二つの戯曲時代
岸田國士
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すべての革新運動と同様に、演劇の革新運動も亦、精神と形式とがつねに相伴ふものとは限らない。ことに、芸術の分野に於ては、その精神と称するものが、往々にして、観念の遊びに過ぎなかつたり、または、単なる感覚のニュアンスにとどまつたりすることがあり、また、いちがいに形式といつても、技法の末にこだはることや、衣裳の新奇を衒ふことにつきる場合、これは、本質的に云つて芸術の革新の名に値しないものである。
従つて、近代の演劇史をひもどくものは、旧きものが如何に滅び、新しきものが如何に生れたのかを知ると同時に、旧きものは旧きが故に滅んだのではなく、新しきものは、突如として旧きものに代つたのではないことを学ぶであらう。そして更に、いつの時代に於ても、先駆者は、多くは、先駆者としてだけの業蹟をしか残さず、言はゞ不滅なもの、比較的生命の長いものをすら創らずして時代の波のなかに没し去つてゐるのである。
これに反し、真に時代を画するやうな作家とは、もとより、その新しさと力強さとによつて一世の視聴をあつめ得たものを言ふのであるが、演劇革新のためにも、おのづから、かの先駆者どもの成し遂げ得なかつたところ、即ち方向を示すだけでなく、困難な道を切り拓くといふ、それにふさはしい才能のみに課せられた大きな役割を果してゐる。
演劇の革新も、すべての革新と同様、こゝまでいかなければ真の革新とは云ひがたく、かゝる革新にはまた、恒に、精神と形式との並行的な進化がみられ、両者の不可分の関係が明瞭に保たれてゐる筈である。
以上述べたやうな観点に立つた一国の演劇史の叙説は、まだ何人によつても企てられてゐないやうに思ふ。私はこの小論に於てむろんそれを試みる用意はないが、この選集を編むに当つて、私の脳裡を去来した演劇史論的理念を先づ最初に掲げておくことは必ずしも無駄ではないやうに思ふ。
わが国の演劇は、誰でも感じるやうに、現在では主流といふやうなものをひと口にきめることは困難である。
だいたい、演劇の種別(ジャンル)の分け方からして、欧米諸国の慣例にそのまゝ傚ふことはできず、さうかと言つて、わが国独特の分け方がはつきりあるわけではなく、そのへん、ずゐぶん曖昧模糊としてゐる。
西欧の「古典劇」に相当するものとして、能狂言と歌舞伎とを挙げることに異存はあるまいが、この二つは、二つながら、いくぶん楽劇としての要素を含み、さうなると、欧米の歌劇乃至舞踊劇の領域に踏み込むことになる。ところで、歌舞伎のうちのあるものは、殆ど純然たる科白劇であり、西欧の浪漫劇に匹敵する地位を占めるとして、その系統を引いた「新派劇」なるものは、時代的な変遷に拘らず、その芸質から云へば、いはゆる「新劇」との間に截然たる区別をつけなければならぬ。
そこで、いはゆる「新劇」の問題であるが、これは、普通云はれてゐるやうに、在来の「歌舞伎及び新派」に対して、全く異つた理想と新しい方式を掲げ、西欧近代劇運動の進んだ道をそのまゝ進まうとしたものに相違ないとして、この運動の輪郭は、ごく当然なことであるが、「歌舞伎及び新派」の内部から一時的にもせよはみ出した部分をも包括しなければ公平とは言ひ難い。
そこで、問題がやゝ複雑になる。
そもそも「新劇」とは、「歌舞伎及び新派」そのものと、どの程度まで対立し、若くは、絶縁したものを指すのかといふと、言ひかへれば、「新劇」とは、日本人の創る芝居といふ不可避の条件以外に、演劇芸術としての精神と形式とを、どの程度まで「歌舞伎及び新派」的なものから脱皮せしめたものを指すのかといふ問題になつて来るのである。
しかも一方に於て、「新歌舞伎」なるものが、時としては「新劇」そのものとは別に、時世の要求に応へようとする動きもなくはないのである。もちろん、「新派」は、いくたびか、「新派」の名を光栄ある宿命として自ら負ひ通す決意を示し、その名の色褪せないことをこれ努めて来た。
この機運に働きかける大きな社会的な力がいくつかある。その一つは、わが国の劇場の在り方である。劇場といふ劇場は、中央地方を通じ、僅か一二例外を除いて、すべて、単なる営利の目的のために壟断され、劇場主及び興行者の全部が、演劇と云へば「歌舞伎及び新派」系統のものにだけ眼を注ぎ、おのづから「歌舞伎及び新派」系統の演劇をわが劇界の主流たらしめてゐる観があつた。
これは欧米劇界に於いて普通にみられる、いはゆる「通俗劇」(或は「ブゥルバァル劇」)と商業資本との結びつきとは、その性質がやゝ違つてゐて、わが国の興行界が、専ら名目や看板に恋々とし、敢て新味と創意とを追ふ熱意を示さないことは、彼の国のプロデュウサアの標準では到底判断がつきかねるのである。
そこからどういふ結果が生れるかと云へば、「歌舞伎及び新派」の芸域に於て成功をみうる作品でなければ、一般大衆の観賞にうつたへる機会がごく狭い範囲に限られてしまふといふことである。つまり、「新劇」的な作品がこゝに現はれたとしても、たまたま、「歌舞伎」や「新派」で名の売れた俳優によつて、さういふ俳優たちの踏み馴れた舞台で、まづ一と通りに上演されるといふ機会に恵まれなければ、その作品は、決してポピュラアにはならず、その作者は、容易に劇作家として一家を成し得ない実情なのである。
たしかに、その代り、わが国には、主要な雑誌が文学作品としての新作戯曲を小説と並んで掲載する習慣があり、新作家の労作は欧米に於ける如く、舞台にかけられる迄は殆ど公表されないといふやうな取扱ひを受けてゐない。それにしても、その主要な雑誌が進んで掲載する戯曲の数は、その割合から云つて極めて限られてゐるばかりでなく、新作家の発見は、小説に於ける如くまだその道がついてゐないと云つてよい。
かくの如き一般的傾向は、その両極に於て、戯曲生産の方向を鮮やかに二つに分けてゐる。
すなわち、「歌舞伎或は新派」系統の芸域に当てはまる脚本と、全く「新しい俳優」を予想し、或は、あたまから俳優の演伎なるものを計算に入れず書かれた戯曲乃至戯曲体の「文学作品」とである。
わが国の演劇史に於て、いはゆる「新劇」勃興の端緒を何時の頃とするかは、それぞれの見方によつて違ふと思ふ。
さらに、何人の手によつて演劇革新の狼火が挙げられたかといふことも、一層厳密な調査と研究が行はれなければならぬ。
しかし、今日までの歴史をかへりみると「新劇」なるものは全体として決して一筋の道を幾多の起伏を経、ともどもに障碍と戦つて来たのではない。私の観るところでは、「新劇」なるものは「一つのもの」でさへもなかつたのである。一見共通するところはあつても、その実、相反するところの方が遥かに大きいといふ種々雑多なものが、どうして、一つの力となり得よう。ましてそれらが一つの名を冠するとすれば、その名の如きは、およそ意味のない名である。
