横光君の印象
岸田國士
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さて、横光君の死後、いろいろなひとが、この稀有な才能と人物とについて書いてゐるのを読んだが、それぞれに私にも思ひあたるところがあつて、五十歳を生きた一作家の全貌は、なかなか複雑なものだと感じるほかなかつた。
私は横光君とは平生さう近い関係ではなかつた。第一次文学界の同人に遅ればせながら加はつたこと、従つて当時、私もまた、ある人々によつて新感覚派の一味に数へられたこと、横光君が中野や阿佐ヶ谷へんに住つてゐたころ、私も阿佐ヶ谷とか天沼とかを転々としてゐて、わりによく道などで顔を合せたといふこと、菊池寛氏が新劇協会といふ劇団の世話をしてゐた頃、横光君もいくらか芝居に興味をもちはじめ、戯曲をいくつか書いたし、その劇団の公演には、彼のものが上演されたこともあるが、彼自身、私のすゝめで演出の後を引受けてみたりしたものである。菊池寛作「真似」の奇怪な効果は、彼の案出した扮装と照明法によるものであつた。
私はあまり文壇のひとと深いつき合ひはしてゐないから、横光君などとは、わりに親しく口を利いた方かもしれぬ。同時代の、同じグループの作家といふやうな世間的な見方もできさうだけれども、なにしろ、私と彼とは、だいたい小説と戯曲といふ違つた道を歩いた仲間で、そのうへ、経歴から云つても、年齢から云つても、向うからはむしろ縁遠い存在ではなかつたかと思ふ。
それにも拘はらず、私は、横光君といふひとに、いつもなんとなく心が惹かれ、評判になつた作品は時に読まなくても、彼の風貌に接することだけは、私には常に楽しいことであつた。
彼の人間的魅力は、彼が作家であるといふ前提なしには味ひにくいものであらうと思ふが、ともかく、類の少い確乎とした性格のうへに、どことなく水々しい気質をのぞかせ、厳しい一面と脆い一面との心憎い調和がもうひと息といふところまで行つてゐた。
私は彼をみるたびに、その風貌の発散するにほひのなかに、なぜか、年少にして上位に昇つた力士のそれを連想させるものがあることに気づいてゐた。精神と肉体との差を超えて、その何れにも通じる一種の力量感、緊張感、つゝましい優越感のかもし出す沈痛で鷹揚な表情は、どちらかと云へば古風な東洋的男性美の一典型であつて、横光君は無意識のうちに知的な土俵入を目指して若き日の夢を育てゝゐたと云へば云へよう。
さういふ眼でみるせゐか、横光利一の名は、雑誌などの宣伝目次では絶えず、番附の横綱三役然たる趣きで活字になり、人々はまた、彼の作品と放言とを、息をこらしながら、読み、聴き、そして喝采し、ある者は首をひねつた。
私はかねがね、横光君の非凡な感受性と、素朴な好奇心とに作家としての将来を期待し、また、友人の一人として、折にふれ見せてくれる「男の優しさ」に苦もなく参つてゐたので、世の横光党に対しては十分の同感を惜まなかつた。彼にはしかし、大きな敵があつた。「凡庸」の伏兵である。彼を脅かすものは、その伏兵であり、彼が朝夕に挑んでやまぬのもまたその敵であつたやうに思はれる。このことは、しかし、いくぶんの誤解を人に与へた。彼は、自ら、凡庸らしくなく努めたのでは決してなく、彼自身の凡庸さとも必死に闘ひ、その闘ひのすがたが、彼の作品の随所に描かれてゐるのである。彼の文体のもつ一脈の悲壮味は、単なる抒情のわくにだけ嵌めることはできない。
横光君はなかなか日本の讃美者で、それも、西洋などとの比較を超越して、日本人なるが故にといふ、はつきりした理由に於てであつた。
私もその点では別に異議はないのだが、彼の日本への執着には、やはり日本人らしい感覚の世界での居心地のよさを第一とする偏向もなくはなく、直接私に向つてなにも言つたことはないが、人伝に聞くと私の日本人批判を最近では少々苦々しく思つてゐたらしい。横光君にすれば、それは一応尤もなことで、私の中庸主義は、決して皮肉でなく、天才の殿堂には至つて用のないものである。しかしながら、私の真意は、彼の如き貴重な天分を恵まれた作家が、若し、その周囲に、もう少し「畸型的ならざる」日本人を観、もう少し「当り前な」人間の群を擁してゐたら、もつともつと大きな仕事が出来たらうといふことである。そんなことは、横光君や、その系列の人々にとつて、余計なおせつかいと聞えるかもしれぬ。いかなる耳もすべての物音は聞かぬよい例である。
さて、私が横光君にほめられた話をちよつとすれば、それはたしか文芸春秋社主催の講演会に出るため、一緒に関西へ行つた時のこと、ちやうどその日は会場が和歌山で、私達一行は和歌の浦の宿に一泊したのであるが、さて、例の色紙へ何か書け、がはじまり、久米、横光といふ風なその道の名だたる人々の前をも憚らず、私は俗句をひねり、駄筆を揮つた。古城虹に向つて楠の若葉かな。にやにや私の墨痕を眺めてゐた横光君は、矢庭に、さもほんとらしく、
「それ、えゝですなあ。やはり故郷では傑作ができるですなあ」
と、おだてあげ、なほも破調云々といふやうな専門家らしい批評の言葉を放つた。
私は、赤面し、しかし、いくぶんさうかなあとも思ひ、蟻台上に饑ゑて月寒しといふ横光君得意の句にどこか似てゐるかとも気がついたが、それよりも、彼が私の両親の生れた土地が此処であることを覚えてゐるその情味は、不思議に私をしんみりさせずにおかなかつた。
さう言へば、横光君は大分で生れ、伊賀で育つた人と聞いてゐるが、いづれにせよ、故郷を懐しむ心を、彼ぐらゐ豊かにもつてゐる文学者を私は多く知らぬ。彼の激しい望郷の念は、おそらく、欧洲の旅を通じ、母国日本に向つて示されたに違ひない。彼がパリのレストランで、毎日毎食、プウレ・オ・リ(若鶏の肉に米の飯をあしらつた料理)ばかりとつて、これを無上の珍味なりとしたといふ逸話は、まことに横光君らしい、さもありさうな事実である。
私は彼が旅立つ時、是非チロルへ寄るやうにすゝめた。なんとなく彼の気に入りさうな土地柄だからである。彼は私の「チロルの秋」など読んでゐたためでもあらうか、チロルといふ名を記憶にとゞめてゐたらしく、彼は果してボルツアノからブレンネロ、イインスブルクの道を選んで北へ歩いて行つた。「旅愁」のなかのチロルの描写のくだりは、とくに精彩に富んだもののやうに思はれる。そして、またしても、彼は、あのすべてが魂を奪ふ自然の景観の中で、ちらりと後ろを振り返る。それはどんな瞬間であつたか、このあたゝかい詩人の胸に、光栄にも、私と私の娘たちのすがたが浮んだ証拠物件を、私たちは今も大切にしまつてある。
底本:「岸田國士全集27」岩波書店
1991(平成3)年12月9日発行
底本の親本:「文芸往来 第三巻第三号」
1949(昭和24)年3月1日
初出:「文芸往来 第三巻第三号」
1949(昭和24)年3月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年7月1日作成
2011年5月31日修正
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