『跫音』の序にかへて
岸田國士


 ラジオ・ドラマといふものはなかなかむつかしいものである。私も二三それを試みて、ついに投げ出してしまつた。人間と機械との微妙な協力あるひは闘争が、聴覚を通して劇的美の構成に役立つことをまづ発見したものだけが、真にすぐれたラジオ・ドラマの作者となり得るやうに思ふ。

 われわれはなるほど、日常生活に於て、五官のそれぞれの働きについて一応の区別とその限界を認めてはゐるが、ラジオといふ機械設備の前では、耳だけがわれわれの感覚の軸となる。耳によつて捉へられた音の実体が、いはば、仮感とも名づけ得べき幻覚の世界を時空の限りなきひろがりを含めて描き出す。

 内村君の作品はこの原理を巧妙に、かつ、正確に生かしたといふ点で、おそらく類の少いものかもしれないが、さういふ技術的な一面だけで、物語の生命がつねに支えられるものではない。そのいくつかの作品に見られる感動の美しさは、作者の素直な人間性と堅実な心理風景のデッサンにもとづくものと思はれる。ラジオ・ドラマが文学の一ジャンルたることを主張し得る水準がここにあるのである。

 劇作家内村直也は、正統的なリアリストとして出発したが、ラジオ・ドラマの領域に於て、早くもそのファンテジイを駆使する秘密を探りはじめた。想像の遊戯は、古来、精神と形式との固定化を脱する芸術家の宝刀の如きものである。

 私はこの作家の成長がなんとなくラジオ文明の発達とその歩みをともにし、少くともわが国に於ける最初のテレヴィジョン・ドラマの作者たる運命を背負つてゐるやうな気がする。この予言は当つても当らなくてもよい。ただ、私の希ふところは、かの帰還兵士たる息子の「跫音」が、一人の母の耳に万人の胸をうつ愛の響きを伝へたごとく、作者自身の「跫音」もまた、大いに天下の耳を傾けさせ、ますます高くなつかしく、冴えわたることのみである。

  千九百四十九年春

底本:「岸田國士全集27」岩波書店

   1991(平成3)年129日発行

底本の親本:「跫音」世界文学社

   1949(昭和24)年61

初出:「跫音」世界文学社

   1949(昭和24)年61

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年71日作成

2011年530日修正

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