宗教と科学についての所感
岸田國士
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宗教について
宗派をどうするとか、宗教団体を再編成するとかいふことについては、実際の事情をまだ知らないから現在なんにも考へてはをりませんが、宗教心──所謂宗教的感情といふものがこの頃の日本人には非常に少ないやうです。
さういふことについて、今の宗教家などはどういふ風な考へをもつてゐるのでせうか。
或る宗教を信仰させる、つまり伝道するといふことは、さういふ宗教的感情の陶冶といふことが目的になつてゐるのでせうか。
私は宗教的感情を植ゑつけるといふことは、所謂宗教教育の外に、一般教育にも、何か新しい方法がありはしないかと思ふのです。事実、皇室或は国体といふやうなことに触れて、さういふ教育が行はれつゝあると思ふ。しかし、私の問題にしてゐる宗教的感情といふのは、もつと素朴な、原始的なものを指すので、思想的問題から一応引き離して考へることが大事と思ふのです。
支那人は確かに宗教心が稀薄だといふことがわかる。これは現実的だといふことゝ何か関係があるのでせう。日本人は一体他の国の人間に比べて宗教心と云ふか、宗教的感情といふものはどうなのでせうか。
日本に宗教改革といふものがなかつたといふのは、我が国では比較的早くから政治の上で政教の分離といふ形が行はれてゐたからでせう。だから宗教が対社会的に害毒を流すやうなことが割に少なかつた。そのため改革の気運といふものがいつもズルズルに延びてゐるといふ点もあるかも知れません。さういふ意味での新しい宗教理論といふやうなものは日本ではどういふ風にあらはれて来るものでせうか。
キリスト教は今日相当強く、一種の文化的使命を植民地あたりでも果してゐると思ひますが、日本の仏教のお坊さんとか、神道の神主とかいふ人たちは、さういふことを今までちつともやつてゐない。これは信仰のあるなしといふことよりも、人間的に宗教的感情といふものをもつてゐるかゐないかの違ひではないかと思はれます。キリスト教の宣教師の仕事を見たり、本で読んだりしてみると、何か日本の宗教家がもつてゐないものをもつてゐる。兎に角、宗教家として何か信仰の質が違ふ。殊に今度のやうな事変が起ると痛切に感じるのですが、今後の宗教教育にしても──或は一般教育にそれは依るべきかも知れませんが──この点はよほど考ふべきことで、どうも今の日本の宗教的感情には、われわれが生きて行くこの人生の生活のなかで、何かしら敬虔な気持が非常に足りなくはないかと考へられます。例へば学問に対する場合でも、或ひは芸術に対する場合でも、一応それを尊敬するし、それに情熱を傾けもするのですが、それに対する敬虔な気持といふか、自分がそのなかで安心立命を得るといふやうな気持が現在の日本人には欠けてゐるやうに思はれるのです。この気持をつくるのは、果して宗教家の宗教の力に依るのか、或ひは教育事業の中に盛らるべき、もつと別な力に依るものか、さういふことを私は知りたいと思ふ。
日本人には自分の国を離れて生きて行ける安心といふものが足らないのであつて、その安心をキリスト教は欧米人に与へてゐるのだといふ風にも見られますが、どうかするとさういふことを日本人の弱味だとはせず、却つて強味であるかのやうな考へ万が一方には相当強いやうでもあります。そのやうな点でも我が国の宗教教育の発達が一つの矛盾にぶつつかるのでせうか。また、自分の国を離れてよそに安住できるのがキリスト教の強味であると解釈するよりも、寧ろ日本の国家にとつてはそれが反国家的なものと考へられ易いといふこともあつて、そのへんも相当デリケートなところであるかも知れません。
科学と宗教について
近代の科学心といふものが一種の反宗教的なものとして動いて来た事実はこれを認めなければなりません。また、さういふことが確かに西洋でも十九世紀の頃に再批判されてをります。一つの信仰といふものと、科学といふものとの関係に就ていろいろ考へたりした人もある。今日になつて、既に十九世紀に西洋で議論済みの科学宗教論といふやうなものを蒸返すことは要るまいと思ひますが、指導精神をハツキリさせるためには、見極めて置くべき問題です。
