演劇と政治
岸田國士
|
「演劇と政治」といふ題目を与へられたが、私は「演劇」について語り得るほど「政治」について語ることはできない。自然、この一文は、演劇と政治との関係を、「政治」の側からでなく、「演劇」の立場から述べることになると思ふ。
しかし、「政治」なるものの概念が、近頃では少しづつ「わが国のかくあるべき政治」の概念に引戻されて来たやうであるし、さうなれば、政治技術の面ではともかく、常識としてのわれわれの思考の範囲で、いくらかの意見もたてられるわけである。まして、この新しい、或は正しい政治理念のもとにおいては、国民全体が、それぞれ、大政を翼賛し奉る意味に於て、政府の施策に協力し、その正しき運営を推進するのが今日当然の本分とされてゐるのだから、私が、単に、「演劇人」の資格で「政治」を論ずるだけでなく、国民の一人として、即ち、日本国家の広義の政治活動を僅かながらでも分担しなければならぬ一臣民として、政治機構全体を頭におきながら、「演劇」といふ一分野に眼を注ぐといふこともできなくはないのである。
ただここに問題となるのは、この二つの異つた角度が、この一文の焦点を極めて曖昧にしさうだといふことである。
「政治」といふ複雑広汎な領域、その対象たる国民生活の全体、軍事、外交、貿易等を含めた国家活動の綜合機構のなかで、「演劇」といふ一文化部門は、そもそもどれほどの位置を占めてゐるであらう。その割合を数字的に示すことはもちろん困難であるが、近代の分化作用が政治の面にあらはれた現象をみても、演劇が演劇として、政治的に重要な課題となつた例は殆どない。常にそれは、風教取締の上の一手段であつたり、都市災害防止の一考慮事項であつたりするに過ぎず、せいぜい、社会教育的見地からする芸術政策の局部的現れとして、時には国家的補助が与へられるくらゐのものであつた。
ところで、「演劇」の側から「政治」といふものをみると、これはまた常に巨大な圧力であり、その一顰一笑に神経を尖らし、遂には、被害妄想の症状を呈するに至るのであつて、かくの如きは正に、演劇自ら演劇を滅すものである。しかしながら、今日までの実情がこの通りであるとすれば、「演劇」に関係するものの立場から、「政治」に対して何かを求め、演劇自体の発展のために、「政治」の理想を説くといふことは、ややもすれば、陳情の類となり、第三者からは、我田引水のそしりを免れ得ないであらう。なぜなら、演劇について云へることは、多かれ少かれ、その他の芸術全体についても云へることであり、なほ観方によつては、文化機構の全般について、例へば、教育とか宗教とか、出版とか、保健衛生とか、眼に見える或は見えざる現代の風俗とか、悉く、演劇と同様、根本に於て、「かくあるべき政治」との遊離を感ぜしめざるはないのである。そのなかで、演劇のみが特に不遇をならし、しかもほかのことはどうでもいいといふ風な調子で「政治」に呼びかけ、何か優先的に特権を獲ようとしてゐるかの如く見えるからである。
政治全体が正しく、強力に、少くとも国家の品位と国民の矜りとを基礎として築きあげられなければ、演劇だけがどうなるものでもなく、また、文化領域一般の水準が高まる時でなければ、演劇のみが他のものを後へに健全な発達を遂げるといふやうなことは望み得ないのである。
かういふ観点から、私は、日本の演劇が、従来の政治と如何なる関係に於て発展し、「新しい政治」が、演劇を如何なる目標へ導くべきかといふこと、更に、演劇そのものは、国民生活の精神的栄養として、日本の繁栄に如何に寄与すべきかといふことなどについて述べてみよう。
演劇はあらゆる民族のそれぞれの生活形態から独自の表現を生みだしたと云へるが、その発生の起源は凡て宗教的行事と結びついたものとされてゐる。従つて、古代希臘の如き都市国家の政治は、民衆の集団生活に向つて多くの注意が払はれ、単に宗教がその生活の中に於て占めてゐる領域が大きいといふ理由からだけでなく、祭典的な催しは一種行政的企画の相貌を呈してゐるやうにみえる。かういふ国家にあつては、勢ひ、祭典の重要な部分としての演劇公演も、単に、当局の「取締」といふやうな形で政治の手がこれに伸びてはゐない。それは既に「利用」ですらもないのである。
これに反して、中世以降の欧洲各国では、やうやく、封建的な専制政治が軌道に乗りはじめ、王侯の権力と民衆の神話とが縁を切り、社会的階級が上下共通の生活と感情とを絶滅させた。かかる時代に於て、演劇は民衆の被治者としての心理を反映し、政治が民衆の欲求を制限すればするほど、演劇は反撥し、ふて腐れ、卑屈となつた。
たまたま、演劇を愛する王侯によつて、作家、俳優などの一部が個人的な好遇を受け、そのことが演劇の隆昌と錬磨に役立つたことはあるけれども、今日から見れば、それは決して演劇そのものの本質的向上を齎したとは信じられない。ある意味に於ける演劇の不健全性がそこに胚胎してゐるからである。モリエールの如き大作家ですら、その作品の多くにいくらかの媚態と有閑性をのぞかせてゐるではないか。
