文化とは
──力としての文化 第一話
岸田國士
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「文化」といふ言葉の意味から説明していきませう。
元来この言葉は日本語としてさう古い言葉ではなく、多くの学問上の言葉と同様に、これも西洋の言葉を翻訳して出来たもので、明治の末頃から使はれだした言葉であります。尤も、それ以前に「文化」といふ年号もあり、この熟語が拠つて来たところを吟味すれば、まつたく新しい造語だとは云へますまい。しかし、現在普通に用ひられてゐる「文化」といふ言葉はそれと関係はなささうに思はれます。
原語はドイツ語のクルトゥア、フランス語のキュルチュール、英語のカルチュアと、それぞれ同じラテン語の系統をひいた言葉でありますが、さういふ詮議は、いまは必要ありますまい。たゞ、言葉によつて現された概念としては西洋からはひつて来たものだけれども、その実体は決して西洋にのみあつて日本にないものではないといふことをこゝではつきりさせておかなければなりません。つまり、西洋には西洋の「文化」があり、一口に西洋文化と云つても、それぞれの国に固有なものと、多少相通じるものとがあるやうに、同じ東洋のなかでも、特に日本には日本固有の「文化」があるのであつて、たゞ、日本では、西洋で考へるやうに、ひとつの特別な概念として、それを昔から一定の言葉であらはしてゐなかつたといふだけであります。
さういふ例は、ほかにいくらでもあります。
さて、それなら、「文化」といふ言葉をわれわれはどう解釈したらよろしいか。これも、参考のために西洋の原語についてしらべてみると、これはラテン語の「耕す」とか「栽培する」とかいふ意味の言葉から出てゐるので、つまり、人間の生活を土壌にたとへ、これを原始の姿から理想の姿に高めるために、あらゆる工夫努力を加へる、その過程を指すのであります。
ところで、その人間生活の理想の姿なるものが、西洋と東洋とでは、根本に於て多少違つたところがある。殊に、わが日本は、肇国以来、厳然と定まつた国家としての大理想があります。国民のすべては、その全人格と全生活とをあげて、この大理想に向つて邁進しなければなりません。そこには、個人々々の生活の理想といふやうなものを遥かに超えた、いはゆる八紘一宇の生活の理想があります。日本の文化は、即ちこの精神に根ざし、この精神を活かし、更にこの精神を大きく伸ばして行く全国民の信念と情熱と叡智とから成り立つのであります。
一方、西洋の近代文化は、「文明」といふ別の名で世界を風靡しました。この「文明」といふ言葉は、意味の上では、「文化」よりもやゝ具体性をもつてゐて、かの野蛮とか未開とかいふ言葉の反対を指すのでありますが、実際は、科学の発達を極度に伴ふものであつた結果、それは、文字通り機械文明と云はるべきものであります。しかも、その「文明」の目標とするところは、概ね個人の幸福を基礎とする社会生活の円滑化にあつたと云へるのでありまして、かゝる理想は、理想そのもののうちに矛盾を含み、結局は、自由競争の名の下に、世界を動乱に導くことになつたのであります。人間の欲望にはきりがないといふことと、表面は便利で楽しさうに思はれる生活も、その裏をのぞくと、見るに忍びないやうな醜い、痛ましい光景がくりひろげられてゐるといふ事実とによつて、人類の進歩はおろか、むしろ、人間が物質の奴隷になつてゐる状態が誰の眼にもはつきりして来たのであります。
もともと、「文明」とはさういふものではない筈です。文明国と云へば少くとも進歩した国家としてのあらゆる条件を具へ、その道徳も法律も風習も高い人間的価値を標準として世界に通じるものをもつてゐる国でなければなりません。真の文明は、いはゞ、「文化」の技術的なあらはれとも云へるのでありますが、今申すとほり、西洋文明の今日までのすがたは、形を整へるに急で、その精神がお留守になつてゐたといふよりほかありません。それといふのも、その精神が確乎たる民族の歴史の上に築かれてゐなかつたからで、徒らに、宙に浮いた、人類の理想とか進歩とかいふお題目に捉はれながら、その実、個人の欲望を満たすことにのみ汲々としてゐた結果であります。
わが国に於ても、明治維新この方、久しい鎖国の方針を改め外国の文物をどしどし取入れることにしたのでありますが、これは畏れ多くも、明治大帝の聖慮により、広く知識を世界に求めようとする朝野の一致せる努力でありました。その当時、旧弊固陋に対する旗印として「文明開化」といふ言葉が流行しました。日本はもともと野蛮国でも未開国でもないのは勿論ですが、なにしろ、西洋文明の長を取り、急速に制度や風俗の改革を行はうといふのでありますから、勢ひ、新しきものはすべてよしとし、旧きものはすべて棄て去らうといふ極端な傾向が生じ、そのためには、西洋風でありさへすれば「文明開化」の商標をはることになつたのです。しかも、模倣は往々不十分な理解のもとに行はれがちであります。従つて、その頃の識者は、西洋文明の阻むべからざるを覚りつゝも、なほかつ同胞の軽薄な西洋崇拝を「文明開化の猿芝居」と嘲笑したくらゐであります。
「文化」といふ哲学上の言葉は、それよりずつと後れて日本では使はれだしたやうであります。こゝでもう一度この言葉の意味をはつきりさせておけば、「文化」とは決して、前に述べた「文明開化」の四字を二字につゞめた言葉ではなく、ドイツなどでは、文化は本来「精神文化」であつて、「物質文明」に対するものであるといふ解釈さへ行はれてゐます。しかし、これは、ドイツのある学者の説であつて、一般には、さうとは限りますまい。フランスなどでは、むしろ、文化といふ言葉の代りに、文明(シヴィリザシヨン)といふ言葉を使つてゐるくらゐであります。
それはさうと「文化」の定義でありますが、これを哲学的に考へると、いろいろむづかしい言ひ方をしなければなりませんが、なるべく平易な言葉を使へば、「人間の一切の精神力の開発と、その調和的な発達」と云つてもよく、また、「人間がその理想を追求するために工夫努力する一切の生活表現」と云つてもよろしいのであります。以上は広い意味の「文化」でありまして、政治も経済も、軍事も外交も、教育も宗教も、その他、日常生活のすべての内容がこれに含まれるのであります。ところで、狭い意味の文化といふことになると、人間の精神力が最も純粋な形で高度に発揮された技術的な「働き」、「営み」を指すのであつて、これは大体、学術、芸術、道徳、及び宗教の四つを内容とし、これが個々に在るのではなく、統一されたかたちで一つの価値を作るところに、文化の本質があるといふ風にみるのであります。
