「劇作」に告ぐ
岸田國士
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ずいぶん旧いことだが、「劇作」が創刊される頃はたしかに新劇の世界に一つの機運がもり上つてゐた。それは、大正初年の、いはゆる戯曲の開花期に相応するものである。
私はこの二つの時期をそれぞれに、新劇に於ける飛躍時代と呼びたいのであるが、その意味は、日本演劇の近代化が、戯曲文学を通じて、これほどはつきり、一つの足跡を残した時代はないと思ふからである。
大正初年は、舞台的にも、様々な集団による様々な運動が芽をふき、そこから、極めて多彩な作家の一群を生みだした。
「劇作」が創刊された昭和七年前後は、新劇団の乱立などはなく、むしろ、軌道に乗つた二、三の新劇団体が、その旗印を高々と掲げて進むといふ状態であつた。
が、私が新なこの二つの新劇時代をくらべて興味を感じるのは、戯曲文学のうへで、明らかに、前者と後者との間に、先駆者とその完成者といふ関係がみられ、前者が試みたものを、後者はたしかにマスターした。しかし前者が新調したものを、後者は着古したといふ感じがしないでもない。
「劇作」はたしかに、あるものをマスターし、そこから、更に、一歩を踏み出さうとしてゐる時、戦争がこれをうやむやにした。それゆえ、外部からみれば、「劇作」は役割を一応果してその仕事に終止符を打つたやうにみえるかも知れない。さう見えればそれはそれでいゝのだが、「劇作」の同人諸兄は、心必ずしも平かでないらしい。それもまたもつともと云はなければならない。
私自身は、元来、「劇作」の創刊に際しては、なにも力を藉してはゐないのである。「劇作」は私の若い友人諸君の手によつて、何時の間にか生れてゐた。編輯などにも、ほとんど口を出したことはない。いゝ出来だと思ふこともあり、つまらぬと思ふこともあつた。いゝ出来だと思ふ時は、たいてい黙つてをり、ひどいと思ふ時は、遠慮なくさう云つたこともあるが、その頃はもう「劇作」は私の手の届かぬところを歩いてゐた。「劇作」の気風なるものは、私などにおかまひなく、「劇作」同人の内輪同士で作りあげたものである。
同人の一人々々は、あれほど才能もあり、人間も面白く、勉強は可なりしてゐるらしいのに、雑誌「劇作」の気風は、殊に末期に至つてやゝ透明を欠き、重苦しくなつて来た。なぜであらう?
第一次「劇作」は、しかし、よく続いた。もちろん菅原兄弟の犠牲に於てであつたと思ふが、同人諸君もいろいろ困難な道を歩みながらなほかつ演劇に対する熱意を失はなかつたためであらう。
今度の「劇作」は、もちろん、第一次の終つたところから出発すべきであらうけれども、そこには可なりの飛躍が必要のやうに思ふ。その飛躍は、既に準備されてゐるに違ひない。
先づ何よりも、同人のための雑誌から、同人による雑誌へのはつきりした移行がみられなければならない。といふ意味は、新劇界の確乎たる一存在としての自信と責任とをもつて、「なにかを始める」姿勢を示してほしいのである。
そのために、「世界文学」の背景はまことにあつらへむきである。
「劇作」編輯の中心が京都に移動したことは別に大したことではない。東京では、「劇作」の姉妹誌を出してこれに応へようとしてゐる。東西相呼んで、新劇の本道を拓かうといふのである。
私は、云はゞ、私たちの次の世代、次々の世代の成長を見まもる役目を与へられて、これを辞退する理由はないと思つてゐる。
第一次「劇作」が私をおいてきぼりにしたやうに、第二次「劇作」が私と遊んでくれなくても仕方がない、と覚悟してゐる。が、それにも拘はらず、今度の「劇作」は、われらの亡き友、あの繊細にして強靭な才能、わが新劇の希望であり、恐るべき子供たりし森本薫の、最後の息吹きを浴びて起ちあがつたことを、ひそかに承知してゐる。決してお義理であとについて行くやうなことはしないつもりである。
底本:「岸田國士全集27」岩波書店
1991(平成3)年12月9日発行
底本の親本:「劇作 第一号(通巻一〇五号)」
1947(昭和22)年4月1日発行
初出:「劇作 第一号(通巻一〇五号)」
1947(昭和22)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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