一般に演劇に加へられる非難は、当時から既に各所に現はれてゐた。主として、宗教の立場からであつたが、それは必ずしも演劇が嘗て密接な関係にあつた宗教から離れ、その教義を無視し、その風習に従はないといふ理由からだけではなく、権勢と結びついた聖職者のいくぶん偽善的な趣味と、演劇自体のもつ可なり露悪的な傾向との摩擦であつた。俳優は、次第に、社会から特別な眼をもつて視られるやうになつた。愛されつつ軽んぜられるといふ結果は、俳優にも世間にも罪はあつたが、主として、政治的権力がこれを遇するその方法に大半の罪があつたと云へるであらう。
わが国に於ては、能狂言が主として貴族乃至武家階級の、歌舞伎が主として民衆の生活を地盤として発展し、今日の内容と形式が整へられたことは周知の事実である。
能楽は文字通り権勢の庇護の下に育成され、比較的高い教養と洗錬された趣味を反映し、指導階級としての威信と自己批判とに常に応へつつ、あの荘重、幽玄、高雅、鷹揚、闊達、といふやうな雰囲気を創造するに至つたのであるが、歌舞伎に至つては、世態人情の詩的な描写と、庶民道徳の熱烈な鼓吹とが、卑近ではあるが巧緻を極めた舞台技術と相俟つて渾然たる劇的美を確立するに至つたとは云へ、その美の要素たるや、あくまでも、封建治下に於ける市井人の生活感情に根ざし、侠気、意地、忍従、犠牲、隠遁、復讐、などの心理的色調を主とすることによつても察せられる通り、厳粛だとすれば苛酷に過ぎ、倫理的だとすれば普遍性を欠き、その優雅繊細も、豪快洒脱も、常にどことなく反抗と見栄と耽溺とを気分としてのぞかせてゐることは争はれない。
歌舞伎はもとより民衆の慰楽として生れた。民衆の求めるもの、民衆の手によつて作り得るもののすべてが、概ね何らかの形でそこに盛られてゐた。幕府政治が、よし下層民衆を無力視してゐたにもせよ、社会現象としての都市演劇の動向に無関心な筈はなかつた。演劇に対する多くの禁令がこれを証明してゐる。禁令そのものは、もちろん、行政的処置の一端を示すにすぎないが、かかる禁令を発するに至つた動機は、その当否は別として、その時代に於ける演劇の実情と為政者の演劇なるものに対する根本態度とを窺ふに足るものだと思ふ。
先づ日本演劇の起源と発達の径路とをたづね、この間に於ける政治との交渉を詳さに調べて見ることは、今日の演劇の在り方を理解するひとつの道に違ひないけれども、それはこの小論の企て及ばないところである。従つて、ごくおほざつぱに、演劇史上の記録を拾つてみることにする。
平安朝の末から鎌倉時代にかけて、田楽と呼ばれる演芸(田植の時に農村で行はれた慰安行事がもとの起りで、これが神事や仏事の余興として広く用ひられるやうになつた)がわが国に於ける演劇の最も原始的なものであるが、北条高時はこれを非常に愛好し、特別な庇護を加へ、自らも舞台に立つといふ熱心ぶりであつたと伝へられる。当時、京都の四条河原に大仕掛の勧進田楽が催され、観衆が殺到して遂に桟敷が落ち、多数の死傷者を出した。劇場施設に対する為政者の注意が恐らくこの頃から払はれたらうと推察される。田楽と前後して、猿楽なるものの発達をみた。これは今日の能楽の前身とも云ふべきもので、大和春日神社の御事を勤めてゐた猿楽四座のうち、観世家は特にその道の天才を生んだが、将軍足利義満の保護によつて内容形式ともに整つた芸術にまで成長したのである。かうして猿楽は室町将軍家の式楽に採用され、遂に貴族武家階級の専用娯楽となつたことは注目に値する。
猿楽はもと滑稽な所作、猥雑な筋を演ずるものであつたが、貴族武家の生活、趣味に合致するやう次第に洗錬を経たのであつて、その間、一は能の厳粛典雅な悲劇的典型と、一は滑稽洒脱な狂言の喜劇的典型とに分れて今日に及んだのである。
豊臣秀吉の時代には、京の四条河原附近には、諸種の演芸興行物の集中をみた。慶長年間、出雲大社の巫女阿国が歌舞伎踊を演じたのが近世歌舞伎劇の起源だとされてゐる。この歌舞伎踊はまだ劇の形式に整へられてゐなかつたが、とにかく、その人気は日本全国に及び、見物の群衆が殺気立つて刃傷沙汰まで惹き起したので、遂に、寛永の中頃、法令によつて厳禁されたといふ記録がある。
女歌舞伎禁令後に栄えたのは、美少年を主役とする若衆歌舞伎である。これがまた同様に俗衆の好みに投じ、弊害も自ら生じたので、一度は禁止といふことになつたが、法の力を以てしても到底抑へることができず、いつか禁が解かれて、京、大阪、江戸に、それぞれいくつかの劇場が開かれた。多くは遊里を題材としたもので、わが歌舞伎劇の色調は既にこの頃から顕著となつた。
将軍義政の頃、浄瑠璃節といふのが起り、永禄年間三味線が渡来すると同時に、この二者が合体し、更に、慶長に入つて、操り人形の発達と共に、浄瑠璃操りの発生をみたのであるが、これと既に演劇としての形態を整へてゐた歌舞伎との交流が今日の歌舞伎劇なのであつて、近松門左衛門はこの機運を作つた偉大な先駆者である。
徳川期は既に歌舞伎劇の完成時代である。元禄年間では、歌舞伎は主として傾城何々と題する遊里趣味のものか、然らざるものも、遊女を登場せしめなければ見物が承知せぬといふ風潮であつた。
元禄時代は内外ともに平穏無事な時代、即ち幕府の基礎は確立し、鎖国によつて対外関係は小康を保ち、江戸の殷盛は経済的にも一種の好景気を齎した時代であつた。かかる平和は勢ひ民心を弛緩せしめずにはおかぬ。いはゆる元禄の華美な風俗を生み、士道は地に落ち、仇討がすたれて心中が流行するといふやうな現象が目立つてゐる。
