温室の前
岸田國士



大里貢

同 牧子

高尾より江

西原敏夫


  東京近郊である。

  一月中旬の午後五時──



       第一場


大里貢の家の応接間──石油ストーブ──くすんだ色の壁紙──線の硬い家具──正面の広い硝子戸を透して、温室、グリーン・ハウス、フレム及び花壇の一部が見える。

硝子戸に近く、高尾より江──二十五六歳に見える──が、ぢつと外を眺めてゐる。さつぱりした洋装。

──間──

大里牧子──二十八九歳ぐらゐの目立たない女──小走りに現れる。


牧子  どうも、お待たせしました。兄がなんにも云つてつてくれないもんですから、間誤ついちまつて……。(両人腰をおろす)普段から、兄は兄、あたくしはあたくしでせう。何一つ手伝はせないんですの。あたくしも、また、それをいいことにして、自分勝手なことばかりしてゐるんです。けれど……ですから、かういふ時、困りますの。でも、留守にすることなんか、滅多にないんですものね。さうですわ、ここへ引込んでから、今日が初めてぐらゐですわ、東京へなんぞ出ましたのは……。

より江  もう、おからだの方は、すつかりおよろしいんですの。

牧子  だらうと思ふんですけれど……その後、風邪一つ引きませんし……。あの顔色ですもの、大丈夫でせう。

より江  ほんとに、長らくお患ひになつたなんて思へませんわ。でも、まあ、あなたが、よく……。

牧子  ええ、これも、仕方がありません。──なんていふと、えらく悟つたやうですけれど、あたくしたちは、御承知の通り、珍らしく身よりつていふものがないんですからね。物心のつく頃から、兄一人妹一人で、育つて来てるんですから、かうして一生、お互の世話になつて暮すなんていふことが、それほど不自然には思へないんですの。(間)それや、兄さへその気になつてくれれば、兄の世話は、「その人」に委せて、あたくしは、外へ出るなりなんなり出来ないこともありませんけれど──その為に、一通り覚えることだけは覚えておいたんですのよ──さあ、それが、何時の役に立ちますやら……。

より江  タイプライタアもなすつたんですつて……。

牧子  タイプライタアは邦文の方だけですけれど、速記も序に習ひましたし……。それに、何時ぞや、神田でお目にかかりましたわね、あの頃は、ミシンをやつてましたのよ。

より江  さうですつてね。あれから、もう四五年になりますかしら……。逗子からお通ひになつてたんでせう。

牧子  ええ。兄の病気が、まだひどい頃でした。昼間だけ看護婦についてて貰つて……。(間)それでもあの頃は若う御座んしたわ。


(沈黙)


より江  でも、不思議ですわね、こんなところで、お目にかかるなんて……。標札を見ると、大里貢……なんだか聞いたことのある名前だとは思つてましたの。毎日通るんでせう。あなたのお兄様だと知つたら……。それでも、あなたが御一緒にいらつしやるかどうかわからないし……。あれで、昨日、停車場であなたに御目にかからなかつたら、今頃は、まだ知らずに、あの前を通り過ぎてるんですわね。

牧子  あたくしを御覧になつて、どうお思ひになつて……。(間)女も、かういふ生活をしてるとおしまひですわ。(間)さう云へば、あなたは、いま……なんて云つたらいいかしら……どういふ方のところへ……。

より江  あたくし……独りなの。(間)いやですわ、そんな顔して御覧になつちや……。

牧子  でも……。

より江  そんな筈ないつておつしやるんでせう。さうね、御存じなのね。学校を出ると、すぐ、行くには行つたんですけれど、ぢきに出ちまひましたの。出されちまつたのかも知れませんわ。それから、ずつと、かうして働いてるんですの。

牧子  働いてらつしやるつて……。まだ、そのお話、伺つてませんわ。

より江  銀座の、ピリエつていふ、フランス人の経営してる化粧品店、御存じない。あの店にゐるんですのよ。

牧子  まあ。

より江  母と二人、結構暮して行けますわ。男の厄介にならないだけましですわ。

牧子  ほんとに……。

より江  それはさうと、兄さまの、此の御商売も、なかなか面白さうですわね。御繁昌で結構ですわ。

牧子  ところが、商売つていふのは名ばかりで、ほんとは道楽なんですの。ですから、流行らないのは我慢ができるとして、根が無愛想なたちでせう、一度来たお客様は、大概、二度と来なくなつてしまふんですの。(間)でも、あなたのやうなお客様があると、それや、よろこびますわ。いいえ、それがね、お交際つきあひがまるでないんですからね。口に出しては云ひませんけれど、やつぱり寂しいんでせう。学校時代のお友達も、ここへ来てから、訪ねて下さる方はただの一人もなし、あたくしがまた、引込思案なもんですから、御近所づきあひさへ、ろくにしない方で……。(間)それに、また、いろいろお話もあるでせう。ほんとに、時々、いらしつて下さいましね。毎日でもよう御座んすわ。今晩は、ゆつくりしていらつしやれるんでせう。もうぢき帰つて来ますわ。

より江  ええ、ありがたう。昨日、一寸御目にかかつただけですけれど、なんだか、親しみのもてさうな方つていふ気がしましたわ。不思議ねえ、以前のことを、それでも、いろいろ思ひ出しましたわ。それに、やつぱり、草花なんか作つておいでになる方は、どこか、自然と同じ呼吸をしていらつしやるのね。これからちよいちよいお話ができるのは楽しみですわ。

牧子  ちつとも覚えてらつしやらないつて、不思議ですわね。兄は、あれで学校時代には法律をやつたり、文学をやつたりしたんですけれど、法律は始めから嫌ひでしたし、文学は、物事を複雑にするからつて、買ひ集めた本を、みんな売つてしまひましたの。でも、時々、歌なんか作つてるらしいんですのよ。

より江  あたくしなんか、本が読みたくつても、暇がありませんもの。


長い沈黙。

(此の時、硝子戸越しに、大里貢がフレムを見廻つてゐる姿が見える)


より江  (貢のゐるのに気づき)お兄さまがお帰りになつたやうですわ。あたくし、お暇しようかしら……。

牧子  (外をふり返り)あら、何時の間にか……。(立つて行つて、硝子戸に近づき、それを細目に開け)兄さま、もうお帰りになつたの。

貢  (腰をかがめたまま)誰か来なかつたかな。

牧子  学校の前の花屋さんから、いつもの人が来て、チュリップの球根を少し分けてくれつて云ふんですの。わからないから、今夜出直して来てくれつて、さう云つて置きました。それから、去年、一度来た、あのお爺さんね、露西亜人みたいな帽子を被つた、あのお爺さんが来ましたよ──ほら、何時か、生意気なことを云ふつて、あなた、お怒りなつた運転手みたいな男ね、あれを伴れて……。

貢  なんて。

牧子  グリーン・ハウスを見せろつて……。

貢  そいで……。

牧子  あたくしにはわからないつて、断りましたの。

貢  どなたか、お客さん?