「新劇」の名のかくの如き曖昧模糊たる用法の由来するところは、「歌舞伎或は新派」が劇界の主流なる如き観を示すことと一脈相通じてゐるのである。
即ち、わが国の興行界と劇場の常連とが形づくる一つの雰囲気は「歌舞伎或は新派」的なる演劇風景に密着し、相互的に生活の基盤を与へ合ひつゝ、この外界への作用は、劇場の魅力に化けて、それが一般大衆の抜くべからざる封建性に媚び、動もすれば国粋を標榜して、国際的なる一切の進歩に背を向けさせ、都市的洗練を競ふことはあつても、それは常に懐古的であり、人間美の標準は紋切型のやうに、「いき」と「はり」である。美は美なりとしても、なんといふ限られた「危ふい美」の世界であらう。そしてまたなんといふ、鼻につき易い、人間性を無視した同巧異曲の数々であらう。
そこには誰でも納得のいかぬものがある。おほらかなもの、真に厳粛なもの、幸福を思ひ描かせるものがない。虚構を通じての真実が稀にあるかと思へば、たゞ、自然なものさへも極めて少いのである。
わが劇場の観衆は、なぜ、久しい間、舞台にそれらのものを求めなかつたのか? これはちやうど、なぜ、わが国に健全な議会政治が発達しなかつたか、といふ問ひに似てゐる。
「俗衆」なるものは、知つてゐることしか解らない、とは、フランスのある劇作家の述懐である。私は、わが国の劇場の一般観衆を以て俗衆なりとは云はぬが、しかも、観馴れたものしか観たがらず、また、さういふものの価値しか判断できないといふ不幸な事実を、わが国に於ては、特に国民の、精神的機能のうちに、著しく目立つた現象として指摘しないわけにいかないのである。これは、ある種の単純な感覚の世界に於ける好奇的遍歴と不思議な対比をなすものであるが、すべてが因襲に支配され、一つの民主的な改革さへもが強制と誘惑とに依らなければならぬやうな社会に於て、人間精神の成育が如何なる形をとるか推して知るべきである。
わが演劇の革新運動もまた、単に芸術的な面よりする新風の樹立にその目標がおかれてゐるばかりではない。劇団経営の合理化、新しい観衆の組織、俳優教育の科学的メソードの採用、舞台メカニズムの綜合的研究、公共施設としての近代的小劇場の創設、演劇に対する公衆の啓蒙、国家の演劇政策への示唆といふやうに、その接触面は多岐に亙り、かつ、そのうちのあるものは、左翼的理論に基く政治運動への直接参加を宣言した。そして、その実践は「新劇」の最も尖鋭にして華やかな活動とみられた映画にもあつた。が、要するに、わが演劇の旧き殻は、徹頭徹尾、封建社会の性格そのまゝを今日に伝へ、たまたま、その生来の庶民的風貌を併せて、形の上では一応近代に生きながら、魂そのものは近代の洗礼を十分に受けてゐないわが一般民衆の安易な伴侶となるに適してゐたのである。
わが国の現在の演劇界は、戦前から戦後にかけて、やゝ顕著な一般的推移が見られるにせよ、それは主として、政治的及び経済的諸条件による云はゞ外部よりの力の作用が然らしめるものであつて、演劇自体の内部的な意欲が新しく燃えあがつた結果と見なすことは、今のところまだできないやうに思ふ。
従つて、戯曲の生産についても、依然として、演劇時代の転換を暗示するやうな目ぼしい作品は現はれてゐない。
わが演劇もまた、現代日本の社会的諸要素とひとしく、なによりも先づ、その「近代化」といふ一点で、根本的な障碍に逢着してゐるかにみえる。しかも、その障碍を障碍とさへ自覚せず、習性の如き一種の衝動的な好みに頼つて、知らず識らず精神の畸形化と生命の停滞を招いてゐるのである。
私はここ数十年の演劇史を通じ、次ぎ次ぎに新しく登場した戯曲作家の果した役割を評価する場合それらの作家が、芸術家として、なによりもまづ、どの程度に、どういふかたちで、「近代的」なものを身につけてゐたかといふ点を重要視しないわけにいかぬ。
しかしながら、演劇的作品のなかに「近代的なもの」を誤りなく探ることは、かの社会制度や政治機構や生活様式やのなかにこれを見出すことほど単純でない。なぜなら、この判定に関する限り、文学的創作においては、意識的な部分よりも無意識的な部分に、より以上、本質とも云ふべきものが潜んでゐるからである。
西欧演劇史に於ける近代劇運動の目標が、
一、演劇の因襲的法則を打破し、その本質を探求せんとすること。
一、演劇とその他の諸芸術、特に文学との関係を更めて検討すること。
一、演劇の企業化に基く営利主義に挑戦し、純乎たる芸術運動乃至文化運動たらしめること。
一、演劇の内容としては、或は実質としての思想を重んじ、感覚に愬へると同時に頭脳に訴へる何ものかを求めんとすること。
の四点に要約されることを想ひ起し、私は、日本の最近数十年に亘る新興演劇の歩みが、現在までに残した足跡を検べてみて、感慨無量なるものがあるのである。
さて、この時代の戯曲文学について公正なアンソロジイを作る仕事は是非何人かによつて企てられなければならぬ。
しかしながら、この選集一巻を編むために私に与へられた自由は、決して無制限なものではない。久保田、真船氏を加へ、私ども三人は、それぞれ、独自の立場で作家並に作品を撰び出すことは許されてゐたけれども、これらの三巻がおのづから一連のつながりをもつものとして、私たちは、予めそれぞれの意図を、大体にではあるが通じ合つた。少くとも私の場合は、努めて他の二輯との重複を避け、しかも、劇文学開花の二つの時期を、故らある観点に立つての代表的作家群によつて取上げてゐる。
即ち大正前期に既に特色ある戯曲家的才能を示した久保田、山本、菊池、久米なる一群、昭和十年前後に跨る一時期を通じ、雑誌「劇作」に拠つて一流派をなした新作家群、そのうちから、ほゞ定評ある作品を生んだ阪中、川口、小山、田中、森本の五人を撰んでみた。
この四半世紀を距てた二つの時代と、その時代の生んだ二つの作家群について、それぞれできるだけ詳細な解説を加へてみようと思ふが、一人一人の作家及び、一つ一つの作品に関しては、この一巻の編纂意図がおのづから、私の尺度をもつてする価値批評となるのであつて、個々の叙述はむしろ独立した作家評乃至作品評とみなさるべきではない。
この作品集に仮に題名を与へるとすれば、例へば、「『短夜』から『華々しき一族』まで」でもよし、「『父帰る』から『馬』まで」でもよし、さらに、「『嬰児殺し』から『おふくろ』まで」でもよいのである。久保田万太郎から森本薫或は小山祐士へ、菊池寛から阪中正夫、或は川口一郎へ、山本有三から田中千禾夫或は真船豊へ、といふ風な、戯曲文学を通じての時代的推移、わが新興演劇の本質的な変貌について、善かれ悪かれ、興味ある対照がこゝに示されてゐるつもりである。
文学芸術の領域に、「時代的進化」といふ事実があるかどうか、若し、「進化」といふ言葉の意味を、常識的に発達とか進歩とかいふ意味にとるならば、私は必ずしも、原則としてそれを信じるものではない。