若衆歌舞伎が禁止されたのは少し遡つて承応元年のことであるが、それ以来、演劇的興行に対する政令の干渉は、殆ど枚挙する遑がないくらゐである。
参考のためにその主なるものを挙げてみよう。
明暦元年五月──「跡々より御法度の通り、狂言尽し(俳優のこと)大名屋敷方へ呼候共伺公仕りまじく、衣裳結構なるもの着せまじく、其の上、「人多に奢りたる狂言仕りまじく」「狂言尽しの者、仮令一両人御屋敷方へ呼候共、罷越し、島原の真似(傾城買ひのこと)仕るまじく」云々。
同、四年正月──女方の鬘及附け髪を用ふることを禁止、諸芝居へ島原狂言を仕組み、傾城の真似することを禁ず。
同、八年三月──役者の衣類は絹、紬、木棉、舞台にては平島、二重、紬たるべく、紺屋染物、紫裏、紫頭巾、繍類、一切を禁ず。野郎(青年俳優のこと)舞台を了りて奉公人(武士のこと)と出会ふべからず、百姓町人たりとも参会長座すべからず。
延宝六年三月──「役者共、武家方並町方等へ罷越し、長居致候上、一泊致候旨も有之やに相聞え、以ての外に付、以来は被招候とも一切相越申まじく」「役者住居の儀も、堺町、葺屋町、木挽町、最寄に住居致し、但素人家に同居は不相成、又他業の者を同居に差置申間敷」と命ぜらる。
同、十二年二月──青年俳優の外出を厳禁す。
元禄二年五月──江戸中の野郎残らず鬢の厚さ五分に剃下し、早々御番所へ出で、御眼にかけべきこと。
同、十六年二月──時事を劇に演ずることを禁ぜらる(前年赤穂義士の討入あり)。
正徳三年五月──興行の夜に入るを禁ぜらる。
以上は八代将軍吉宗が職につくまでの無数の禁令中から目ぼしいものを拾ひあげたに過ぎぬが、しかもこれは江戸に限り、京、大阪が同様な干渉を受けてゐたことは想像に難くない。これらの禁令に触れて所罰を受けたもののうち、獄に投ぜられたものも多数ある。なかでも、武家の妻女、または召使との間に生じた事件が度々世間を騒がせ、かの七代将軍家継の時、奥女中絵の島が生島新五郎なる俳優と懇ろであつた科で、両者とも流罪に処せられ、絵の島の兄平左衛門は責任者として死罪を申渡されたことは有名な話である。
それ以後、更に、寛政年間に於ける松平定信の内閣、及び天保の水野忠邦の内閣は、演劇取締の点にかけても厳格を極めた。即ち、松平内閣は、俳優の華美贅沢を戒めると同時に、俳優の住居が名実とも「外より見通し候やう可致」と命じ、盗賊の宝蔵へ忍入る事件を取扱つた脚本を上演禁止し、俳優の給金規定を設け、劇場の事務員を制限し、旅興行を許可制とし、一方、俳優に対する興行者の義務を明かにして、虐待と搾取に対する保護を加へた。次いで、水野内閣に至つて、将軍家慶の時代に、劇場の火災防止上危険なること、及び風教上悪影響あることを理由として、まつたくこれを廃止するか、地方の一隅へ移転せしめるかしようといふ議さへあり、天保十三年七月、遂に、俳優は四季を問はず深編笠を着てでなければ外出罷りならぬといふ布令が出た。また、草双紙、錦絵類に役者の似顔絵を描くことが禁止され、劇場建築に大さの制限が設けられる等、禁令禁止相次ぐ有様で、それにつれて、俳優の或は追放に処せられ、或は住居を取毀され、或は手鎖をはめられ、殊に罰金の刑に科せられるものなど、殆ど寧日なきほどであつた。
従つて、歌舞伎は良家の子女の足を踏入れるところではないといふ通念ができ、裏面に於ては、貴族も武士も常に劇場に出入し、俳優と交際してゐるものもあつたが、公にはこれは赦すべからざることであつた。紀州侯の令嬢がある日芝居小屋をちよつとのぞいたといふ事実が発覚し、令嬢は国許へ幽閉、供の侍は切腹仰せ付けられるといふ騒ぎまで持ち上つたのである。
要するに、徳川幕府が演劇興行を取締るため発した法令は、結局、奢侈及び淫靡なる風潮が社会に及ぼす影響を考慮したものであり、その主旨たるや当然、首肯し得るのであるが、更に具体的にそれらの禁令の実施された結果をみると、今日の歌舞伎劇の不自然な特色は、多くは、そこに由来することが明かになるのである。
第一に、俳優が一般社会と全く遊離した生活を営まざるを得なかつたこと、従つて、それだけ変態的な生活感情及び風習を身につけてしまつたこと。
第二に、俳優は下賤なる職業なりとの印象を強く世間に与へたこと。いはゆる「河原乞食」または「河原者」として社会より蔑視されるやうに仕向けたとさへ云へるのである。これは同時に、日本演劇の品位を下落せしめ、低俗な娯楽物の域に止まらせたことにもなる。
第三に、演劇が本来もつ歴史及び時事に関する啓蒙の役割をまつたく放棄し、徒らに事件の興味を追ふ筋本位のものとなつたこと。即ち、現在の人名を使用することを禁じたのはまだよいとして、歴史的意義をもつ社会の出来事を絶対に脚色させなかつたことは、例へば赤穂義士の事件を足利時代としたり、家康を北条時政としたりして、民衆がある程度これを推知するに委せはしたが、勢ひ実感に訴へる力が弱められ、演劇はそれだけ架空の物語といふ印象を与へるに過ぎないやうになつた。