学問的な説明はこれくらゐにして、ごく一般に使はれる言葉として、「文化」の意味をくだいて云へば、「国民としての理想を達成するために、われわれが絶えず伝統の上に、更に豊かに築きあげて行く生活全体の心構へと方法」なのであります。
こゝで云ふ「生活」とは、もちろん、物心両面の生活です。衣食住を物質生活の面とすれば、知情意の働きが精神生活の面です。考へ、学び、信じ、愛し、戦ひ、苦しみ、敬ひ、美を感じ、これら「心の生活」、これは抑も人間の最も人間らしい姿の現れですが、こゝにまた人間の最も貴重な力がひそんでゐるのであります。科学も芸術も道徳も宗教も、この「心の生活」を豊かにし、力づけ、磨き清めるためのものであり、また、逆に云へば、豊かな、力強い、清澄な精神生活から、深い学問も、すぐれた芸術も、高い道徳も、あらたかな宗教も生れて来るのです。
更にまた、この「心の生活」こそ、「物質生活」の原動力となり、これに秩序と品位とを与へるものであります。なぜなら、仮りに食事を例にとつてみても、人間はたゞ与へられたものをむしやむしや食べるだけではない。そこには栄養を基準にした材料の選択並びに調理といふ頭の働きと「技術」が必要であつて、それはもう精神活動の領域であります。その上、十分の咀嚼とか、「腹八分」でやめておくといふやうな習慣もつけなければならず、次に、食膳に向ふ時の礼儀作法、そのうちには、満足に食を与へられるものの感謝が籠められてゐる筈です。
かう考へて来ると、食生活といふ問題だけでも、それは精神生活と別々に行はれるものとは決して云ひ難いのであります。
諸外国を旅行して、いろんな人間のいろんな食事のしかたを見れば、もうそれだけで、その国の「文化」の一面を判断することができると云つても過言ではありません。料理のうまいまづいは先づ別として、また、貧富の程度による皿数の多少も問題外とします。たゞ、食事に対する観念、食器の種類、献立の巧拙、飲み食ひする一座の雰囲気などで、その人々の文化的水準乃至特徴といふものが如何に露はに示されるか、これは私自身、屡々経験したところであります。
こゝで「精神と技術」の問題に触れておきます。「精神」といふ言葉は、古来甚だ多く用ひられてゐますけれども、それがたゞ漠然と「こゝろ」といふ意味に使はれてゐる場合もありますし、また、可なりしばしば、「道徳」とか「意志」とか「頭脳」とか「思想」とかいふ限られた意味に使はれてゐる場合があるのです。更に、どうかすると、「気もち」や「量見」や「根性」といふ代りに、「精神」といふ言ひ方をするものがあります。
一時、国民精神総動員といふ言葉が公に用ひられましたが、これは主として、倫理的な意味をもつてゐたやうです。私は、これに対して、国民の「精神的動員」を主張し、これは、単に倫理的な面ばかりでなく、科学的な面でも、芸術的な面でも、苟くも、日本国民の「心」、即ち「知情意」を含めての全能力を動員すべしと云つたことがありますが、これは、言ひ換へれば、「文化総動員」を指すのであります。
それはさうと、「精神一到何事か成らざらん」などといふ言葉も、どうかすると精神を意志の意味に解し易いのではないかと思ひます。
一時また、精神主義といふ言葉が流行しました。昔、精神家と云つた、あれに類する言葉でありませうが、一種の揶揄を含んだ語感があり、これに対して、功利主義、技術万能主義が挙げられるでせう。例へば物の面、形の面を軽んじ、なんでも精神だけで解決しようとするのが精神主義だとすれば、現実に足をとられて、目先の利害処理にあくせくするのは甚だしい非精神主義に外なりません。
こゝで、精神と技術といふ問題が起つて来る。この二つは、元来、対立すべき性質のものではないに拘らず、事実は、精神のみあつて技術これに伴はず、技術のみ尊重されて精神が忘れられるといふ現象が往々いろいろな方面でみられるのです。この場合の精神とは、早く云へば、「魂」のことで、現実の世界に於て、それだけではなんの力もない代り、また、それがなければ、すべてが気の抜けたものになるといふ、極めて微妙でかつ厳粛なものであります。
人間の行為といふ行為、言葉といふ言葉、みなこの「魂」の入れ方で値打が違つて来るのであります。政治、経済、外交、軍事、教育、いづれも一国の消長に関する専門技術でありますけれども、これまた、文学や芸術、さては宗教の類と同じく、立派な魂がはひつてゐなかつたら、いくら体裁ばかり整つてゐても、ほんたうの力にはならないのです。
私の眼前に台ランプが置いてあります。場所は何処でもいゝ、例の下手もの趣味の舶来模造品です。これだけを取りたてゝ悪く云ふには当りませんが、生憎、私の云はうとすることが、こゝに語られてゐます。技術としては相当手の込んだものです。「時代」をつけた蝋燭立もいゝが、しかしこの安手な感じはどこから来るのでせう。粗製濫造も品物によりけりで、この安つぽさは、これを作つた人間の、身のほどを弁へぬ思ひ上りから来るのです。美を生み出す魂をもたずして、美術品に見えるやうなものを作らうとする粗野な振舞ひから来るのであります。
日本の国力が、従来他の部門に比して、軍事に於て特に優秀であつたのは、国軍建設の途上に於て、精神の重要性を片時も忘れなかつたからです。が、今日では、この精神に相応する技術、即ち、兵力の機械化に一層意を用ひなければならなくなりました。
国民の力は、こゝで、新たな面への発展を強ひられてゐるのであります。
次に、技術といふ言葉も亦、非常に広い範囲に亘つて使はれてゐます。物理や化学の応用による工学的な技術もあり、人文科学の領域に於ける調査研究の技術もあり、更に法律の運用、事業経営の技術、大にしては国政の処理、小にしては帳簿の整理まで、これを技術と呼んで呼べないものはありません。
また、一方、小説を作る技術とか、画をかく技術とか、自動車を運転する技術とか、将棋をさす技術とかいふのもあります。同時に、子供を育てる技術、米をうまく炊く技術から、借金取りを追払ふ技術などといふのまであります。
要するに、人間の知識と経験とによつて、最も合理的に仕組んだ行為達成の手段を技術といふのでせうけれども、この技術は、単に知識と経験とによつて、完全にその目的を達するものではありません。それは前にも云つたやうに、魂、即ち精神の入れ方によつて、その技術は生き、または死ぬといつてもいゝのです。
日本人は、由来、技術に魂を打ち込むといふことが如何に大切であるかを知つてゐました。ところがすべての技術に対して、これを純粋に知識化することが不得手であり、経験のみを土台として、多くは感覚的に技術の薀奥を究めようとしました。従つて、技術は常に個人の発見であり、門外不出の秘伝でもあつて、これが普及といふことは思ひも及ばぬことだつたのであります。そこから、一般の日本人は、技術といふものをたゞ後生大事に守ることのみを考へ、これに更に自分の工夫を加へるといふことをしませんでした。技術は磨かれ深まつては行きましたが、豊富にも大がかりにもならなかつたのです。
