊になつてゐるんです。それは丁度、雛人形の市です。
京作 なるほど。
廉太 (だんだん演説口調になる)僕は淋しいと思ひました。一人ぼつちなのが淋しいと思ひました。とぼとぼと、池の縁に添つて、あの森の方に行きました。日が暮れてゐました。瓦斯燈はつかない。そのうちに、雲の間から月が出ました。丸い月でした。あつちでも、こつちでも「まあ」とか「やあ」とか、さういふ声が、はつきりではありませんが、大地の吐息のやうに、僕の耳に響いて来るのです。小声で歌を唱つてゐるものもありました。
京作 ふん。
廉太 月は、出たと思つたら、すぐにかくれてしまふのです。月がかくれてゐる間、みんな黙つてゐました。
京作 なるほど……。
廉太 僕は森の中にはいりました。どうしたものか、そこには、人がゐない。多分あんまり暗すぎるからでせう。(間)と、だしぬけに、女の泣声が聞えるんです。
京作 (大きく首肯いて)わかりました。
(此の間、文六は、眼をつぶつたり開けたり、耳を掻いたり、鼻をほぢくつたり、時によるとまた、廉太の云ふことよりも、何処かほかで、誰か別の人間が喋舌つてゐるのを聞き入るやうに、首を傾け、眼を細くし、唇をゆがめなどする。)
廉太 僕たちは、死といふことを忘れました。ねえ、お園ちやん。
(お園、軽くうなづく)
京作 僕達も、さうです。ねえ、おちかさん。
(おちか、大きくうなづく)
文六 (うなづく)オイチ、ニイ……オイチ、ニイ……。
京作 それで、たうとう、公園の森の中で夜を明かしたのですか。
廉太 それからが面白いんです。何時の間にか、空がからりと晴れて、春のやうに暖かい風が、そよ〳〵と吹いて来ました。はじめのうちは、一とこ二とこ、三とこ四とこ、さういふ風に聞えてゐた歌が、だん〳〵、声の数が殖え、起る場所が拡がつて、しまひには、公園全体が、合唱団のやうになつた。すると、今迄、黒く低く、塊のやうに動かなかつた人影が、一斉に起ち上り、コオラスに合せて踊り出したのです。(こゝから、彼は、手真似身振りを交へ、殆ど我れを忘れたる有様となる)まあ、想像して御覧なさい。芝生の上、池のほとり、グラウンドの中、橋の袂、並樹の蔭、そこは、今まで、われわれが見たこともない地上の楽園です。一組が、くるりと廻る。その度ごとに、交る交る、男と女の顔がぱつと明るくなるのです。風に翻る袖、ほどけかゝつた肩掛、それが、木の葉のやうに光ります。僕たちも、森の中から飛び出して、一緒に踊りました。
(この間、おせいは文六の様子が気にかゝるらしく、何かいひ出さうとするが、その機会を捕へることができずに、もぢ〳〵してゐる。おちかは、だんだん、廉太の話に聞き惚れ、その方に向き直つて、からだを乗り出してゐる。お園は、廉太の言葉を一つ一つ肯定するやうに、微笑んだりうなづいたり、「ね」といふやうに、ほかの者の顔を見渡したりする)
廉太 (一切無頓着にて)僕たちも、森の中から飛び出して、一緒に踊りました。さうして、朝がたまで踊り続けました。
京作 すると……なんですか……。
廉太 すると、腹が減つて来ました。みんな腹が減つて来たのです。男は食ひ物を探しに行きました。女は、万一の用心に池の魚を掬ひはじめました。
おちか 手で。
廉太 いゝや(笑ひながらお園の顔を見る)
廉太 僕は、うちへ麺麭を取りに帰らうかと思つたんです。然し、見つかると可笑しいから、この人に来て貰つたんです。店先には、まだ、箱一杯、食パンが残つてゐたさうです。
お園 一ぱいでもなかつたわ。
京作 なに、腹がすいてさへすれや、なんでもうまいもんです。