牧子  いま? ええ。どなたかあてて御覧なさい。

貢  高尾より江さん。

牧子  あら、御存じなの。まあ、あきれた……。ぢや、どうして、早く御挨拶をなさらないの。

貢  今、行くよ。一寸、手を洗つて……。

牧子  (より江に笑ひかけ)知つてたんですつて……。きまりが悪かつたんでせう。

より江  (これも面白がつて)そんな?

貢  (現る)やあ、失礼……。

より江  昨日は……。

貢  ようこそ……。僕達は、お客さんのもてなし方を忘れてるかも知れませんが、しばらく辛抱して遊びにいらしつて下さい。そのうちに、また慣れると、いくらか殺風景でなくなるでせう。ええと、紅茶でも入れたらどうだ。

より江  もう、どうぞ、おかまひなく……。

牧子  おかまひができればいいんですけれど……。すつかりお話に夢中になつて……。ねえ、兄さま、より江さんはね、あの……(頭に両手をやり)いろんなことが、ごつちやになつて……。(起ち上る)

貢  まあ、ゆつくり聞かう。それより、お菓子があつたかなあ。

牧子  さあ……。(奥に去る)

より江  横浜は、桟橋までいらしつたんで御座いますか。

貢  ええ、船の着く処を見て来ました。ポルトスとかいふ仏蘭西メールですが、なかなか立派ですね。

牧子  (茶の道具を持つて現る)すぐおわかりになりました?

貢  わかつたさ。西原の奴、五年の間に、すつかりハイカラになつて来たよ。あの方ぢや、なかなか出世してるらしいね。出迎人が大したものだ。やれ、何々会の総代、やれ何々新聞の記者、さういふ連中に取り巻かれて、おれなんか、眼と眼とで、一寸挨拶をしただけだ。

牧子  何を研究にいらつしつたんですか。労働問題ですか。

貢  まあ、さうさ。あの男は、しかし、なかなか才人だからね。なんでも、芝居なんかのことも調べて来たらしいよ。そんなことを新聞記者に話してたぜ。大いに民衆劇の運動を起すんださうだ。どうです、高尾さん、僕の友人のやる民衆劇を、一つ、見に行つてやつて下さい。

より江  お芝居なら、あたくし、大好きですの。

貢  芝居も、長く観ないなあ。

牧子  (茶を薦めながら)より江さんに案内して頂いて、何時か行かうぢやありませんか。

貢  お前がさういふ気を起してくれればありがたい。高尾さんは、われわれの生活に、何か非常に尊い──例へば光りのやうなものを与へに来て下すつたんだね。失礼ですが、御主人は何処かへお勤めにでも……。

牧子  それが、今、お一人なんですつて……。お母さんと御一緒は御一緒なんだけれど……。

貢  へえ、さうですか。


長い沈黙。


牧子  より江さんがね、一度、温室を見たいつておつしやるの。兄さま、あとで御案内してね。

貢  ああ、いいとも……。今、あんまり花は咲いてませんよ。ぢや、暗くならないうち、一廻りして来ませうか。

より江  でも、お疲れになつてやしませんかしら……。今日に限りませんわ。

貢  ちつとも疲れてなんかゐません。(起ち上る)

牧子  (制して)まあ、お茶を召上つてからになすつたら……。そんなに広くもないんですから……。

貢  (腰をおろし)それやさうだ。

より江  今、どういふ花が咲いて居りますんですの。

貢  今はね、さうですね……シクラメン、ヘリオトロオプ、シネラリヤ……。

より江  へえ、シネラリヤが……。

牧子  そんなに感心なさる程ぢやありませんのよ。ほんの申訳に咲いてるんですの。

貢  そんなこと云ふなら、此の春来て御覧なさい。チュリップがどんなに咲いてるか、まるで和蘭へ行つたやうですよ。それからヒヤシンス、これは東京中で一番見事な花を咲かして見せます。

牧子  効能書はもう沢山……。それだけのことを、他のお客様におつしやれたら、えらいんだけれど……。

貢  云つてるよ、みんなに云つてるよ。

より江  あたくしも、花の作り方を教へて頂かうかしら……。

貢  あなた、さういふこと、お好きですか。かういふ世話をしてみたいとお思ひになりますか。

より江  ええ、食べてさへ行ければ……(笑ふ)

牧子  さあ、それが問題ですわ。

貢  (起ち上り)ぢや、お伴しませう。

より江  (これも釣り込まれるやうに起ち上り)どうぞ……。


(両人出で去る、やがて、硝子越しに、二人の後姿が見える。牧子、一つ時、ぼんやりその方を見てゐるが、思ひ出したやうに、くるりと正面を向くと、両臂をテーブルの上に突き、両手で顎を支へながら、何事か瞑想に耽る。此の間、貢とより江の姿は、現れたり、隠れたりする。長い間。牧子は、突然、テーブルを離れるが、何となくそはそはした様子で、茶器を片づけたり、窓から外を見たり、鏡の前に立つて髪を直したり、つくづく手の甲を眺め入つたりなどする。再び長い間。やがて、また、彼女は、書架の間より写真帖を取り出し、その頁を繰り始める。そして、低く、「西原」「西原」と云つて見る。それは、消えかけた記憶を呼び覚まさうとするものの如くである。また写真帖を繰る。一つの写真を長く見てゐる。外の足音に驚いて、写真帖を元の処にしまふ。貢、続いて、より江現る)


牧子  外は寒いでせう。

より江  温室から出るのがいやでしたわ。さあ、もうお暇しなくつちや……。

貢  まあいいでせう。

牧子  ほんとに、おうちさへよければ……。

より江  いいえ、遅くなると、やつぱし母一人ですから……。それに、あの辺は、それや、寂しいんですのよ。

貢  お送りしませうか。

より江  まだ大丈夫ですわ。ぢや、御免遊ばせ。また、いづれ近いうちにお邪魔させて頂きますわ。

牧子  そんなこと仰しやらないで、毎日、是非……。

より江  (笑ひながら)お兄さまのお留守の時を見はからつてね……。

貢  どうしてです。え、どうして……。


(より江を送つて、貢、牧子、出づ)