なるほど、同じ領域で、「革新」といふ言葉は今日まで屡々使はれて居たけれども、それは結局在来のもの、既成のものが、その末期に於て、老頽し形骸化し、時として悪臭を放ちつゝ大道を塞いでゐる状態に向つて叫ばれたのである。それゆえ、仮に「進化」(Evolution)といふ言葉が使はれたとしても、それは常に一面的に問題を捉へた場合のことであつて、本巻に収めた二つの時代をある意味で代表する作家群を以て、一方は前期に属し、一方は後期に属するが故に、そして、一方はなんとしても過去のものから出発し、一方は、反対にそれとの関係を無視しはじめたばかりでなく、前者には概して目立たなかつたものが、ひときははつきりして来てゐるといふやうな理由で、私は、これを「推移」とか、「変貌」といふ言葉で現はさうとした。しかし、演劇の近代化といふ一点に問題を限れば、そこに「進化」といふ意味は含まれてゐて差支へないと思ふ。
今、試みに大正三年といふ年を調べて、当時の劇文学界がどんな情勢にあつたかを記してみよう。詳細な文献が手許にないので、調べおとしや、多少の誤りがあるかも知れないけれども、大体の輪廓はうかがへると思ふ。
この年は「自由劇場」の創立から丁度五年目に当り、その主脳たる小山内薫が、外遊を終へて再び故国の劇壇に迎へられ、翻訳に演出に紹介に、新帰朝者としての活溌な仕事を始める一方、商業劇場の内部にまで指導的な地位を押し進めつゝあつた。
言ふまでもなく、「自由劇場」は十九世紀末フランスに於ける自然主義文学運動から芽生えた演劇革新の先駆的運動からその名を藉りたものであつて、これは、歌舞伎の青年俳優市川左団次が、明治四十二年、前途の野心に燃えつつ、新進劇文学者小山内薫と結んで、大胆率直に自己革新の道を撰んだ二つの冒険事業であつた。第一回公演は、森鴎外の訳になるイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」で、その反響はまさに新時代の暁鐘とも言ふべきもので、第八回公演を最後として、大正三年、熱烈な支持者の愛惜のうちに華々しい運動の幕を閉ぢたのであつた。
その前年、即ち大正二年には、かの坪内逍遥を盟主とする「文芸協会」が、これも第六回公演を最後として分裂解散した。
島村抱月、松井須磨子を中心とする「芸術座」が、トルストイの「復活」を提げて起ち、早稲田派の中堅作家がこれを支持した。
次に、東儀鉄笛、土肥春曙等の逍遥直系の俳優によつて「無名会」が組織せられ、旧文芸協会の後身たる旗色を明かにした。
更に、前二者に慊らぬ青年派は、別に「舞台協会」を創立し、最も尖鋭な分子を糾合した。
当時は、この動きとは別に、新時代劇協会(井上正夫)、土曜劇場(川村花菱)、近代劇協会(伊庭孝)、新社会劇団(中村吉蔵)等の新劇団体が、群立割拠してゐた。
逍遥、薫、抱月の三者は、いづれも文学者ではあつたが、同時に、演劇の実践活動に足を踏み入れ、ひとしく劇団の統率、経営の面に於ても大きな指導的役割を演じたのであるが、この間、専ら書斎の窓から、わが新興劇文学界に決定的影響と刺激とを与へたのが、森鴎外である。主として、北欧並にドイツの近代劇をやゝ系統的に翻訳紹介したのみならず、一世に卓越した識見と趣味とをもつて、新鮮にして雅致ある歴史物語の戯曲化を試み、わが古典の香りと近代の触覚とを併せもつ舞台の影像を示した。
鴎外の影響を仮に「詩文的」とすれば、明治末期から大正初頭にかけての文学界は、更にもう一つの特筆すべき新風によつて、言はば、「思想的」な洗礼を受けた。
武者小路実篤、有島武郎、長与善郎、里見弴、志賀直哉等、いはゆる「白樺派」の擡頭がこれである。
これらの一群は、志賀直哉を除いては、いづれも、小説と戯曲とを交々書いた。
大正三年、武者小路実篤は「二十八歳の耶蘇」を発表してゐる。彼自身、二十八歳を迎へたことは事実だが、その前年にはもう「或る日の一休」や「わしも知らない」を公にし、戯曲形式の上にもなんら囚はれるところなきを示した。
かう見て来ると、大正三年、即ち一九一四年、前大戦勃発の年こそは、わが戯曲界が、様々な影響と、刺激と、内部的条件の成熟とによつて、将に大きく花開かうとする前夜であつたと言へるのである。
そして、この年には、久保田万太郎は慶応義塾大学を卒業し、山本有三、久米正雄、菊池寛は、それぞれ東京大学文科に籍をおいてゐたのであるが、久保田万太郎は、在学中すでに「三田文学」派の新進作家として嘱目せられ、「遊戯」「プロローグ」「陰影」「暮れがた」「雪」等の戯曲を発表し、大正三年、大雑誌中央公論に戯曲「凶」(後に「宵の空」と改題)を書いて堂々一家の風をなしてゐる。
山本有三は、高等学校在学中の明治四十三年、処女作「穴」一幕を「歌舞伎」誌上に発表し、名古屋の素人劇団がこれを上演したといふ記録がある。大正三年には、「第三次新思潮」の同人として芥川、久米、菊池、豊島らと共に文学的な活動をしてゐたばかりでなく、当時の異色ある俳優井上正夫と相識り、直接舞台裏の空気を呼吸しつゝ、劇場のメカニズムを体得しようとしてゐた。「女親」一幕は、この間、大正三年に書かれたものである。
菊池寛は、前記「新思潮」紙上に、草田杜太郎の変名で、数篇の戯曲を発表し、大正三年の作としては、「玉村吉弥の記」、「弱虫の夫」、「恐ろしい父恐ろしい娘」などがある。
山本と菊池が戯曲を主として書いてゐたのに反し、久米正雄は、芥川と共に夏目漱石の門に入つたが、大正三年、「新思潮」に「牛乳屋の兄弟」の処女劇作を発表してゐる。
久保田、山本、菊池、久米、の四家を特にこゝへ並べて引合に出すのは、私がこの集を編むに当つて、ひとりでに割り当てられた人撰の範囲ともかなひ、かつ、前にも述べたやうに、これらの作家が殆ど踵を接して登場した時代を背景に、広く文芸一般の領域に亙ることなく、限られた劇文学の畑のなかで、今日から明日へ繋る一つの課題、「演劇の近代化」が、現になほ劇場と深い関係にある、四つの確乎たる名によつて、その作品のなかに如何に表現されたかといふことを見究めたいからである。
先づ、西欧に於ける近代劇運動がさうであつたやうに、わが明治以後の演劇革新運動も、その「近代的性格」をはつきり掲げるに至つたのは、なんと言つても、「自由劇場」の旗上げであり、文学に於ける写実主義、一層厳密に言へば、自然主義の澎湃たる波に乗じたことは否定できないのであつて、言葉をかへれば、やはり「真実の探究」が、誇張と粉飾を常とするかの如き前代の演劇から一線を画せしめたのである。エミール・ゾラの自然主義演劇理論はそれ自体として当時紹介されなかつたかも知れない。けれども、「戯曲は人生の断片なり」とか、「観客は第四の壁を透して人間生活の実相を舞台に見出さなければならぬ」といふやうな主張は、既に若い演劇研究者の常識となつてゐたに違ひない。