階級制度が社会秩序を維持した時代とは云へ、国民の大多数たる庶民階級の好尚が、かかる政治の下に如何に方向づけられ、如何に伸び育つであらう。幸にしてわが民族の恵まれたる資質は、如何なる条件の下に於ても、営々として美の創造を怠らず、今日、世界演劇を通じて最も驚異とするに足る舞台の一形式を完成したのであるが、かかる形式の演劇が徳川幕府の政治──延いては、その時代の社会的事情を背景として生れたのだといふことを考へれば、明治維新を経て昭和の現代に至るまで、その政治的革新も、社会的進化も、歌舞伎劇に対しては微々たる作用を及ぼしたに過ぎぬといふことになる。民衆の生活に深く根をおろしたものの、遂に抜きがたき力となることかくの如くである。幕府政治は滅んだ。しかし、「政治」の性格が民衆に示す相貌は、みんなが思ふほど変つてゐないところにも、歌舞伎劇の生命があるのかも知れぬが、それよりも、私は、やはり歌舞伎劇の力と美が、われわれの祖先の長日月に亙り、求め、創り、磨き、そしてわれわれの時代に伝へたものだといふことに、誇りと親しみと感動とを覚えるものである。
芸術家が一般に芸術の目的と使命とを自覚し、意識的に「高い芸術」の創造を目指しはじめたのは、いはゆる文芸復興からであり、国家も亦、政策として、芸術諸部門の健全な育成を心掛けるに至つたのはいづれも近代国家形成以後と見てよからう。従つて、芸術家の自覚と、国家の配慮とは、緊密な関係をもつものと考へられる。
フランス十七世紀の例をとつてみても、ルイ十四世の国家統一と国威発揚に伴ふ賢明な文化政策の裏面には、宰相リシュリュウの学識と烱眼があつたことは勿論であるが、特に演劇方面に於ける黄金時代の現出には、王自身の趣味によるほか、批評家ボアロオを中心とする劇詩人の真摯な古典主義運動が、演劇の品位と同化力を著しく高め、かつ、王をして何をなし、何をなすべからざるかをはつきり認識せしめ得たことが、大に与つて力あるのである。
しかしながら、ルイ十四世の治下に於ては、まだフランス古典劇は十分に「国民全体」のものになつてはゐなかつた。国立劇場はまだ王室劇場の実質を脱してゐず、年金を与へられてゐる劇作家も亦、庶民のために書くといふよりは、寧ろ宮廷人士を観客として予想したのではないかと思はれる。モリエールの言葉として、「余は〝honnêtes hommes〟のために喜劇を作る」といふ意味の宣言が伝へられてゐるが、honnêtes hommes とは、この時代に於て正確に何を指してゐるか私にはわからぬながら、およそ、「素姓正しき人々」のことを云つてゐるらしい。「身分高き人々」ではないことを特に明かにしたもので、その点、モリエールの言葉だけに、多分に時代の風潮を暗示してゐる。序に云へば、モリエールの面白いところは、劇作家としての才能の非凡以外に、王の寵遇にも拘らず、その寵遇の故に却つて自己を赤裸々に発揮し、王の側近たりとも容赦せず、権勢の代表たる貴族と僧侶とに鋭い諷刺の戈を向けたことである。
ここで私は為政者の考慮を煩はしたいことがある。わが国にも嘗てはその例がないわけではないが、かかる諷刺を受けた当の貴族僧侶が、個人的に関係はなささうだといふ理由で、苦笑しながらもその舞台に喝采を送つてゐるといふ図である。わが国の狂言には、低能とも思はれる大名が屡〻登場するが、これは、作者が、殿様と呼ばれる階級の世情に通ぜざることを戯画的に諷刺したものに相違なく、しかも、これらの笑劇は殿様連中の好みに最も適つてゐたのである。見物中に機嫌を損じ、座を蹴る殿様がゐたとすれば、これは益〻誂へ向きの狂言的人物なのである。
要するに、演劇の魅力は、それが何等かの意味で、「自分たちの生活」の再現であり、その中に、新しい自分、かくされてゐた自分、眠つてゐた自分をまざまざと生きた姿に於て発見するといふことである。芸術的陶酔とともに自己浄化、自己反省の機会がここにある。演劇の教化力はかかる意味に於て考へられなければならないのである。
諷刺が侮辱となるのは、作家の精神に不純なものが混入してゐる時であるか、すべての諷刺を侮辱と解するのは、観るものの精神が幼稚であるか、脆弱な証拠である。為政者は如何なる場合にもかかる精神の厳然たる批判者でなければならぬと思ふ。
演劇の主題が直接に政治的、思想的傾向を帯びて来たのは、ヨーロッパに於ては十八世紀のいはゆる啓蒙時代を迎へてからである。
ドイツに於ては、クライスト、シルラア、ゲーテの出現によつて真に国民的なる演劇の根柢が築かれたが、フランスにあつては、社会思想的に劇作家としてこの時代を代表するものはボオマルシェ一人である。しかも、彼は、「フィガロの結婚」の一作によつて、革命の先駆をなしたとさへ云はれる。新興階級の意気と情熱と溌剌たる叡智とを示すこの諷刺喜劇は、作者が王女の音楽教師である関係によつて、王自らの手で公演前の検閲が行はれた。不穏当を理由として却下されること四度、修正には女王も意見を出すといふ念入りな段取りを経て、やつと上演許可になつた。ルイ王朝は既にその影薄く、時代転換の前夜に於ける政治のすがたはまことに常道を逸したものであり、「フィガロ」の公演は、ルイ朝最後の王の為政者としての英断を語ることにはなるまい。この喜劇は、果して民衆の熱狂的歓呼を浴び、社会的動乱の前徴を如実に示した。それはともあれ、フランスに於ける演劇の取り扱はれ方は、ほぼかくの如きものであつた。
