農村の文化について
岸田國士


 皇国農村の建設といふことが近頃叫ばれてゐる。いろいろな立場で農村問題が論ぜられ、それぞれの専門家が農村の振興について重要な役割を演じてゐたことは事実であるけれども、元来、日本の農村の「かくあるべき姿」といふものを、綜合的に、具体的に、農村の人々の胸にきざみつけるといふことが、今日まであまり試みられてゐなかつたやうに思ふ。それは恐らく、いはゆる農村の指導者の頭にも、農村の「在り方」が常に功利的にしか考へられず、早く云へば、第三者として、農村はかうあつて欲しい、または、かくあらしめたいといふ願望が主になり、農村自体の「夢」がそのなかに織りこまれてをらず、農村はかくあることによつてはじめて農村の誇りと満足とをかち得るのだといふひとつの映像が、いまだ何人の手によつても描かれなかつたことによるのであらう。


 しかし、このことは、日本の国土全体についても云へることであつて、農村だけが特にさうだと云ふのではないが、今更めて、皇国農村の建設といふ題目を政府として公にこれを取りあげ、農村の文化について各方面の識者が何等かの関心を払ふといふ機運が到来した以上、私は先づ何よりもこの点について一般の注意を喚起しておきたいのである。

 日本の農村の理想のすがたといふものを、何処で、誰が、どの程度に、真剣に想ひ描いてゐるかといふことを、私はほんたうに知りたい。なるほど、農村の理想のすがたなるものを、思ひつくまゝに、その条件を個条書きにしてみることは容易であらう。そして、それらの条件を、片つぱしから、ひとつひとつ、充たして行く方法について、机上の計画は樹てられないこともあるまい。ところが、さういふことをしてゐるうちに、いつの間にか、肝腎なものが消えてなくなつてゐることに気がつかぬのが、普通である。肝腎なものとは、現実を超えて「理想を夢みる情熱」であり、それぞれの条件の間に存在する微妙なつながりと、重さの関係との正しい把握である。

 この肝腎なものは、決して、専門的な頭脳や技術のなかにあるのではなく、国を憂ひ、郷土を愛する人格の豊かな感性のなかにあるのであつて、一種、詩人の天稟の如きものを必要とする。これを後天的なものとして見れば、かの広い意味の教養を基礎とする「文化的感覚」に外ならぬのである。


 由来、農村の問題と云へば、専ら経済問題であつた。健全なるべき農村の疲弊は、まことに国家の痛恨事である。農村の疲弊は経済的窮迫に原因するものとして、その緊急対策が講ぜられた。経済更生は、恰も、農村の理想化の如き錯覚を生ぜしめた。

 私はかういふ実例を知つてゐる。即ち、経済更生の模範村と称せられてゐる一農村が、年々死亡率、殊に乳幼児のそれの増加と、青少年の体位の低下をみつゝあるといふ現象である。また、ある模範村に於ては、一般に風儀が紊れ、青年の飲酒、夜遊びが盛んになり、附近の町の噂の種になつてゐるといふことである。もう一つは、これも経済更生で有名になつた村は、隣村と折合ひが悪く、それも、あまりに村の当局が実利的、打算的で友誼的な交渉が常に円滑を欠ぐためであり、必要な協力を拒み、抜駈けの功名をのみ事とする傾向が強いといふ。

 すべてがすべてといふわけでは無論ないであらうが、経済更生の指導と奨励とが、かくの如き風潮を生んだ理由は、重点主義の行き過ぎであるばかりではない。経済と文化との完全な遊離であり、理想の無惨な喪失である。

 戦時下に於ける農村の最大の使命は、云ふまでもなく増産にありとは云へ、増産の指導と奨励とが、たまたま、農村の「かくあるべき姿」を見失はせる結果になつては、それこそ、皇国農村の建設といふ壮大な掛け声は無意味といふ外はない。

 私のかういふ懸念は、受けとり方によると、あれも大事、これも大事といふ風に、力を一点に凝集することを不可能ならしめる生ぬるい態度と考へられさうだが、実は決してさうではない。