貢の声  さよなら。

より江の声  さよなら。


(やがて、貢現る)


貢  (あたりを見廻しながら)此の応接間も役に立つたね。(間)おい、牧子、一寸来て御覧(ポケツトから、色々の化粧品を取り出しながら)来て御覧つてば……。

牧子  (現れ)お腹が空いてらつしやるでせう。

貢  腹は空いてない。これ、どうだい。

牧子  (不審さうに貢のすることを見ながら)それ、なんですの、一体……。そんなもの、どうなさるおつもり……。

貢  おれがどうするわけもないぢやないか。お前に買つて来たんだよ。

牧子  あたくし、眉墨や頬紅なんか、もう使ひませんよ。

貢  使はなくつてもいいから、しまつとけ。

牧子  何を思ひ出して、こんなもの買つてらしつたの。

貢  いろんなことを思ひ出してさ。それはさうと、お前、西原は一人で帰つて来たよ。金髪美人を連れて来るだらうなんて云つてたけれど……。

牧子  まだ、どうだかわかるもんですか。後から追つかけて来ることだつてありますわ。

貢  疑ひ深い奴だなあ。しかし、あいつ、おれんとこなんかへ遊びに来るかねえ、久し振りでゆつくり話さうつて、今日、手紙を出しとかうと思ふんだが……。当分、神田の鳳仙閣つていふホテルにゐるらしい。一人ぢや、家を持つわけにも行くまいしね。奴さん、お前がかうしてるのを見たら、きつとびつくりするぜ。

牧子  (そんな話に興味はないといふやうに)ぢや、御飯の支度をして来ますわ。

貢  まだ早いよ。もう少し話をしようぢやないか。今日は、なんだか、いろんなことが新しく始まるやうな日だよ。今日まで、世間から離れて、たつた二人つきりで送つて来た暗い生活の中へ、思ひがけなく、同時に、二人まで、華やかな──さうだ──二人の華やかな友達が訪れて来るんだ。来たと云つてもいい。あいつは、きつと来るよ。

牧子  兄さま。より江さんをどうお思ひになつて……?

貢  気持のいい人だね、何してるの?

牧子  外国人の商店に働いてるんですつて……。売子みたいなもんかしら……。でも、下品なところはないわね。

貢  さうか、職業婦人だね。なんでもいいさ。お嫁に行つたつて云ふのはどうしたの。お前、昨夜、さう云つたらう。間違ひだつたの。

牧子  一度行つたんだけれど、うまく行かなかつたらしいの。

貢  はあ。なに、かまふもんか、そんなこと……。友達として交際つきあふ分にや、一度目だつて、二度目だつてかまやしない。

牧子  友達としてなんて仰しやらなくつてもいいぢやないの。

貢  まあ、さう、つけつけ云ふなよ。おれは、しかし、駄目だ。そんな気は起さない方がいい。それよりも、おれは、何時も云ふ通り、お前のことを心配してゐるんだ。それも、今までの生活では、何時どうといふ望みはなかつた。しかし、かうなつて来ると、お前の周囲にも、明るい、和やかな空気が漂ひ出すんだ。それを、お前も、感じるだらう。感じなければうそだ。感じるやうにしなくちやいけないよ。さうなれば占めたものさ。お前は、まだ若い。いや、若いんだよ。あの人を見ろ、より江さんを……。お前と同い年だらう。あれが、つまり、周囲の空気を感じてゐる証拠だ。お前も、あの通りになれ。──笑ふ奴があるか。

牧子  男つて呑気なものですわね。いくつになつても空想があつて……そして、その空想に相応した興奮があつて……。

貢  何を云ふか。おれは、今日、自分でも少しはしやぎすぎるなと思つてゐる。だからつて、別に、さういふ気持を抑へる必要はないぢやないか。これはほんの譬へだがね、今、より江さんがおれの細君になり、西原がだよ、お前の旦那さんになつてくれてさ、さういふ二組の新しい生活が始まるとしたら、お互に、よろこんでもいいぢやないか。それは、あり得ないことかも知れない。しかし、一昨日よりは、あり得べきことだらう。さういふ今日に廻り会つたことだけでも幸福ぢやないか。希望は逃げて行くもんだ。しかし、希望が一つ時でも、こつちを向いて笑つてくれれば、こつちも、大いに笑つてやればいいぢやないか。

牧子  そんな理窟は成り立つかどうか知りませんけれど、兄さまの、さういふ元気なお顔を見るだけでも、晴れ晴れしますわ。より江さんは、いろいろ事情はあるでせうけれど、きつと、そのうちに兄さまを好きになると思ひますわ。兄さまさへ、今のやうなお気持でいらしつたら、話は、とんとん拍子できまると思ひますわ。さうなつたら、あたくしも安心ですわ。ここのお勝手をあの方にお預けして、あたくしは、どつかへ働きに出ますわ。できれば、あの方の今の仕事を譲つて頂くやうにしますわ。

貢  そんなことをしなくつてもいいよ。お前はお前で、ちやんと、結婚をして、此の近所に家を持つさ……。さうするまでは、そんな、働きになんぞ出なくつたつて、一緒に家の仕事をすればいいぢやないか。あの人は、花をいぢるのが好きだつていふから、そつちの方を手伝つて貰つてもいいし……。

牧子  とにかく、もう少し、おつきあひしてみないとわかりませんわね。

貢  それもさうだ。急ぐことはないさ、下手に切り出して、もうここへ来ないなんて云はれちや、なんにもならないからね。それくらゐなら、始めからなんにも云はずにゐて、いつまでも、友達として出入をして貰つた方がいいよ。ああいふ友達は、是非、必要だ、われわれの生活には……。さつき、温室の中で、おれの手を見て、まるで木の根みたいな手だと云ふんだ。触つて御覧なさいつて、手を出したら、面白がつて、指で撫でたりなんかするんだよ。ああいふ友達は是非必要だね、われわれの生活には……。



       第二場


同じ応接間。

三月下旬──午後一時頃。

鉢植の草花──新しい裸体画──軽快な台ランプなど。


貢と西原とが話をしてゐる。


貢  かうして、君が遊びに来てくれることは、僕らに、まだ生甲斐があるといふことを教へられるやうなものだ。ああして、君が、僕の健康の為めに乾杯してくれたのを見て、牧子は泣いてたよ。今も、どつかへ行つて、まだ泣いてるだらう。──あいつは、どうしてあんなに気が弱いのか、近頃泣いてばかりゐるんだ。(大きな声で)おい、牧子……。