たとへ、一方に於て、もう象徴詩の運動が伝へられ、わが文学界の新機運は、いはゆる「世紀末」のデカダニズムを吸収しはじめたとは言へ、西欧文学の支流が動かすべからざる写実主義の大坩堝を濾過してはじめて「近代」の血肉を具へるに至つた過程を見逃す筈はない。
この意味に於て、小説界が田山花袋の「蒲団」を問題視したと同様に、劇文壇は、中村吉蔵の「剃刀」(大正三年、芸術座上演)に対して、「出るべきものが出た」といふ声を放つたのであるが、そこにはまだ北欧の濃霧のなかを、手さぐりで歩いてゐる東洋の作者の危なげな足どりがみられた。
しかるに、中村吉蔵の如くアメリカへ留学もせず、むしろ、浅草の市井の生活に密着した世界を唯一の自己の世界とするかの如き、季節と人情の詩人久保田万太郎は、驚嘆すべき感受性をもつて、何人よりも繊細に泰西戯曲の対話の魅力をわが庶民の生活から拾ひあげ、舞台の韻律的効果を決定する劇的文体に、やゝ、単純ながら陰翳に富む心理の、微妙にして正確なトーンを与へることに成功した。すぐれた観察の眼が自然主義の露骨な解剖に向はずに陰翳の忠実な捕捉に向けられた好個の例である。
或は、久保田万太郎の思想を、その作品に描かれた世界のゆゑに、そして、その世界に執着し、その世界を愛惜し、その世界をなんらの懐疑もなく追求する作者の態度ゆゑに、単に懐古的なりと評し、若くは低徊の類なりと断定するものがあれば、筆者は、それがどうしてこれらの作品の生命と関係があるのかと問ひ返したい。
若し、そこに昨日の日本が、今日の相として描かれてゐるが故に、久保田万太郎の作風が、陳腐だとすれば、常に目新しい観念の世界を、作者が肉体をもつて生きてゐないやうな世界を、まことしやかに描いてみせる多くの作家が、それ以上陳腐にみえるのは何故であらう? 久保田万太郎の作品の系列は、変化を求むるものには単調であるかもしれぬが、彼の歌ひ出す世界の魅力を、将に失はれようとする精神の秩序として、これを索漠たる現実の一隅に蘇らせ得るものにとつては、もはや、それは過去巡礼の咏嘆ではなく、むしろ「かくある」ものの、狂ひなき摘出であり、作者と共に耳を傾けるに足る真実の稀な声なのである。
久保田万太郎の芸術の秘密は、同時代の何人もそれほどには気にとめなかつた「戯曲の言葉」の発見と、それの自由な駆使にあると云つて間違ひないと思ふ。
わが国の新時代の文学が、散文たると韻文たるとを問はず、いはゆる「現代語」への転換にどれだけの努力と時間とを費したかは、今日に至つて、なほ幾多の問題が残されてゐるのをみてもわかるのであるが、戯曲を戯曲たらしめる「対話」においては、不思議にも「語られる現代語」としての性格が、専門の戯曲作家の間に於てさへ殆ど正面から論議されたことはなく、従つて、舞台の「現代生活」は、一般に、生命の稀薄な「標準語」的会話によつて語られてゐた。舞台の人物に何を語らせるか、といふ一点では、作家的な撰択が言葉の上に加へられるとしても、如何に語らせるか、といふその如何にの程度が辛うじてト書に示される程度であるのが普通であつた。
久保田万太郎は、生れながらにして、かの都会人の打てば響く応酬の呼吸を身につけてゐたためか、泰西の戯曲の本質をなす対話の妙味を、恐らく原書を通じて鋭敏に感得したに違ひないと思う。
なるほど、歌舞伎世話狂言乃至落語講釈にみる一応完成された会話のスタイルからも、多分に学びとるところはあつたであらう。それもまた久保田万太郎の閲歴が証明するところであるけれども、私は、特に、彼に於て、たとへ意識的にはそれを努めなかつたにせよ、眼にふれた泰西戯曲の、主題よりも構成よりも、結局、溌剌たる文体の、写実的な生命感を通じて自己の演劇的夢想──近代文学の教養に叛かない──を再現し得ると信じた、早熟な一年少作家を想ひ描きたい。
この推測が当つてゐても当つてゐなくても、久保田万太郎の作品こそは、疑ひもなく、わが新興演劇に本質的な一つの要素を附け加へたことになるのであつて、この要素が、他のすべての新しい、或は古い要素のなかで、最も生命の長いものなのである。
久保田万太郎が劇的文体に新しい一つの方向を与へたとすれば、菊池寛は専らその透徹した現実主義の哲学の上にたつて、劇的主題の撰択に独特な才能を示した。
彼は大学在学中、オスカア・ワイルド及びバアナアド・ショウの影響を受けたと告白してゐるけれども、それ以上に英国風の合理精神を身につけ、因襲と矛盾に満ちた実社会の直截な批判者となつた。
なるほど、初期の一幕物には、英国劇殊にアイルランド劇の面影がやゝ伝へられてゐて、地方的とも云ひ得る素朴な一種の風味が感じられるものもあるが、やはりその特色は、近代人らしい身辺の問題の取上げ方であり、しかも、それらの問題は殆ど常に、個人の立場を中心としたものである。
菊池寛の主題が、徹頭徹尾、「現実の処理」であるのに反し、山本有三の好んで撰ぶ主題は、「現実への挑戦」である。それは「問題」の解決でなくして、提起である。
山本有三はその戯曲家としての出発に於て、既に、求道者の一面をもつてゐた。近代レアリズムの精神は、彼に於て、人生観照の眼となつたばかりでなく、菊池寛の場合のやうな、主題捕捉の知的操作たるよりも、むしろ、人間的感動の尊重、乃至社会啓蒙の執拗な情意的要求となつて、その作品を一面、理想主義的な色彩に塗りあげてゐる。
独墺文学専攻の経歴は、明かに北欧の観念的問題劇の暗鬱な気分をいくぶんその作品の中に示した時代はあつたけれども、この傾向は漸次跡を絶つて、いはゆる向日性とでも言ふべき希望と融合の世界が広く作品の精神の基調をなすに至つた。
作家としては、単純に写実主義者と呼ぶことは出来ぬにしても、山本有三の作劇術には、その作品の特質としてあぐべき舞台効果、殊に、心理的境遇の危機性をもたらす主要な原因として、構成の緻密と堅牢とを指摘せねばなるまい。
戯曲に於ける「構成」の問題は、実際に論じだすと際限がないのであるが、山本有三の場合は、これを近代写実主義が生んだ一つの見事な舞台的成果とみて、私は、前時代のお芝居的ハッタリと断然区別するものである。
久保田、菊池、山本のドラマツルギイからそれぞれの特性を引き出して、その「近代性」を論じた。
多少押しつけがましいところはあるけれども、一応、久保田の文体、菊池の主題、山本の構成といふ風に、専門劇作家としては技術的に新境地を拓いた一面を、それが偶然各人各様の顕著な対照を成してゐるがゆゑに、わざと、こゝに指摘したのであるが、さういふ観方からすると、同時代に輩出した戯曲作家の多くが、一方、或は小説家として、或は詩人として、或は劇団の統率者、または劇評家としてさへ、卓越した業蹟を残しながら、純然たる劇作家としては、その作品活動が一時的であつたり、劇作がまつたく余技の如くみえたり、更に、戯曲とは名ばかりの対話体の散文──レーゼ・ドラマの域を出なかつたりするのに気がつくであらう。