ある人は、西洋の文化を技術文化と呼び、明治以来、日本は西洋からこの種の文化を移入したのだと云つてゐますが、なるほど、さういふ意味では、たしかに西洋人は日本人に「新しい技術」の数々を教へ、われわれにはじめて近代文明の洗礼を授けたのでありますが、しかし、日本の技術は、果して、西洋のそれに劣つてゐたでせうか。
この比較は、甚だ困難ですけれども、是非、一応はしておかねばなりません。なぜなら、文化とは「生活技術」なりといふ言葉まであるくらゐで、日本文化の優秀性に関する問題だからであります。
第一に、技術の生れたところ必ず自然との関係があります。第二に、技術の伸びるところ必ず、人間の生活条件がこれに結びつくのです。日本人の自然観は、その技術を極度に自然の形態に近づかしめてゐるのに反し、西洋人の技術は、寧ろ、自然の法則を逆にとつて、自然を圧倒することに終始してゐます。それに加へて、日本の地理的条件、及び、政治的事情は、わが国民をして「人間とは何ぞや」といふ問題についてさほど悩ましめなかつた。人間の本性と能力とが、人間をして如何なる生活革新をも行はしめるのだといふ、自信と希望とを持つに至らなかつた国民とは、誠に不思議な国民であります。
日本の技術は、それゆゑ、魂、即ち精神の籠つたものではありますが、西洋のそれの如く、人間臭芬々たるものは少く、却つて、人間離れのしたやうなものが多い。枯淡の境地が生れる所以であります。
言葉も亦ひとつの技術でありますが、西洋の言葉と日本の言葉とを比べてみると、まつたくその発達のしかたが違つてゐます。日本の言葉くらゐ、直接に思想感情を現さないやうにできてゐる言葉はありません。言葉に生々しさといふものがなく、余韻が深く、それだけに、不用意に使ふと誤解され易い言葉であります。言葉の質の高さはたしかにフランス語などに劣るものではありませんが、惜しいことに、あんまりむづかしすぎます。今のまゝでは超国境性に乏しい。特殊な時代に、特殊な環境の下に使はれる言葉としては、非常に高級な言葉なのです。
かういふ風に、「精神と技術」の問題を考へてみても、「文化」の高さといふものが、その二つの結びつき方によつてきまるとも云へます。「精神文化」と云ひ「技術文化」と云ひ、それは研究の対象として一つの角度を示すに過ぎず、文化の本質的価値は、この二つの角度からそれぞれ実体を見究めたうへ、更に、この二つの面の結びつき方に十分の注意を払はなければ、決して正確に測り知ることはできません。
これで大体「文化」といふ言葉の解釈は尽きたやうです。
近頃、この言葉はあちこちでやゝ乱雑に使はれてゐますから、よほど注意しないと、なんのことかわからない場合があります。
それをこゝで少し拾つて、説明のつくものは説明をしておきませう。
先づ近頃「新体制」といふことが云はれてをります。云はれるばかりではない。着々、実現してゐるのでありますが、これは国家機構のすべてに亘つて、国防上必要な、従つて永久にわが国土と国民生活を揺ぎなきものとするための新しい改革を行ふことでありますが、これを政治と経済と文化の三つの面から考へて、それぞれ、新体制の機構を作つてゆかうとしてゐるのであります。
そこで、政治と経済の機構については、例へば政治は、政党が解消して新たに翼政会といふ単一政事結社が出来、行政官庁の整理改廃等が行はれ、経済界は経済界で、重要産業に関する統制会が出来るとか、中小商工業の転業問題に手をつけるとか、いろいろの動きがあります。そしてその範囲もわりにはつきりしてゐるのですが、文化機構といふことになりますと、どうもその範囲が茫漠としてゐて、なかなか纏りがわるいのです。ごく大ざつぱに云へば、さつき「文化」の内容として挙げた、学問、芸術、道徳、宗教に関する職域でありませうが、それだけでは具体的に、文化職域といふものを網羅できません。それで、一応、職域或は職能といふ立場から、文化部門と考へられるものを列挙してみると、次の通りです。
学術部門
自然科学者、人文科学者
芸術部門
文芸家、美術家、音楽家、舞踊家、演劇人、映画関係者、芸道家
教育部門
大学専門学校教師、中等学校教員、国民学校教員、特殊技術学校教師、特殊学校教師(聾唖学校等)、職業技術教師、保姆、其他社会教育関係者
言論部門
評論家(思想、芸術、社会等)
宗教部門
神道教師、僧侶、牧師
公務・法務
官吏、公吏、陸海軍人、公共団体職員、法務従事者
出版・報道部門
出版者、新聞記者、編輯者、放送局員
厚生部門
厚生事業関係者、労務管理者、医師、歯科医、獣医、薬剤師、其他医療関係者(産婆、看護婦等)、武道教師、体育関係者
技術部門
農林・水産技術者、鉱業技術者、工業技術者、交通運輸技術者、通信技術者、情報宣伝技術者、商業技術者、金融・保険技術者、生活補助技術者(料理人、理髪師、美容師等)、其他ノ技術者
娯楽部門
映画・演劇関係者、大衆演芸家、室内競技関係者
右は厳密な調査を経たものではありませんし、なかには純然たる文化職域とは云へないもの、つまり、商工業として経済職域に跨つてゐるものなどもありますが、職業の性質上、「物」を対象としない、或は「物」を対象としても、その「物」の取扱ひ方が、国民生活の経済的な面よりも寧ろ文化的な面に大きな関係をもつ職業は、ひとまづこゝにかゝげてみたのであります。
例へば理髪業のやうなものは、商業と見做され、商業報国会といふ新しい組織のなかに加へられてゐますが、これは元来、「物」の売買をしてゐるのでないことは勿論、「物」を作るのでもなく、若し、頭髪に「加工」するとすれば、これは人間の身体の一部ですから、整形外科の医師の仕事に近いわけであります。医師は立派に文化的職域に属してゐるのですから、衛生上の必要からと外容を整へる目的とで成り立つ理髪業も、それに準じて少しも可笑しくはないのです。
そこで、文化新体制とはどういふことをいふのかといへば、これらあらゆる職域の者が、自分の利益のみを追はず、国家目的に最も適つた仕事ぶりをするやうに心構へを改め、かつ、さういふ風に仕事ができる完全な組織を作り、一歩進んで、国民全体の「文化」を向上させるために、それぞれの立場で全力を尽すやうな姿勢を整へることであります。
国民生活を「文化」の現れとしてみる時、国家の理想を基礎とし、正しい伝統の精神を根深く宿したものであることを前提として、私はなほ三つの面からこれをみなければならぬと思ひます。第一に、「能率」があがつてゐるかどうか? 第二に、心身ともに「健康」であるかどうか? 第三に、「品位」を保つてゐるかどうか?