西原  まあ、もう少し静かにさせておいてあげたらいいぢやないか。かうしてゐると、いろんなことに気を遣ふだらうからね。

貢  なにしろ、僕達は、あんまり世間から離れ過ぎてゐたよ。

西原  もうわかつたよ。いつまでもそんなことを云つたつてしやうがない。これからは、大いに交際を広くするさ。君も、早く細君を貰つたらいいぢやないか。

貢  (狼狽して)いや、なにしろ、あいつから片づけなくつちやね。

西原  君は、それで、食ふに困らない財産はあるんだし、早く妹さんを片づけて、一度西洋へでも行つて来るんだね。さうすると、人をあんまりこはがらなくなるよ。早く云へば図々しくなるよ、おれみたいに……。

貢  いや、その点ぢや、牧子なんかは、女だからでもあるが、久し振りで会つた君にさへ、あの通り、ろくに口が利けないんだからね。今日はこれで、四度目かい。まだ、昔通りにはいかないらしい。

西原  七年も別れてゐると、さうだらうな、こつちは、割合に、変つてないつもりなんだけれど……。

貢  だから、思つてることが云へない。云はうと思つてることを、みんな相手に云はれちまふんだ。

西原  それや、どうだか……。

貢  (云ひ直して)みんなでもないが、どうでもいいやうなことはさ(苦笑する)


(牧子が盆にコツプをのせて現れる。なるほど、泣いた後とは察せられるが、見違へるほどの若々しさである。)


牧子  こんなもの、お口にあひますか、どうですか……。

西原  今日は、あの方、見えないんですか。

牧子  あ、より江さん……。さあ、もう見えるかも知れませんわ。日曜の午後は、たいがい、見えますから……。

貢  君に会つたら、いろんなことを云はうと思つてたんださうだ。

西原  だれ?

貢  いや、こいつがね。ところが、君の顔を見たら、なんだか、気おくれがして……。

牧子  あら、気おくれなんて、そんな……。

西原  僕はね、牧子さん、向うに行つてる間、何処へも手紙を出さなかつたんですが、一度だけ、あなたの処へ絵端書をあげようと思つたことがあるんですよ。思つただけぢや仕方がありませんが、それは、そん時、丁度切手を買ふ金がなかつたんですよ。その絵端書つていふのは、多分、今でも何処かへしまつてある筈ですから、此のつぎ、持つて来ます。

牧子  まあ、なんの絵端書でせう。

西原  あなたに似た女優の絵端書ですよ。(貢に)よく似てるんだよ。仏蘭西の女は、そんなに毛唐臭くないからね。

牧子  まあ、あたくしに似た女優なんて、ゐますでせうか。

西原  女優つて云へば、牧子さん、一つ、女優になつてみませんか。

牧子  あたくしがですか。女優にですか。人が笑ひますわ。

西原  処が、笑ひません。なぜ笑はないかつて云へば、職業俳優には出来ない芝居をやるんです。僕たちは、今度、市民劇場つていふ遊動劇団をこしらへるんですよ。どうです、晩、七時から十時まで、暇はありませんか。

牧子  さあ……。でも、あたくし、舞台なんぞへ出たら、足がすくんぢまひますわ。

西原  さういふ役を振らうぢやありませんか。足のすくむ役を……(一同笑ふ)男はいくらもゐるが、女がゐないんでね。

貢  君は、どうして、あつちの女と結婚しなかつたの。

西原  どうしてつて、そんな無理なこと云つたつてしやうがないぢやないか。ねえ、牧子さん。

貢  さうかなあ。やつぱり、日本の女がいいかね。

西原  いや、さういふ意味ぢやなくね。しかし、今では、さう、云つとくよりほかあるまいね。

貢  君は、日本の女の、どういふ女がいい。

西原  さあ、そいつは、見てみないとわからん。

貢  見てみたうちでは、どんなのがよかつた。

西原  さういふつもりで見てみないとね。

貢  さういふつもりで見てみろよ。

牧子  (たまり兼ねて)兄さま、西原さんさへおよろしかつたら、少しその辺を御一緒に散歩でもしてらしつたら……。

貢  食後、少しづつ、歩くことにしてるんだ。なに、今日はどうでもいいんだ。

西原  歩くなら歩かう。

貢  此の辺は、森がいいんだ。ああ、さうさう、家はまだ見つからないの。

西原  それがね、市中はやつぱり駄目だよ。と云ふのが、客が多くつてね。

貢  そんなら、此の辺へ来たらいいぢやないか。家はいくらも空いてるよ。そんなに広くなくつてもいいんだらう。あの家はどうかね、尼寺の隣の家さ。此の間まで札が出てたぜ。

牧子  あそこは道ばたでやかましいでせう。それより、あれはどうですかしら……。少し不便ですけれど、より江さんの御近所に、なんでも、画かきが建てた家が、建てたつきりになつてるんですつて……。借手があれば貸すらしいんですよ。

貢  アトリエづきだね。それやいいぢやないか。

西原  いいね。見せて貰へないかしら……。

牧子  より江さんのお母さんにお話すれば、わかりませう。一寸、行つて、伺つて来てみませうか。

西原  なんなら、散歩かたがた一緒に行つてもいいね。

貢  それや、それでもいいが……(独言のやうに)家を空つぽにするわけにや、いかんし、おれがいきなり、より江さんの家へ行くのは、初めてなんだから、一寸、工合がわるいしと……。

牧子  そんなこと、かまひませんけれど、とても、わかりにくい家ですから……。

西原  ぢや、僕が牧子さんについて行かう。

貢  ああ、さうしたまへ。それがいい。


(貢は、西原と牧子とを送り出してから、やがて、その姿を、硝子戸の向うに現す。しばらく、立つたまま、ぢつと一点を見つめてゐる。晴れやかな微笑。それから、上着を脱ぐ。煙草に火をつける。その煙を、空に向つて、大きく吹く。煙草を喫ひ終ると、温室の中から、鉢を二つづつ運び出して、花壇に並べはじめる。長い間。

此の時、より江の姿が、また硝子戸の向うに現れる。貢を見つけて、その方に近づいて行く。二人は立話をする。より江の快活な笑ひ声。貢は、また仕事にかかる。より江は、それを見てゐる。そのうちに、彼女も、手伝ひはじめる。仕事の句切がつくと、二人は、応接間にはひつて来る)