さうかと云つて、私は決して、これらの作家の劇作品を不当に低く評価するものではない。大正年代にはひつて約十年間は、言はば新戯曲時代と呼ばれるに応はしい百花燎爛の盛観を呈したのであるが、この時代に先駆した作家は、いづれも、何等かの意味に於て、新時代を呼吸し、新傾向を追ひ、新領域を開拓したけれども、私の考へをもつてすれば、その大多数は、専門的な立場から戯曲の本質について「新しい発見」をしたとは言へないと思ふ。
或るものは、西欧的なものを異国情調として採り入れ、或るものは、単に神秘主義を加味した気分劇風のものに走り、或るものは、論議のための論議に終始する問題劇の形式の易きについた。
しかしながら、若干の例外はあつた。
巧みに欧洲近代劇の舞台的イメージを咀嚼して、現代日本の特殊な風景の中にこれを活かしたり、西欧古代ファルス乃至はその伝統をもつ地方民族劇の道化味を、わが原始生活の形態のうちから拾ひ出したりといふやうな鮮やかな芸をみせたのが、久米正雄である。
かゝる試みの意義は、失敗に終ればたゞ惨憺たるものであるけれども、ある程度功を奏すれば、それだけで文学的な一つの機運を作ることがある。
久米正雄が、前に述べたやうに、多才多能で、劇作に於ても、夙に注目すべき業蹟を示したといふことは、その作風に、他の同時代の作家と異るユニックな魅力が潜んでゐたからで、その魅力は、例へば武者小路実篤のやうな、その人柄とか、思想的傾向とか言ふものだけでなく、はつきり言へば、「演劇のジャンルとその近代性」に対する、当時としては極めて妥当な共感から来るものだと私は解するのである。
そこで以上の理由から、私はこの四人の作家の「代表作」を一篇づゝ撰ばなければならぬことになつた。
「代表作」は常に傑作でなければならぬとすれば、或はもつと外にこれに該当するものがあるであらうけれども、私のこゝで云ふ「代表作」は、各作家には多少公平を欠くことになるかも知れぬが、それぞれの作家の私が前述したやうな特色の比較的はつきり現はれたものをといふ理由から故らその処女作に近いものを撰んだ場合もある。山本有三の作品からは最も老熟の境地を示した「米百俵」を採りたかつたのであるが、止むを得ない事情で、この希望は達せられなかつたばかりでなく、その上つひにこれに代る作をも収録する許可を得ることができなかつた。編者としては誠に遺憾であるが、希くばこれのみは別の単行本を参照されたい。
久保田万太郎の「大寺学校」は、昭和二年雑誌「女性」に連載され、同三年、築地小劇場に於て華々しく脚光を浴びた、たゞに久保田万太郎の傑作であるばかりでなく、日本新劇、否、現代文学を通じての、まさに古典の座に位すべき作品である。
処女作「遊戯」より「大寺学校」まで、この間十七年、久保田万太郎は、小説戯曲とを数多く交々発表したが、他の如何なるさういふ作家とも異り、久保田万太郎は、商業劇場の舞台と不思議に縁が薄く、しかも、他の如何なる作家よりも、「新劇」作家としての存在を大きく、かつ、はつきり主張してゐた。その純粋さの故に劇場の営利主義に容れられないことは、久保田万太郎の芸術の矜りであることを何人も疑はなかつたのである。しかしまた一方、久保田万太郎の世界は、俳優にやゝ限られた条件を要求する。例へば東京下町のいはゆる現代江戸ッ子弁が自然に駆使できなければ、殆ど舞台の雰囲気は毀されるといふが如きである。このデリケートな演出に耐へる劇団機構を考へる時、「大寺学校」の完全な舞台は、将来、果して再現し得るや否やを危ぶまないわけにいかぬ。
「大寺学校」に至るまで久保田万太郎の目ぼしい戯曲を拾つてみると、「雨空」「心ごころ」「不幸」「月夜」「冬」「夜鴉」等、いづれも代表作の名に恥ぢぬ秀作であるけれども、戯曲作家としての満身の力は、この「大寺学校」三幕に発揮されてゐる。
「大寺学校」が久保田万太郎の最大力作だとすれば「屋上の狂人」は菊池寛の処女作ではないが、大正五年同人雑誌「新思潮」に発表した、云はゞ習作時代に属する作品の一つかと思ふ。
しかし、その出世作にして傑作と称せられる「父帰る」は、大正六年の作で、その間僅かに一年、作家としての習熟の程度に於て大差ある筈はない。「屋上の狂人」のやゝ観念的なテーマは「父帰る」の現実味豊かな内容と対蹠的であつて、レアリスト菊池寛の代表作としては不適当のやうにみえるけれども、私がむしろこの最もポピュラアな作家のそれほどポピュラアならざる作品を撰んだ理由は前にも述べたやうに、その処女性とも言ひたい手法の生々しさのなかに、却つてこの作家の天成の資質と傾向とを見ることができ、特に菊池寛の戯曲の主題が、拠つて生れる哲学の在り方を知るために便利だと信じたからである。
菊池寛の現実主義は、この観念的な物語りのなかに極めて作家的な風貌を以て示される。この作の主題は、「狂人は狂人のまゝでゐる方が却つて幸福なのかも知れない」といふやゝシニカルな現実肯定の土台を土台とし、肉身の情愛が盲目的に迷信に縋る愚を嘲する合理主義的結論につながつてゐる。
もちろんそこには、知識青年らしいひたむきな主張があり、それを支へる諷刺にはまだどこか常識的な皮肉の殻がとれてゐない憾みはあるけれども、それでも十分に近代人の懐疑的な精神に愬へ得るものをもつてゐる。
「屋上の狂人」のかゝる主題的興味は、その舞台趣向の笑ふに笑へぬといふ風な喜劇味とやゝそぐはぬものがあるけれども、そこで作者の外国文学の教養がものを云ひ、なんとなく新鮮な舞台様式を想像させるばかりでなく、簡潔な筋の運びは作品に一種明快なトーンを与へ、しかも論理の発展が程よく知識人の頭脳を刺戟するといふ特色で、この作は当時異彩を放つた。
戯曲作家としての菊池寛は、その作品は必ずしも多いとは言へない。しかも、短篇小説家としての地歩を築くまで、初期の劇作はどちらかと言へば識者の注目を惹かなかつたと言つていゝ。が、大正七年頃から、その名声頓にあがると共に、旧作たる戯曲は、次ぎ次ぎに、猿之助、勘弥、沢田正二郎によつて上演され、短篇小説の数々も、その戯曲的主題の故に、容易に脚色舞台化された。
菊池寛が、劇作の筆を早く絶つたのに比べると、おなじく近年長篇小説に力を注ぎはじめた山本有三は、一方、機会をとらへてなほ戯曲の創作を続けてゐる。
「米百俵」は、昭和十八年発表と同時に、井上正夫等によつて舞台化された堂々たる力作で、戦時中、この作者にしてこの作ありと云ふべき「警世」といふ意味の強い社会問題劇である。