能率をあげるためには、仕事を含む個人または集団の生活が先づ規律正しくなければなりません。仕事のしかた、生活のしかたが上手でなければなりません。これには技術の工夫錬磨が必要です。無駄を省き、計画的に労力と時間を使ひ、順序を正確に踏まなければなりません。適度の休養も取らなければなりません。明朗な気持を持ち続けることも大切です。
身体の健康は、平時に於ても等閑に附してはなりませんが、特に戦ふ国民として是非とも最高度に保たなければなりません。
それがためには、病気にかゝらぬ衛生上の注意以外栄養の摂取と適度の鍛錬が必要です。第一に、われわれ日本人は、もつと「健康のよろこび」についてはつきりした自覚をもたなければなりません。からだが丈夫でないことを望むものはゐない筈ですが、さうかと云つて、ほんたうに「健康」といふことを楽しい仕合せなことだといふことを身にしみて感じ、健康の上にも健康を願つてゐるものがいくたりありませう。これはつまり、国民の「健康観」といふものがしつかりできてゐない証拠で、これでは国民の体力を十分に引きあげることはできません。
従来、肉体的健康といふことは、どうかすると精神的な能力と比例しがたいやうな、俗な考へ方が世間に可なりひろがつてゐて、才子多病といふ言葉さへあるくらゐですが、これはつまり、久しい間、「文化」のかくあるべき姿を見失つた時代がつゞいたからであります。
しかし一方、健康な精神は健康な身体に宿るといふ訓へもあるとほり、逞しい精神力、殊に、頭脳と意志と感情との円満な発達と、その旺盛な活動は、どうしても、肉体が健康であることを条件としなければなりません。
それはさうと、肉体的健康は、自分にもおよそどの程度かといふことがわかり、医師の診断に従ひ、或は相当な指導者について、体質の向上、筋骨の錬磨ができますけれども、精神の健康といふことについては、第一、自分ではなんとしても正確な判断がつきかねるばかりでなく、どうかすると、人によつて見るところがまちまちであります。
現在の日本にとつて、最も重要なことは、国民の「精神的健康」を取戻すことだと思ひます。日本の国内の情勢を通じて、挙国一致、総力結集の実を挙げるために、若しいくぶんでも障碍になるものがあるとすれば、それは外でもない、古代の日本民族が世界の何れの民族よりも豊かにもつてゐた、あの健康なものの考へ方、ものの感じ方、そして、あの健康な意志の力をおびたゞしく喪失してゐることであります。
この点については、後の章で詳しく述べる機会があるでせう。
さて、第三には、品位を保つといふことですが、これは「文化」の現れとして特に、国家の威信に関する極めて深刻な問題であります。
そもそも人間の品位とは、これを気品と云つてもいゝのですが、一言にしては云ひ尽しがたい複雑微妙な要素から成つてゐるものです。強ひて云つてみれば、その人のどこかに高貴な匂ひがひそんでゐて、自然な態度のなかに犯し難い力と親しみとが感じられることなのであります。高貴なといふのは、必ずしも身分の高いことや、学識の豊かなことを指すのではありません。それはもつと素朴な精神の純粋な姿にもみられるものでありまして、例へば、「神様のやうに」正直な人と云へば、その人は、正直といふ点で、既に、相手にすばらしく「高貴なもの」を感じさせたことになり、それは一つの品位としてその人の身についたものです。ある場合、「神様」などといふ言葉は不用意に使はれることもありますが、とにかく、頭の下がるやうな、ほかの見かけはどうあらうと、決して馬鹿にはできぬといふ、一種の畏敬信頼の念が湧くことを告白したものでありますから、さういふ印象を人に与へ得る人物は、風体や社会的地位や教育のあるなしは問題でなく、無意識にでも自ら恃むところがあるためにこそ、おのづからな品位を備へたと云ひ得るのであります。万一、これが正直を衒ひ、少しでもそれを売物にするやうな人物であつたならば、決して、「神様のやうに」といふ形容は用ひられますまい。正直は正直として一応は感心できても、そこになんとなくわざとらしいもの、けち臭いものがあれば、それは、その人の品位を高めることにはなりません。これが、云ふに云はれぬ品位なるものの性質であります。
真の「文化」と「似而非文化」との区別は、なにを例にとつても、この「品位」のあるなしで分れるのでありますが、国民の一人々々が、真の文化を身につけてゐたならば、おのづから、その言動、風貌にそれが滲みでて来ます。大東亜の指導民族を以て任ずるわれわれ日本人は、武道に於ても古来重んぜられたこの「品位」なるものを、社会万般の活動を通じて、益々発揮しなければ、将来異民族の信望をかち得ることは断じてできないのであります。
この意味に於て、日本人の品位は、先づ第一に、日本人たるの矜りを、口の先や、単なる身構へだけでなく、心の底の底から持ち得たかどうかといふことにかかつてゐると云へませう。
それからまた、人間の品位は、さつきも云つたとほり、素朴な精神の純粋な姿のなかにもありますが、同時に、ほんたうに洗煉された作法、熟達した技術を通じても示されるのであります。
茶道の形式がこれを証明し、また、巨匠名人と云はれる人々の風格を見てもわかると思ひますが、それよりも、われわれの身近なごく平凡な人物が、それでも自分のやゝ得意とする仕事に没頭してゐる時の、あの緊張した、しかも落ついた満足げなすがたのうちに、どうかすると、その人の平生には見られない、一種気品の閃きとも云ふべきものを発見することがあります。危なげのない、調和のとれた、澄みきつた、美しい姿なのであります。
私はまた、都会の、技巧をこらし、見栄をはつた生活と、さういふ生活をしてゐる人々よりも、農村あたりの、代々の仕来りを守つた、がつちりと地についた、目立たない生活と、さういふ生活を営む人々の方に、寧ろより多く「品位」といふやうなものを感じることがあります。何れにしても「品位」は附焼刃でないことだけはたしかであります。
さて、こゝで私は、「品位」を最も傷つける「卑俗さ」といふことについて一言しなければならなくなりました。
「卑俗さ」といふことは、読んで字の如く、「卑しく俗つぽい」ことで、もちろん、「高貴な」精神と相容れないものです。しかし、「高貴な」と云つても、それぞれ程度があり、その現れ方もいろいろでありますから、一般の水準を示すことは容易でありません。とにかく、人間として、どんな場合でも保たなければならぬ「品位」といふものがあると、私は信じるのですが、その「品位」を傷つけ、心あるものの顰蹙を買ふやうな調子が、若し、その人間の無意識の言動のうちに認められ、しかも当人は却つて、さういふ調子に満足を感じてゐるかの如くみえたならば、それは、きつと、何時の間にか「卑俗な」趣味に捉はれ、または、「卑俗な」精神に蝕まれてゐる証拠であります。