 現に、農村の経済更生を見事に達成しつゝ、それと歩調を合せて、文化水準をも徐々に高めつゝある指導者の例があるのである。かういふ指導者は、必ずしも、あれもこれもと手をつけてゐるわけではない。たゞ、その指導が「綜合的」に行はれてゐるのであり、常に農村生活の全貌をつかんで、一点にすべてが打ち込まれてゐるからである。云ひかへれば、農村生活の「かくあるべき姿」を理想として絶えず頭に描き、現実処理の方法が、断じてかゝる理想を踏みにじらないやう警戒を厳にするばかりでなく、現実の要求そのものゝうちに一歩でも「美しい夢」を実現させる機会をとらへる工夫を怠らないからである。


 ある村で灌漑用の貯水池を造つた。村民の数年間に亙る勤労奉仕によつてであるが、村長は、この貯水池を単に増産に役立たせるといふだけの目的では、なにか物足らなさを感じた。こゝが重要なところである。理窟ではない。村長の人間的味ひがそこで物を云ふ。村長は別に高い教育を受けてはゐなかつたが、単に詩人だつたのである。「夢」をもつてゐたのである。その「夢」は、村人が、誰ひとりそれと気づかぬ共通な「夢」なのであり、たゞ一人、村長が、それを「夢」として意識にのぼせ得る力をもつてゐたに過ぎぬ。貯水池は、村の風景の一部だといふこと、水に乏しい村の眺めに、新しい風致を添へるといふこと、同じ造るなら、さういふ配慮のもとに、湖水を中心とした村の公園をといふ風に、村長の「夢」は伸びたのである。「美しい村」は、必要一点張りの土木工事、不用意になされた自然の変形からは生れない。現代の農村が、如何に、無神経な「文明の発達」によつて蝕まれ醜くされてゐるかを考へてみるといゝ。

 村長の意図が村民に伝へられても、それがぴんと胸に感じられたものは全部とは云へなかつたかも知れない。しかし、ひと度、工事竣工の暁、村は見違へる相貌を呈した。全村民は、村長のまわりに集つて狂喜乱舞した。感極つて泣くものさへあつた。勤労奉仕の酬では、田の水に不自由をしないといふことだけではなかつたのである。

 これが村長の一片の思ひつきに過ぎなかつたなら、それはたゞそれだけの話である。私は、この村長に関する、もう一つの実話から、興味のある示唆を受けた。

 村の財政建直しに全力をあげてゐる頃、村民の負債整理を実行するために、厳しい掟を設けた。その一つは、借金が一文もなくなるまで、住居に金をかけることを絶対に禁じたのである。ところが、ある農民が村長のところへやつて来て、自分はまだ村に借りがあることは事実だが、どうしても今のまゝの住ひでは間に合はなくなつた。板の間を仕切つて一と部屋にする必要が生じたといふのである。そのためになにがしの金がいるのだが、と、彼は頭をかきながら、その金の工面をまで相談するのであつた。その理由はと、村長が訊ねると、実は息子に嫁を取ることにしたについて一と間きりの家ではなんとしても……といふ、それをみなまで云はせず、村長は、「よし、わかつた。早速これでなんとかしろ」と、幾枚かの紙幣をそこへ投げ出したといふことである。

 かう云つてしまふとなんでもないことのやうであるが、この村長の健康な道徳的感覚が鋭く閃いてゐるではないか。経済更生の模範村であればこそ、この事実は尊く、かつ珍しく私の心をうつのである。


 ある会合で、私は、農村といふ問題が少し歪んで取扱はれつゝありはせぬかといふ危惧を抱いた。それは、農村に健全な娯楽を提供せねばならぬといふ趣旨の会合であつたが、出席者のひとりが、いはゆる巡回映画を見てわけもなくよろこぶ村民たちについて語り、映画の効果の絶大であることを力説した。なるほど、それは事実には違ひあるまい。然し、問題は、映画の効果についてのみ云々することが、如何に農村の娯楽を論ずる根本の精神から遠いかを気づかないものゝ調子がそこにありありと観取されたことである。

 農民の多数が映画を楽しむ、その楽しみ方が大きければ大きいほど、私は、その農民たちの生活に「当然あるべくして無いもの」の分量を想像し得ると思ふ。率直に云へば、たかゞ映画ぐらゐを、それほど歓迎し、それによつて、はじめて心の渇きを癒やすといふのはなんといふ生活の貧しさだらう。農民は、映画によつて辛うじてその一部を満たし得るやうな「或るもの」を、まつたく自分たちの生活とその周囲に見出し得ないのだ、といふことが、これほどまざまざとわかることがあらうか。

