賢婦人の一例(一幕)
岸田國士
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橋本夫人
渥美登
静間氏
静間弓子
女中
東京の郊外──初冬──午後二時頃。
橋本家の奥座敷。
紫檀の机を囲んで座蒲団が四つ。
女中が火鉢に炭をついでゐる。
橋本夫人が現れる。
橋本夫人 その炭は跳ねるから、気をつけてね。
女中 はい。
橋本夫人 それから、きいちやんが、また、お玄関を泥だらけにしたよ。
女中 はい。
橋本夫人 (順々に座蒲団の上に坐つてみながら)ここが登さん、ここが静間さん、それから、ここがお嬢さんと……。(火鉢の中をのぞいて見て)いいから、さ、早くしないともう見える時分だよ。
女中 はい。(十能を持つて去る)
橋本夫人 (床の間の生花を手早く直したりなどする)
女中 (現る)もうお見えになりました。
橋本夫人 どなた? どちら……?
女中 (わかつてはゐるが一寸口へ出ないといふ風に)あのう……。
橋本夫人 いやな人だね。(かう云つて、急いで、玄関の方へ行く)
橋本夫人の声 さあ、どうぞ……。お待ち致してをりました。いいえ、まだ……。あら、そんなことおよしになればいいのに……。(橋本夫人に続いて渥美登現る)
渥美 (あたりを見廻し)なるほど……。
橋本夫人 何がなるほどですの。いいえ、そこは違ひます。あなたは、こちら……(右手の席を指す)
渥美 (座に着きながら)ほんとに、向うは承知なんですか。
橋本夫人 どんなこと?
渥美 どんなことつて、いろんなこと……。なにしろ、あんまり年がちがひすぎますからね。
橋本夫人 今更、なんです。あなたの方の御損にはならないでせう。
渥美 損にならないつたつて……。をかしいなあ。
橋本夫人 何時までも、そんなことをおつしやつてるもんぢやありませんわ。向うさんでいいつておつしやるんだから、それでいいぢやありませんか。近頃の若い娘さんは、なかなか考へてますからね。男は、三十以上でなけれや、一人前とは云へないつていふことをちやんと心得てゐるんですよ。
渥美 えらいことを心得たもんですな。女は二十一になると、そんなことを心得るもんですかね。僕は、なんだか、今度は気が進まないんですがね。年のことばかりぢやないんです。あの写真ぢや、それや、綺麗な娘さんには違ひないけれど、ただそれだけといふ気がしてならないんです。
橋本夫人 写真では、それだけのことがわかればいいんですわ。あとは、追々にわかるんでせう。だから、兎に角、お会ひになつて御覧なさい。
渥美 でも、一度会つたら、断るつていふわけには行きますまい。それや、理窟ぢやいいわけだけれど、人情が許しませんや。
橋本夫人 その人情は、しばらくあたくしがお預りして置きます。勿論、今日一度で、お決めなさいなんて云ひませんわ。そんな馬鹿な法はありませんものね。
渥美 僕が、奥さんにお委せするつて云つたのはですね、つまり、奥さんのやうな、その、なにを、お世話して頂かうと思つて、さう云つたんですからね。
橋本夫人 あたくしのやうなお婆さんをですか。
渥美 奥さんのやうな、かう、なんといふかな、奥さんらしい奥さんをです。
橋本夫人 誰だつて、奥さんになれば、奥さんらしくなりますわ。お嬢さんらしいお嬢さんほど、奥さんらしい奥さんになるんですよ。
渥美 そのお嬢さんらしいといふやつが、僕の趣味に合はないんだから、困るんです。初めから奥さんらしいお嬢さんといふものはないもんですかね。
橋本夫人 そんなものがあるもんですか。
渥美 ぢや、お嬢さんでなくつてもいいですよ。
橋本夫人 馬鹿おつしやい。
渥美 どうしてです。その方が……。
橋本夫人 もうそんなお話は沢山……。今日は真面目な日ですよ。常談は、あとで伺ひますわ。
