文芸の側衛的任務
岸田國士
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一
私の考へでは、政治には、広い意味の政治と狭い意味の政治とがあると思ひます。広い意味の政治とは、申すまでもなく、わが国では、これは大政であります。天皇親裁万民扶翼の国家活動であり、その目標とするところは、これを国是ととなへて、国民の一人一人が、大御心を体して国家の隆昌に寄与しなければならぬのであります。一方、狭い意味の政治とは、つまり、政府及び議会によつて運用されてゐる組織的な政策遂行の方法を指すのであります。
そこで、ただ今、内地に於ては政治の新体制が着々具体的な面貌を示して来ますし、なほ満洲に於ても、協和会の運動といふやうな新政治の推進的機関が目覚ましい役割を演じてゐるといふのは、従来の、狭い意味の政治力だけでは、国力の充実発展を促すことは勿論、進んで、目下の非常時局を乗り越え、民族的大飛躍を成功に導くことが困難だといふ一般認識に基くものだと考へられますが、それなら、この狭い意味の政治の欠陥を是正し、広い意味の政治の真の妙諦を発揮するには、国民の一人一人が、どういふ覚悟と努力をしなければならぬかといふ点に、われわれの一番大きな日常の問題が含まれてゐるのであります。
二
国家総動員とか、国民精神総動員とか、日本的全体主義とかいろいろな言葉で云はれてゐることが、国民一人一人の頭にぴんと来なければならぬのに、まだまだ、それが理想的な形で表れて来ない。観念としては、もうそんなことは云ふ必要のないほど、国民の心もちは一方に向つてゐるのであります。
例へば文化統制といふことが、しきりに行はれてゐる。これには先づ新しい政治理念を基礎づける思想をもつてのぞまなければなりません。ところが、思想そのものには、深い浅い、強い弱いがあります。また、道徳的に善悪優劣も論じられるのでありますが、絶対の価値を観念的な言葉に結びつけることは考へものである。云ひかへれば、思想は、思想そのものゝ論理的表現に価値があるのではなく、その思想の生きてゐる姿、即ち、いかなる人物によつて、いかにそれが人間の声として放たれてゐるかといふところに、価値の大部分がかゝつてゐるものであります。
私は、現在の日本に、かゝる思想の出現を望みますが、それと同時に、かゝる思想を時代的に盛りあげて行く力を、文化的な仕事に従事してゐる知識層の教養と情熱に期待するものであります。
さて、こゝで、徐々に形づくられて行く国防国家といふ見地から、あらゆる文化部門の動員といふことが考へられる。これはどうしても必要である。戦争と文化と対立するものゝやうに云ふのは、一を知つて十を知らないのであつて、若しさうならば、かういふ時代には、国民の文化活動を悉く封じてしまへばいい。ところが、反対に、国家の一大危機に臨んで、国家自体が、文化の総動員を思ひ立つといふところに、大きな意義を私は見出すのであります。
三
第一に私は、かういふことを考へる。
国民の一人一人は自分の仕事をもつてゐる。仕事と云つてもピンからキリまでありますが、その仕事は、単に生計を立てるため、俗に云ふ「食ふため」といふだけのものもあり、なかには、仕事そのものゝ社会的、或は国家的役割をはつきり標榜し得るものもある。「食ふため」だけと称する仕事のなかにも、それが社会にとつて、国家にとつて、なくてはならぬといふ性質のものもあり、社会或は国家のためと銘うつた仕事でも、これによつて、自分と自分の家族とを養ふ限り、職業と考へて差支へないものもある。
平時は、自分の職業といふものについて、その職業本来の特性を守つてゐれば、それですんだのである。しかるに、時代はどうしても、職業と戦争とを結びつけ、これを国家の立場から眺め、無理にも公益優先といふ、自由職業にとつては、殆ど致命的な反省を強ひられる結果になりました。
われわれは、同胞のかゝる犠牲を見て見ぬふりをしてはならぬと同時に、時局によつてなんら制限を受けない職業部門の人々が、この犠牲を当然埋める責任を負はねばならぬと信じてゐます。
それはさうと、職域奉公即ち職業を通じての国家への奉仕といふ観念を、あまりに弄んではなりません。
国家の機能、国民の生活といふものは、決して、概念の上に立つてゐるのではなくて、あくまでも具体性を備へたものである。官吏は机に向つてゐても国家といふ考へは念頭を去らないであらうけれども、料理場の板前は魚を俎の上にのせながら、祖国の運命を考へるとしたらそれはたゞ国民の至情そのものであつて、決して官吏や政治家が言葉で云ふ様な、スローガンめいたものではない。なんにも口では云はぬから怪しいなどゝいふことは、決してないのであります。これを、なんとか云はなければならぬと教へたものはない筈だ。しかし、国民のうちには、その方がいゝのではないかと思つてゐるものが、なかなか多い。私はその原因を指導者の形式主義にばかり帰したくはない。国民のあらゆる階級が、その職業の性質如何を問はず、所謂国策に沿ふ新しい生活体制を樹立すべき共通の一線が、ちやんとほかにあることをまだ認識してゐないからだと思ひます。
四
ほんたうの国民の協力は、めいめいの職業を通じてのみなし得るものではない。もちろん、職業は個人の生活の大きな領域を占め、直接間接に社会の機構、国家の組織に結びつくのであるけれども、それは、職業を含めて、個人個人の全生活の徹底的樹て直しといふところから始めなければ、実際の効果は挙らないのであります。
