屋上庭園
岸田國士
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人物
並木
その妻
三輪
その妻
所 或るデパアトメントストアの屋上庭園
時 九月半ばの午後
二組の夫婦が一団になつて、雑談を交してゐる。一方は裕福な紳士令夫人タイプ、一方は貧弱なサラリイマン夫婦を代表する男女である。
男同志は極めて親しげな様子を見せてゐるに拘はらず、女同志は、互に打解け難い気持を強ひて笑顔に包んでゐるといふ風が見える。
三輪 それで買物は済んだのかい。
並木 買物……? 買物なんかどうだつていゝんだよ。
三輪 此の店へは、ちよいちよい来るの。
並木 ちよいちよい来る。しかし、滅多に買物はしない。此処は、君、屋上庭園でもなかつたら、僕達の来るところぢやないよ。
三輪 僕達も、あんまり此処へは来ないんだが、そら何時か此処から飛び降りて自殺した奴がゐたね、新聞に出てたらう、あれを思ひ出して、今日は一寸上つてみる気になつたんだ。
並木 あゝ、あれね……。
(一同は、今更の如く、下をのぞいて見る)
三輪の妻 こつからぢやたまりませんわね。
並木の妻 ほんとに……。
並木 万引をして見つかつたからと云ふんだが、これは確に一条の活路だね。
三輪の妻 活路ですつて……。死ぬのが活路なの。
三輪 さうさ。しかし、僕はかういふ処へ始めて上つて見たが、なるほど、これは一寸変つた処だね。
並木 僕は此の頃、街を歩いてゐても、これと云つて眼を楽しませるやうなものにぶつからないが、此処へ上つて見ることだけは、殆ど日課のやうにしてゐる。
三輪 君らしい道楽だね。
並木 それやさうだ。
三輪 いや、さういふ意味ぢやなくさ……。ねえ、奥さん、今日は久し振りで並木君とも会つたんですし、奥さんとは初めてお近附きになつたんだから、一つ、御一緒にゆつくり食事でもしようぢやありませんか。
三輪の妻 賛成ですわ。
三輪 お前が賛成なこたわかつとる。どうです。御差支はありますまい。
並木の妻 (夫の方を見ながら)でも……。
並木 さうさなあ。
三輪 いゝぢやないか、君……。
並木の妻 このなりぢや、あたくし……。
三輪の妻 あら、あたくしを御覧遊ばせ……。
三輪 着物なんかかまふもんですか。ぢや、どこか気の張らない処へ御案内しますよ。
並木 しかし、僕達はなんだよ……。
三輪 まあ、まかしときたまい。(妻に向ひ)ぢや、お前買ひ物があるなら、さつさと済ませて来ないか。おれはここで並木君と大に談じてるから……。
三輪の妻 (夫の耳に口を寄せて何か云ふ)
三輪 さうさ、あたり前さ。
並木 (妻に)お前も何か見るつて云つてたぢやないか。見て来いよ。
並木の妻 (夫の耳もとで何か囁く)
並木 かまふもんか、そんなこと……。
女どもは互に顔を見合ひ、笑ひながら退場。
三輪 なかなか可愛らしい細君ぢやないか。
並木 先手を打たれたか。君のこそ、逸物だね。どこかで見たことがあると思ふんだが、雑誌の口絵かな。
三輪 そんな代物ぢやない。子供はまだかい。
並木 短兵急だね。不幸にして二人目だよ。
三輪 目とは……?
並木 (にやにや笑つてゐる)
三輪 あゝ、さうか、気がつかなかつた。
並木 そんなことはどうでもいゝが、君は、いつまでも若いね。幸福かい。
三輪 幸福でないこともないが、さういふ君は、見かけほどでもないのかい。
並木 見かけはどうだか知らんが、一向パツとしないよ。
三輪 迂闊な話だが、君は、今……?