渥美 僕、あとまでゐてもいいんですか。
橋本夫人 さあ、今日はなるべく、先へお引上げになつた方がよくはありませんかしら……向うさんのお気持から云つて……。
渥美 それや、どつちでもよござんす、僕は……。だつて、どんな話をすればいいんです、一体全体……。まさか、恋愛論もできないでせう。
橋本夫人 電気のお話はどう。
渥美 いよいよ困つたら、さうします。(間)ねえ、奥さん、此のつぎは、もう少し、年を取つた人がいいですな。
橋本夫人 此のつぎはね、はい、はい、承知しました。
渥美 二十六七……八九まではいいですな。
橋本夫人 どうして、今日は、そんなことばかりおつしやるの。いやですわ、あたくし……。此の前は、ちやんと承知なすつてらしつたくせに……。
渥美 あれから、考へてみたんですよ。それに、今日奥さんにお目にかかつたら、やつぱり女も、奥さんぐらゐにならないと、光つて来ないもんだつていふことを、つくづく感じたんです。つまり、それまでの七八年といふものは、云はば、なんにもならない時なんですな。柿で云ふなら、渋の抜けない、甘味のつかない時なんですな。
橋本夫人 そん時はそん時で、また別のよさがあるんですよ。(独言のやうに)さうですかね、もう、男も、あなたぐらゐの年におなりになると、女を食べ物に替へたりなんかなさるやうになるんですのね。花といふ時代がありますよ、花といふ時代が……。
渥美 それやわかつてます。わかつてますよ。しかし、花は無闇に折るもんぢやありません。僕は、さう思つてる。いいですか、女といふもんはですよ……。
(女中茶を運んで来る)
橋本夫人 その議論は、またいづれ伺ひますわ。しかし、兎に角、花の時代から、御自分の庭に植ゑてお置きになることも出来るわけですからね。
渥美 そして、実が生る頃には、樹登りの出来ない年になつてね、どつかの鼻垂小僧が、何時の間にか、ちぎつて持つて行くんです。
橋本夫人 意気地のないことをおつしやいますな。
渥美 (机の向ひ側を指し)ここへ誰が坐るんです。
橋本夫人 まあ、黙つて、あたくしのすることを見ていらつしやい。
渥美 僕、ちやんと坐つてなくつちやいけないんですか。
橋本夫人 さあ、その辺は、どうか御自分でお考へになつて……。
渥美 御主人は……?
橋本夫人 宅は、御免蒙つて、役所へ参りました。
渥美 なあんだ……心細いなあ。
橋本夫人 お年をお忘れにならないやうに……。
渥美 年ですか。年は三十六ですよ。それがどうしたんです。苟くも、かういふことは生れて初めてなんですからね。
橋本夫人 結構ですわ。
渥美 (蒲団の数を数へながら)さうすると、もう一人は誰です。
橋本夫人 あなたのライヴアル……。
渥美 向うは誰かついて来るんですね。
橋本夫人 あなたもどなたかについて来てお貰ひになれば、よう御座んしたわ。
渥美 恐ろしく気づまりなもんですね。
(女中、現る)
橋本夫人 お玄関はちやんとなつてるね。
女中 はい、只今……。あの……。お客様が御門の前にいらつしやいます。
橋本夫人 どういふの、それは……。
女中 お嬢さまが、どうしてもおはひりにならないんですよ。先程から、静間の旦那さまが、お玄関と御門の間を、往つたり来たりしていらつしやいますんです。
橋本夫人 まあ……。(渥美に笑ひかける)
渥美 (これもにやにや笑ひながら、頤を撫でてゐる)
橋本夫人 (独言のやうに)どうしよう。
(此の時、玄関で、「御免」といふ声。女中、急いで退場)
渥美 僕、此処にゐてもいいんですか。
橋本夫人 (起ち上り、ぢれつたさうに)あなたがいらつしやらなければ、誰がゐるんですの。しつかりなさらなくつちや駄目よ。一寸、失礼……(出で去る)
(やがて、静間氏を先頭に、橋本夫人、やや後れて、弓子、それぞれ姿を現す)