「卑俗さ」は必ずしも、「粗野」と一致はしません。従つて、一見巧緻を極めた技術的表現のなかに、往々、「卑俗さ」の限りを尽したといふやうなものがみられるのです。都会の風俗や、芸術の名を冠した様々の作品にその例が多いことでもわかります。
「卑俗さ」はまた、自ら高きを以て任じる指導的言論のなかに、却つて誇らかな調子でそれが示されてゐることがあります。そこには、共通の、思想の貧しさが認められますが、その傾向の主な原因は、真の理想を夢みる能力を欠いた、性急な打算と手軽な効果とをねらふ功利主義、便宜主義であります。
従つて、本来、尊厳なるべき道徳の問題に於てすら、その道徳を標榜し、鼓吹する精神のうちに唾棄すべき「卑俗さ」を含むといふ大きな矛盾が、どうかすると平然と通用してゐることがあります。この「卑俗さ」は単に功利主義、便宜主義から生れるばかりでなく、多くは、見えすいた誇張、若しくは、われ知らず陥る自己欺瞞を伴ひ、低調な道徳観の、身のほどを弁へぬ思ひあがりを特色とするものです。
なるほど、一応、「道徳」を尊重するといふ身構へに於て、それは「道徳的」と云つて云へないことはありますまいが、しかし、そこに大きな問題があるのでありまして、例へば犠牲的行為といふやうなものでも、自らさう信じてゐるにせよ、若し仮りに、他の一面に於て、その行為が、何等かの報酬をひそかに期待したことが明らかであつたとしたら、これを犠牲的行為と名づけることすら憚りありとするのが「道徳」であり、逆に、これを強ひて犠牲的行為とみなし、少くとも、敢て「美談」として吹聴するやうな精神は、「不道徳」とは云へないまでも、頗る低い道徳意識だとしなければなりますまい。
かゝる道徳観、道徳意識によつて導かれたあらゆる行為、あらゆる事業は、常に、その表現の空疎で月並な感激調と共に、最も「卑俗な」臭気をあたりに撒きちらします。ところが、かういふ臭気は世間にひろがり易く、多くの人々はそれに馴らされて、しまひにはそれを「道徳の臭ひ」だと思ひ込むやうになります。営利主義が「道徳」と結ぶのは、この虚に乗ずるよりほかはありません。
政治も亦、国民大衆を導く便法として、屡々この種の「卑俗さ」を利用したといふ風にも見えますが、実は、政治そのものの陥つた「卑俗さ」が、期せずして「俗衆」のみを対象とせざるを得なかつたのが従来の傾向であります。
思ふに、この「卑俗さ」は、単に道徳的な面だけでなく、一般に、綜合的な意味で、例外なく、「文化感覚」の鈍さ、乏しさを示してゐるのでありまして、すべての物象を通じて「卑俗さ」の主たる原因となるものは、恐らく、この「文化感覚」の幼稚、貧困、乃至は磨滅でありませう。
さて、この「文化感覚」でありますが、これは不思議なことに、現代日本に於ては、教育の程度や、社会的地位の高下とは聊かも関係がないのであります。山間の陋屋に住む無学な一農村青年が、堂々たる名士の講演を聴いて、趣旨はよくわかり、少しも異存はないが、どうもあの調子や言葉使ひが妙に気になると、首をひねつてゐるのです。聴いてゐる方で恥しくなるとも云ふのです。なぜかと問へば、正確な返答はできません。しかし、あゝいふことを云ふなら、あゝでなく云つてほしいといふ気持です。これはもう立派な「文化感覚」です。つまり、講演者の「文化的教養」を正確に評価する勘がそこにみられます。多分、紋切型の演説口調と、言葉の濫用による示威的な表現から一種の「卑俗さ」を嗅ぎつけ、これは意外だと思つたのでせう。
道徳的な低さは、道徳的でない、或は道徳がないこととは少し違ひます。これも詳しく話さなければなりませんが、問題が少しわきへ外れますから、こゝでは触れないことにして、更に、道徳的な低さと並んで、「卑俗さ」の原因となるものに、芸術的な低さがあります。これも厳密に云へば、芸術的でない、或は、芸術がない、といふこととは違ふので、芸術の要素はあるのだけれども、それが程度として低いことを指すのであります。つまり、美を目指して、美の最下部、即ち、マイナスの領分に安住してゐることです。わかり易い例は、無用の装飾がその一つであります。更に、醜い細工がさうです。世間はこれを案外歓迎するものと見えて、商品の大多数はこの手のものと云つて差支へありません。少し凝つた住宅や、旅館、料理店などにこの例がなかなか多く、婦人の衣裳は大部分さうだと云つてもいゝくらゐです。芸術家と称せられる専門家の作品にさへ、たまたま、売らん哉の似而非芸術品があることももちろんであります。
これは、「美意識」の低さによる「卑俗な」風俗の横行でありますが、同様に、「科学的」幼稚さから生れる「卑俗な」習慣といふものも考へられます。迷信の如きがそれであります。
しかし、かういふ風に、道徳、芸術、科学と三つの角度から「卑俗さ」の本質をしらべてみましたが、これは強ひて分ける必要もなく、また、それは可なり無理なことでもあるに拘らず、一応解りやすいやうに、分析を試みたに過ぎません。それゆゑ、これだけではまだ、「卑俗さ」の本体をつかむわけには行きません。
「卑俗さ」といふことは、言葉どほり、卑しむべきものであるに拘らず、それが世間普通のことになつてゐるといふ状態から、そもそも研究してかゝらなければなりますまい。
「世俗」とか「俗世間」とかいふ言葉があります。世間即ち「俗」といふことになりますが、これは、もともと「出家」したものに対して世間の普通の人を「俗人」と云つたのを、転じて「凡庸」の意に用ひ、更に、卑しく品のないことを指すに至つたのです。殊に、「卑俗」、「俗つぽさ」となると、これはもう、「俗の俗なるもの」を指すことになります。それなら、その世間の「俗つぽさ」は何処から来るかと云へば、私に云はせると、やはり、久しきに亘る理想なき政治と、功利的な教育から来るのだと思ひます。いちいち例を挙げることを控へますが、実際、今日、屡々公の名に於てなされる事業や、その宣伝までが、「俗つぽい」なにものかを感じさせることを、私はひそかに憂へてゐるものです。日本の姿は決してさういふものであつてはならないと思ふからです。
「卑俗さ」の危険は、さういふわけで、世間一般が、それを普通当り前のこととして見過してゐるところにあります。一方で「卑俗」ならざるものを、「高尚」なりとするところから、それはもう、特別な人間の、或は特別な社会の、一種近づき難い領域であつて、さういふものは、当節、世間相手の仕事になんら役に立たぬといふ風な常識が通用してゐるかに見えます。従つて、「高尚」とか「上品」とかいふことは、聊か実質を遠ざかつた装飾のやうにも考へられ、言葉の悪い意味に於ける貴族趣味を代表するやうな、一種取澄した滑稽な表情をすら連想させるものとなつたのです。