並木 住んでる処かい。
三輪 あゝ、それも聞きたいが、一体、今、何をしてるんだい。
並木 何つて、何も出来やしないよ。
三輪 学校を出てから、何か書いてるつていふ話は聞いてたが……。
並木 その頃は、あれでも、何かしてゐたよ。今ぢや君、仕事つていふ名のつく仕事は、向うから逃げて行くんだ。
三輪 そんなこともあるまい。
やゝ長い間。
並木 (突然、感慨めいた口調で)実際此処は面白い処だよ。あれを見たまへ──向うに見えるのが帝国ホテルだ。僕は、あすこの部屋に一度も寝たことはない。しかし、こゝへ上つて、あの屋根を見下ろすと、帝国ホテルがなんだといふ気になる。あれを見たまへ。あれが日本銀行だ。あの中には、さぞ大きな金庫があることだらうが、そんな金庫なんか埃溜と同じことだ、さう思へる。これも、変な負け惜しみぢやない。つまり、此処へ上つて見ると、現実が現実として此の眼に映つて来ないんだね。一種のカリケチユアとして映るだけなんだ。
三輪 どうして、また、そんなことを云ひ出したんだい。
並木 それから、あの自働車を見たまへ。僕は、タクシイといふものに乗つたことは生れて二度しか無いんだが──一度は社長を東京駅へ送つて行つた時、家へ判を忘れたから取つて来いと云はれて、実用とか云ふ奴を呼んでくれた、その時と、もう一度は、これも社長の知合とかで、市会議員の候補に立つた男の選挙事務所へ手伝ひにやらされて、何をするのかと思つたら、自働車へ乗つてビラを撒いて歩けと云ふんだ、そん時と……。
三輪 へえ、君はそんなこともやつたのか。
並木 やつたさ。自働車、あれを見たまへ。僕は、自働車といふものは、大体に於て、われわれに泥をぶつかけて通る怪物だと思つてゐる。そいつが、ここから見ると、如何にも無邪気な玩具だ。不器用で、あはて者で、そのくせ、気取屋で、神経質だ。これは誠に愛すべき動物ぢやないか。
三輪 君は、今、社長つて云つたが、どこか会社へでも勤めてゐるの。
並木 会社といふわけぢやないんだ。小さな本屋さ。それでも、店の名前に社といふ字をくつつけてゐるもんだから、店のものだけは、社長だとか、社員だとか、まあさう云つてるわけなんだ。
三輪 本屋といふと、出版の方だね。
並木 まあさうだ。
三輪 そいつは面白いだらう。
並木 面白いもんか。それに、こゝにかうして立つてゐると、自分の足の下に、一つの美しい世界が感じられる。勿論、それは、贅沢な織物や、高価な装飾品が陳列されてあるといふ意味ぢやない。僕はね、下から上つて来る時に、いつでも、見当をつけて来るんだ。と云つただけではわかるまいが、今、僕が、かうして立つてゐる、丁度此の足の真下に、五階を通じてだよ、一体、何々が陳列してあると思ふ。
三輪 ……。
並木 先づ階下には、羽根蒲団がある。二階には姿見がある。三階には一重帯……。四階には……よさう。だがね、それがみんな、僕等には手が出せないやうなものばかりだのに、それを眼の前に見てゐる時とは違つて、かうして、さういふものの上に自分が立つてゐると思ふとだね、なんとなく、花やかな気持ちになるんだ。所有慾といふものから全く離れてだよ。可笑しいもんだね。僕んとこの奴も、やつぱり、さうらしいんだ。
三輪 それや、さうかも知れんね。それがつまり、浩然の気といふんだよ。
並木 何の気だか知らんが、こいつは便利なもんだよ。早い話が、その一重帯なんかでもさ、去年の夏からせがまれてゐるんだが、どうにもしやうがない。だが、女なんて馬鹿なものさ。見るだけでいゝから、見ときませうつて云ふぢやないか。見るだけ見るんだね。さうして、此処へ上るんだ。一重帯の話はそれつきりさ。今年もどうやら、そいつを締めてみないうちに夏が過ぎさうだ。しかし、彼女は、朗らかな顔をして、よその女の着物かなんか批評してるよ。
三輪 いゝとこだね。
並木 何がいゝとこだい。(前の方を頤で指し)あれ、誰だか知つてるかい、あの夫婦連れさ。