貢  今の家を借りたつていふのは、やつぱり画かきですか。

より江  ええ、さういふ話ですけれど……。でも、画かきらしくないんですの、その人が……。

貢  それがほんとかもしれませんね。ぢや、西原君が画かきだつて云つて、はひつてもいいわけですね。先生たち、がつかりして帰つて来るでせう。

より江  家なら、ほかに、いい家がありますわ、いくらでも……。

貢  僕たちは、あんまり外へ出ないから、わからないけど、一つ、心掛けといて下さい。不便なのは、いくら不便でもかまはないつて云つてましたから……。

より江  西原さんつて、西原敏夫さんておつしやる方でせう。此の間、報知講堂で講演をなさいましたわね。

貢  さうですか。僕は、近頃、新聞なんか見ないもんだから……。


長い沈黙。


より江  随分活動していらつしやるやうですわね。

貢  さうでせう。


長い沈黙。


より江  近頃は、お忙しかありませんの。

貢  僕ですか。いいや。(間)僕、かういふ歌を作つたんですが、どうでせう。──呼吸いきもつかず、足音も立てず、何者か、忍び寄る如し、綻びを縫ふ──つて云ふんです。実感なんです。

より江  (考へて)さあ……。あたくし、歌なんかわかりませんけど……。でも、あなた、御自分で綻びなんかお縫ひになるんですの。

貢  あなたの前で、かういふことを云ふのは可笑しいですけれど、妹なんていふものは、あれで、やつぱり、兄きの身のまはりの世話なんか、十分にできないものなんですね。どうも、自分のうちつていふ気がしないらしいんです。あれで亭主の面倒が見れるかと思ふくらゐですよ。横着でしないわけぢやないでせうが、さういふ張合がないんでせうね。これ御覧なさい(上着の釦が取れかけてゐるのを見せ)これだつて、気がついてゐるのか、ゐないのか、一週間前から、このままですよ。かうして(釦を引きちぎり)とれてゐたつて、こつちから云ひつけるまで直しやしませんよ。

より江  でも、それは、お兄さまが、ずつとおうちにいらつしやるからですわ。外へお出ましになるやうな御商売なら、きつと、気をおつけになるんですわ。

貢  そんなら、うちの中は、どうでもいいつていふわけですね。さうなんですよ。此の部屋だつて、あなたがたが見えるやうになるまで、額一つかけようとしないんですから……。さういふことは、女の気持でどうでもなるんですからね。さういふ、うちの中の飾り方なんていふものは……。

より江  さうですかしら……。

貢  僕は、自分で別段に、趣味のある人間だとは思つてゐませんが、相当、生活に趣味らしいものをつけてくれるやうな人間が、そばにゐてくれればいいと、いつでも思ふんです。さもなければ、活気です。こいつが欲しい。実に、だれきつてゐるんですから、僕達の生活は……。

より江  さうは見えませんわ。

貢  近頃でせう。それは……。あなたがたのお陰ですよ。殊に、あなたのお陰です。いいえ、ほんとです。僕は、今、かうして元気よく働いてゐるのも、あなたの為めに、なるべく美しい花を咲かせようといふ希望があるからですよ。あなたが見に来て下さらなくなつたら、僕の温室の花は、みんな色がさめてしまふでせう。

より江  (戯談に取つて)あら、そんな……。

貢  うそだと思ひますか。そんならもつとお話をしませう。僕たちが──まあ、僕がと云つてもいいわけですが──かういふ仕事を始めたのは、別に、それで生活しなければならないからぢやないんです。なにか、健康的な、そして、人手を煩はさずに自分の生活を明るくするやうな仕事はないかと、あれこれ考へた末、花を作つてみようと思ひ立つたんです。牧子には、物をこしらへ上げるといふ楽しみがわからないんです。物を大切にしまつて置くことはできる。しかし、育てて行くことに興味がもてないらしいんです。おわかりになりますか。これは、たしかに、あいつの生涯を暗くしてゐます。従つて、僕の……。また愚痴を云ふやうですが、僕の生活を、半面に於て不幸にしてゐる。

より江  でも、牧子さんは、どなたの為めにああして、今迄、お独りでいらつしやるんですの。牧子さんの生涯が、まあ、仮りに暗い生涯だとすれば、その責任は、どなたにあるんですの。


長い沈黙。


貢  (だんだん憂鬱になる)

より江  さういふことおつしやるもんぢやありませんわ。あたくしさう思ひますわ。


長い沈黙。


貢  僕の責任もないことはありません。だから、どうすればいいんです。僕の力で、それがどうかなるんですか。

より江  早く牧子さんを自由にしておあげになることですわ。

貢  自由に……? あいつは自由です。


長い沈黙。


より江  あたくし、かういふお話をしに来たんぢやありませんわね。

貢  いいえ、かまひません。僕に間違つたところがあつたら、云つて下さい。僕は、さつき、あんなことは云ひましたけれど、実際は、牧子のことを一ばん心配してゐるんです。あなたが自由にしてやれつておつしやる意味は、どういふ意味だかはつきりわかりませんが、あいつを幸福にしてやることなら、どんな犠牲でも払ふつもりでゐます。あいつが、今、どつかにいい口があつて、嫁入りでもするやうなことがあれば、僕は、勿論、自分の不自由ぐらゐは忍ぶつもりです。

より江  (笑ひながら)それは、あたり前ですわ。それは犠牲とは云へませんわ。

貢  ああ、さうですか。なるほど、それはまづい譬でした。そんなら、どうしたらいいでせう。

より江  そんなこと、あたくしにお訊きになつたつて存じませんわ。また、お答へすべきことぢやないと思ひますわ。その事は、牧子さんが一番よく考へていらつしやる筈ですもの。

貢  あいつには、意志がないんです。したくないことはあつても、したいことはないんですからね。それだけは、僕が一番よく知つてゐますよ。

より江  全くお気の毒ですわ。

貢  あなたの力で、どうか、あいつに、前へ踏み出すことを教へてやつて下さい。あいつは、今、自分の眼の前に大きな幸福が待つてゐることを知つてゐるんです。それを知つてゐながら、どうすることもできずにゐるんです。

より江  でも、さういふことは、誰にだつてありますわ。


長い沈黙。


より江  あたくし、また伺ひますわ。今日は少し急ぎますから……。お昼までに帰るつて云つてありますの。

貢  それぢや、御飯はまだでせう。

より江  いいえ、それを済ませて来たものですから、遅れてしまひましたの。一寸した用事でも、なかなか午前中には片づきませんのね。またお邪魔させて頂きます。(起ち上り)途中で、牧子さんなんかにお遇ひするかも知れませんわね。

