いわゆる「反省」は我々を救うか
岸田國士




 十四五歳の頃、私は陸軍幼年学校の生徒であつたが、そういう学校へなぜはいつたか、その理由はここでは述べないことにして、とにかく、将来軍人として身を立てる覚悟で、おおむねドイツ式を採り入れたこの学校の寮生活をつづけていたのである。もちろん、中学校程度の学課のほかに、実課(或は術科か)と称せられる軍事的な初歩訓練が行われ、ことに、訓育と呼ばれる日常の生活規律は一般兵営のそれよりは細かく、かつ、厳しく、いくぶん「貴族的」とでも云うべき作法を主にしたものであつた。この訓育の任に当るのは生徒監で、尉官級の云わば先輩、自分らがかつて仕込まれたとおりに後輩を仕込もうという一念以外になにもない、単純律義な指導者であつた。

 それはそうと、私のいた時分には、生徒おのおのに毎日「反省録」というものを書かせることになつていて、一日の行為、想念を通じて、「将校生徒」たるに恥じるところはないかどうかを省み、自己此判を「正直」に記録しなければならないのである。

 かゝる強制が如何なる結果を生むかは、或る種の教育者を除いては、明かに想像し得るに違いない。しかも、肝腎なことは、これを誰に読ませるかと云えば、その単純律義な生徒監にであり、多少物わかりのいゝ兄貴風を吹かす半面、極めて先入見の囚となり易い頭脳の持主であることがわかつていた。かの信者のザンゲを聴聞するカトリック僧の風貌を私は知らぬけれども、わが生徒監の背後には、万能の神の代りに、立身出世の鬼が口をひろげているのである。

 秀才は秀才らしく、鈍根は鈍根らしく、己れの反省の正しく、美しくみえんことを、これ努める風情は、まことにいじらしいものであつた。──今日は代数の時間につい計算に気をとられて姿勢がわるくなつた。一軍の将たらんとするもの、この悪習を一日も早く脱せねばならぬ、という風なのはまだ罪のないところだが、──余は本日、日曜の外出先に於て旧友と会し、たまたま彼が軍人を誹謗する言辞を弄するを聴き、痛憤に堪えず、遂にその頭上に鉄拳を加えたり。想うに、男子侮辱に報ゆるに侮辱を以てするは理の当然なりと雖も、苟も陛下の股肱として、一朝有事の秋、云々という式に、その腕力沙汰の如きを一方で吹聴し、一方で申訳的に「反省」してみせるというやり方が、そう珍らしくはなかつた。

 或る日のこと、それは自習時間といつて、夕食後から寝に就くまで、自習室に籠つてそれぞれ学課の予習復習をしなければならぬ時間であつたが、私の少年の胸にかねがね鬱積していた疑問の爆発する機会が来た。

 もともとこの自習時間は、いわゆる勉強家にとつては大事な時間、怠けものにとつては厄介な時間であつた。なぜかと云えば、何時なんどき当直の生徒監が見廻りに来るかわからず、若し、その時、ちやんと「自習」をせず、無駄口を利いたり、居眠りをしたり、ストーヴにあたつたりしているのをみつかると、生徒監おのおのの流儀で油をしぼられるからであつた。ところが、ちようどその日の生徒監は、なかなか粋の利く新任中尉で、自習室へはいつて来る前から、佩剣の音をわざと高く立て、それは長靴のかゝとで指揮刀のさやを蹴りつゝ歩く一種の青年士官の気取りでもあるが、生徒たちは、あらかじめそれを知つていて、その日はみな安心して、やりたいことをやつていた。が、やがて、ガチャリガチャリと廊下をこちらへ近ずいて来る音が聞えだした。それツという警報にそれは似ていた。自習室は、すべてがそうあらねばならぬように整えられ、君子も小人も、一様に書見台を前にし、鉛筆をけずり、辞書をひろげ、計算棒をにらみ、そして、粛然と、週番生徒監の入来を待つたのである。私は、この時、ふと、ある好奇心のようなものが浮び、それまで別にわるいことをしていたわけでもなかつたが、突然、両肘を枕にしてぐつすり寝込んでいる風を装つてみたくなつた。私の隣席には、将来、士官学校を首席で出て、今度の戦争で某方面の軍司令官になつたSという温厚謹厳な生徒がいたが、私のその様子をみて、剣の音が聞えないからだと思い込み、なんども肱をつゝいてくれるのである。相すまぬが、おれは思うところあつてわざとこれをやつているのだと、口へは出さなかつたが、それとわかるようにただうなずいてみせた。