三輪 知らない。
並木 大村侯爵の息子さ、あの写真道楽で有名な……。
三輪 あゝ、さうか……。あの細君だね……。
並木 シヤンだらう。
三輪 シヤンといふ点ぢや、君の細君に敵はないよ。
並木 慰めるのはよしてくれ。僕だつて、女の値打ぐらゐわかるよ。処で、君はまだお父さんのうちにゐるの。
三輪 いゝや、別になつた。と云つても、近処は近処だがね。遊びに来ないか。
並木 ありがたう。今になつちや、どうも行きにくいね。むかし通りのつきあひは出来ないね。
三輪 そんなこと云ふ奴があるかい。こつちはちつとも変つてやしないぜ。
並木 こつちが変つてるから駄目だ。貧乏は昔からの貧乏だが、世の中へ出ると、自分のゐるところがはつきりわかつて来るね。
三輪 自分で世間を狭くしちやいけないよ。僕なんか、その点ぢや、随分我武者羅を通してるんだ。
並木 さうかなあ。
長い沈黙。
三輪 立ち入つたことを訊くやうだが、今ゐる処は、さきざき見込みがあるのかい、君の仕事としてさ。
並木 僕の仕事つて、今ぢや、君、食ふことが仕事だよ。それ以外に何もないよ。
三輪 でも、何か書いてることは書いてるんだらう。
並木 もう止めたよ。誰も読んでくれないことがわかつてゐるのに、こつこつ下らないことを書いたつて始まらないぢやないか。一時は、あれでも、未来の文豪を夢見たさ。それに、おだてる奴なんかがゐたりしてね……。変なもんだよ、君たちにはわかるまいが、あゝいふ社会には、明日にでも好運が廻つて来ると思つて、雨蛙が木の葉の上で雨を待つてゐるやうにだね、ぢつと一点を見つめてゐる手合がうぢようぢよしてゐるんだ。僕もその一人だつたさ。処が、その頃は、自分で力を落さない為めに、せめて人のものでもいゝところはわかるやうな顔をしてゐたいんだね。だから、さういふ人間同志は、お互に、対手をかつぎ上げるんだ。しかし、長い間には、自分も疲れる。向うも疲れる。会つても、自分達の問題には触れたくなくなる。それでおしまひさ。何のことはない、店に並んでゐるものを、飾窓に出てゐるものを、見るだけ見て来たと云ふやつさ。
三輪 それなら、僕だつて同じだよ。何一つ仕事らしい仕事はしてやしない。
並木 それとは、また、話が違ふよ。しかし、今ぢやもう、そんなことを悔んでなんかゐやしないよ。落ちつくところへ落ちついたんだからね。云はゞ、どん底さ、と云ひたいが、自分だけは、あべこべに高い処にゐるつもりなんだ。
三輪 ……。
並木 それがね、いやに超然と構へてゐるわけぢやないよ。ただ、割合に、あくせくしないだけの覚悟がついてゐるといふまでさ。
三輪 つまり大悟徹底したわけか。
並木 大袈裟に云へばね。君はさつきから、僕の帽子を見てるが……。
三輪 うそつけ、そんなもの、見てやしないよ。
並木 見たつていゝよ。──この帽子はなるほど古い。今年買つたんぢやない。だからつて、別に、これを被つてゐるのが気恥かしいといふやうな見栄もなくなつてゐる。
三輪 そんなことは、当り前ぢやないか。君らしくもない弁解だね。君から、いろいろ打明け話を聴くのはうれしいが、そんな余計な威張り方はして貰ひたくないね。
並木 威張るんぢやない。
三輪 威張るんでなけりや、なんだい。勿論、卑下をしてゐるんぢやあるまい。僕はね、並木君……。
並木 ……君はよさうぢやないか。
三輪 ……。
並木 並木と呼んでくれ、昔通り……。
三輪 いやにこだはるなあ。ぢや、ねえ、並木、おれは久し振りで君に会つて、こんなことを云ふのはいやだが、君は、自分でも云つてる通り、すつかり人間が変つてるぞ。変つてるのはかまはないが、なんだつて、さう、おれに、見栄を張らなけれやならないんだ。貧乏を恥かしがる必要もないが、貧乏を吹聴して、独りで力み返る必要がどこにある。貧乏を自慢にすることは、近頃流行するやうだが、黙つてゐても、貧乏なことぐらゐはわかるよ。
並木 (対手の顔を見上げる。眼が異様に光る)