橋本夫人 こちらが、渥美登さんでいらつしやいます。静間さん……。こちらが、お嬢さま、弓子さんとおつしやいます。
静間 どうかよろしく。
渥美 こちらこそ……。
橋本夫人 さあ、どうぞ、皆さんお敷き遊ばして……。お嬢さまは、こちらが、およろしいでせう。(渥美の向ひ側に坐らせる)道が、大変で御座いませう。
静間 此の前伺つた時は、こんなでもありませんでしたな。
橋本夫人 今朝の霜で、すつかり道がこはれてしまひまして……。
静間 ああ、さうでせう。渥美さんは、此の御近所でしたなあ。
渥美 ええ、近所と申しましても、電車を二停留場ばかり……。しかし、まあ、お宅からのことを思へば……何でもありません。
橋本夫人 大森の方は如何で御座います。やはり、こんなに家が建ちますでせうか。
静間 わたし共の方は、もうおしまひですな。地面がありません。──あれで、池上よりの方は、まだ盛に建てるらしいですな。失礼ですが、此のお住ひは……。
橋本夫人 あの、一昨年、建てましたんですけれど、なんですか、やくざな普請で……。
静間 いや、なかなか、どうして……。渥美さんは、大森の方はお嫌ひですか。
渥美 嫌ひといふわけぢやありませんが……、向うの方は、なんとなく明くつていいとは思ふんですけれど……。八景園へもしばらく行きません。
静間 八景園……あれや、今は、なんですが、こちらにも、井の頭公園といふのがあるつていふ話は聞いてゐながら、まだ、その、なんです……(娘に向ひ)お前、女学校の遠足で来たことがあるんだらう。
弓子 (うなづく)
渥美 遠足はお好きですか。
弓子 (からだを曲げ、父の顔を見る)
橋本夫人 (取りなし顔に)そんなことねえ。遠足にだつて、いろいろありますわね。
渥美 遠足か……(どういふつもりか、感慨無量と云つた風に、天井を見上げる)
長い沈黙。
静間 今年の夏、お連れがあつたもんですから、浅間へ登りましてね。他に見てたものはないんだから、頂上まで登つたかどうかあてにはなりませんがな。
弓子 (にらむ真似をして)随分だわ。
渥美 へえ、浅間へ……。大したもんですな。僕なんか、これで、山登りだけは閉口ですな。
橋本夫人 あら、そんなにお弱いんですの。
渥美 弱いにも、強いにも、あれこそ無駄骨といふ気がして……。
静間 全くですな。どうせ、また降りて来るんですからな。
弓子 あら、いやだ。
橋本夫人 無精でいらつしやるのね。
静間 さうすると、運動の方は、おやりにならないんですか。
渥美 学校時代には、あれで、ラケツトぐらゐ握つたこともありましたけれど……。お嬢さんは、山登りのほかに、なにか、おやりですか。
弓子 (何か云ふが聞えない)
渥美 は?
弓子 (また云ふが、渥美の耳にはひらない)
静間 (引取つて)学校で、柔道を教へたらしいですな。
渥美 柔道……。(背負投げの手真似をして)これをですか。
弓子 (笑つてゐる)
橋本夫人 珍しい学校ですわね。でも、きつと重宝ですわ。
渥美 (また天井を見上げ)柔道か……。
長い沈黙。
静間 渥美さんは、学校をお出になつてから、ずつと、今の会社に……。
渥美 はあ。
長い沈黙。
静間 わたしなどは、技術方面のことはよくわかりませんが、総べて、電気の世の中になりましたな。
橋本夫人 ほんとで御座いますね。宅なんかも、渥美さんからお台所の電化を勧めて頂いてゐるんですけれど……。まだ、なんですか、気味が悪う御座いましてね。
静間 目に見えない化物だけに、一寸、油断がならん気がしますな。
渥美 さうですかね。
長い沈黙。
橋本夫人 お嬢さまは、お琴を遊ばすんでせう。
弓子 (はにかんで)ええ。
橋本夫人 ほかに、何か、お稽古をなすつていらつしやいますの。