 間もなく、生徒監の靴音が、私の席の横で止つた。べつに大事件とは言えぬまでも、ちよつと例のない事件のように私には思えた。もうよかろうと思い、私は顔をあげた。黙つてそこに立つている生徒監の方をちらと見あげた。彼は、笑いたいような、怒りたいような眼附をして、私をにらんでいる。──さあ、なにか云つてごらんなさい、と、私は待ちかまえていると、その彼は、無雑作に、──あとで生徒監室へ来い、と云つて、そのまゝ立ち去つた。私は元来、この学校の性質から云つても、決して同僚から英雄視されるようなものは持ち合せてもいず、また、私もそれを望んではいなかつたと思うが、しかし、多少天邪鬼という点で人目を惹くことを快としないわけではなかつたろう。さういう気持で、実際、同僚たちの眼を背後に感じながら、私は、間もなく生徒監室へ出かけて行つた。

「お前はさつき眠つていたのか?」

「いゝえ」

「自分がはいつて行つたことは知つていたのだろう」

「知つていました」

「どうしてすぐに起きないんだ」

「生徒監殿がはいつて来られるから起きていたような風をするということは偽善的な行為だと思います。それまで寝ていたなら、やつぱり寝ていて……」

「馬鹿ツ!」と、生徒監は一喝した。

「お前は生徒監が怖くないのか!」

 私は、しかし、言いたいことがもううまく言えないような気がして黙つていた。私の言いたかつたことは、実は、生徒監が来たというので慌てゝ居ずまいを正す平凡な少年の恐怖を軽蔑するつもりはなかつた。むしろ、例の反省録へ、──余は本日自習時間に居眠りをなしたり。生徒監殿の巡視によつて眼を覚したるも、抑も貴重なるこの時間を……などと、さもそのことを神妙に後悔する如く書き綴つて自ら慰める風習に、なにか反撥してみたくなつたのである。

 ところで、大切なことは、この私の出方は、もうすでに、強いられた、或は、常習化した「反省」の逆な結果にすぎず、行為としても、思想としても不健全ななにものかを含み、少年の心理は既に甚しく蝕まれているということである。



 さて、私がこんな例をわざわざ持ち出したのは、今更かつての日本の軍隊教育にけちをつけたいためではない。軍人勅諭が、軍人は政治に関与すべからずと厳に戒め、それを毎日諳誦して暮して来た所の軍人が、そのことを暗んじているというだけで、常に反省の実があがつたつもりになり、これだけは特別という自分免許を作つて、そこには、決して「反省」の鏡をあてなかつた過去数十年の歴史が、今日の不幸を導いたと同様、われわれの一般社会の風潮のなかにも、「反省」がただ「反省」として通用し、それがあだかも独立の行為として価値があるように考えられているところがありはせぬか、と、私は、近頃しみじみ感じるのである。

 そこへもつて来て、この「反省」は、また、敗戦後の日本の、一つの目立つた傾向であつて、心あるひとびとは、おそらくは、この「反省」組の一人でないと断言はできないほどである。しかし、また一方、その「反省」の考のあまりにもかまびすしいのに、やゝ業を煮やすという、もつともな現象もなくはない。「反省の過剰」という批判がどこからか生れて来たのはそのためであろう。

 私のこの一文は、非常にあやうく、微妙なところに立つている。大小、色とりどりの「反省」の氾濫のなかで、「反省」はもう真ツ平という一部の空気を向うに廻して、なおも、「われわれのこれまでの反省は真の反省の名に値するや否やの反省」をしてみようというのだから。

 云うまでもなく、自己解剖、自己批判は、時として知識人の好みにかなつた一種の精神的遊戯である。そして、この遊戯は、それが遊戯であるという自覚なしに行われ、苦悶の相を帯びて人を脅かし、真面目な表情で自分自身を佯る結果となる場合がある。ところで、問題は、この遊戯が何時の頃からか、必ずしも知識人の独占でなく、可なり広く大衆化したという特色がわが国にはみられるようである。つまり、国として、そういう教育を行つたからである。痛くも痒くもなく自己批判をしてみせる市井の男女は、それで自分の真のすがたをみているかと云えば、決してそうではなく、みているふりができればそれでいゝのである。

 この、云わば「儀礼的な反省」は、無意識に習性化するものであつて、日本人のやゝシニカルで流暢な露悪的自己表現のなかにもそれが現われている。手軽で陽気な自虐自嘲は、しばしば武器なき民衆の知的粉飾とさえみられるものである。