三輪 侮辱されたと思ふのか。おれは他人を侮辱して愉快になる程、まだ快楽に渇ゑてはゐないよ。云ふことがあるなら云つて見ろ。自然に遠ざかつて行つたのには、何か理由もあるだらうが、おれの方は、少くとも、最後まで、変らない友情を示したつもりだ。
並木 おい、そんなに大きな声を出すな。
三輪 大きな声を出すさ。君には、おれの心の声が聞えないぢやないか。
並木 聞えたよ。
三輪 何が聞えた。ぢや、今日、おれたちと一緒に、夕飯を食ふか。
並木 食ふよ。(涙を溜めてゐる)
長い沈黙。
三輪 金持は罪人だといふ君の主張は、今でも変るまいが、まさか、昔の友達を敵扱ひにするほど、突きつめた考へ方をするやうになつてるんぢやあるまい。(間)それに、おれなんか、金持の部類にはいらないよ。
長い沈黙。
三輪 どうしたい、そんなに悄気ちや、駄目だよ。
並木 悄気てやしないよ。
三輪 悄気てもゐまいが、元気がないぢやないか。さうさう、からだの方は、大丈夫なのか。
並木 あゝ、その方は……。
三輪 それや、いゝね。その点ぢや、おれの方が惨めだ。相変らず寝てばかりゐるよ。
並木 神経痛か。
三輪 それと、例の……。
並木 あゝ……。まだいけないのか。
三輪 益〻いけないよ。
並木 そんな風には見えないぜ。
三輪 それがいけないんだ。
間。
並木 降りようか。
三輪 入れ違ひになると厄介だから、もう少し待たう。腰かけるか。(腰かけを探す)
並木 ねえ、君、久し振りで会つて、こんなこと頼むのは厚顔しいやうだが、都合がよかつたら二十円ばかり貸してくれないか。
三輪 (一寸気まづげに相手の顔を見るが、すぐに懐に手をやつて)あゝ、いゝとも。それくらゐならあるよ。(紙入れを出して、紙幣を抜き出し、並木に渡す)
並木 ありがたう。(そのまゝ袂にしまふ)
重苦しい沈黙。
三輪 風が無くなつたね。
並木 気を悪くしやしないかい。
三輪 君こそ、そんなことを苦にしてるんぢやないか。僕は今日君に会つたことをよろこんでゐるんだ。お互に昔通りものが言へるのはうれしいよ。
並木 少し興がさめやしないか。
三輪 そんなことを云ふと興がさめるよ。
並木 さうかなあ。やつぱり僕は駄目だね。(袂からさつきの紙幣を取り出し)君、折角だが、返すよ。こんなことしちやいかん、どうも……。
三輪 なにを云つてるんだ。君の方で都合のいゝ時返してくれゝばいゝぢやないか。今日は何か買物があるんだらう。金が少し足りなくなつたんだらう。さういふことは僕だつてあるよ。運よく友達にでも会つたらと思ふことがある。さういふ時には、なか〳〵会はないもんだ。処が、君は運がよかつた。たゞ、それだけぢやないか。
並木 さういふ考へは、僕なんかには浮ばない。
三輪 まあ、いゝから取つときたまへ。急にゐる金ぢやないから、急いで返して貰はなくつてもいゝよ。
並木 (苦笑しながら)実はね、家内に一重帯を買つてやらうと思ふんだが……。
三輪 (笑ひながら)君の細君は果報者だ。僕は今少し余分な金があるんだが、君達の結婚祝ひといふと遅蒔きだから、今日旧交を温めた記念に、僕から君の細君に一つ贈物をさせて貰はう。その代り、今の金で、君から、僕の家内に何か買つてやつてくれ。
並木 御厚意は有難いが、それぢや、なほ、僕がつらい。余計なことを云つてしまつて、どうも、納まりがつかなくなつたが、それだけは赦してくれ。今日は全く失敗した。近頃こんなに苦しい思ひをしたことはないよ。人間は惰力で活きてゐるものだとは思つてゐたのだが、反抗反抗で活きてゐる人間が、ぱつたり手応へのない処へぶつかると、かうまで間誤つくものとは知らなかつた。さつきから話したことも、あれや、つまり、僕の反抗心が云はせた嘘八百だ。そんなことにも、気がつかない君ぢやあるまいが、あんな大鉢を叩いて置いて、そのまゝ別れたんでは寝醒めが悪いからなあ。
