日本人のたしなみ
岸田國士



    「たしなみ」


「たしなみ」といふといかにもありふれた言葉ですが、これが今の日本人に忘れられてゐるやうです。大きな弱点です。これは文学でも経済でも政治でもさうですし、殊に生活の上ではさうです。

「たしなみ」といふことはわれわれが知つてゐなければならぬことを知つてゐることであり、また美しいものを美しいと見、正しいものを正しいと考へるのが「たしなみ」で、「優れたたしなみ」をもつ国民が高い文化をもつ国民といふことができると思ひます。言葉をかへれば高い科学性と倫理性と芸術性をもつ文化が優れた文化なのであつて、闇取引がどうだとか、やれ経済道徳がどうの交通道徳がどうのといふことでは駄目です。「たしなみ」といふものを訓練によつて与へなければならない。これが明治の終り頃から非常に忘れられて来たやうですが、当時西洋から盛んに新しいものがはひつて来て、青年の間に古いものに反抗しようといふ風潮が現れた。そして古い伝統のなかから本当によいものまで失つたやうに思はれます。「たしなみ」がなくなつたのだと思ひます。

 親の躾けといふものに対して一番うるさく思つたのがわれわれの時代で、それからは親が我が子に対しても、だんだん何も云はなくなつたといふことが考へられます。

 躾けといふことは非常に窮屈な、謂はば行儀作法をやかましくいふことだといふ風に思はれて来たので、躾けといふものに対して戦々兢々としてしまつて、それが青年の伸びる力を抑へつけ、それに堪へきれないといふことが青年を無軌道にしてしまつたのです。

 子供には子供、青年には青年に適当だと思はれるものを、時代に応じて与へて行つたら理想的なのです。例へばわれわれの家庭の実状から云つて、若し仮りに貴族階級のやうな躾けをしたとすれば、子供はどうなるでせうか。必ずしも立派な「たしなみ」をもつた子供にはならないのです。勤労階級には勤労階級の「たしなみ」があり、また貴族階級には貴族階級の「たしなみ」があります。これを履きちがへてゐるものですから、若いサラリーマンの細君が、狭い台所で自分で洗濯をする生活のなかに、本当の「たしなみ」があることを忘れて、どうかすると「遊ばせ」言葉を使つたり、また逆に、どうせ自分はこんな生活なんだといふやうな気持で、「たしなみ」を忘れた言葉を殊さら使ふといふのが現状で、これではいけないのです。日本式とか西洋式とか二つのことにこだはらず、また旧式とかモダンとかいふ標準に囚れないで、ほんたうに力強い美しいものを生活のなかに取入れて行かねばならぬと思ひます。さうしないと国民の品位といふものは全くゼロだと思ひます。大陸に進出して行く日本人を見ましても、同胞の間に於てさへ、指導者をもつて任ずるのにはどうかといふ疑ひをもたせられるやうな人が、決して少くないと思ふのであります。

 それではどうすればよいかと考へると、たいへん簡単で、「たしなみ」をもてといふことが、根本になるのであります。


     「ゆかしく凜々しく」


 臣道実践といふことが、大政翼賛運動の精神として示されてゐますが、これは、日本国民の当然践み行ふべき道を、老若男女を問はず、職業の如何に拘らず、忠実に守つて、それぞれ分に応じて精いつぱい自分の力をお国のために捧げるといふことであります。

 ところで、私は、この言葉を、たゞ「働け、働け」といふ意味にとりたくはありません。十分な働きをするためには、まづ仕事のしかたが上手でなければなりません。それからまた、仕事を含めた日常生活をなるだけ有意義に送らなければなりません。いひかへれば、衣食住を通じ、肉体的にも精神的にも無駄のない、健康な、そして同時に趣味のいゝ暮し方をしなければなりません。人と接するにも、常に気持よく接するといふのが、お互の生活を明るくすることであります。

 日本人がその日本人らしさによつて、お互に心を許し合ひ、共に楽しむことのできるやうに、お互はせいぜい自分の「人間」を磨き鍛へなければなりません。

 日本人らしさとは、私の考へでは、日本精神をほんたうに身につけてゐるといふことで、すぐ興奮したり、人前でえらさうなことを云つたりすることではなく、昔からわれわれの祖先がそれによつて「人として」の値打を示した「ゆかしさ」と「凜々しさ」であります。

 当節、いろいろな人が、いろいろな教へを説いてゐますが、私はなにもむづかしいことは云はなくてもいゝ、日本人は、男も女も、ひとしく、日本人として「ゆかしく」「凜々しく」あれとだけ申したいのであります。これこそ、わが日本人の真の矜りであり、われら臣民として大御心にそふ誠のしるしであると信じます。