 この「日本人的反省」の型は、あたかも時流に投じたように、ジャーナリズムの紙面にあふれ、街頭を流れる癇高い声となつた。



「反省」が行動の出発点とならず、つまり、同じ過ちを再び繰り返さぬための力として役立つことが稀であるということは、まさしく、われわれの「反省」の特質にちかいものである。それは、つねに、過去の決算のようなもの、ある行為の一ととおりの結末を意味するものだからである。そして、「反省」はなによりも自己を客観視する知的なはたらきにすぎないのに、そのはたらきに必要な以上の道徳的価値を与え、自己を省ることそのことが、なにか、独立した立派な行いででもあるような小学修身的俗見に支配されているからである。

 乗物の中でひとに席を譲るのを道徳的行為だと教えられると、楽に席を譲る気がしなくなると同様に、「反省」などということが、あまり崇高な意味をもたされると、それを公に口にするものは照れ、それを度々聴かされるものは、うるさくなる。



 われわれの「反省」は、しばしば、日本人独特の「卑下」のかたちをとることがある。「反省」がある行為の陰でそれを支えるのでなく、「反省」がその行為の上に蔽いかぶさるからである。「反省」をむきだしにする悪趣味を、われわれはいつの間にか身につけたというよりほかはない。

「卑下」の感情は、もちろん、被圧迫階級の持ち前であるとされる。しかし、われわれ日本人の場合は、さういう社会的な原因もないとは云えないが、それよりも、やはり、三百年来の道徳教育が、民衆の日常生活のなかへ、一つの簡易な作法の形式としてこれを植えつけたのである。

 その証拠に、われわれ日本人の「卑下」は、必ずしもつねに強者に向つて示されるとは云えない。いわゆる「目上」に対する必要以上の卑下は別として、われわれは、なんでもないときに、口癖のように、「卑下」を意味する表現を使うことは周知のとおりである。ところがそれとはまた違つた意味で、われわれは互に、神経質な「反省的辞令」を交換する場合が多い。そして、こういう場合こそ、われわれは、どうにもならぬ自尊心のふくらみに身をまかせ、最も自尊心の安否を気にかけているときである。即ち、かゝる「卑下」こそ、病的で横暴な自尊心を満足させる唯一の逃げ道なのである。「先き廻り」であり、「予防線」である。

 意気昂然たる「卑下」と、内心得意な「反省」とは、かくて、われわれのうちでは、隣同士に棲むことが決して稀ではない。



 もともと、道徳の上から云えば「反省」は言葉に表すべきではなく、行為のうちに織り込むべきものであろうと思う。

 そこで、個人々々の場合はそれでよいとして、今日私がこゝで問題にしたいのは、主として、われわれ日本人が、民族としての運命を切り拓くために必要な共通の「反省」についてである。

 そういう重大なことがらを、そして、それだけにまた複雑でもあり、微妙でもある課題が、国民一人一人の「反省」に委せられてあり、たまたま外部からの声によつて最も痛いところが突かれているという状態は、我々を愈々ますます神経質にするばかりである。

 実際、日本人の「反省癖」のうちには、形式的教育の結果と、儀礼的ヂェスチェアの尊重とが著しい傾向としてみられるけれども、もう一つ、見逃がしてはならぬ性格があると思う。それは、われわれの多数が、ほとんど病的と云えるほど「神経質」だということ、つまり、神経衰弱の徴候を示しているものが、意外に圧倒的だということである。

 このことは、すべてが常に「反省癖」として現れるものでないことは云うまでもない。逆に、「無反省」が寧ろ表面的には目立つた現象であるかもしれぬ。事実、良心がないのではなく、また特別に鈍いわけでもないのに、時として、意識的に自己の良心に眼隠しをして平然としていられる奇怪な背徳行為というものは、これを無反省という言葉で片付るのには、少し複雑すぎるように思われる。我々の社会には、この例がどこよりも多いことは誰でも気づいている。

 先日、笠信太郎氏の近著「新しき欧洲」を読んでいろいろ教えられるところがあつたが、そのなかで、日本人の性格として、「他人本位」ということをあげ、何事につけても周囲の思惑ばかり気にかけ、その影響に支配され易い傾向が指摘されているのを、私もその通りだと感じ、また、これは既に多くの同胞によつて「反省」されていることでもあると思つたが、このことについて、私は、同じ問題を別の面から考えてみたことがあるのに気がついた。