三輪 まあ、さう、自分だけを責めなくつてもいゝさ。人一倍自尊心の強さうな君に、金を貸せと云はせた僕にも、いくらか徳があるんだ、ねえ、さう自惚れさせてくれよ。奴さんたちが帰つて来るまでに、その話をきめとかうぢやないか。
並木 いや、それだけは断る。今日は断る。これも取つて置いてくれ。なにもかも、やり直しだ。五年後にもう一度会ひ直さう。少しは人間ができてるかも知れん。
三輪 相変らず強情だなあ。それなら気のすむやうにしたまへ。(金を受け取る)
三輪の妻と並木の妻とが連れ立つて帰つて来る。
三輪の妻 随分かゝつたでせう。気に入つた柄がないの。奥さまにも見て頂いたんだけれど……まるで好みが違ふの。
並木 こいつは悪趣味ですからね。
三輪の妻 いゝえ、さうぢやございませんの。そら、(夫の方をちらと見て)あたしは、どつちかつて云へば、粋好みでせう、自分で云ふのは可笑しいけれど──それに、奥さまは、お上品なお好みでいらつしやるから……。
並木の妻 あら、あたくし、そんな、お上品なんて……。
三輪 いや、どうもさうらしい。それで、やめたのかい。
三輪の妻 兎に角、きめたんですけれどね、あなたのお気に召すかどうか……。一度見て下さるといゝんだけれど……。いゝのよ。わるかつたら、また取り換へるわ、うちで見て……ね。それより、御一緒に、一重帯を見たのよ。こちらの奥さまが御覧になりたいつておつしやつたから……。よくお似合になるのがあつたの。(並木の妻に向ひ)あれをどうしておきめにならなかつたんですの。
三輪 お前みたいに、独りでおきめにならないんだよ。
三輪の妻 あら、だつて……。
三輪 どら、出掛けよう。君達は、もう用はないんだらう。それぢやと……(妻に)何処がいゝかね。
並木 あ、僕達は、ちよつと寄るところがあるから、今日は失礼しよう。(三輪の妻に)折角ですが、此のつぎに……。
三輪の妻 まあ、そんなことおつしやらずに……。およろしいんでせう、奥さま……。
並木 今、思ひ出したんだ。弱つたなあ……。ほんとに、今日は許して下さい。
三輪 それぢや無理にお引止めしない方がいゝ。何れそのうち……。
並木の妻 (黙つて会釈する)
三輪の妻 でも、残念ですこと……。それではむさくるしいところですけれど、近々に是非……。あの、御一緒にですよ。
三輪 さよなら。
三輪夫婦去る。
並木の妻 どうなすつたの……。
並木 どうもしやしないよ。襦袢の袖、あつたの。
並木の妻 それや、あるわ。でも、困つたのよ、安いのを買はうとすると、傍から、三輪さんの奥さんが、こつちがいゝつて、高いのを撰るんですもの……。
並木 ……。
並木の妻 あの人達、随分あるらしいのねえ。
並木 ……。
並木の妻 素敵な金紗を買つたわよ。
並木 金紗がなんだい。
並木の妻 始まつたわね。(間)どこへ寄るの、これから……。
並木 ……。
並木の妻 一重帯ね、今、ずつと値が下つてるんだけれど……どうかできないか知ら……。
並木 一重帯なんか締めてる奴は、殆どゐないぢやないか、三輪の細君だつて……。
並木の妻 さうよ、絽の丸帯よ。
並木 絽の丸帯がなんだい。
並木の妻 だから欲しいつて云やしないわよ。
並木 欲しいつて云つたつていゝよ。
並木の妻 どうせ買へないからでせう。
並木 馬鹿。それを云はずにはをられないのか。一口つゝしめば、一口だけ利巧に見えるんだぞ。
並木の妻 (あつけに取られて夫の顔を見守る)
並木 あゝあ、たまにこんな処へ出て来ると余計な奴に会ふわい。
並木の妻 余計な奴つて……よささうな方ぢやないの。でも、あたしたちのゐない間に何かあつたんぢやない? さう云へば、少し変だつたわよ、挨拶の調子が……。始めは、もつと打ち解けた調子だつたのに……。
並木 そんなことはないよ。同じこつたよ。(間)今、何してるつて訊きやがつた。
並木の妻 なんて云つたの。
並木 本屋にゐるつて云つといた。
並木の妻 どこの本屋かつて訊きやしなかつた?