それはさうと戯曲家山本有三の「嬰児殺し」から「米百俵」に至る制作年譜は、殆ど同時に、その上演年譜をふくむとみて差支へないものである。しかも、主要作品の初演記録は、概ね、大劇場に於ける著名な俳優のそれであつて、大正九年に「生命の冠」が明治座に上演されて以来、「津村教授」「嬰児殺し」「女親」「海彦山彦」「同志の人々」「阪崎出羽守」「熊谷蓮生坊」「嘉門と七郎右衛門」「西郷と大久保」「女人哀詞」「米百俵」に至るまで、その初演の舞台は配役の興味と相俟つて劇界及び好劇家の絶大な期待のうちに幕を開け、わが国商業劇場の習慣としては、珍しく、作者の名が名実ともにクローズ・アップされ、なんとなく重みをもつ傾向を作つた。この事実は、わが演劇史、特に演劇文化史の上で、看過してはならぬ現象である。ある意味に於てはこの作者ほど既成興行者の営利主義と戦ひ、芸術冒涜の蛮行に対して、正面から抗議した作家はないと言つていゝのである。
久保田万太郎と山本有三とは今日なほ戯曲創作を続け、菊池寛は昭和に入つてから殆ど新作を公表しないけれども、劇壇からその名を除外することはできない。ところが、久米正雄は、「牛乳屋の兄弟」以下数篇の戯曲をその初期に発表しただけで、恐らく劇作家としての彼を識るものすら今日では少ないであらう。
「地蔵教由来」は、彼のもつファンテジイの一面であつて、一般に代表作と考へられてゐる「三浦製糸工場主」が、写実主義的「新劇」の典型であるとすれば、「地蔵教由来」は、素朴な古代ファルスの風味を軽妙洒脱な現代的諷刺にからませたのであつて、当時の傾向としては例外に属するものである。
大正初頭に相次いで登場した一群の新作家が、当時の戯曲界にある意味での革新をもたらしたと同様、昭和六、七年頃から、いはゆる「新劇」界の一隅に、地味ではあるが、堅実な戯曲研究熱が勃興した。そして、その機運のなかから、目標を同じくする有望な作家の数々が生れたのである。
目標とは、ひろくは新しい戯曲文学の創造にあり、もつと限られた意味では、先づ戯曲美の基本的な探究から出発する舞台的真実の把握といふことにあつたと思ふ。そして、それらの作家の殆どすべては、期せずして近代写実主義の完璧な表現を目指し、日常生活の陰翳のうちにこれを求めた。
昭和七年、雑誌「劇作」の創刊は、この運動の明確なスタートであつた。
しかしながら、その時に於て、わが劇壇の先駆的な傾向は、一方に於て、これと全く対蹠的な、しかも、有力な陣営を形づくつてゐた。
即ち、マルキシズムを指導原理とするいはゆる左翼演劇運動が、時代の波に乗つて表面的な活動を続け、優秀な知識分子の社会的関心に愬へるところがあり、その劇団活動は最も旺盛であつたから、勢ひ、これが時代的色彩をもつ戯曲の生産を促した。
こゝで、参考のために、大正末期からこの当時に至るまでの「新劇界」の推移をざつと眺めてみよう。
例の関東大震災(大正十二年)は、なんと云つても、東京を中心とするすべての活動を中断させたのであつたが、演劇もむろんその例に漏れなかつた。従つて、この震災を契機として、一つの新しい現象がいろいろな方面で生じた。
「新劇」も亦、誰からともなく復興の声に踊つた観があり、震災の翌年、即ち、大正十三年には、早くも、山本有三が編輯責任となり、久保田万太郎、菊池寛、小山内薫、久米正雄、里見弴、長田秀雄、吉井勇、長与善郎、中村吉蔵、等々の既成劇作家を同人として網羅した「演劇新潮」なる新雑誌が新潮社から創刊された。
そして、同じ年、小山内薫、土方与志を中心とする「築地小劇場」の創立をみた。
更に、昭和に入ると、例の全集物流行の時代が来る。すると、二つの出版社から、「近代劇全集」と「世界戯曲全集」との予約募集が発表せられ、いづれも数十巻といふ厖大な計画であつたが、予約者の数は、どちらも数万を下らぬといふ盛況を呈したのである。
「新興演劇」の分野に於て、なほもう一つ、直接ではないが間接には大きな問題とすべき当時の社会的事情がある。それは、外国映画、特に優秀なフランス・トオキイの輸入が相次いで行はれ欧米の名ある舞台俳優が交々スクリーンを通じて紹介されたこと、これである。
「演劇新潮」はやがて新潮社の経営をはなれて文芸春秋社の手に移り、文芸春秋社は、菊池寛個人の資格に於てではあつたが、米国帰りの素人俳優畑中蓼坡を支持して、その主宰する「新劇協会」の公演を継続させた。
かうして、昭和の年は進んだ。
築地小劇場は、小山内薫の没後、内部的対立を生じて、遂に分裂瓦解した。(昭和五年)
前記の「新劇協会」も、その後、後援続かず、畑中の職業劇団入りとなつて、正に竜頭蛇尾に終つたが、築地小劇場の一分派たる築地座は、言はゞ、その空隙を塞ぐことが主なる存在理由となつた。
昭和七年、雑誌「劇作」が創刊されるまでに、同人にして主唱者の一人阪中正夫は、既に、昭和三年、その処女作「鳥籠を毀す」を雑誌「悲劇喜劇」に発表し、六年には、その秀作「馬」が「改造」の懸賞作品として当選してゐた。
生来の田園詩人的素質と、まともに対象にぶつかつて行く素朴な勇気とによつて、荒けづりのやうではあるが、流動するものゝ相を瞬間にとらへるといふ戯曲作家として恵まれた天分をもつたこの紀州人に、私は早くから興味を惹かれてゐたが、「馬」以後の作品には、一種の憑かれたやうな野心がみえはじめた。人間心理の奥底をのぞく作者の執拗な眼が光つて来たのは、彼がいくぶん地肌のやうに身につけてゐるリリシズムをかなぐり捨てる決意を示したのと同時であつた。
ところが「町人」「赤鬼」に至つて、俄然、作者の人間観察にバルザック的とも云ふべき幅が加はつて来たのである。但し、彼の戯曲は、そこで散文の領域に足を踏み込んだ。
「馬」は、この作者のものとしては、前期に属するもので、いはゆる「方言劇」流行の先駆をなしたところをみても、この作品の「地方訛り」が他の模倣の追従をゆるさぬ「生きた言葉」の自由な駆使であることがわかる。戯曲としての構成にはまだどことなく弛みはあるけれども、近代ファルスの新鮮な風味を備へた現代劇として、詩人阪中正夫の代表作たるに価するものである。この作家が将来、再び「馬」を書くことがあるとすれば、その「馬」は巨大な蹄をもつものと確信する。
川口一郎は阪中正夫と共に「劇作」に拠る作家であるが、その作家としての特質は、あくまでも心理的リアリストたることであり、しかも、恐らくはアメリカ留学によつて得た演劇修業の結果によるものと考へられるが、日本の劇作家には未だ類例を見ない、西欧演劇の写実味を舞台を通じて見事に体得してゐるといふことである。それは、ある時は些末主義に陥りかねない場合もあるけれども、幸に、舞台のリアリズムは、それが真のリアリズムである限り、われわれの眼には些末と感ぜられる前に「正確」への満足と驚きがある。それほど、日本の劇文学は、「リアリティイ」なるものの異つた概念を打ち樹てゝゐたのである。
「二十六番館」は、紐育の日本人コロニイといふ目新しい生活背景と作者が冷やかにも捉へた郷愁の色とりどりは別として、主題そのものはやゝ平板な心理の葛藤に尽きる。構成に至つては、その複雑な手堅さにも拘はらず、全体として、地味な、大きな起伏を目立たせない、どちらかと言へば、単調と思はれるほどの作品である。それでゐて瞬間瞬間の感銘は実に鮮かであるばかりでなく、その瞬間の連続的な効果は、一種の階調に富んだ雰囲気の流れとなつて、聊かも精神の弛緩をゆるさない。作者の眼の精確な働きを藉りて、われわれはある律動に合はせながら、意外に愉しい数々の発見と実証とをなし得る。これが、この作品の魅力であり「画期的」な所以である。