     日本人の濫費癖


 文化の向上といふことを考へた場合に、一国の富の程度が低いといふことは必ずしも物質的に文化水準が低いといふばかりでなく、富をふやす能力がないといふ意味に於て、何処かに精神的な貧しさがありはしないかと思ふのであります。人が多い割に生産能力が低い。例へばイギリスの場合を考へて見ても、植民地が多いといふ有利な条件はあるけれども、その上、工業の発達によつて経済力を確保してゐる。海外に物資を求めるといふことは、南米にしても支那大陸にしても、平和裡にこれができなければならない。若しそれに成功しないとしたら、まだ国民の総力を発揮したことにならないのであります。日本が貧乏だといふことは、われわれにとつて宿命的なものゝやうに考へられてゐましたが、もつと精神的な工夫努力を払へば、当然、必要なだけ国を富ますといふことが可能なわけであります。

 日本がいつまでも貧乏であるといふ原因の一つとして、濫費癖といふことが考へられます。例へば今、米が不足だといひますが、日本人はどうも米を食ひすぎるやうです。漬物がうまいからもういつぱい、お茶づけでもういつぱい、炊きたての御飯だからもういつぱいといふ風に、満腹感を感じなければ満足しない。しかし栄養方面から云へば、腹いつぱい喰べたからと云つて、それでいいとは云へないのです。さういふことに心をつかへば、米の消費が半減できるのぢやないかと思ひます。かういふことは、訓練すればできると思ふのです。例へば兵隊が入営した当初は、腹がすいて仕方がないが、一月もたてば与へられた分量で十分になるといふやうに、訓練次第でなんとかできると思ひます。

 仕事の仕方などにしても、非常に永い間机にかじりついてをりますが、能率はあがらない。さう考へてくると、どうしても貧乏でなければならぬ原因、といふより、貧乏であるといふことの責任は、国民すべてが負はなければならぬと思ふのですが、これを納得のゆくやうに説明して全体の運動にして行かなければならないのであります。


     生活の精神と技術


 この間、ヒツトラー・ユーゲントが来て、高等学校の寮をみせたところ、ヒツトラー・ユーゲントは驚いて、こんな生活をしてゐて、これで日本の指導者が生れるだらうかと云つたさうです。更にドイツに帰つて、日本で一番不愉快だつたことは、その寮を見た時だつたと語つたことが伝へられてゐます。これは、日本人の生活精神、殊に、明治以来の青年の指導精神を、彼等にわかりよく伝へなかつたところに罪がありますが、昔の精神が忘れられてしまつて、形だけが残つてゐるといひませうか、かういふことはわれわれも考へ直さなければならないと思ひます。

 男子は小さなことに気がつくやうではいけない、殊に衣食住のことなどにかかはつてゐては大きな仕事はできない、何よりも勉強だ、仕事だ、といふ精神が日常生活に対する配慮を軽視させる結果を生んでゐる。従つて現代の日本人は計画的な生活を営む技術を全く忘却し、自分では、さういふことに気がつかずに、たゞぎごちない生活から来る焦燥感を絶えず味つてゐる。一般の家庭生活といふやうなものも、男性の多くからは、私生活として軽く扱はれ、女性のみがあくせくと消極的な心の配り方をしてゐるに過ぎない。かういふ生活の中からは、ほんたうに充実した仕事は生れないのです。まして、豊かな国民文化といふやうなものは育つわけがありません。現代の日本人は、それでも金が出来たり、年をとつて閑になつたりすると、幾らかは自分の生活を顧みて、一種の修繕工事に取りかゝるのですが、これが多くは、例の他愛もない道楽になるのであります。

 現代社会のあらゆるところに唾棄すべき悪趣味が氾濫してゐるのは、多くはこゝに原因があると思ひます。

 生活を精神と技術といふものに分けて考へます時、先づ生活精神とは、これを生活観といひ換へてもよいのですが、われわれ日本人はいかに生くべきかといふ国民としての一つの心構へであります。いふまでもなく、われわれが日本といふ国に生れたといふことはこれは天意であります。国民の一人一人は、何よりも先づ祖国のために、この与へられた生命を完全に生き抜く決意が必要であります。仮りにも自分の生活を自分だけのためと考へることは許されません。一家のためといふ考へ方すらも、それが若し一家のみの安泰幸福を意味するならば、やはり誤つた考へ方と云はなければならないのでありまして、個人としての立派な生活とは国民としての矜りに値する生活を指すのであります。国民として力強く、正しく、しかも美しく生き抜くことの幸福は、それが国全体の力となり、国全体を正しく伸し、美しく育て、行く一つの役割を果すといふ意味で、満足に値するものだからです。個人的な感情が日々の生活のよろこびと悲しみに応へるといふことはありませう。これもおろそかにはできませんけれども、飽くまでもこれを第一義的なものと考へるところには国民としての健全な生活は築かれないのであります。しかし幸福な生活は国民一人一人が目指すべき手近な目標でありませう。これについて最も注意すべきことは、われわれ一人一人が幸福を目指すことに依つて決して幸福な生活が獲られるわけのものではなく、国民のすべてが互におのれを忘れ他を幸福ならしめようとする意志のみが、われわれすべてにとつての幸福な生活の基礎であると思ひます。

 生活は理想として楽しいものでなければなりません。心貧しき人にとつては卑しい楽しみが欲求の対象となります。いかなる生活を楽しいとするかに依つて、その人の真の値打がわかるのであります。