「雅俗」といふ熟語なども、「雅び」に対して「俗」と云へば、それだけでは、別に「卑しさ」をまで意味しないのではないかと思ひます。なぜなら、「雅び」そのものが、繊弱華美を誇る限り、決して尊重されるべきものではないからです。しかし、「高雅」に対する「卑俗」といふことになれば、そこには、はつきりした価値の対立がみられます。なぜなら、「雄渾高雅」の趣きは、日本の国風を象徴する理想のすがたであると、私は信じるからであります。
そこで、再び、「俗つぽさ」の問題に帰りますが、この世間に通用してゐる「卑俗さ」の正体は、たしかに、前にも述べたとほり、理想なき政治と、功利的な教育(学校、社会、家庭を含めた)のうちに、これをつきとめなければなりませんが、一面、社会心理の方から見ていくと、これは明らかに、個人々々が「時の大勢に就かうとする」保身の本能から出てをり、また、もう一歩突つ込んで云へば「人が許しさへすれば、どんなことでもしでかす」といふ、かの群集心理に見られる信念の麻痺からも来てゐると思ひます。要するに、精神の矜りを失つた人間の、常に、「一番楽な道を通らう」とする、怠惰で、かつ、慾深い性質の現れであると、私は断ずるものであります。
ところで、この「俗つぽさ」が「卑しい」ことであるといふ観念を、先づ青年が強くもつてゐて、世間の無自覚な風潮と飽くまでも戦つてくれさへすれば、現に一世を風靡してゐる「卑俗な」現象は、全くあとかたを絶たないまでも、少くとも、人前を憚からず横行することだけはなくなるだらうと、私は信ずるのです。
それには、純潔な青年の魂が、おのづからもつてゐる「高きもの」への憧れ、「美しきもの」への愛、「真実なるもの」への傾倒を、ひたすら推し進める勇気が絶対に必要ですが、それと同時に、「高きもの、美しきもの、真実なるもの」をその偽物と峻別し得る、鋭く豊かな「文化感覚」の錬磨を怠ることはできません。
類ひなく輝かしいわが国体の尊崇は、われわれの現在生きつゝある日本の、世界に冠絶する理想のすがたを夢みる一臣民としての悲願と、その悲願を幾代かゝつても達成しようとする、ひたぶるな意志とによつて示されなければなりません。
日本の理想顕現を阻む敵は、外に米英ありとすれば、内に「卑俗な精神」ありと、敢て私は云ひたいのであります。
以上、能率と健康と品位と、この三つを「文化」の現れとして現在の国民生活のなかにしつかり植ゑつけなければなりません。
そして、この三つは、互に持ちつ持たれつの関係にあるのです。即ち、能率を上げるためには心身の健康が大切であり、健康を保つためには能率のいゝ生活をしなければならず、生活の品位は、精神の健康を基礎とするものであるといふ風に、絶えずこの三つの点を同時に考へて行かねばなりません。
そして最後に、正しい意味における「教養」とは、これら三つの条件を、完全な力として身につけることを指すのだといふことを銘記してほしいと思ひます。すぐれた「文化」をもつとは、正しい「教養」を身につけることだといふ、今日一般に通用してゐる言ひ方もこゝではじめて間違ひないことになるのであります。「教養」と「文化」とはいはゞ手段と目的といふやうなものであつて、教養が深いといふことは、自ら高い文化を身につけてゐるばかりでなく、一国の文化を代表し、これを指導する役割をもつてゐることを意味してゐるのであります。
これまで、「文化人」といふ妙な言葉が使はれてゐました。「知識人」とか「知識階級」とかいふ言葉の内容とも違ひ、これは、一般に精神労働とも称せられる仕事に従事する思想家的傾向のある学者、文学者を含む著述家、芸術家等を主に指すやうでありますが、時には、そのほかの職業に従事してゐるものでも、特に読書家であつたり、多少高級と思はれる趣味を解し、わけても文学芸術の愛好者であるといふやうな場合、これを「文化人」と呼ぶ習慣もありました。
殊に注意すべきは、「文化人」と云はれるためには、多少、どこか西洋臭いところがなければならぬといふ漠然とした感じがあつたことであります。つまり、西欧的な教養と、「近代的文化」といふこととは、切離すことのできないものでありました。
以上は、「文化」といふ言葉が、甚だ狭く、しかも歪んで考へられてゐた証拠であり、また、この言葉が西洋の言葉の翻訳であるために、「文化」そのものまで、なにか西欧的なものでなければならぬやうな誤つた観念から来た重大な錯覚であります。
これと同じやうな言葉の濫用、考への不徹底が到るところにあります。例の「文化住宅」といふやうな言葉がそれです。
元来、住宅などといふものは、最もその国の風土習慣を重んじなければならぬものであり、その建築は、いづれの点からみても、国民生活の特色を発揮し、時代の変遷に応じたその国の文化を如実に現すべき筈のものであります。従つて、厳密に云へば、文化住宅などといふ言葉は意味をなさないのでありますが、一歩譲つて、「文化」の最尖端を行く住宅建築のことを指すなら、それは第一に、民族興隆の意気と理想とを象徴するものでなければならないのであります。
ところが、事実は、「文化住宅」といへば、概してもの欲しさうな和洋折衷の簡便主義、赤瓦青ペンキといふ風な植民地的享楽気分が土台になつてゐるのが普通であります。
なるほど、「文化住宅」の設計者は、これこそ経済的条件のゆるす限り、合理的かつ趣味的要求を満たしたものと云ふかも知れません。時代の風潮といふものは恐ろしいもので、合理的とは簡便第一であり、趣味的とは伝統を忘れて感覚の刺戟を追ふことだつたのであります。
こゝで、私は、文化の水準をはかる尺度について一言したいと思ひます。前に述べた、能率、健康、品位は、国民生活そのものの、正しい体制を整へる目標でありましたが、今度は、ひろく「文化」の価値標準を、どこに目安をおいて測つたらよいかといふ問題であります。これは、人間一人々々についても、あらゆる物件のひとつひとつについても同様のことが云へると思ひます。それは、ごく大ざつぱな、常識的な考へ方でありますが、先づ、人なり物なりの道徳性といふことが一つ、国体に憚るところはないか、人道に適つてゐるか、邪なところはないか、神を畏れぬ不逞なところはないか、仮面をかぶつてはゐないか、つまり、道徳的にみてどうであらうかといふ標準であります。それから、その次は、科学性とでも云ひますか、知的にみてどうかといふ標準であります。理窟に適つてゐるかどうか、物の考へ方が正確であるかどうか、頭が一方に偏してゐないかどうか、心深いところまで見きはめられてゐるかどうか、これが一つ。第三には、美しいか醜いか、言ひ換へれば芸術性の高い低いであります。美しさにもいろいろありますが、ほんたうに美しいものは、自然を除いては稀であります。人情の美しさは道徳的とも云へますが、道徳を超え、道徳では律せられぬ美しさが、人間の精神のすがたと働きのなかには往々にしてあるのであります。これを発見する眼はむろん必要であります。芸術的な眼とでも云ひませうか。物の美しさも、その人の眼の高さによつていろいろに映り、それほど美しくないものを非常に美しいと思ふのは幼稚な感覚をもつてゐるといふことになります。反対に、人の気のつかないやうなもののうちに、すぐれた美の要素を認めるのは、その人の心の窓が「美」に向つて大きく開かれてゐるからです。しかし、およそ感覚、感情を通じてうつたへる美しさは、特別のものを除いて、万人の胸にひゞくものであり、その美しさの程度は、「文化」の一つの標準と考へるべきであります。