現在、新体制といふものは、つまり、合理と非合理との世界観を一致させるところにあるなぞといふやうなことを云つてゐる人があります。合理と非合理なるものが果して反対を意味するかどうかは別として、何か別の言葉で云へば、これは科学的信仰説と云つてもよいのではないかと思ひます。さういふ点で、一つ紛糾を起さぬやうにハツキリした途をつけたいものです。
さきほど申した宗教的な敬虔な気持といふものは、宗教でなくても、ヒユーマニズムといふやうな考へ方からでも出て来るわけでせうが、たゞ、ヒユーマニズムといふものは、これは分析もできるし、合理化することもできる世界ではないかと思ひます。もつとも、そこには倫理の理解といふものがあります。さういふものを含めてのヒユーマニズムといふ問題を取り上げれば、確かに宗教心まで行くべきものでありませう。但し、ヒユーマニズムと云へば、これは科学の対象となり得るかたちで宗教に結び付いたものとして、今まで規定されたのですが、宗教に一歩踏み込んだヒユーマニズムといふものは、恐らく、やはり「敬虔」といふ一つの世界だつたのです。そこで、宗教か、ヒユーマニズムかの境界がはつきりしてゐないやうに思はれるのです。
風潮・その他について
次にこの頃の風潮について少々感想を申しますと、私はかういふことをふだん考へてをります。例へばある事柄を奨励する目的のもとに、一人の模範的な国民──感心な人間、または感心なことをした人間がお手本として示される。ところが、さういふ人物をよくよく吟味してみると、必ずしも人間として格別感心すべき人物ではなく、その行為も常識から云つて極く当り前のものに過ぎず、いかにもたゞ、一つの奨励事項の傀儡としか受け取れないといふやうなことがよくある。しかし世間ではやはりかういふ「お手本」を鵜呑みにして、内心はともかく、表面だけはそのお手本のやうに取りつくつて、大きな顔をするといふ傾向があるやうです。これが昂じて新体制でありさへすれば、人間でなくともよいといふことになつては大変だと私は感ずるわけです。これを少し突つ込んで皆さんに考へて戴きたい。一体に、どういふ人間を作るか、それには根本をどうしたらよいかといふことに就て、われわれは最も深く考へなければならぬ筈ですが、案外、浅いところで止まつてゐるのではありますまいか。
そこで、教育といふ問題に土台を置くとすれば、国民としての自己完成といふことを第一に掲げるにしても、どうしてもこゝに一つ人間的反省を基礎とした国民的自己完成といふ風にハツキリそれを出さないといけない気がする。国民は人間に違ひないのですが、更に「人間的反省に基く」といふことをこゝで強調しなければならぬやうに思ひます。
たゞいまは国防国家に必要な国民を作るといふ方向にすべてがなつてゐる。それに対して各専門部門の者は勿論こぞつて協力しなければなりませんが、そればかりを追つてゐると、今云つたやうな隙間がだんだん広くなつて行きさうなのです。この隙間を衛るといふことが、やはり国防国家のために、非常に重要なことになつて来るのです。その隙間を衛る任務として文芸とか文学とかいふものを一つ真面目に考へ直したい。これを「文学の側衛的任務」といふことにして、この間もラジオで話したわけです。
さういふ方向に絶えず気をつけて、それを衛るのが、この際自分たちの任務だと確信して居る人たち、さういふ人たちの存在を重要視しなければなりません。その人々の大事な役割が、ハツキリ公認されなければならぬと私は思つてをります。