貢  まだ、いろいろお話ししたいこともあるんだけれど、御都合が悪るければ、また此のつぎにしませう。(これも起ち上り、より江を送つて出る。長い間)

より江の声  もう、よろしんですのよ。ほんとにもう……。あら、ここが、こんなに濡れてますわ。

貢の声  ははあ、バケツが漏るんだな。チヨツ、しやうがないな。


長い間。


貢  (やがて、二三通の郵便物をもつて現れる。その一つを開封する。読む。読みながら、椅子を引寄せ、腰をおろす。また別のを開いて読む。何れも、何んでもない手紙。さういふ時の精のなささうな表情。草花の鉢を一つ取り上げ、香を嗅ぎ、根ぎは、それから葉の裏を検め、不用な茎を摘み採りなどする。窓ぎはに立つて外を見る。外へ出る。しばらくして帰つて来る。また出て行く。長い間)


(此の時、牧子と西原とがはひつて来る)


西原  別に急がないんだから、よう御座んす。ゆつくり探すことにしませう。

牧子  ほんとに済みませんでした。(入口の方を振り返り)さあ、どうぞ……。かまはないぢやありませんか、そんなこと……。いやな方ね。

より江  (ためらひながらはひつて来る)あら、お兄さまは……。

牧子  何処へ行つたんでせう。裏ですわ。一寸呼んで来ますから、どうぞ、御ゆつくり……(かう云つて出て行く)

西原  もう少し早いか遅いかするとよかつたですね。

より江  あたくしがでせう。

西原  僕達がですよ……。

より江  おんなじですわ、それぢや……。

西原  お母さんはまだお若いですね。

より江  あたくしがお婆さんだからですわ。

西原  さうお取りになつちや困りますよ。あなたは実に鋭敏だ。どうです、あなたは芝居をやつて見る気はありませんか。

より江  どういふお芝居ですの。

西原  労働者に見せる芝居です。労働者とは限りませんが、つまり、面白い脚本を、頭のいい素人が、熱心にやつて、大勢に、安く見せる芝居です。

より江  あたくしに出来ますかしら……。

西原  出来ます。

より江  暇がありますかしら。

西原  夜は何時から暇です。

より江  五時から……。

西原  何時まで……。

より江  母に相談してみますが、許してさへくれれば、電車があるまで……。

西原  よろしい。電車代とお弁当しか出ませんよ。

より江  結構ですわ。

西原  明日から、僕の事務所へ来て下さい。

より江  母に相談してみますわ。

西原  事務所は此処です。(名刺を渡す)

より江  牧子さんにもおつしやつて御覧になりました?

西原  先生は、舞台に出ると、足がすくむさうです。

より江  あたくしもさうかもしれませんわ。

西原  無理に勧められない仕事ですからね……。

より江  あたくしからお勧めしてみますわ。

西原  お母さんさへお許しになればいいんですね。

より江  ほかに許しを受ける人なんか御座いません。

西原  さうですか。


(牧子、続いて、貢、笑ひを浮べながらはひつて来る)


貢  残念なことをしたね。(より江に)や、いらつしやい。

より江  意気地なく、引張られて参りました。

貢  さうあつてこそです。トランプでもしませうか。

西原  僕は知らない、さういふ遊びは……。まあ、君達、おやんなさい。

牧子  お教へしますわ。

西原  いや、僕は勘弁して下さい。それより、水を一杯どうぞ……。

牧子  只今、紅茶を入れますわ。

西原  なに、水で結構……。水の方が結構。

牧子  (取りに行く)

貢  そいぢや、まあ、面白い話でもしよう。

西原  僕にかまはずに、やり給へ。

貢  どうせ暇潰しさ。何をしたつて同じことだ。僕たちは、二人きりだと、よく、トランプの独り占をやるんだよ。二人が、めいめい、黙りこくつて、あれをやつてゐると、夜なんかね、一寸、神秘的だよ。

より江  さういふことがお好きらしいわね、お二人とも……。

西原  結局、閑人なんだね。

貢  いや、閑なことを苦にしてる人間なんだよ。

西原  閑人といふものは、閑を苦にしてる人間だよ。閑を楽んでる人間に、閑人なんかありやしない。

貢  それも一説だね。さうすると、僕たちは閑があり過ぎるのかなあ。

西原  あり過ぎるね。

牧子  (水を持つて来る)あり過ぎるんですつて……。閑なんかありませんわ。

貢  こいつは、閑を閑とも思はない女なんです。忙しい忙しいつて云ひながら、何もせずにゐる。

牧子  あら、うそばつかし……。

より江  そんなことありませんわね。あたくしなんか。どうかすると、なんにもすることはないと思ひながら、一方で、なにかしなくつちやならないと思ふでせう。その気持がこんがらかつて、結局、落ちつけないことがありますわ。

西原┐

  ├(同時に)それはありますね。

貢 ┘

牧子 ┐     ┌さういふ時だつて……。

   ├(同時に)┤

より江┘     └つまり、さういふことが……。

牧子 ┐

   ├(互に「どうぞ」といふ眼くばせ)

より江┘

西原  (引取つて)閑は出来ちや駄目だね。作るやうにしなくつちや……。

貢  それを云ふだけならやさしいがね。

西原  商売にもよるさ。

牧子  西原さんなんかは、おつしやるだけぢやないでせう。


長い沈黙。


貢  此の部屋はなんだか陰気だな。外が馬鹿に明るいだけに、家の中は、なんだかすすけてて惨めだ。

牧子  また外でお茶にしませうか。

より江  温室の前の芝生がよう御座んすわね。あそこで、何か戴くと、味が違ひますわ。

牧子  そいぢや、さうしませう。兄さま、一寸、また、手伝つて下さいません。

貢  机はあれでいいだらう。

より江  ええ、ですけど、椅子が……。

西原  椅子なら、僕が持つて行きます。

より江  あたくしも持つて行きますわ。

牧子  それぢや、めいめい、御持参で……。(先へ出る)

より江  (その後から、続いて)何かお手伝ひしませうか。

牧子の声  いいえ。いいんですのよ。

貢  (より江が持つて行かうとする椅子を無理に取り上げ、両手に一つづつ持つて出る)

西原  (これも、両手に一つづつ持つて、その後に続く)行きますよ。

より江  (ひとり、窓から、温室の方を見てゐる。懐中鏡を出し、手早く顔を直す)


長い間。


牧子の声  より江さん、いらつしやい。

より江  はい(と答へたきり、ぢつと、眼を据ゑて、何か考へてゐる。寧ろ、何かを待つてゐる)