道徳性、科学性、芸術性、この三つの性格は、文化を形づくる主な内容であることは、人間の活動が、知、情、意の三つの働きに帰することからみてもうなづかれると思ひます。更に、人間の理想として永久に追ひ求める真、善、美は、また、この三つの「文化」の面に符合するわけであります。
たゞ、この三つの要素は、飽くまでも、不即不離の関係になければなりません。このうちの一つだけが完全に備はつてゐるといふやうなことは、事実あり得ないばかりでなく、またさういふ風に見えることは、「文化」の歪みであり、不健全な状態であります。
例へて云へば、道徳的にみて正しい人物と仮りに折紙をつけられるやうな人物でも、往々、物の考へ方が偏狭で、味もそつけもなく、判断が軽率で、常識さへも疑はれるといふやうな半面をもつてゐたりするのは、少くとも、「文化」といふ点からみれば、明らかに不具者と云はなければなりません。また、芸術家乃至は芸術に親しむ人でありながら、道徳的には無軌道であつたり、学問を軽蔑し、殊に科学を敵視しすぎたりするのは、これまた褒めたことではありません。
品物について考へてみても、物の利用価値といふことはもちろん第一に計算に入れなければなりませんが、あまり実用本位といふことにのみ気を取られ、文化価値を全く閑却したものは、いはゆる殺風景となるのであります。殺風景も忍ぶべき時には忍ぶべきでありませう。しかし、それが常態となることは、結局、人間の退化であり、堕落であります。それなら、品物の文化価値とはどういふ形で現れるかと云へば、さつき云つたとほり、おほむね道徳性、科学性、芸術性の三つの形で現れます。品物の道徳性とはちよつと説明が困難ですが、一番わかりいいのは、つまり、まやかしものでないかといふこと、俗に云ふ、「インチキ性」がないかどうかといふことです。「ちやちな」といふ言葉がありますが、これは一方道徳的な意味もあると同時に、寧ろ、科学性の低い、技術的に幼稚、或は粗雑なものを指すので、やはり、利用価値から云つても問題にならぬことを示してゐます。更に、「ちやちな」ものは、美しいといふ点から落第点がつけられませう。物の美しさは、それが一つの用途をもつものであれば、きつと、その精巧さと比例し、使ひよく丈夫で永持ちのするものなら、形と云ひ艶と云ひ、申分のない美しさを発揮してゐるに違ひありません。才能のある職人の心がそこに籠つてゐるからであります。そして、さういふ品物は、どことなく気品があり、重みがあり、凜然としたところがあります。そこに、更に「美しさ」と一致した「道徳的」価値が生れるのであります。
日本刀のすぐれたところは、たゞ切れ味といふやうなものだけでなく、鉄の鍛へ方の世界無比ともいふべき高度の技術、刀剣としての最上の美的形態、それと刀は武士の魂と云はれるだけの倫理的厳粛さが、あの三尺の白刃の光芒のなかに秘められてゐること、この三要素が渾然として一体となり、欧米人の想像を絶した武器の宝物的典型となつてゐるのであります。「文化」の精髄とはまことにかくの如きものでなければなりません。
近頃はまた、いろいろな団体または機関の名称に、「何々文化協会」とか、「何々団文化部」とかいふものが著しく目立つて来ました。この傾向は、見方によつては、「文化」といふものに対する世間一般の関心が高まつたことを示すものではありませうが、また一方から考へると、「文化」といふ言葉の濫用によつて、「文化」に対する正当な認識を妨げ、ひいては、「文化」そのものの混乱、頽廃を招く結果になりはせぬかと、ひそかに懼れられるのであります。
「文化」といふ言葉には、広い意味と狭い意味とがあることは、これまでの説明で十分諒解し得ると思ひますが、これを混合して使つたり、また使はれてゐる意味を取違へたりすることによつて、今日のやうな現象が生れてゐるのだと思ひます。
先づ第一に、今度文部省教化局に文化施設課といふ一課が設けられました。これはお役所のことですから、十分慎重に名称の詮議が行はれたことと思ひます。それにも拘らず、この文化施設課の所管範囲は、演劇、映画、博物館、図書館等に限られてをり、それ以外の文化施設は、他の部局の所管になつてゐます。
更に、大政翼賛会に文化部があります。これは以前は組織局に属してゐましたが、組織局が実践局と変り、その実践局に、新たに、厚生部が設けられ、従来の文化部の仕事が一部その方に遷されたわけであります。その上、錬成局に思想部といふ部が別にでき、文化部から「思想」に関することはそつちへ移管されたかたちであります。さうすると、文化部には何が残るかと云へば、学術、文学、芸術、それに、さういふ部門を包含する出版、放送といふやうな事業職域関係、図書館、博物館などの文化機関、それと、国民生活の文化面、教養、娯楽、風俗、習慣といふやうな方面の問題だけといふことになるわけです。これでもなほ広汎と云へば広汎でありますが、「文化」と「思想」とは切離すことができないものであり、また、「厚生」とは国民生活を豊かに健全ならしむる方策でありますから、これまた、「文化」といふ角度からこれを取扱はなければ、綜合的な効果は挙げられないのであります。一例を人口問題にとつてみても、これは健民運動として官民一体の運動が進められてゐますが、その事務は、翼賛会では厚生部の所管でありますけれども、運動の実体は、文化部関係の職域を動員することが最も肝腎なのでありまして、かういふ風に、「文化部」の仕事を見て行くべきだと思ひます。
それから、出版文化協会、音楽文化協会、少国民文化協会、宣伝文化協会などといふ団体が新たに結成されました。