弓子 ええ、あの、フランス刺繍と、それから画を少しばかり……。
渥美 西洋画ですか。
弓子 いいえ。
静間 日本画の先生が御近所にあるもんですからね。なに、これも流行でしてね。
橋本夫人 あたくしなんか、姉妹が大勢だつたものですから、何一つ、ろくに習はしても貰はず、ほんとに、つまりませんわ。
静間 奥さんは、しかし、学問の方ぢや……。
渥美 いや、全くです。僕なんか歯がたたない方です。
橋本夫人 歯なんかたてて頂かなくつてもよう御座んすよ。それより、これでも召上れ、こんな変なお菓子ですけれど……。お嬢さまは如何……。お茶を入れ替へませう。(茶をくみかへる)
静間 渥美さんは、(杯を口に当てる真似をして)此の方は如何です。
渥美 (橋本夫人の方を見て)さあ、なんと云つたらいいんですかなあ。
橋本夫人 ほんとのことをおつしやればいいでせう。ちよつと、おいけになるんですの。たんとぢやありませんわね。どれくらゐ。一合、二合……。
渥美 (笑つてゐる)
静間 ははあ、すると、なかなか、お強い方ですな。
橋本夫人 でも、お酔ひになることなんかおありにならないんでせう。
渥美 酔はんとは限りませんな。
橋本夫人 しかし、正体なくつていふやうなことは……。
渥美 たまにありますな。
橋本夫人 滅多にないつておつしやるものですよ。でも、そんな評判はちつとも伺ひませんでしたわ。
静間 なに、御自分でおつしやるほどだから、大したことはないにきまつてゐる。どうです。一つ、近々お相手をしますかな。
橋本夫人 おやおや、とんだことになつてしまひましたわね。
静間 運動がお嫌ひなら、娯楽の方はなにか、玉とか碁とかいふやうなものは……。
渥美 碁はやりませんが、玉は少しばかり突きます。
静間 将棋は?
渥美 ヘボです。
静間 わたしもヘボなんですが、(あたりを見廻し、床の間の上に将棋盤があるのを見つけ)ありますな。一番願ひませうか。
渥美 いや、どうも……。
橋本夫人 まあ、もう少しお話し遊ばしてからでは如何ですの。
静間 なに、お話は、やりながら出来る。一つ、願ひませうか。(橋本夫人に)拝借してよろしいんでせう。
橋本夫人 はあ、でも……。
弓子 いやなお父さまね。
静間 まあ、お前は、奥さんとお話をしとれ。さあ、(起ち上つて、将棋盤を提げて来る)余程お強いんでせう。どういふことにして願ひますかな。
渥美 御常談でせう。こちらこそ、外して頂かなくつちやなりますまい。(もう駒を並べはじめる)
静間 まあ、最初は一つ、お手並拝見とでかけませう。
渥美 どうして、どうして、まだやつと並べ方を覚えたばかりですから……。
静間 ぢや、兎に角……(駒を突く)
渥美 それや、いけません。(相手の駒を引込め、自分の駒を突く)
橋本夫人 (弓子に向ひ)ぢや、こちらも、トランプかなにか致しませうか。あ、それより、いいものをお目にかけませう(起つて行く)
静間 や、これやいかん。(間)さうか、なるほど……。いや、いや、かういふ手がある。
渥美 それは怖くないです。
橋本夫人 (写真帳を携へて来る)面白い写真があるんですのよ。こんな処は飛ばしませう。これ、誰だかおわかりになります?
弓子 わかりますわ。でも、随分お変りになつてますのねえ。
橋本夫人 変つてませう。これが姉ですの。
弓子 まあ、そつくり……。
橋本夫人 これ、みんな妹ですの、ええ、これが、今の姉……。
静間 あ、あ、あ、……ちよ、ちよ、ちよつと待つて……。
弓子 (その方を振向き、笑ひながら)もう夢中になつて……。
橋本夫人 これが宅の伯父ですの。渥美さんのお父さまと幼友達でね……。ですから、その関係で……。
静間 一手遅れだ、ね。これで、もう絶体絶命か。
弓子 小母さま、あの、あたくしの学校の吉住先生、御存じでいらつしやいます?