ヨーロッパの大国は、それぞれ、首都に王立乃至国立劇場を設け、地方各都市にも、博物館、図書館等と並んで、公設の劇場が建てられてゐるところもある。これは云ふまでもなく、演劇の国家的保護乃至助成を意味し、延いて、民衆の演劇的教養に健全な軌範を与へ、国民文化の粋とするところを普く内外に誇示しようとする意図に出たものである。かのナポレオンが、モスクワ攻撃の陣中、冬将軍の猛威を前にして惨憺たる策戦を練るかたはら、巴里に於ける国立劇場コメディイ・フランセェズに関する新たな勅令を発布したことは、あらゆる点からみて興味のあることであり、「モスクワ条例」と名づけられたこの一片の法文には、文化史的に重要な意義が含まれてゐる。
共和国フランスに於ける演劇政策は、四、五の国立劇場に相当の補助金を交附し、劇場専属の俳優を官吏待遇とし、惜しみなく劇場関係者に勲章を与へ、元老女優で勲一等に叙せられたものも出るくらゐ徹底してゐるやうであるが、なにしろ、既にこの老成国は制度にのみ頼るところがあり、官立の演劇学校はその「伝統」──実は因襲の故に天才を育てることができなくなつてゐるし、投機的性質を帯びた商業劇場の如何はしい上演目録が民衆の人気を浚つても、それは手の施しやうがないのである。とにもかくにも、フランスの演劇政策は現在まで、フランスの政治的性格のもつ長所と弱点とに左右せられ、近代フランス劇の消長は、その演劇政策の如何に拘らず、まさに国民的自覚の大小に比例してゐると云つていい。
ドイツ帝国にあつては、この点、フランスと甚だしく趣を異にしてゐる。ドイツの演劇政策は、フリドリッヒ大王以来、その一般国民的性格を反映して、極めて組織的であり、計画的であつた。元来ドイツ人はフランス人ほどに演劇的ではない。しかし、フランス人よりも演劇的訓練を受けてゐる。ドイツに於ては、演劇が早くから政治の面に結びつき、劇場の多くは公の機関としての性質を帯び、劇芸術は国民錬成の具として、教練、音楽とともに政府の手で急速に普遍化されたのである。
ドイツばかりではなく、フランスでも、イギリスでもイタリアでも、演劇が社会教育的に利用され、例へば国立劇場へは父兄が子女の躾けのために彼等を同伴するといふやうな風は屡〻見られないことはない。第一にそこでは、国民尊崇の的である古典的劇詩人の傑作に親しみ、最も正確に且つ巧妙に話される国語の美しさを会得し、最後に、教養ある観客の十分訓練された観劇の作法を学ぶのである。
為政者は演劇をかくの如く利用せしめなければならぬと同時に、演劇の水準をここまで高めることに不断の努力を払ふべきである。教育政策と芸術政策との不離不即の関係がここにみられる。つまり、文化政策の一元的運営といふことが、制度の上のみならず、為政者の頭脳と感覚の問題として解決されなければ、望ましい結果は得られまい。さて、ドイツ以外の国では、かくの如き意味での演劇の社会教育的価値は認めてゐるやうであるが、ドイツの如く、それに加へて、国民の集団的訓練にこれを利用することの効果に早くから着眼したところは、蓋し絶無であらう。即ち演劇的行動それ自身の「協力」と「統一」の絶対性に基く歓喜と満足とを、知らず識らず国民の生活のなかに浸潤せしめようとするものである。ドイツ演劇に於ける演出者の優位は、国民性に基く自然の現象であると同時に、この現象はドイツ演劇学及び演劇理論の中心をなすものであり、かかる演劇の特質はまた、国民精神の陶冶と生活訓練の大きな役割を果してゐるとみるべきである。
今次大戦に於けるドイツ銃後運動の一つとして、いはゆる「K・D・F」の名が世界に喧伝された。要するに農村、工場等を巡回して演劇、演芸などを生産勤労者の集りに上演し、大いに士気を鼓舞しようといふナチス独特の組織的宣伝隊である。この費用は全部国庫から出るもので数億円の予算が計上されてゐると聞くが、かういふ仕事にすぐさま動員できたドイツ青年たちは、決して、この運動が起つてはじめて急ごしらへに教育を受けたのではなく、既に彼等は、必要な基礎的訓練を、幼少の頃から身につけてゐたに違ひないのである。
近代国家の演劇政策を通じて見逃すべからざることは、対外文化宣伝にこれを利用することである。前大戦中、フランス政府が巴里の一研究劇団に過ぎぬヴィユウ・コロンビエ座を紐育に派遣し、満二年間、常設的にその上演目録を公開せしめた如きは、その最も顕著な例であるが、もともと、演劇はその綜合性のゆゑに、一国のもつあらゆる文化的特質の鳥瞰図、案内書の如きものであつて、外国旅行者は必ず世界各都市の劇場を訪ひ、それが若し相当の名士ならば俳優と楽屋で会ひ、夜食を倶にし、若しそれが素寒貧書生ならば、せめて記憶に残つた名優のプロマイドを買つて帰るのである。
ここに於て、およそ自他共に文明国を以て許す国々は、外客に対し、これぞわが演劇文化の粋なりと誇り得るやうな施設及び人的要素を整へておかうとする。国内的には社会教育の効果をねらひ、対外的には文化宣伝の具たらしめるやうな、模範劇場及び劇団の経営を、国家自らの手で、或は少くとも国家の負担に於て行ふのが定石である。