出版に関する統合団体を出版文化協会と、故ら「文化」の名称を冠したところに、専ら時代的な意味があると思ふのですが、それは申すまでもなく、これまでの出版界は、好むと好まざるとに拘らず、多かれ少かれ、自由主義経済の波に乗つて営利主義、投機主義、宣伝第一主義といふやうなものに支配され、少数の良書が多数の悪書によつて駆逐されまじき勢ひにあつたのであります。ところが、国家の欲するところは決してさうではなく、出版事業は、国民に最も健全かつ潤沢な精神的栄養を提供し、各種専門領域の最も価値ある著作物の円滑な刊行を主旨としなければならぬのであつて、これ即ち、一国の「文化」を向上発展せしむべき重要な機能を分担する業務なのだといふ自覚が、この名称となつて現れたのであります。最近この団体は国家の統制が強化され、純然たる統制会として日本出版会といふ名称に変りました。
「音楽文化」といふ名称も亦同様な意味を含み、音楽は単に芸術として個人的に制作され、一部のものに鑑賞されることによつて一種社会的孤立の状態に陥つてはならぬ。ひろく「文化」の立場から、音楽家自身の心構へを改めて、真に日本人の心を心とした音楽、深く時代の要求にこたへた力強い音楽の創造を目指し、かゝる音楽を国民全体のものとするやうな運動の展開を音楽家自身の使命と考へることがこの団体の精神であります。
「少国民文化協会」については、その結成の由来を少し述べてみたいと思ひます。
もともと、児童を対象とする読物、絵本、玩具、紙芝居、演劇映画といふやうなものについて、専門的な研究をしてゐる人、または、それらの製作に当つてゐる人の間に、おのおの、専門家を一丸とする団体の結成といふ議が進められ、既に一部は実現をみたものもあつたのでありますが、なにぶん、それぞれの分野にはつきりした指導精神といふものがなかつたのであります。国民の後継者たる児童たちに、今、何を与ふべきかといふ問題は、なによりも、今日までの児童観、誤つた自由主義的な「子供を観る眼」から是正して行かなければならないのでありまして、それには確乎とした国家の方針が定められてほしいのであります。
そこで、翼賛会文化部に於て、先づ、児童関係の文化行政に従事する各官庁の主務官に参集を乞ひ、児童教育に造詣の深い各専門家との合同協議によつて、政府としての指導監督を各官庁まちまちといふこれまでの弊を除くこと、民間の専門家及び関係業者の間に緊密な交流連絡を行ふ組織を作ることを決定したのであります。
参考のために記しておきますと、現在、児童読物の監督検閲は内務省、絵本の指導推薦は文部省、演劇と紙芝居は警視庁、映画は主として内務省、玩具は商工省、幼児の哺育器具材料は厚生省といふ風に、専門があまりに分れすぎてゐて、それを綜合した統一的指導といふものが何処でも行はれてゐないといふことは、日本の「文化」を正しく育てるうへに於て、見逃すべからざる欠陥であります。
そこで、児童に関する学校教育以外の「文化」機構を、国民運動の一環として整備し、これを強力に推し進めるために、少国民文化協会なるものが生れたのであります。
この協会の活動によつて、例へば玩具なら玩具のほんとの「文化」価値が国家的な立場で考へられ、道徳的、科学的、芸術的な観点から、少国民の育成に最も適した、立派な玩具の製作配布が企図せられるでありませう。
国民組織としてこれも最近結成をみつゝある地域的職域的な団体、産業報国会、商業報国会、青少年団、日本婦人会、翼賛壮年団等は、いづれも文化部またはそれに相当する部を内部機構としてもつてゐますが、なかには、「文化」といふ意味を非常に窮屈に解し、または著しく軽く扱つてゐるところがあります。市町村等の自治行政機関の内にも、やはり文化部或は文化課といふ部門を作る傾向が現れて来ましたけれども、これまた、名前と実際とがどうも釣り合はないやうなものが間々見うけられます。
極端なものになると、「文化」即ち「娯楽」といふ風に考へてゐるのではないかとさへ思はれる節もあるくらゐで、多くは「芸能」に関することを「文化」の名で一括してしまふ非常識が平然と通用してゐるのであります。
一二年来、全国各地方に、いはゆる「地方文化運動」といふものが起つてゐます。これも翼賛会文化部の提唱に呼応して、郷土理想化を目標とする新しい国民運動なのでありますが、これは「地方文化」といふものをわが国の伝統の基礎として、堅実に豊かに急速に発展させなければならぬ時代の要求を反映したものであります。従つて、地方生活のあらゆる分野に亘つて、その長所を伸ばし、弱点を補ひ、郷土愛の精神を拡大して、祖国への奉仕に通じさせる、戦時国民生活の強化運動とも見做さるべきものでありまして、そのために、地方のある一定地域に在住する「文化」職域の人々、並に、「文化」問題に熱意を有する人々の一致協力によつて、努めて綜合的な角度から、運動の企画と実践が行はれなければならないのであります。各々専門的な立場を固執して、独善割拠の傾向が生じたり、徒らに「文化」の意味を局限して、われのみ高しとするやうな風があつては、本末顛倒も甚だしいものであります。
「文化」とは、何をおいても、精神と精神との見事な組合せから成るものであります。争闘もまた調和のための争闘でなければなりませぬ。非常時局下の国民の一人一人は、わが国の重大な使命を自覚し、小異を捨て、大同につく覚悟を以て、何人の力をも無駄にさせず、敵は常に自己の内心にひそんでゐることを反省し、人と人との無益な対立摩擦こそ、国力を弱め、「文化」を破毀する原因であることを銘記すべきであります。文化運動に挺身すると称するものの、却つて陥りがちな「非文化的」行動を、厳に慎まなければならぬと思ふ老婆心が、私にかくの如きことを云はせるのであります。
「文化」といふ言葉の氾濫はまことに困つたことでありますが、これは如何ともしかたがありません。
要するに、よく意味がわからぬ言葉は絶対に使はぬといふ節度が一般に保たれてゐたならば、こんな結果にはならなかつたでせう。これもまた憂ふべきわが国の現代的風景であつて、いづれは「文化」の向上によつてのみ救ひ得られる過渡的症状でありませう。
「文化」といふやうな言葉の意味内容の如きは、実際は、国民のすべてに理解されなくても、それはそれでいゝとしなければなりますまい。なぜなら、これはやゝ専門的な言葉の範囲に属してゐて、どちらかと云へば、普通の日常用語としては、意味の複雑な、しかも生硬な言葉であります。十分な訓練によつて思考能力の発達した人々の間で、正確な表現として用ひられなければ、殆どキザに聞えるほどの言葉であります。
底本:「岸田國士全集26」岩波書店
1991(平成3)年10月8日発行
底本の親本:「力としての文化──若き人々へ」河出書房
1943(昭和18)年6月20日発行
初出:「力としての文化──若き人々へ」河出書房
1943(昭和18)年6月20日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年5月21日作成
2016年4月14日修正
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