橋本夫人 吉住……吉住、なんておつしやるんです。
弓子 吉住愛子つて……。
橋本夫人 吉住愛子さん……。
弓子 やつぱり、女子大学をお出んなつた方ですけれど……。
橋本夫人 知りません。姓が変つてらつしやるんぢやないこと?
弓子 あ、さうかも知れませんわ。でも、旦那さまはおありにならないんでせう……と思ひますけど……。
橋本夫人 それにしても、愛子つていふ名の方は……その方がどうかなすたんですの。
弓子 いいえ、ただね、その方、小母さまに、それやよく似てらつしやるんですのよ。若しかしたら、御親戚か何かぢやないかと思つたもんですから……。
橋本夫人 まあ、そんな方がいらつしやるの。一度お目にかかりたいわね。
渥美 なんていふ人ですつて……。
弓子 (どぎまぎして)あの、吉住先生つておつしやるんですの。
渥美 あ、その人なら、僕、識つてますよ。
橋本夫人 うそでせう。(弓子に)うそですよ。
渥美 奥さんに似た人なら、僕、みんな識つてます。
静間 そこですか。それでいいんですね。
渥美 その代り、これで、かう行くと……。
静間 今度は形勢、有利ですな。
渥美 奥さんに似た人なら、みんな識つてると……。
橋本夫人 面白い方でせう。
渥美 参つた。
静間 いや、今のは、変ですな。そんな筈はない。
渥美 それぢや、もう一度……。
橋本夫人 あ、これが、あの方の(渥美の方を顧み)学校時代……。
弓子 (興味深さうに眺め入る)
橋本夫人 秀才らしいでせう。
渥美 えへん。
橋本夫人 まあ、聴いてらつしやるの。
弓子 (笑ふ)
橋本夫人 これはね、あたくしの一番仲のいいお友達……。女学校からずつと一緒でしたの。今ぢや、もう三人のお母さんですわ。(間)あなたの、かういふお写真も早く頂きたいわね。
弓子 あら……(手で顔を覆ふ)
橋本夫人 そんなことおつしやつたつて、もうぢきですわ。
静間 やあ、そいつが利いたか。
渥美 王手。
静間 かう行かう。
渥美 王手。
静間 仕方がない。
渥美 もう一つ王手。
静間 それで、お手は……。(間)万事休すかな。少し脆いですな。
渥美 怪我の功名です。
静間 なかなかしつかりして御座る。どうも、これや、段違ひらしいですな。
渥美 いえ、全く、今日は、どうかしてゐるんです。
橋本夫人 もう、お済みになりましたの。お茶を入れませう。徳や。
(女中現る)
橋本夫人 お茶を一つ……。あ、さうさう、(小声で)お紅茶をね。あまり濃くしないで……。それから、あのミルフウイユとね……。
女中 はい。(退場)
静間 もうどうか、おかまひなく……。
渥美 それぢや、早速ですが、僕、お先へ失礼さして頂きます、一寸、廻る処がありますから……。
橋本夫人 まあ、よろしいぢやありませんか。
渥美 しかし……。
静間 わたしこそ、もう、お暇しませう。さ、お写真は、また今度、見せて頂け。
橋本夫人 でも、今、お茶を入れさせますから……。
静間 いや、いや、もう結構……。また何れそのうち……。ちつと、わたし共へも、お寄り下さい。家内は、どうも、から意気地がなくつて、一向、外へ出ないもんですからね……。
渥美 僕も、そこまで御一緒に……。
静間 まあ、あなたは、御ゆつくり……。お近くなんだから……。(橋本夫人に向ひ)ぢや、これで御免下さい。どうも、いろいろ、ありがたう。(渥美に)それでは、近いうちに、(力を籠めて)またお目にかかりたいものです。
渥美 はあ、是非……(弓子に)や、失礼しました。
(静間と弓子、続いて橋本夫人退場)
渥美 (独り、座敷の中央に立ちたるまま、聴くともなしに、玄関の方の話声に耳を傾けてゐる様子である)
長い間。
渥美 (やがて急ぎ足に、玄関の方へ去る)
しばらく空虚。
渥美と橋本夫人、前後して登場。
渥美 僕、先へ帰らなくつてよかつたんですか。
橋本夫人 一緒にお出になればよかつたのに……。
渥美 さうするもんですかね。
橋本夫人 もんかどうか知りませんけど、その方が、デリケートね。
渥美 もう仕方がないや。
橋本夫人 あなたは、わざわざ此の話をこはさうとしてらつしやるの?
