文化とはどういふことか
岸田國士



国民が発揮するいろいろな力といふものは悉くその国民の有つ文化が土台になつてゐる


     誤つて使はれる「文化」


 文化といふ言葉は今日では誰でも使つてをりますし、また到る処にこの言葉が拡つてをります。それだけにまた文化といふ言葉が、いろいろな意味で使はれてをり、また場合によつては非常に誤つた意味にも使はれてゐるといふやうに私は考へてゐます。今日、大政翼賛会の翼賛運動の発足といふことゝ必ずしも同時にではありませんけれども、一般に文化問題については関心が昂まつてをります。地方でも、いろいろな方面で文化活動が旺盛になつてまゐりました。さういふ際に文化といふ言葉の意味を少しはつきりさせて置かなければいけないと思ひます。ご承知のやうに文化住宅といふ言葉があります。それはまだいゝとして、文化焜炉であるとか、もつと怪しげなものに、文化といふ名が附けられて来てからどのくらゐになりませうか。私の記憶では、二三十年前頃ではないかと思ひます。自然その頃から文化といふ言葉が一般に使はれるやうになりました。

 それならば、さういふ意味で云はれてゐる「文化」といふ言葉を一応考へてみませう。辞書にもさういふ怪しげなものにまで使はれてゐる文化の意味は出てゐません。私の感じから云ひますと、文化住宅とか、文化何々とかいはれる場合の「文化」の意味は、幾分趣味的であつたり、それから便利重宝であつたり、更に安直で見つきがいゝ、といふやうな、まあ、ざつとそんな意味を引つくるめて文化的といつてゐるやうに思ひます。

 西洋的であるといふことゝ、革新的であるといふことゝは、或る時代においては一致してをつたことゝ思ひますが、文化住宅とか文化焜炉とかいふ場合には、必ずしもさういふはつきりした一致は見出されないとして、大体さういふ漠然とした意味が含まれてゐると思ひます。しかし、もう少しその意味がはつきりしたものに、今度は、文化生活といふ言葉があります。

 文化生活といふことになりますと、西洋的な匂ひがすることは勿論でありますが、主として合理的且つ趣味的といふ要素が目立つて来ます。即ち先づハイカラといふ言葉を連想します。例へば西洋式の家具のなかに住み、近代音楽を弄び、古い習慣を捨てゝ、殆ど国際的とも云へる様式の、自由な暮し方をするといふやうな意味で使はれて参りました。


     文化の標準と正体


 今まで、文化といふ言葉が用ひられる場合は、大抵前述のやうな意味で、文化的であるとか、或はまた文化性があるとかいふ風に使はれて来たと思ひます。これが抑々文化といふことが誤られる第一歩であると思ひます。ところが、一方において日本伝来の文化といふものがある。日本の大昔から伝はつてきた文化といふものは、日本の過去の非常に豊かな優れた文化であるといはれてゐるのでありますから、前に申しましたやうに、文化といふ意味には西洋風であるといふことが一つ含まれてゐると思ふのは誤りであると考へます。さういふ意味の誤りを、こゝでよく考へ直してみますと、結局かういふ結論になるのです。

 文化といふものゝ内容は、西洋的であるとか、或は便利であるとか、芸術的であるとか、さういふやうな内容の分け方では面白くないのであつて、もつと分析して考へてみると三つの要素があるのであります。

 一つは倫理性(道徳性)、それから科学性、もう一つは趣味性または芸術性と、この三つのものがバラバラにあるのではなく、それが渾然と融け合つて文化といふものを形づくつてゐるので、三つの要素の何れかゞ欠けてゐると、その文化は健全な文化とはいはれません。或はまた、それらの要素には高い低いがあります。同じ倫理性といつても、高い倫理性と、低い倫理性とがあります。たゞ倫理性があるといふだけで、文化の優秀を誇ることはできません。その各々が高い標準にあるといふことが必要であります。この三つの要素の水準といふことを考へると、はじめてこゝに文化といふものゝ標準、正体が掴めるのではないかと思ひます。