 映画は映画としての面白さはある。時には屡々教訓を含み、知識の向上にも役立ち得る。しかしまた、映画は映画に過ぎず、農民の意識的にも無意識的にも求めてやまない楽しみは、映画によつて与へられるものよりも、更に更に「素晴しい」ものでなければならぬ。さういふものを是非とも与へる工夫、もつと厳密に云へば、さういふものを彼等の手によつて易々と生み出させる工夫が当然なされなければならないのである。

 映画を唯一最大の楽しみと感じる農民たちのすぐ隣りには、映画をみてもなんの感興も覚えず、更に、映画など見に行くより寝てゐた方がましだといふ農民が控えてゐることも忘れてはならない。このことは、当然、都会についても、工場鉱山についても云へることである。映画に対する異常な興味は、往々心酔に嵩じるものであり、近代文明の麻痺作用と無関係ではない。これを適正に受け容れる力は、国民全体の矜りにかけて養つておかねばならぬと私は思ふ。


 農村を訪ねて、私たちが先づ第一にこの農村の現状を判断する基礎は、なんと云つても、村の人々の表情姿態、公共建築物の外観、家々のたゝずまひ、部落々々の雰囲気、自然と人為とのおのづからな対照なのである。そこには、村の知慧、村の人情、村の秩序、村の活力、村の歩みつゝある方向がおよそ読み取れるのである。数字的なことはなにひとつわからなくつても、村の「生き方」がどの程度の高さかといふことだけは間違なくわかる。一口に云へばその文化水準である。

 公会堂、集会所があると云つても、なきに如かざるやうなものであり、託児所が設けられてゐても名ばかりであつたり、共同炊事場は単に失敗の記念として残されてゐたりするのは、概ね、見ないうちにそれと目星がつく。

 国民学校の生徒の一団に往会ふと、もう、可なり「村の性格」が呑みこめる。学校が村の機能とどう結びついてゐるか、特に、母親たちがなにをしてゐるか、といふことが非常にはつきりして来る。

 しかし、村のありのまゝの姿を、深く探らうとすれば、その青年たちとゆつくり話しをするに如くはない。物を言ふ彼等は殆ど例外なく、村の現状について不満を述べる。当つてゐることもあり、当つてゐないこともある。たゞ、性急で大ざつぱな批評をゆるすとして、彼等の輝く瞳のなかに、たゞひとつ、村をもつといゝ村にしたいといふ、空漠とした望みが、烈々たる焔となつて燃えてゐることだけは事実である。

 あるものは、何を訊かれても答へない。答へない理由はいろいろあらう。そのなかで一番多いのは、何を云つたところで始まらぬと諦めてゐるか、自分にも何が不満なのかわからぬといふ組であらうと、私は思ふ。さういふ組がたまたま意見を述べると、「もつと暇がほしい」と云ひ、「たまに芝居や映画がみたい」と云ひ、「おやぢの家を出たい」と云ひ、「百姓がいやになつた」と云ふのである、どれもこれも、私に云はせると、自分の「欲すること」を正確に表現してはゐないのである。

 青年が「美しい夢」を失つてゐるといふことをこれほど痛切に感じさせる場面はない。村の指導者は、まづ一切をこゝから始めなければならぬのではないか。つまり、「皇国農村の建設運動」とは、その出発点を常に誤りなく、「眠れるものを喚び覚す」ところにおくべきであり、それゆえに、詩人のもつ想像の翼と、感情昂揚の鞭とを、その中心人物が具へてゐなくてはならぬのである。文化は規則の強制によつて進められるものではない。

 文化運動が往々、芸能の面に於て発展し易いのは、この間の消息を語つてはゐるが、手段と目的とを混同してゐるものがすくなくない。「文化運動」の標語として、「美も亦力なり」といふ一句を、私は自分の頭のなかで近頃繰返してゐる。

底本:「岸田國士全集26」岩波書店

   1991(平成3)年108日発行

底本の親本:「農村文化 第二十三巻第二号」

   1944(昭和19)年21日発行

初出:「農村文化 第二十三巻第二号」

   1944(昭和19)年21日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年521日作成

2011年526日修正

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