渥美 どうしてです。
橋本夫人 さつきだつて、あんな余計なことばつかりおつしやつてさ。
渥美 酒のことですか。
橋本夫人 そんなことより、あたくしに似てる人はどうだとか、かうだとか、ああいふ風なことは、若い娘さんの前でおつしやるものぢやなくつてよ。
渥美 だつて、云ひたかつたんだからしやうがないでせう。奥さん、僕に、あのお嬢さんを押しつけることだけは、勘弁して下さい。
橋本夫人 押しつけるんですつて……。
渥美 ぢや勧めることは……。
橋本夫人 やつぱり、お気に召さないんですの。
渥美 召す召さないより、まるで、問題ぢやないですよ。ああいふお嬢さんを貰つて、僕はどうすればいいんです。置いとく処だつてありやしませんよ。さうでせう、やつぱり、あれでも場処を取りますからね。
橋本夫人 あなたは、真面目にそんなことを云つてらつしやるの。
渥美 真面目に云つてるんです。奥さん、どうか僕の気持を察して下さい。
橋本夫人 それぢや、しかたがありませんわ。
渥美 奥さん、僕に、最後の一と言を云はして下さい。──僕はあなた以外の女を──女とは思へないんです。
長い沈黙。
橋本夫人 (凜然と)登さん、あなたは、此処を何処だと思つていらつしやるんですか。あなたは、橋本が年を取つた男だと思つて、軽蔑してらつしやるんですね。あたくしが橋本を不満に思つてるとでも感違ひをしていらつしやるんですか。そんなことはありません。そんなことがあるもんですか。
渥美 そんならいいんですよ。僕は感違ひをしてゐました。あなたが、かうしていらつしやることが幸福なら、その幸福を乱さうとは云ひません。しかし、その幸福を乱さないために、僕のからだを縛つて置かなけれやならないわけはないでせう。
長い沈黙。
少し言ひ過ぎましたか。こんなことは言はなくつてもよかつたかも知れません。しかし言ふだけのことは言つて置かうぢやありませんか。僕は、今日限り、あなたの前から、姿をかくします。
橋本夫人 さうなすつて下さい。それはそれでいいとして、あなたがさういふお心持ちで、今日、かういふ場処へわざわざいらしつた理由を聞かして頂きませう。あなたは、まさか、一人の純潔な処女を、精神的に弄ばうとなすつたんぢやありますまいね。若しさうだとしたら、あたくしは、あの方に、どうして顔向けができるでせう。後生ですからそんなことはないつておつしやつて下さい。
渥美 どうでも、それは、あなたのお気の済むやうに……。僕は、ただ、あなたの命令に従へるだけ従はうとしただけです。それが今は、もう、あなたの命令よりも強いものが、僕の心のうちに頭をもち上げてゐるのです。馬鹿なことをしでかさないうちに、早くお暇しませう。それでは、御機嫌よう。僕は、決して、あなたを悪くなんか思つてはゐません。あなたはいつまでも──変な言葉ですが──僕の偶像です。少し固くなり過ぎたやうですね。こんな芝居がかりの文句を、お互に本気で使はなければならないなんて、随分、滑稽ぢやありませんか。
(起ち上る。一寸、ためらつて、静かに歩き出す。姿が消える。橋本夫人、その後から座を起たうとするが、思ひ返して、机に片肱をつき、寂しく、しかし、やや皮肉な微笑を漏らす)
底本:「岸田國士全集2」岩波書店
1990(平成2)年2月8日発行
底本の親本:「屋上庭園」第一書房
1927(昭和2)年5月25日発行
初出:「黒潮 第三十二年第一号」
1927(昭和2)年1月1日発行
※初出時の表題は「賢夫人の一例」。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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