それならば、如何なる演劇が最もその目的に合致するか? その国の古典劇上演はもちろんはぶくわけに行かぬ。しかし、それが仮にシェクスピヤやモリエールやシルラアの如き誰でもその名声を知つてゐるやうな大作家のものでも、古典劇だけでは宣伝価値はわりに少い。シェクスピヤは、英国の作家で英国人だぞと威張つても、これが本格的なシェクスピヤの舞台だと折紙をつけてみても、外国人はそれほど感心もしなければ、珍しがりもしないのである。まして、それだから、現代の英国に好意をもち、尊敬を払ふといふ具合には行かぬ。そこで、現代劇を同時に並べる。場合によると現代劇だけをやる。むろん、現代作家の粒撰りであるが、これまた、老大家だけでは腕はたしかでも、新鮮味が足りない。新進作家のほぼ定評ある幾人かを拾ひあげる。作品は先づ他の劇場で成功裡に上演された試験ずみのものからはじめる。思想風俗の上から無難といふ条件は、それぞれの国柄に応じて守られるが、特に、外交上の考慮が必要である。何よりも自国の文化を毒し、他国人に誤解、或は過少評価せしめるやうなものは禁物である。国民性の弱点を誇大に示したもの、或は、無意識にこれを暴露したものもよろしくない。しかし、国民精神乃至国力の素朴な自画自讃は一層考へものである。自国民の矜りともなり、異邦人の共感を呼び、彼等をしてわれに親しみ、且つ、学ばんとする心を起さしめるやうな演劇は、国民挙つてこれを創り出さなければならぬものであらう。そしてこれはもはや、「宣伝」の意図を微塵も交へない、創造の精神にのみ負ふところの芸術自体でなければならないのである。
モスクワ劇団の前大戦直後に於ける世界巡業が、私の知る限り如何に真のロシヤ人なるものを一般に理解せしめ、その舞台の圧倒的魅力を通じて、ロシヤ愛好者を多数生ましめたかをみるがよい。或はまた、フランス国立劇場俳優団の定期的南米巡業が、如何に南米、殊に、アルゼンチンのフランス化に貢献してゐるかをみるがよい。
演劇を通じての対外宣伝に於て、最後に考へなければならぬのは、俳優の素質についてである。このことは、後段わが国今後の演劇政策に関するくだりに於て勢ひ触れることになると思ふが、抑も近代国家に於ける演劇のいくらかの質的改善は、俳優の教養及び品位の高まりにその原因の主なるものがあるのである。演劇はそのために多少道徳的信用をとりもどし、俳優の社会的地位が向上した。欧米に於ける一流の俳優は、他の社会の一流人士と対等の交際ができ、交際ができるばかりではない、対等の喧嘩ができるといふのが掛値のないところである。つまり堂々と誰の前でも所信を述べ、それが専門的のことであらうとなからうと、一個の近代的教養をもつた芸術家として、その言説に耳を傾けさせ、しかも、俳優らしく、その表現には常人の企て及ばない独特の魅力があり、決して好奇的な眼を満足させるのではなく、自らそれぞれ恃むところのある社会人に、ある種の精神的快感を与へ得る資格を備へてゐるのである。かういふ俳優は、誰が作るのでもなく、自然に生れるのだと云へばそれまでであるが、それには、やはり、さういふ俳優を生みだす地盤が必要であり、俳優の素質を吟味する標準がそこにおかれてゐなければならぬ。
俳優養成の国家的機関が何れの国にもあつて、そこでは、専門の技術教育を施すほかに、品位と機才に富むいはゆる「民衆の偶像」を作り出さうとしてゐるのである。
演劇政策はまた文芸政策と表裏一体の関係をもたねばならぬ。なぜなら、上演脚本の生産は劇場に於てと同様、文学者の書斎に於ても亦なされるからである。
近代国家が文芸政策の中心として取り上げたのは云ふまでもなく、文芸院の設立である。文学者中、国家が認めて第一流と目する詩人、小説家、劇作家、評論家、歴史家、新聞記者等を会員に推し、(会員は新会員の選挙権をもつのが普通である)主として、自国文化の昂揚といふ点から見た文芸作品或は研究の選賞、自国語の純化を目的とする綜合辞典の編纂改修、外国文学者及び外国文学界との公式の交歓にその任務があり、会員は老後の生活を保証するに足る年金を受ける制度になつてゐるやうである。
欧米諸国に於て、この種の機関は殆ど例外なく存在するけれども、それぞれ多少の特色を示してゐて、その使命及び業績は一様とは云ひ難い。フランスのアカデミイ・フランセエズ(翰林院)はその歴史最も古く、十七世紀ルイ十四世の時代に創設されたものであるが、会員中には、文学者のみならず、フォッシュの如き軍人もはいつてをり、科学者、宗教家なども、その学識のゆゑにいはゆる「不滅の名」に加へられてゐるものがある。
そこで、この文学アカデミイは、演劇に於ける戯曲の地位を確保するばかりでなく、その傾向にもある種の影響を及ぼすものであつて、もとより、アカデミイはアカデミイとしての官学臭を帯びざるを得ず、これに対して、絶えず野党的批判はあるにしても、少くとも営利を主とする商業劇場に対して、国立劇場の存在と共に、相当、牽制の役割を果してゐることは事実である。
次ぎに、劇作家組合の保護である。この組合はもともと劇作家の連帯による自己の利権の擁護を動機として生れたものであつて、ある意味では旧来の「政治」と対立するが、また一方、興行者及び俳優の横暴から劇作家を救ふ点に於て、政府の理解と支持の上に成立つてゐる。