川口一郎は、この力篇を昭和七年「劇作」誌上に発表したが、翌八年、築地座(飛行館の舞台に拠る)に上演され、一部好劇家の絶讃を浴びた。
この年に、築地座は、同じく「劇作」同人田中千禾夫の処女作「おふくろ」を初演して、殆ど満場一致的好評を博したのであるが、抑も、この戯曲の特色は、作者の「対話術」に於けるまつたく独特な修練の結果として生れたものであり、慶応仏文科在学中から、既にフランス戯曲に親しむかたわら、新劇協会専属の俳優養成所へ正規の研究生として入所し、演技の実習を積むと同時に、フランスで出版された「ディクション」に関する文献、特に、ブレモンの「物云ふ術」(L'art de dire)を熟読翫味した事実を見逃すことはできない。
「おふくろ」の芸術価値を単に「会話のうまさ」だけと言ひきることは、むろん見当外れであるが、真の「対話の魅力」は、言ふまでもなく、観察力と機智と、多くの場合、心理的陰翳を表現する語彙の豊かさとを必要とするものである。
この意味に於て、年少の作者が、わが国の演劇に最も乏しく、かつ、それほど重要と考へられてゐないこの種の魅力に着眼し、これを処女作のなかに有効に盛り入れた、つつましい野心を、私は、何人よりも認め、かつ、その舞台的成功の陰にはこの作者の芸術を最もよく理解する演出者川口一郎と、この作品を舞台化する為に最も、適当な配役を得たことを忘れてはならぬと思ふ。
「おふくろ」が上演された直後、「劇作」は同人小山祐士の「瀬戸内海の子供ら」を掲載した。
小山祐士は既に「十二月の街」に於てその才能と独自の境地を示したが、恐らく演劇といふ芸術形式の「音楽」のそれに似たもの、つまり心理的リズムの意識的な組立てから、殆ど生活イメージの交響楽といふ風な戯曲のスタイルを創造したことが特筆せらるべきであらう。
この交響楽は、しかし、「瀬戸内海の子供ら」に至つても、なほ多少十九世紀的メロディーを残してゐるにはゐる。小山祐士の抒情はラマルチイヌの附近を未だ彷徨してゐるかにみえるが、一方、近代生活者としての好奇心が、その人間観察を益々深めつゝあることが看取できる。
「瀬戸内海の子供ら」は、それゆゑ、一時代、一地方の微妙な空気が、たしかに類型を脱したすがたに於て捉へられてゐるけれども、たゞ作者の感興は「流動するもの」をその速度に従つて描く代りに、聊か「揺曳するもの」に瞳を凝らしてゐるきらひがないではない。
この戯曲が「築地座」の舞台にかけられたのは、翌年のことであるが、同年、「劇作」は、森本薫の「みごとな女」を、同十年続いて、「華々しき一族」三幕を発表、識者の注目を惹いたのである。近代的感覚の柔軟な操作、驚くべき技法の成熟ぶりによつて、忽ち「危なげのない」新進作家として迎へられはしたが、森本薫は単にそれだけの作家ではない。その証拠に「退屈な時間」(昭和十六年)があり、こゝに知的な演劇の型が示された。
「みごとな女」が「劇作」誌上に発表された直後、岩田豊雄は、この作品及び作者について、次のやうな感想を次出の号で述べてゐる。──全文を引用するといゝが少し長くなるから要点を書き抜く。──
『「みごとな女」「わが家」「一家風」の三作を通じて、作劇態度は必ずしも一でないが秀抜なる作者の眼と腕はこれを貫いてゐる。「眼」の面白みは「みごとな女」に爾くはない。この作品、もし母親と幕切れとが良く描かれてゐたら、近来の珍宝と推すべく躊躇しない。とは云へ肝心のみごとな女と、二人の青年が、生動してゐるから、作者のモクロミは半分以上果され、そのモクロミが甚だ興味深い。このユウモアは全く理知的で、近代的である。
(中略)「みごとな女」をあのやうに見、あのやうに書くことは、まつたくフランスの現代作家でもやりさうなことだ。(略)満目の国粋気分中、こんなことを云ふのは如何と思ふが、現在の戯曲がヘタに日本的であるよりも、立派に大陸的である方が、僕なぞは賛成だ。演劇運動と共に戯曲だつて今のところ、文化的目的と芸術的目的と相半してゐると、僕は思ふ。
さう云へば、作者森本氏は随分よく外国戯曲を読んでをられる方のやうに思へる。作者が主題の似てゐるコポオの Maison Natale(生れた家)を愛されたか否かは知らぬが Maison Natale に見出されるやうな劇的脈搏を確実に把握されてゐるのは、やはり西洋戯曲をよく学んでをられる証拠だと思ふ。しかもその学び方は、断然翻訳的でない。所謂作者の素質に触れず、こんな事ばかり列べては、作者のご迷惑になるかもしれぬが、作者の戯曲家的素質が悪くて、如何にしてかくもよく西洋戯曲が学び取られようぞ、と思ふ。稟質の作者も当今稀れであるが、教養の作家もまことに尠い。森本氏の教養はメチエの上のみならず、人間と社会とに対しても相当の幅を持つてゐる。「わが家」や「一家風」を読むとそれがわかる。「わが家」を読み、作家が金ボタンの青年と聞いて僕は少し驚いた。(以下略す)』
岩田豊雄のこの感想を特にこゝに藉りて来たわけは、これが当時の識者を代表する森本観だと信じるからである。そして、また、私が、「みごとな女」及びその作者に対して加ふべき解説の重要な部分を代弁してくれてゐるからである。
言ふまでもなく、この作家の出現によつて、日本の近代劇の一つのジャンルは、その行き着くところに行き着いた。別の言葉を用ひれば、わが新興戯曲の幾多の型が、演劇の近代化といふ一つの方面に向つてスタアトしたとすれば、そのうちの或るもののみが、その精神と形式とをあげて、既成の歌舞伎新派の伝統から完全に離脱し、しかも、演劇の純粋領域から逸出することなく、こゝにか細くはあるが、国際的知性と感覚とに愬へうる近代戯曲の一見本を産出するに至つたのである。
森本薫は「みごとな女」から「華々しき一族」へ、更に「退屈な時間」へといふ風に顕著な発展をみせてゐる。従つて代表作として「みごとな女」では物足りぬやうな気もするが、頁数の関係もあつて、ひとまづこれを撰ぶことにした。
筆者がこの稿を終ると間もなく、もともと病弱であつたこの一世の才器は、多望な未来をすてゝ不帰の客となつた。わが新劇界の償ふべからざる損失である。
昭和七年以後の「新劇」は別に大きな転換期を迎へた。
政局の動きと共に、左翼運動に対する弾圧が徐々に加はり、遂に、前衛座は解散を命ぜられ、築地小劇場に拠る土方与志の新築地劇団は、土方の単独入露といふ事件を前にして動揺し、村山知義らは思想的立場を擬装するため、新劇の大同団結を提唱して、その統一劇団たる名において新協劇団の結成を宣言した。