長い間。


貢の声  いらつしやい、より江さん。

より江  いま、すぐ……(さう云つて、まだ、動かない)


長い間。

此の時、突然、西原の姿が、硝子戸に近く現れる。より江はそれを知らずにゐる。


西原  (極めて落ちついた調子で、しかし、親しみを籠めて)お茶が冷めますよ。

より江  (ハツとして、その方を振り返る)

西原  (朗らかな微笑を以て之に応へる)



       第三場


同じ応接間。

五月初めの夕刻、七時頃──

薄暗い燈火──窓掛が風にゆれてゐる。

牧子が現れる。勿論、前場の若々しさは去つて、もとの目立たない女になつてゐる。窓ぎわに椅子を持つて行つて、それに腰をかける。ぼんやり外を見てゐる。

呼鈴が鳴る。

彼女は、一寸首をかしげて、不思議だといふ眼つきをするが、急いで座を起つ。やがて「あら、どうなすつたの。もうすんだんですの。」といふ彼女の声──間──外出の服装をした貢が、帽子を被つたままはひつて来る。恐ろしく沈んだ顔つき。牧子、そのあとから、不安らしくついて来る。


牧子  今日は、もつと、遅くおなりになるだらうと思つてましたのに……。でも、あちらへ行き着くか行き着かないかぐらゐの時間ぢやありません……これぢや……?

貢  (牧子の腰かけてゐた椅子に腰をおろし、だるさうに帽子を脱ぐ。牧子、それを受け取る)さうさ、向うへ行きつくか行き着かないうちに帰つて来たんだもの……。

牧子  でも、顔だけは出していらしつたんでせう。

貢  いいや、出して来ない。

牧子  あら。

貢  やつぱり、出さない方がいい──ふと、あそこまで行つて、さう思つたんだ。向うとしちや、おれたちを呼ぶ義務があるだらう。しかし、こつちに、行く義務はないからね。

牧子  でも、行かなけれや、変に思ふでせう。

貢  変に思ふだらうな。──しかたがない。こつちとしちや、やつぱり、行かずに済ましたいからな。

牧子  ……。

貢  どうなつたつて、お互にこれまで通りの交際つきあひができれば、それでいいぢやないか。

牧子  此の一月つていふもの、だつて、交際つきあひらしい交際つきあひはしてませんわ。さういふ話があつてからでせう、急にこつちへ来なくなつてしまふなんて、随分現金ですわ、二人とも……。

貢  その間に、あの芝居といふやつがあつたからな。

牧子  より江さんていふ人の大胆なのには、あきれましたわ。どうでせう、あの大勢の前で……。

貢  さういふ女でなけれや、西原は動かせないんだね。

牧子  それは別の話ですけれど……。


長い沈黙。


貢  先生達は、結局、いい相手を見つけたね。革命家に労働婦人……。

牧子  ……。

貢  西原つていふ男は、中学時代から秀才だつたが、それや、ひねくれ者でね……。

牧子  より江さんも、学校時代には、それや先生を手古摺らせた人なんですのよ。やさしい問題なんか、あてでもしようもんなら、存じませんつて、つんと横を向くんですの。

貢  西原にもさういふ処があつた。しかし、あいつは、熱情家でね。今でこそ、冷静な口の利き方をし習つてゐるが、昔は──その当時、熱血男児つていふ言葉が流行つたが──その熱血男児の標本だつたよ。

牧子  そのくせ、より江さんは、人一倍、涙脆いたちで、よく友達の身の上話なんか聴かされては、独りで泣いてるんですよ。また、あの頃は、身の上話が流行つたもんですわ。──あたくしなんかも、随分、聴かせろ、聴かせろつて、人から云はれましたわ。それが、ね、ずつと兄さまと二人つきりなもんで、何かわけがあるだらうと思ふんでせう。その身の上話つていふものを、初めてして聴かせた相手が、より江さんなんですわ。自分では、何気なく云つてるつもりなのに、あの人、おいおい泣くんですのよ。しまひに、自分でも悲しくなつて……そこへ、また、なんとか、慰めるやうなことを云はれるもんだから、なほ胸がつまつて……。可笑しんですの。それからが、きまつて、例の、仲よしになりませうね、ですわ。

貢  西原の奴、一度、変なところへおれを連れて行つてね……。あれは、たしか、今考へると、戸山ヶ原の射的場かなにかなんだが、薄暗い穴の中でね……。そこで、腕をまくれつていふんだよ。腕をまくつて見せたら、やつも、小さな腕をまくるんだ。それから、何をするかと思つたら、ポケツトから、鉛筆を削るナイフを出しやがつてね、──さあ、おれも血を出すから、貴様も出せ、お互にその血を飲み合はうつて、いきなり、そのナイフをおれの腕へ突き立てようとするから、おれは、まあ、待て、とね……。

牧子  さう、さう、あの人の写真道楽が大へんなもんでしたわ。毎週一枚ぐらゐづつ新しく写したのを持つて来やしませんでしたか知ら……。それが、また、一一、変つた写し方で、その為めに、わざわざ、髪の結ひ方を変へたりなんかしたんですからね。二三度、あたくしも一緒に写さされたことがありますわ。

貢  おれが、これ誰だつて訊いたら、どうしても云はなかつた、あれも、さうぢやないか、そら、お前がすわつて、その肩へ手をかけてる……。これ誰だつて訊いても、お前は笑つてて云はないから、学校へ見に行くつておどかしたぢやないか。

牧子  そんなこと、ありましたかしら……。でも、その前に、あの人、うちへ来ましたわ。

貢  いいや、来ない。卒業する一寸前に、始めて、お前が伴れて来たんだよ。そん時、ははあ、あれだなと思つたんだから……。

牧子  あの頃から、綺麗つて云ふより、目立つ人でしたわね。どつか、ぱツとしたところがありましたわ……。

貢  さう云へば、あの時代に、先生と西原とうちで会つてやしないかしら……紹介はしなかつたかもしれないが……。

牧子  あつたにしても、両方とも、忘れてるでせう。だけど、西原さんも、特徴のある顔だし……。そんなことを、もう語し合つてるかもしれませんわね。

貢  無論、そんな話は、とつくにしてしまつてるさ。ああ、あん時、あそこにゐたのがあなただつたんですか、なんて、やつたにきまつてるさ。

牧子  ぢや、西原さんていふ方は、大学へいらしつてから、おとなしくおなりになつたのね。

貢  おとなしくつて……そんなにおとなしいか。

牧子  でも、お酒はあがらず、乱暴な口の利き方なんぞ、なさらなかつたでせう、ほかの方みたいに……。神谷さんなんか、出鱈目だつたぢやありませんか。

貢  神谷の方が馬鹿だよ、それや……。西原は、さうだね、大学へ来てから、急にすましだしたね。眼鏡を拭きながら話をすることなんか覚えてね。

牧子  それはさうと……。


沈黙。


貢  なに?

