『美しい話』まへがき
岸田國士



「美しい」ものを「美しい」と感じる心は誰にでもあるはずだが、「ほんたうに美しい」ものと「みかけだけ美しい」ものとの区別がつかなくなつてゐる人はずいぶん多い。それからまた、「美しい」といふことをはきちがへてゐる人、つまり「みにくい」部類にはいるやうなものを何時のまにか好きになつてゐて、それが「美しい」のだと思ひこんでゐる人が、これまたなかなか少くないのである。

「ほんたうに美しい」ものを「美しい」と感じることができないのは、人間として非常に不仕合せであるばかりでなく、世の中がさういふ人たちのおかげでだんだん住み心地がわるくなり、さらに、さういふ人たちがのさばつてゐる国は戦争に負けなくても、外国の侮りを受け、精神的には対等の交際ができないことになる。

「美しさ」といふものは、いろいろなものにあり、眼に見えるものばかりでなく、耳に聞える音や声にもそれはある。「自然の美しさ」と云へば問題はないが、「人間の美しさ」となると、肉体の美しさよりも主として精神の美しさを云ふのである。

 さて、われわれ日本人は、これまで「人間の美しさ」についてどういふ風に教へられて来たか? われわれ日本人の精神は、どういふ点でその「美しさ」を誇つてゐたか?

 この反省は非常に大事な反省であるが、いまこゝで直接それに触れる暇はない。しかし、私はたゞ、これまであちこちでもてはやされた日本人好みの「美談」なるものの性質をぎんみしてみたいと思ふ。

 新聞や雑誌が争つてかゝげる「感激美談」や、国民学校の教科書が教材としてあげてゐる「教訓美談」はいづれもといつていゝくらゐ、日本以外の国では「美しい話」として通用しがたいものばかりである。

 どうしてさういふ結果になつたかといへば、これもせんぎをすると長くなるから、ごく簡単に云へば、日本人は、「人間」としての自覚がまだ足りないこと、国家と社会との関係をはつきり呑みこんでゐないことなどから来るのである。

 人と人との関係にしても、われわれ日本人は、どちらかといへば、相手を特別な面でしか見ない傾きがある。従つて、一人の人物をその肩書や、用件や、利用価値を考へながら扱ふ以外に扱ひ方を知らない。自分の態度を省みれば、知り合ひか知り合ひでないか、目上か目下か同輩か、時としては敵か味方かといふことばかりを気にかけてゐることがすぐわかる。

 つまり、どんな間柄でも、まづなにをおいても、「人間同士」の気持を持ちあひ、しかも、お互にそれを自然に現はすといふことが極めて稀なのである。人間のすがたはかうして「真の美しさ」から次第に遠ざかるのである。

 しかしながら、われわれ日本人も、実は、心底しんそこからさうなのではない。普通なら、やはりほんたうの気持を、人間同士の尊敬と愛情とを自然に示しあふ方がうれしいのである。

 つまり、「美しいこと」を美しいと感じる素質はあるのである。人間として生れた以上さういふ本性は自然に芽生えてゐるはずだ。ところで、それが、日本人の場合には、どうもその芽が伸び伸びと育たないやうな周囲がひかえてゐる。少くともおほやけには、自分の気持を素直すなほに云へないといふ妙な世間のならはしのやうなものがあり、おほやけに云へないことは、おほやけの行為に現はしがたいのが常である。

「口」と「腹」の違ひ、「心」と「行ひ」との矛盾は、つひに、そのいづれをも不純なものにしてしまつてゐるのである。

「不純」は「美しくない」ものの筆頭である。「美談」の多くが「美しくない」のは、結果からみた行為の道徳的価値を手軽に判断し、その行為の真の動機が深く探られてゐず、従つて、行為そのものだけを取り立てて云へばなるほど賞讃すべきかも知れないが、その行為の生れたもとをたゞせば、むしろ醜い人間の姿がのぞいてゐるといふやうな場合がずゐぶんあるからだ。それと、もうひとつは、せつかく「美しいこと」でも、それを語る語り手の人柄が浅薄だつたり、それを吹聴ふゐちようする目的がいやしかつたり、また、「美しさ」にもいろいろある、その色合ひやけじめがわからず、たゞ自分だけでおほげさに感心してみせるといふふうな話し方をしたり、さういふ「話」は、けつして無条件に「美しい話」として推賞するわけにいかないのである。


「美しい話」は、必ずしも「道徳的」に、模範とすべき人物や行為の話ではない。

「美しい話」は、特に、万人の涙をしぼらせるやうな悲壮な調子の話ばかりではない。

 まして、「美しい話」は、「しやれた話」でも、「甘つたるい話」でもないことはもちろんである。


 ひと口に云へば、「美しい話」は、「人間の真の美しさ」を、「美しい心」がとらへ、「美しい言葉」で現はしたものである。

 前にも云つたとほり、「美しさ」にはいろいろある。程度についても、質についても、千差万別であるが、「美しさ」を味ふ感覚もまた、各人各様の発達のしかたをしてゐるのである。

 こゝに収めた五篇の文章は、私たちの手許にある資料のなかから拾つたものであるが、いづれも以上に述べたやうな意味から、われわれは今日とくに、これらを「美しい話」として、深く味はつてみるねうちがあると思ふ。

 一つ一つの味ひはそれぞれ違つてゐる。「話」としての「美しさ」が多種多様である。しかもそのいづれの「美しさ」もこれからの日本人がほんたうに「人間として」求めなければならぬもの、求めれば必ずわれわれのうちに在るものなのである。

  昭和二十一年八月

静話会出版委員会を代表して・岸田國士

底本:「岸田國士全集27」岩波書店

   1991(平成3)年129日発行

底本の親本:「美しい話」静話会編、静話会出版部

   1946(昭和21)年1015

初出:「美しい話」静話会編、静話会出版部

   1946(昭和21)年1015

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年521日作成

2011年526日修正

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