並木 訊かない。あいつは、そんなことに興味はないんだ。しかし、お前のことは訊いたぜ。
並木の妻 どんなこと?
並木 学校は何処だとかなんとか……。それに、気味の悪いほど褒めてたぜ。
並木の妻 なんて?
並木 いろんなことさ。それはさうと、あいつ失敬な奴だよ。金がいるならいつでも云へつて云やがつた。
並木の妻 まあ……。でも察してるのね。
並木 久しぶりで会つて、そんなこと云ふ奴があるかい。馬鹿云へつて呶鳴つてやつた。
並木の妻 およしなさいよ、折角深切で云つてくれるのに……。だから食事を一緒につて云ふのも断つたの?
並木 さうさ。(間)あいつに金を借りて、その金で一重帯を買はうか。
並木の妻 あなたにできる、それが……。
並木 できるさ、しようと思へば……。
並木の妻 うそばつかし……。
並木 どうしてさ。どうしてできない?
並木の妻 あなたに、そんなことまでさせたくないわ、いくらなんだつて……。
並木 (真顔で)するよ、お前の為めなら……。
並木の妻 (しんみり)さう云つて下さるだけで沢山。……(急に調子を変へて)ねえ、あなた、ほんとに無理なことはしないで頂戴ね。あたし、なんだか怖くなつたわ。
並木 ……。
並木の妻 あなたが、あゝいふお友達にまで、そんなことの為めに、肩身の狭い思ひをなさりやしないかと思ふと、あたし、ぢつとしてゐられないわ。
並木 だから、何も云ひ出しやしないよ、そんなことは……。たゞ、向うが……。
並木の妻 えゝ、それはわかつてるわ。だから、そんな時、きつぱりと、断はつて頂戴……。気を悪くさせないやうにね。(間)もう、これから、何が欲しいなんて決して云はないわ。
並木 それとこれとは話が違ふよ。都合がつけばいゝぢやないか。
並木の妻 いゝえ、だから、お友達とだけは、綺麗なおつき合ひをして頂戴ね。どんな場合でも卑下をしないですむやうな……。
並木 お前はそんなこと心配しないだつていゝよ。
並木の妻 いゝえ、心配よ、あたし……。ほんとに、今迄、気がつかなかつたの、そのことだけは……。
並木 ……。
並木の妻 あなたも、何時までもぶらぶらしてないで、早く仕事をして頂戴ね。今度、お金がはひつても、一重帯なんか買はないで、少しでも貯金しませうね。
並木 可笑しいぜ、急にそんなこと云ひ出したりなんかして……。
並木の妻 (涙ぐんで)さうよ、きつと、何かわけがあるんだわ……。だつて、だつて、あなたは、だんだんいゝお友達が減つてくぢやないの……。(急に夫の胸に顔を埋めて泣く)
底本:「岸田國士全集2」岩波書店
1990(平成2)年2月8日発行
底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院
1931(昭和6)年2月10日発行
初出:「演劇新潮 第一巻第八号」
1926(大正15)年11月1日発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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