劇作家組合の規約は、別に法的根拠を有するわけではない。しかし、組合の強力な場合は、殆どこれに匹敵する効力を生んでゐる。例へば、ある劇場が特別な関係を理由として或る特定の作家の脚本のみを上演する場合、組合はそれに抗議して他の作家の作品をも上演することを強要できたり、俳優及び興行者の動もすれば戯曲の文学的価値を無視せんとする傾向に対し、作家は稽古の最後に臨んで若し自己の意に満たざるものある時は、初日を延期する権利を主張したりしてゐるところもある。
文芸政策と関連をもつ演劇取締の手段として、脚本検閲の問題を見逃すわけに行かぬ。上演脚本の検閲と文学的出版物の検閲とは、その間自ら検閲の標準に手心が加へられることは何処でも同じである。根本の方針は、飽くまでも一貫したものでなければならず、これを行政的に如何に処理するかは、国情によつて、といふよりも寧ろ、その国の芸術政策が何人によつて樹てられるかにより、様々な工夫の跡が見える。
ナチス政府は、党の一機関として、宣伝省の外廓にクルトゥール・カンマア(文化院)なる芸術文化各領域の職能組織を確立し、文学も演劇もこれを一元的機構のなかで統制指導する制度を採用した。
フランスに於ては、戦前まで、文部省が芸術政策の運営実施に当り、文学作品も上演脚本も共に、芸術局がその検閲に当つてゐた。議会に於ても、有力な代議士が政府の検閲方針について質疑的批難を加へれば、文部大臣並に芸術局長が、堂々これに応酬するといふ光景が屡〻見られたのである。
演劇政策の行政的な現れ方は、いはゆる自由主義時代まで、わが国に於ては、主として劇場並に劇場関係者取締及び脚本検閲なる形に於てしかこれを見ることができなかつたのであるが、近代国家としての発展に伴つて、やうやく「演劇法」の制定が計画せられ、保護、助成、指導の方向へ一歩踏み出さうとしてゐることは慶賀に堪へない。
しかしながら、日本の演劇の特殊性に鑑み、ここに大いに留意すべきことは、明治維新この方、政府はわが演劇に対し、この本質的な問題を如何に取扱ひ、これにどの程度の考慮を払ひ、これが対策として何をなしたかといふことである。憚りなく云へば、日本の近代文化は、すべて他の領域に於ては多かれ少かれ、政府の手によつて、またその力によつて、急速な進歩を遂げたが、芸術の領域に於ては、単に美術学校と音楽学校との創立を見ただけで、民間識者の間で演劇改良の叫びが挙げられたにも拘らず、遂に、政府は何等これに応へるところはなかつたのである。
民間の識者も、なるほど日本固有の演劇の弱点をよく認識し、これを真に国民的なる芸術にまで高めようといふ熱意はもつてゐたに相違ないが、それらの人々は、遺憾ながら、演劇に関する専門的な知識も、また演劇の文化的役割について的確な判断を下す感覚もなかつたから、その主張と運動の実質は、強力に時代を動かすものとはなり得なかつた。
爾来数十年、演劇の革新は殆ど常に文学者及び素人俳優を中心とする少数の同志によつて試みられたが、様々な障碍に遭つて挫折に挫折を重ね、時には国体と相容れざる思想運動に逸脱する一部の傾向を生み、法の処断を受けて解散する団体もできた。その結果、いはゆる「新劇運動」なるものは、概して為政者の警戒するところとなり、もともと、歌舞伎劇を主流とする既成演劇の因襲と商業主義に対抗し、時代の要求に副つた純粋な舞台芸術を創り出さうとした意図が、社会からは十分に酬いられるところなく、更に大いなる時代転換を前にして、もはや過去の歴史とならうとしてゐるのである。
以上述べたやうに、あらゆる近代国家が、その政策として、演劇の保護助成を目的とするなにらかの方針を示し、演劇の質的向上をもつて、国民の精神生活の培養を心がけ、一方文明国としての矜持を示さうとしたことは、殆ど共通の傾向であつた。
しかしながら、わが国に於ては、やうやく最近の数年間に於て、行政的に演劇の改善及び利用といふことが官庁の一部で考慮せられるやうになつたのである。国家が「政策として」演劇の問題を取上げるのと、行政官庁がこれを「所管事項として」取扱ふのとは、趣旨は同じでも、その影響と効果とに雲泥の差がある。形式を云々するのではない、事実を云ふのである。さういふ意味から云へば、わが国の現状は、まだ演劇そのものを国力の一部として、為政者が十分認識してゐないとも云へるし、わが演劇自体もまた、今日まで真に国民生活の強化に役立つてゐたかどうか甚だ疑はしい。
そもそも国の力といふものは、いろいろな要素から成つてをり、様々な形で現はれて来るものである。戦争に勝つことは、むろん国力の強大を意味するけれども、同じ勝ち方にもいろいろある。有効に、確実に、そしてきれいに勝たなければ、ほんたうに勝つたとは云へないのである。これが日本の目指す勝利であり、この勝利なくしては、日本の理想に到達することの困難であることを、われわれは肝に銘じてゐるのである。