統一劇団は成らなかつたが、新劇団体六つの親睦、連絡、協議機関なる「新劇倶楽部」が創立されたのが、昭和十年である。加盟六劇団とは、築地座、新協劇団、新築地劇団、テアトル・コメディイ、芸術小劇場、そして、創作座である。
創作座は、築地座から独立した一部の俳優、演出家のグループであつて、昭和九年、真船豊の「鼬」をもつて旗挙げ公演とし、名実ともに成功ををさめた。
まことに、真船豊なる新作家は、突如としてこの初々しい舞台に姿を現はし、一躍劇文壇に重きをなすに至るのであるが、この作家の代表作は別の巻に収められる筈であるから、わざとこの巻から除くことにした。従つて私の解説文も、遺憾ながらこの新作家の出現を歴史的に意味づける余裕がない。
たゞ、なによりも沈痛にして皮肉な「鼬」の作者は如何なる機縁によつてか、「鼬」の演出以来、久保田万太郎に傾倒することふかく、久保田万太郎も亦、この後進をその視野から逃すことはないと思はれるほど、両者の関係は密接である。こゝに若し、芸術的な繋りを求めるとすれば、私の論旨は一層徹底するのであるが、そのことは、単に暗示の域に止めておかうと思ふ。要するに、この時代の新劇の動向、特に新興戯曲作家の陣営をのぞくに当つて、その一部のみを捉へ来つて全体を律するやうにみえてはならぬといふ配慮から、なにはさておき、真船豊の名を記したに過ぎぬけれども、しかもなほ、この作家と共にこの集に収むべくして収め得なかつた若干の名を挙げるとなれば、先づ「劇作」同人としては、「むささび」の伊賀山昌三、「秋水嶺」の内村直也、「翁家」の田口竹男等が数へらるる。女流としては「劇作」及び築地座が取上げた作家に、岡田禎子、田中澄江、三宅悠紀子、長岡輝子等々がある。
「築地座」は昭和十一年に解散した。そして翌十二年、文学座が誕生した。
「劇作」は昭和十五年、十二月号を最後とし、内務省事務当局の雑誌統制案に従つて廃刊のやむなきに至つた。
が、この雑誌の使命も、当時に於ては既に一応果されたかの観があり、阪中、川口、小山、田中、いづれも前作からの飛躍をみせず、森本のみ、更に秀作「退屈な時間」を発表し、一方映画会社のためにシナリオを書くかたはら、ともかく、文学座のスタフとして、数篇の新作を書卸してゐる。
さて、「劇作」同人以前の新作家群をみると、それは決して人材に乏しいとは言へないばかりでなく、演劇史的な観点から、いろいろな問題が拾ひ出せさうである。
昭和十五年、河出書房発行の「現代戯曲」六巻中、新進作家として、既出の名を除き、この時代を代表するとおぼしき作家を拾つてみると、田郷虎雄、三好十郎、久板栄次郎、阿木翁助、和田勝一、久保栄、伊馬鵜平、八木隆一郎などである。そのうちの多くは、世評の高かつた問題作の作者である。従つて、ある意味に於ては、「劇作」同人たる本集収録の五作家に比して、劇壇に於ける地位も確立し、一層その名はポピュラアになつてゐると言つてよいのである。
大正初期の演劇界は、演劇界を挙げて、多少とも革新の熱に燃えてゐた。新作家の新作は、期せずして、商業劇場の求めるところとも一致することが多かつた。若し、さうでなければ、それはもう甚だしく高踏的なものか、或は、未熟にして上演に堪へないものとされた。
ところが、昭和中期の演劇界は、演劇界自体が萎縮し、保守的な身構へをとつてゐた。つまり、興行会社といはゆる営利を目的としない「新劇」の劇団とが、はつきり、その歴史をもちはじめてゐたのである。新作家、特に、歌舞伎新派の伝統的技術に興味をもたず、まつたく西欧的な演劇の教養のみから出発した新作家は、「新劇」の劇団のいづれかと結ぶ以外に自作上演の機会は殆どなく、それも、「新劇」の舞台と俳優ならば必ず満足するといふわけではなかつた。幻滅が絶えず彼等の上を襲つた。歌舞伎新派の俳優のみが縁遠いものに思はれてゐたのは誤りであることに気づく。実は、日本の現在の俳優なるものが、そもそも、自己の夢みる人物の再現に通じないことを発見した。誠に不幸には違ひないが、罪は何れにあるかわからぬと言ひたいところである。
かゝる作家の一群は、しかし、決して思ひあがつてゐるのではない。なぜなら、それは、少しは、自分の罪だとも思ひ、また相手にも罪はなくもないが、もつとほかに、みんなを引つくるめた、新時代といふものの罪が何よりも大きいことを身をもつて感じてゐるからである。
この時代は、すべての交流が絶え、接合点がなくなり、平坦なるべきものに凹凸を生じ、人は自分の言葉を話さず、社会は無表情を装ひ、幼稚な精神が臆面もなく哲学を弄んでゐるのである。真理はこの現実のなかにしかない。
演劇も亦、文学と同じく、或はそれ以上に、この現実の認識から出発するところに、新しい発展の道が開かれるのだと思ふ。
演劇を愛するといふ。その愛し方には、様々な程度と質とがあるのである。
俳優はともかく、戯曲作家の場合、その作品には、彼が現実に立ち向ふ態度のほかに、もう一つ、演劇そのものに対する愛情の流露を、私は重要視する。他の如何なる目的達成のためにも、演劇形式を利用し、つまり、これを手段視する作品の一系列を、戯曲としては高く評価できない。例へば、作者の名声的野心といふやうなものさへ、作品の価値を半減すると私は信じるものである。
この集に収めた新進作家五人の代表作が、いづれも個人的な日常生活に取材し、時代を反映する社会の動きが少しも捉へられてゐないといふ非難が或は出るかも知れぬが、その弁護はこゝではしない。ただ、この五人は、いづれも、演劇をそれ自体として純粋に愛し、愛するが故に常に孤独だと信じかねない作家たちである。
本集のいはゆる前期の部に属する山本有三、菊池寛、久米正雄、そして久保田万太郎に於てさへもみられる如き、戯曲と小説との両道を歩む作家生活に入ることなく、処女作発表以来、その機会は必ずしもなくはないのに、敢て職業劇団と手を握らず、何時かは「自分たちの劇場」が出現するに相違ない、それでなければ嘘だと信じてでもゐるやうに、これらの作家たちは、決して急ぐ様子がない。
私は本集を編むに当つて、むろん始めから公平などを期するつもりはなかつたが、以上の理由からだけでもこの一群の作家のうちから、若い世代の「新しさ」がどんな宿命を背負つて、将来の日本演劇を変貌させて行くかを、多少でも示唆し得る若干の例を挙げることにしたのである。
底本:「岸田國士全集27」岩波書店
1991(平成3)年12月9日発行
底本の親本:「現代演劇論・増補版」白水社
1950(昭和25)年11月25日
初出:「近代戯曲選」東方書房
1948(昭和23)年1月15日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年7月1日作成
2011年5月30日修正
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