     文化の水準


 二三日前、私の宅で、近所の菓子屋さんから菓子を買つて、お茶の時間に食べたのでありますが、皿に乗つてゐるその菓子を見て、私は思はず噴き出したのです。非常にをかしなお菓子なのです。今までに見たこともありません。

 なぜをかしいかといふと、かういふ風に出来てをりました。お菓子の中は白いうづら豆といふのですか──あの豆を煮て、それを潰した餡で、実に砂糖気の少い甘つ気のないものですが、そのなかには確かに芋が混つてゐるのです。それを四角に拵へて、濃い餡のなかに突込んで、それを引上げて晒すと、その餡が冷えてくつつくのですから、いはゞ羊羹のメツキなんです。

 色といひ形といひ、いかにも羊羹を切つたやうに見せかけてあります。中は勿論羊羹の味はしない。この形が一見をかしいと同様に食べてうまくありません。それで、このお菓子の文化性といふものを考へてみました。このお菓子が何かしら日本の現代文化といふものを、それとなく現してゐるやうに考へたのです。といふのは、このお菓子が、偶々羊羹に見せかけてある、さうして買ふ人の購買心を唆るといふ、余りほめることのできない心理がそのお菓子のなかから感じ取られます。

 先づ第一に、見た目に美しくないので芸術性を欠いだお菓子です。それから菓子屋がそれを作る場合、羊羹に見せかけようといふ気持で作つたことが、はつきりとわかるお菓子であります。これは、さういふ意味で非常に倫理性(道徳性)の低いお菓子であります。それだけの材料を使へば、もつと味もよく、また洗煉されたお菓子が出来さうに思へるのですが、非常に粗雑なのです。それで、これは少しこじつけになりますが、もう少し工夫をすれば、立派なお菓子が出来るだらうといふので科学性がない。即ちどう見ても文化性の水準の低いものと考へられます。

 かういふ風に、いろいろとその現象を見てまゐりまして、それらの文化的価値、或は文化性といふものを判断する場合に、この大体三つの要素が離れ離れにあるのでなく、それらのものを分析しますと、これら三つの要素に分れるものが内容になつてゐるやうに私は説明を致したいのです。文化といふ言葉自体の説明としては、非常に一面的でありますけれども、学問的にでなく、軽く常識的に考へて、今のいろいろの生活現象といふものを批判し、これをまた文化的に高めて行くといふ意味から、また個人個人が良い感覚を養つて行くといふ意味から申しますと、今のやうな考へ方で大体間違ひがないと私は思ひます。


     文化の領域とは


 文化の問題といふことになりますと、文化といふものは一体どういふ領域であるかといふ、領域の問題がまづ出て来ます。

 これも私の考へでは、文化といふものは、大体、人間がその理想を追求するために作り出す生活表現であるといふ定義を、正しい定義だと思つてをります。さういふ意味から、人間といふ言葉を、抽象的に観念的に考へないで、やはり私たち人間といふものは、当然何れかの民族か、或は何れかの国家に属してゐる、従つてこれで人間といふ言葉を限定いたします。国民といひ換へても差支へありません。殊に今日、日本の置かれてゐる立場を考へますと、さうしてまた同時に、今日私たちが生活の心構へとして、日本の運命について考へなければならない大きな問題をもつてをることを考へますと、その生活の表現としての文化といふものも、国民としてその理想を追求するといふ意味から国民がいろいろな形で発揮する力といふものが、土台になつてゐるわけです。

 従つて国民の活動面全体にわたつて、その国民の文化的水準といふものが現はれてゐるものです。政治・外交はもとより、軍事も経済も、やはり国民の文化能力といふものゝ発揮に外ならぬと思ひます。(昭和十六年六月)

底本:「岸田國士全集25」岩波書店

   1991(平成3)年88日発行

底本の親本:「生活と文化」青山出版社

   1941(昭和16)年1220

初出:「女子青年 第二十四巻第六号」

   1941(昭和16)年61

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年31日作成

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