廉太 (一段と声を励まし)そのうちに、昨夜の疲れがでゝ、眠くなつて来たのです、みんな眠くなつて来たのです。僕たちは、森の中で、焚火をして、その横に寝ました。みんな、さうしてゐるらしいんです。中には、どこからか、厚い絹夜具などを担いで来るものもありました。僕たちは、ぐつすり眠りました。眼が覚めて見ると、日が暮れてゐました。「愈今夜だ」誰いふとなく、かういふ声が、人々の口から漏れる。みんな空を見上げました。どの星も、どの星も、ぢつとしたまゝ、普段の通りに輝いてゐます。普段よりも、しめやかに輝いてゐます。「どれだ、彗星は」誰かゞ叫びました。かうして空を見てゐるといつでも、一つや二つの流れ星が眼につくものです。僕たちは胸を躍らせました。「や、あれだツ」──その声で、僕たちは、更に星から星へと眼を転じました。「あれだツ」「あれよ」──口々に叫びました。それは、北斗星の左、五六尺の処、星といふよりも寧ろ光りの渦巻き、焔の車とでもいひたいやうなものが、だんだん大きくなつて来る、それが、はつきり見えるぢやありませんか。空は、それでも、どこか静かです。いゝえ、静かです。そのほかの星は、さう、息を凝らして、此の一つの狂気星を見つめてゐるのです。地上も静かです。樹も、家も、水も、草も、人も、みな息をこらしてゐるのです。と、だしぬけに、誰かゞ、「みんな踊つたら」と叫びました。女の声です。何といふ威厳のある声でしたらう。歌と踊りとが同時に始まりました。こゝで一つ考へなければならないのは、世の中に、みんなが一緒に踊れる踊りといふものは、ちやんとある、兎に角ある。それだのに、みんなが一緒に歌へる歌といふものが、さつぱりないことです。殊に踊りながら歌へる歌といふものがないことです。
京作 なるほどね。
廉太 みんなが、勝手な歌を唱つてゐる、それが、今夜になつて解つたのです。僕は、いやになりました。この人も、いやになつたといふのです。僕たちは、二人だけ、また、例の森の中にはいり込みました。然し、遠くから、それを見てゐるのは愉快です。月が出た、と思つたのは、例の光りの渦巻です。その光り方は、まあ、太陽ほど、とまでは行きませんが、その鱗色の鋭い光りが、森の中までも、ぎら〳〵と流れて来る。
文六 オイチ、ニイ……オイチ、ニイ……。
(一同、不安げに文六の方を見る。廉太も訝かしげに口を噤む)
おせい あんた、どうかしたんですか。
文六 (うるさゝうに首をふる)
廉太 (哀願するやうに)ねえ、お父ツつあん……。
(長い沈黙)
京作 僕から、こんなことをいふのも可笑しいですけれど、どうでせう、一つ廉太君の望みを叶へてあげて下さいませんか。総ての人間は、今、生れ更つたところです。過去の歴史を持たない人間が、これから新しい生活を創めようとしてゐるのです。廉太君が、過去の罪を──若しあるとすればです──過去の罪を脱ぎ棄てゝ、無垢な人間になられた、それと同じ時、同じ場所、恐らく、同じ樹の蔭、同じ池のほとりで、此の御婦人も、未来への新しい希望を見出されたこと、思ひます。早い話が、わたくしと、おちかさんとが、やはりさうです。われわれは、一度、一切の羈絆、一切の束縛、一切の思ひ出から解放されたのです。われわれは、愛の力が、何ものよりも強いといふことを知りました。その愛の力です、廉太君に、あゝいふことをいはせるのは。その愛の力です。僕をして、かういふことをいはせるのは。あなたは、親です。父親です。一人の息と一人の娘とが、今あなたの前に跪いて、生涯の幸福を祈り求めてゐるのです。それと同時に……。
文六 (突然また炬燵に顔を伏せ何を思つたか、泣声にて)おれや、知らん、知らん、知らん、知らん、知らん、知らん、知らん、知らん、知らん……。
(一同あつけに取られて、文六を見る)
底本:「岸田國士全集2」岩波書店
1990(平成2)年2月8日発行
底本の親本:「週刊朝日 第十一巻第一号」
1927(昭和2)年1月1日発行
初出:「週刊朝日 第十一巻第一号」
1927(昭和2)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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