「演劇」巻頭言
岸田國士
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今日演劇について語らうと思へば、勢ひ日本文化の現在のすがたについて考へてみないわけにいかない。
かつてわが国の演劇の革新運動が、或は単なる「芸術運動」であつたり、或は矯激な「政治運動」の一部であつたりした時代に、これでいゝのだらうかといふ反省は誰の心をも安らかならしめなかつたのである。いはゆる「新劇」の運命は、それが一国一時代の要求に真につながるか否かによつてひらかれもし、また塞がれもするといふことを、われわれははつきり知らなければならない。その意味に於て、われわれの現代演劇をその沈滞から救ひ、偉大な歴史を彩るにふさはしいものとするために、われわれが当然しなければならないことは、明日の演劇の基礎工事である。云ひ換へれば、第一に、政府をして文化政策としての演劇政策を強力にかつ誤りなく行はしめるための必要な協力、第二に、思想的にも技術的にも、これまでとまつたく心構を入れかへた劇壇人の自己練成、第三に、国民生活の変貌を予想しながら、その生活と劇場機能とを完全に結びつけるやうな組織がこれである。
以上三つの目標を掲げてこれに邁進することは、演劇に関係するもの、すべてに課せられた時局下の任務であり、同時に、職域を通じて行ひ得る臣民道の実践に外ならない。
それにしても、かゝる事業が一朝一夕に成し遂げられると思つてはならぬ。われわれはまづ手近なところからはじめて行くのである。さきに「国民演劇」の発刊があり、こゝにまた「演劇」の創刊を見たのは、ともに、同志としてそれぞれの領域を開拓し、啓蒙に、研究に、創作に、ひろく才能を求め、特色を生かし、道の通ずるものなれば尚も余すことなからしめようとする意図に出たものである。
「演劇」はいくぶん学究的であるかも知れぬが、あくまでも書斎的であることに甘んじてはならぬ。殊に、純粋に名を藉りて、演劇を他のすべてのものから遊離させることを慎みたい。専門の孤立化は、わが国現代文化の最大の病根だからである。それゆゑ、「演劇」は、演劇を中心として、一切の文化部門の連絡交流を図ることをも是非考へなければならぬ。わが国現代演劇の貧血と動脈硬化は、由来するところ甚だ遠いのである。
なんとしても、われわれは今後、日本演劇の正しい伝統を探らねばならぬ。それは演劇史のなかだけで発見し得るものではなく、遠い祖先の生活と心意気のなかに求め得べきものであらう。
個々の才能を磨くことはもとより大切に違ひない。しかし、それよりも大切なことは、みなが力を協せて「天才の時代」を創ることである。「天才の時代」とは、時代そのものが無名の傑作を生むやうな、さういふ時代である。日本的芸術の開花は、およそかゝる性格のなかに真面目があるやうな気がする。
「明日の演劇」は、本来の「詩」に帰らねばならぬ。われわれは現実の批判に止つてゐてはならぬ。批判の上に築かるべきものは、批判を超へて、もはやわれわれ日本人の感覚にぢかに触れてゐるのである。壮大な夢を夢み得ないものが一人でもあらうか。
たゞ、あとは、力の問題である。呼吸の問題である。
「演劇」は、自ら信じて起たうとするすべての演劇人の前にひらかれたひとつの精神的道場たるべきである。
底本:「岸田國士全集25」岩波書店
1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「演劇 第一巻第一号」
1942(昭和17)年4月1日
初出:「演劇 第一巻第一号」
1942(昭和17)年4月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
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