 日本人にとつての楽しい生活とは、生活条件の如何に関らず、真に日本人らしい頼もしさを感じさせるやうなものであつて欲しいと思ふのであります。

 以上のやうな心構へは、われわれの現在の生活を顧みる時、果してすべての人がもつてゐるかどうか甚だ疑はしいのでありますが、これだけはどうしても生活再建の根本問題として、先づわれわれがしつかり掴まなければならないので、これを外にして生活文化の問題はありません。

 次に生活技術といふ点になりますと、明治末期以来非常に退歩してゐます。伝統的な生活技術を親から受けつがないで、新しい西洋の技術を身につけようとしてゐるところに空隙が出来て、生活技術の貧困といふ現象を起してをります。例へば、洋風の家に住む人は、本当にそこに住んでゐるのではない。住まされてゐるといふ感じであります。どうかするとそのために疲れる。暑すぎたり寒すぎたりして風邪をひくといふやうな現象が頻々と起つてゐるのではないかと思ひます。昔はこんなことがなかつた。衣食住の技術は勿論、すべて身についた生活の技術をもつてゐました。

 永い間に鍛へ上げられたさういふ技術をいつの間にか捨て去つて、それに替るべき技術をまだ生んでゐないのが現在のわれわれの生活です。西洋風の生活様式を取入れるにしても、さういふ様式が生れた本来の意味は全く考へられてゐない。従つて、多くの場合、前に述べたやうなちぐはぐな模倣に終つてゐる。技術といふものは智識だけではどうすることもできないもので、経験の積み重ねに依つて作られる感覚的な操作を必要とするものでありますから、さうやすやすと新しい技術を身につけるといふことはできません。やはり子供の時分から、家庭で相当の訓練を受けることが絶対に必要なのであります。いひ換へれば、生活の技術といふものは、誰よりも親から子に伝へられるものであると云へませう。そこには伝統の生きた力が働くのでありまして、それでこそ生活を通して、国民の文化の水準といふものが推し計られるのであります。


     「生活」について


 今日ほど「生活」といふ問題が世間一般の注意をひいてゐる時代はない。なるほど、生活改善、或は生活合理化といふことは随分久しい以前から一部の人々の間に叫ばれてゐたけれども、ほんたうに、国民自体の欲求として、また国家の総力を発揮するといふ建前から、生活の全面に亘つて、新しい体制を整へようといふ機運は、まさに大政翼賛の精神からほとばしり出たものであつて、私は、新日本の気高い力強いすがたが、国民自らの決意と精進によつて築かれる日が来たことを天に感謝したいと思ふものである。

「生活」とは云ふまでもなく、「生きること」であつて、決して、「食ふこと」のみではないのである。「生きる」とは先づ日本人として生れたことの矜りであり、祖国のために役立ち、命を捧げるところの光栄であり、そして、最も清く、正しく生涯を過すことのよろこびでなければならぬ。

 東亜の盟主たるわが日本の国風くにぶりは、現在われわれ同胞がいかなる心構へを以て「生活」し、いかなる方法を以てその日その日を送つてゐるかによつて、世界の批判に応へなければならないのである。即ち、国の値打は、その国の民衆の「生活振り」によつて定まると云つてもよく、一国の文化の基礎がまたそこにおかれてゐることは勿論である。

 国民の生活が高い道徳と必要な知識と、健かな趣味とによつて貫かれてゐたならば、もうそれで、理窟なしに、一流の文化国であり、しかも、同時にそれが国家目的に副ふやうに組織され、訓練されてゐさへすれば、所謂、高度国防の機能を完全に果し得るのだと思ふ。

 即ち、かゝる「生活」は、勤労を最も能率化し、風俗を醇化し、精神肉体ともに溌剌たる国民を作りあげるのである。

「生活」にはいろいろの面があつて、衣食住だけを取りあげてみても、問題は極めて多端である。私は、これから問題の解決と共に、更に、「人と人との関係」を生活の重要部分として考へてみなければならぬと思ふ。

 われわれ日本人は数十年この方、家庭にあつても、社会に出ても、この「人と人との関係」を甚だおろそかにして来た。無駄に神経を使ひ、不必要に相手の感情を害ね、そして、お互に疲れつゝあるのである。

 こゝにも、研究すべき「生活の技術」があるといふことを、私は特に強調したい。

 われわれの祖先は、生活に立派な秩序を保つてゐた。この秩序を、今の時代に適応するやうに活かしてみたらどうであらう。「たしなみ」といふ言葉が、新鮮な内容を以て、われわれの生活のなかに蘇つて来ればいゝのである。

 生活の科学化といふ近頃の流行語は、どうかすると、生活改善の一面だけを特に主張するやうにとれて、私は少し気になる。生活の科学化と同時に、その倫理化と芸術化が並行して考へられなければ、決して、われわれが理想とする目標に到達することはできないのである。つまり、この三点から生活の新しい体制をうち立てることが、偉大な歴史を通じての日本人の「たしなみ」なのである。(昭和十六年五月)

底本:「岸田國士全集25」岩波書店

   1991(平成3)年88日発行

底本の親本:「生活と文化」青山出版社

   1941(昭和16)年1220

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年120日作成

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