さういふことに関連して、私はまだ政治家や官吏諸君とは余り話してをりませぬが、私たちの言葉の表現がどうも通じないのではないかといふ気がして随分不安であります。決してこちらがえらいことを云つてるつもりはなく、なんでもないことでさへ、一々この云ひ方で通るかなと頭をひねることが大分ある。例へば政治に文化性も持たせたい──と、かう云ふ。ところが、これがなかなか通じません。文化部面──と云つても非常に範囲が広いし、それぞれの専門に分れてをりますが、しかし、それぞれの専門部門の機能を発揮して日本の文化を向上させたい。その土台になるものは何か。やはり政治に文化性がなくては困る。文化だけが独立して政治から離れてよいといふことはない。どうしても今までの政治に文化性がないといふことを先づ反省して、改めて行かなければ駄目だ。今までの政治が民衆から離れてゐる大きな原因はそれだ──といふことを云ふわけですが、それが通じにくゝてなんにも云へないといふ具合です。
今までにも政治に哲学がないとか、或は文学がないとか、いろいろなことをそれぞれの部門の人が云つてゐたやうです。つまりさういふことが、全体として、政治に文化性を与へよといふ声だつたと思ふ。政治に文化性がないと云ふと、それでは文学には政治性があるかといふやうな、水かけ論がいつまでも続くやうでは駄目なのであります。
近衛さんは、やはりあの人は政治に文化的なものを注ぎ込むだらうといふ期待が相当大きな魅力になつてゐたやうです。講演などを聴いても、さういふ点で大衆に受け容れられるといふのは面白いことです。この頃は近衛さんもだんだん話がむづかしくなつて来たと申しますが、あまりやさしいことを云ふと揚足を取る者があつて危ないのでせう。わかるから危ないといふのではまた困ります。
思想といふものは、所謂絶対思想といふものから見れば、多少不純なものをもつてゐても、その人が心の中で、いろいろと思想の闘ひをしつゝある人だとすると、たまたまそのもつてゐる思想に多少の不純さが目についても、苦しんでゐるといふその誠実さによつて、もつと日本のためになるといふ人がある。思想といふものはさういふものだといふことを、どうしてもハツキリさせなければならぬやうに考へます。
兎に角、或る一つの仕事に一生懸命情熱を傾けてゐる人が、今までの習慣とか興味から、どうしてもさういふ言葉を使はなければ自分の思想が表せなくて使つた言葉を直ちに取り上げて、あの男は危険な男だとか、不純な思想をもつてゐるとかいふ風にレツテルを貼つてしまふのは、たゞいまの日本にとつて非常に損なことだと思ひます。
私は思想そのものゝ影響力よりも、人間の影響力の方がズツと強いと思ひます。立派な思想でも人間がつまらなければその思想を殺すやうなものだし、逆に、仮に個人としてはまだ自由主義的な考へをもつてゐる人間でも、兎も角、今自分は国家の為に尽さなければならぬのだ、といふ気持を強く感じ、さういふ情熱を奮ひ立たせるならば、その影響力といふものは、その人間の自由主義的な思想の力そのものよりも、一層民衆を奮ひ立たせる力になると思ひます。さういふことも政治家にわかつて欲しいのです。
経済の方で云ふ自由主義といふ言葉と、一般の哲学などの方面で使はれてゐるその言葉とを一緒にしてよいかどうか。いづれにしろ、今までと全く違つた思想がこゝに考へ得られるかどうか、といふことはよほど吟味が要ります。今までのあらゆる思想のなかで、本当に日本の進歩に役立ち、また、実際国家の発展に役立つ思想の力といふものを考へる場合に、あれは自由主義的な考へ方だとか、それは個人主義的な考へ方だといふことで、一切の思想を片附けてしまつてよいものかどうか。さういふものを排斥したら、一体どんな思想が出来るか、その可能性といふことを考へてみる必要があります。
明治時代に、日本の過去のよい伝統までなくしかけたといふ点をわれわれはよく吟味しなければなりません。欧化といふと、日本をすつかり捨てゝしまふものゝやうに考へたことすらあるのであります。(昭和十五年十二月)
底本:「岸田國士全集25」岩波書店
1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
1941(昭和16)年12月20日
初出:「日本評論 第十六巻第一号」
1941(昭和16)年1月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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