総力戦の意味は、軍事力と並行して国家活動のあらゆる分野、国民生活の全領域を、かかる「立派な勝利」の獲得に向つて、整備動員することであり、そのためには、これに応ずる国内の秩序と組織とが当然必要とされるのである。政治、経済、文化といふ風に、誰が分けたかは知らぬが、いはゆる新体制の呼び声とともに、かういふ国内機構の区分法が公に採用せられ、文化機構なるものが、危く政治と経済の両面から遮断せられようとした。現実の問題としてはさうはいかぬが、観念的に別個のものとされたところに、新体制運動の不統一性がその出発点に於てすでにあつたと云へる。
文化機構は決して政治や経済の機構と別々に存在するものではなく、その間、専門的にみれば一応看板は違ふかも知れぬが、常に有機的な関連をもつばかりでなく、現実に、如何なる文化部門の職域機構も、政治の対象とならないものはなく、また経済活動を営まないものはないのである。これは相互に同じことが云へるのであつて、例へば経済面から貯蓄運動といふものが考へられる。この運動は国民精神の昂揚に俟たねばならぬ。そればかりではない。消費生活の技術的工夫によつて一層効果を挙げ得るであらう。従つて、娯楽とか休養とか、身嗜みとか知識の涵養とかいふ問題を無視することはできぬ。否寧ろさういふ点が解決されなければ、絶対に永続的な貯金運動は不可能である。さうなると、貯金運動は先づ文化運動の形で進められるのが最も適当だといふことになる。わざと逆説を弄するわけではない。政治や経済を文化から引離さうとする指導者たちの注意を喚起するために、「文化」といふものの「在り方」を説明したまでである。
そこで、文化機構の整備統制は、先づ、少くとも、文化機構の全貌を把握し、これを一元的に企画運営し得る政治機関を必要とする。政治機関なるが故に、行政機関の如く、自己の所管に没頭することなく、十分に、戦局の推移と国内経済の事情を考慮に入れ、官庁予算といふが如き形式でなく、重点的に、重要文化問題の解決に必要な国費を充当する。もちろん、これに伴ふ民間の資力も活用すべきである。
一方、民間のあらゆる文化職能人は、自主的に先づ専門別の統合団体を結成し、更に、これを横に連結する協力態勢を整へる。専門別の統合団体のみでは、必要な活動はできないのみならず、いはゆる専門割拠主義の弊に陥つて、文化陣営の歩調が揃はぬこと明白である。
芸術部門だけについて考へれば、文学、美術、音楽、演劇、映画と大別することができるが、この五部門の有機的交流と相互協力の実を挙げるところから、現代日本の芸術維新が生れ、芸術家の文化戦士たる資質が錬磨されるのである。このことを詳述する暇はないが、これは決して、一個人が、文学にも美術にも音楽にも、その他何れにも趣味をもつといふやうなこととは断じて同じでない。
芸術の制作或は芸術品の普及頒布を業とするものが、自己の利益を擁護するためでなく、真に、戦ふ国民としての自覚と、力強き芸術への愛によつて結びつき、それぞれ専門の領域に於て全能を尽すといふことは、結局、他の専門部門の停頓萎靡を黙視し得ざることであり、また、その最高のものに熱烈な拍手を送ることでもある。常に共に進み、常に共に励まし、常に相倚り相扶けるといふ精神こそ、新しい団体の精神でなければならぬ。個人主義を批難するものが屡〻団体利己主義の虜となつてゐる今日の現象は甚だ憂ふべきである。
演劇の部門に於ける新団体の結成も、徐々にその機運をのぞかせてゐるが、演劇人並に演劇関係者の厳しい自己反省から先づ出発しなければならぬ。国運を賭してのこの戦ひに臨んで、演劇は正に一死報国を期して起ち上るべきだ。それはつまり、過去の演劇の「肉体」はここで天に返すといふ覚悟が必要だと思ふ。あまりに比喩的だといふならば、もつと明らさまに云はう。先づ、既成の演劇機構は、それぞれの歴史と功罪とをもつてゐるが、この際、自発的に一応解体して全く新しい発足を企てることが急務である。日本演劇の伝統精神は、かかる解体によつて消滅はしない。却つて、現在の真面目な指導者が、腐敗した機構のなかで、真の演劇精神を生かさうとしてゐる無駄な努力がはぶけるだけである。機構といふものは、条文によつて作られてゐるのではなく、人そのものによつて作られてゐることを忘れてはならぬが、一層正確に云へば、人の組合せによつて作られてゐるのである。
今日の演劇人及び演劇関係者は、その職能及び職域を通じ、国家総力戦にどれだけの力を捧げてゐるかといふと、それは百パーセントであるべきだが、どう見てもさうは云へない。力の出し惜しみといふよりは、力の入れどころの誤りからさういふ結果が生じる。これを結合し、方向づけるものがないからである。
戦争の完全な勝利と、国家の永久の繁栄のために、日本演劇の今日以後の在り方を、演劇人及び演劇関係者自らはつきり認識し、万難を排して自分自身をそこへ持つて行くといふことが、何よりも大きな政治への協力であり、政治の推進である。
底本:「岸田國士全集26」岩波書店
1991(平成3)年10月8日発行
底本の親本:「演劇論 第四巻 演劇と文化」河出書房
1942(昭和17)年11月20日発行
初出:「演劇論 第四巻 演劇と文化」河出書房
1942(昭和17)年11月20日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
2016年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。