牧子  いいえ、なんでも……。


長い沈黙。


貢  これで、先生たちが、同時に、われわれから、非常に遠い処へ行つてしまふやうな気もするが、それと反対に、何時までも、この辺をうろうろしてゐて、なかなかわれわれの頭の中から消えて行きさうもないつていふやうな気もするんだ。

牧子  どつちにしても、あんまり……。

貢  うん。それや、まあ、どうでもいいさ。(間)おい、人が帰つて来たら、茶ぐらゐ飲ませろ。それから、此の間から云つてるぢやないか、此の電球をもつと大きいのと取り換へようつて……。

牧子  兄さまこそ、序に、買つて来て下さればいいんですわ(起ち上る)

貢  それがいけないんだ。自分で家の中をキチンとしようと思はなくつちや……。ねえ、もう少し、ここだつて、家らしくできるだらう。

牧子  お茶は、ただのでよろしいんですか。

貢  そんなことも、自分で考へろよ。

牧子  (出で去る)

貢  (頭を抱へる)


長い間。


貢  (何となく落ちつかぬ様子で、室内を歩きまはる。時々立ち止つて、耳を澄ます。何を聴かうとしてゐるのかわからない。が、さういふ動作の後で、常に、悩ましげな表情が浮ぶ)

牧子  (紅茶を運んで来る)お湯が少しぬるいんですけれど。

貢  もう欲しくない。

牧子  (椅子に倚り、途方に暮れてゐる)

貢  何も考へることはないだらう。お前にはお前、おれにはおれの生活がある。仕事がある。どうしてそつちを向くんだい(呶鳴るやうに)こんなことぢや、駄目だよ、何時までたつたつて。

牧子  (ハツとして、そつちを振り返へるが、その眼は、反感といふよりも、寧ろ憐憫の情に近い色で、寂しく曇つてゐる)


長い沈黙。


貢  (思ひ出したやうに書架の中から、恐らく手当り次第であらう、書物を一冊引抜き、肱掛椅子に投げかかるやうにして、その頁を繰りはじめる。勿論、それは、言葉の調子を変へる準備であつたに違ひない)事務所の電球を外して来てくれないか。

牧子  (素直に立つて出て行く)

貢  (書物をテーブルの上に投げ出し、左の靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、足の指をいぢる)

牧子  (電球を持つて来る。此の光景に聊か意外らしい一瞥を投じた後)電球、取換へませうか。

貢  ああ。

牧子  (電球を取りかへる。貢の側に近寄り)マメですか。

貢  ああ。

牧子  絆創膏か何か持つて来ませうか。

貢  それより、飯粒を持つて来てくれ、針と……。

牧子  そんなことなすつてよろしんですの。

貢  いいんだよ。

牧子  (飯粒と針とを取りに行つて来る)

貢  (針でマメを潰す。その上に飯粒を塗る。そして、紙片を張りつける)

牧子  (この間、ぼんやり、傍に立つてゐる)

貢  お前は、何か、することはないのか。

牧子  ……。

貢  自分の用事はないの。

牧子  いいえ、別に……。

貢  可笑しいね、今夜に限つて、どうして、おれも、お前も、なんにもすることがないんだらう。

牧子  今夜、兄さまのお留守の間に、しようと思つたことはありますのよ。

貢  なんだ、どんなこと……。

牧子  (椅子にかけ)手紙を書かうと思ひましたの。

貢  何処へ?

牧子  お友達のとこ。

貢  友達……? どんな友達……? 誰……?

牧子  より江さんと同じくらゐ仲のよかつたお友達……。

貢  やつぱり、独りでゐるの。

牧子  一昨年までは独りでゐるつていふ話でしたわ。

貢  一昨年まで……。ふむ……。ああ、何時か、何処かで会つたつていふ……。

牧子  ええ、庄司さん、……。

貢  書いたらいいぢやないか。東京にゐるの。

牧子  もとの処にゐますかどうですか……。

貢  学校へ聞き合せればわかるだらう。(間)こつちから手紙をやれば、よろこぶだらうと思ふやうな奴もゐないな、おれの仲間にや……。神谷ぐらゐのものかな……。あいつなんか、もう子供の二三人もこさへてるだらう。案外近所に住んでゐて、知らずにゐる奴があるかもしれないね。

牧子  より江さんなんか、それでしたわ。

貢  此処の前なんか通らない奴でさ。

牧子  さうですわ。


長い沈黙。


貢  あしたはと……。あいつを植ゑ替へてと……。

牧子  ……。

貢  今夜は、もう寝てもいいんだが、寝るには惜しい晩だな。──風が出て来たね。

牧子  ……。

貢  何か、かう、事件でも起りさうな気がするな。

牧子  事件が起つてるぢやありませんか。

貢  こつちにもさ。──ぢつと待つてれば、何かやつて来さうな気がするんだ。お前、そんな気がしないかい。

牧子  しますわ。

貢  ね、するだらう。変なもんだね。こんなものかねえ。

牧子  ……。

貢  今夜、一晩、起きててみようか。ここに、かうしてて見ようか。何かしら、あるよ、たしかに……。

牧子  いやですよ、そんなことなすつちや……。

貢  兎に角、これは大したことに違ひないよ。四つの魂が、此の月の光の中で、ダンス・マカアブルを踊るかもしれないよ。おれは、それが見たいね。一寸でもいいから見たいね。

牧子  なんのことですの、それは……。

貢  静かに眠ればいいさ。(間)さもなければ、大きな声で歌がうたへるか。(間)どつちもむつかしさうだね。それぢや、どうしよう。(間)かうしてるよりしかたがないぢやないか──かうして、ぢつとしてゐるより……。(椅子の背に頭をもたせかける)

牧子  (静かに涙をふく)


──幕──

底本:「岸田國士全集2」岩波書店

   1990(平成2)年28日発行

底本の親本:「屋上庭園」第一書房

   1927(昭和2)年525日発行

初出:「中央公論 第四十二年第一号」

   1927(昭和2)年11日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。

入力:tatsuki

校正:Juki

2009年1112日作成

青空文庫作成ファイル:

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