 それは「何事につけても周囲の思惑ばかり気にかける」ということは、たしかに、「他人本位」の物の考え方と云えるにはちがいないが、またそれは同時に、「自分本位」の物の考え方とも云えるのではなかろうか? つまり、「人が自分をなんと思うか」という懸念が先にたつのであるから、自分を人に従わせる結果にはなるが、これがそもそも神経衰弱の一つの徴候で、それは何よりも自分が大事だからであつて、自分にさえ損のいくところがなければ、それで気がすむというわけである。周囲が自分をゆるせば、誰の迷惑になつても、それはかまわず、また、周囲の誰かれが一様にやつてのけることなら、自分もまけずにそれをやらなければなにか損をするように思いこむことである。たしかに、これでは、「自分」がどこにいるかわからぬようではあるが、実は、「確乎とした自分」がいないだけの話で、「あやふやな自分」がつねに必要以上にのさばり返つているすがたなのである。

 自分で自分をどうすることもできず、またどうしようとも思わぬような「自分」が、いくら自分を省みてみてもはじまらぬのは、まつたくきまりきつた話で、ただ、自分で自分のすることを「知つている」と信じることが、せめてもの慰めであるというような過ちの特質を、なんと名づけたらよいか。



 この文章を綴りながら、私はますます窮地に陥つて来た。なぜなら、われわれの困つた「反省癖」を反省してみようとしながら、もう既に、その「困つた反省癖」の調子が出かゝつていはすまいかと危ぶまれるからである。

 しかし、乗りかゝつた船だから、無理にも押し切ることにするが、若し私のそういう調子を発見したら、どうか読者諸君は、嗤わずにゆるしてほしい。私はそれについて徒らな弁解をする代りに、私を好個の例として、この問題をもつと聡明で冷静な頭脳の批判に委ねたいのである。これは決して「予防線」を張るわけではない。

 そこで結論を急ぐことにするけれども、私は、「日本人の反省」が今後もつともつと続けられ、もつともつと鋭く深くなされることを希うものであるにも拘わらず、今日までのような「反省のしかた」では、それはなんの実も結ばぬような気がするばかりでなく、却つて、それは永久の「自慰」に類するものとなり、一方、本来の病状はますます悪化し、遂に救うべからざる致命的結果をもたらすであろうということを警告したいのである。

「反省」だけはするが、それ以外のことはほとんどなにもしないという精神のはたらきは、個人としては、なるほど、ある種の興味ある知的存在であり、場所によつて使い道もあろうけれども、国民の大多数、ことに、知識層にその傾向が根深く植えつけられている現象は、断じて民衆の幸福を約束するものではないと思う。

 しかしながら、これは、決して、知識人一人々々の罪でもなく、また、一人々々では如何ともしがたいことである。「反省」がすべて言葉となることも当分は止むを得まい。ただ、それが、いつかは、行動のなかに含まれて露わにすがたをみせぬ日を待ち望み、進んで、その日の来ることを早める努力をしたいものである。

 私はこゝでも繰り返しておくが、われわれ日本人は、今あるような状態におかるべき民族ではもともとないのみならず、現に為しつつあることしかできないような素質の国民だとは、私自身、どうしても信じられないのである。

 われわれの不幸の原因が、往々、宿命的なもの、民族の本質に根ざすもののように考えられている向きもあるようだが、それは、どういう根拠をさぐつても、証明のつかない独断であつて、むしろ、われわれが蒙りつゝある災禍の最も大きな動機は、われわれの歴史の半ばから必然的に発生し、身につけた、社会的な、同時に心理的な習癖のケイレン的発作にあると云つてよい。その習癖は、第二の天性素質とみなせばみなし得るものであろうけれども、それは、あくまでも比喩的にそう云い得るだけのことであつて、天性は天性、習癖は習癖、飽くまでも私はそこに区別をつけて、一切の悲しむべき習癖からわれわれを、特にわれわれの子孫を解放する手段だけは講ずべきであろうと思う。

 日誌の記録によつて一応過去を過去として葬り去るように、「反省」という道徳的自慰によつて、何等かの過ちが帳消しにされるような錯覚が若しあるとすれば、我々の明日は希望なき明日である。

底本:「岸田國士全集27」岩波書店

   1991(平成3)年129日発行

底本の親本:「知識人 第二巻第一号」

   1949(昭和24)年11

初出:「知識人 第二巻第一号」

   1949(昭和24)年11

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年71日作成

2011年530日修正

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