全生活の樹て直しとはどういふことかといふと、先づ人間的な反省を基礎として、国民としての自己完成に向ふことである。人間的な反省とは、早く云へば、「機械」にもならず、「動物」にもならぬといふ、この二つの限界を厳しく見究めることであります。人間は神と悪魔の間にあるもので、時としては神の性質を、時としては悪魔の性質をあらはすと云はれてゐますが、私は、その間、上下もう一つづゝの段階を設けたいのです。即ち、神と人間との間に、「機械」といふものをおき、人間と悪魔との間に「動物」をおきます。機械といふものは変なもので、順調に動いてゐる時は、殆ど人間の想像に余る力を発揮しますが、一たん破損したとなると、無気味な死の状態を呈します。特にこれを神秘的な存在とする必要はありませんが、私は、神に近づかうとする人間のたまたまこの機械に類した相貌を見てぞつとするのであります。恐らく、厳密に云へば、この機械なるものは、神と人間とを結ぶ直線の上にはないでせう。しかし、それは一種の迷路の如く、または陥穽の如く、その道の近くに横つてゐるやうな気がいたします。
次に、人間と悪魔との間にあるのは「獣」です。獣は、時には、機械と同じく、うつかりしてゐると人間をそこに連れて行くものです。悪魔のやうに術策はないけれども、これとおなじ狂暴なグロテスクな姿をしてゐることがあります。だから、なにをするかわからないけれども、その欲望が単純なところに特徴があります。獣には機械の動きに似た反復する習性といふものがありますけれども、「機械」と全く反対に、自分の目的といふものは「生存」以外にはないのであります。時として示されるその外貌や行為の醜さも、悪魔のやうに強烈な意味はもつてゐないのであります。
これも亦、人間から一歩はなれたところにゐて、われわれの隙を窺つてゐます。獣に近づくといふことは、人間として最も警戒すべきことであります。
「人間的反省」とは、かういふことを云ふのですが、この反省の上に立つて、われわれ国民の「さうあらねばならぬ」理想といふものを考へてみます。そこには、一般徳性の問題と、個人の能力の問題が出て来ます。先天的なものと後天的なものとに分れませう。また、一人一人の運命、時代的条件といふことも考慮しなければなりません。
たゞ、最も重要なことは、当面の問題としてわれわれ国民の新たな生活態度を確立することであり、日本といふ国家が現に進みつゝある方向と、われわれが形づくつてゐる社会の現状とを照し合せ、国民全体が、たゞ目前の必要からばかりでなく、遠い将来のことをも考へ、特にすべてを子孫の時代に遺すといふわれわれの重大な責任を十分に頭に入れて、この際是非とも、国民の新しい生活法を樹立しなければならぬと思ひます。
五
この新しい生活法は、もちろん、物質的な面と、精神的な面とをもつてゐますが、それが個々別々なものではなく、殆ど常に、この二つの面は、それぞれの裏うちがなくてはならぬといふ意味で、互に関連してゐます。
例へば、国民衛生の問題をとりあげてみます。医療の道が完全に講ぜられてゐないとか、栄養の摂取が悪いとかいふと、経済的、物質的な条件に左右されてゐるやうに見えますが、実は、そればかりではなく、もつと肝腎なことは、国民の衛生知識の不足、生活技術の貧しさ、殊に、健康といふ観念の、不自然な不合理な植ゑつけ方に大きな危険がひそんでゐるといふことなのであります。これはもう、立派に精神的な問題として、解決を急がなければなりません。
もう一つ例をあげれば、贅沢を禁止するといふ問題にしましても、これは、贅沢の心理からはひつて行かなければいつまでも望む結果は得られません。無駄使ひをしないとか、高価なものを身につけないとかいふ心掛けは、もちろん物質的な生活面の整理調節になることはなります。しかし、それは一種の強ひられた生活であつて、贅沢なんかしたくないといふ心境になれるためには、実際に物質の価値顛倒を行ひ得るもつと高い趣味がなければなりません。この趣味こそは、精神と物質との微妙なつながりの上にたつて、人間生活の全面に亘り、合理性と気品と真の勇気を与へる尺度なのであります。
この「人間的反省」は永い訓練の歴史を必要とし、道徳の最も健全な論議によつて生れるものでありますが、固定した社会制度、政治の圧力、民族的孤立、特に一般民衆が異民族と対等の交渉をもたなかつたといふ状態などによつて、屡々見失はれるものであります。
その意味に於て、今日の時代は、東洋の黎明であると私は信じたいのです。なぜなら、社会万般の制度はまさに一転機にのぞんでをり、政治は下意上達の道がひらかれ、特に、民族の相互接触と共に、大規模な共存共栄の形が日常生活の上で具体化しつゝあるのであります。
永久対立を前提とする狭い民族意識からの飛躍は、云ふまでもなく民族と民族との人間的理解を要求するのでありまして、わが日本民族は固より、率先して深くこの問題を究める覚悟がなくてはなりません。
六
話がこゝまで来ましたら、いよいよ本題にはひりますが、現在、国防国家の体制を整へ、国家総力戦の実績をあげるために、政治、経済と並んで、文化諸部門の動員が企てられてをりますが、皆さんも御承知のやうに、なかでも文学、芸術は、もともと、人間の精神活動がもたらす一種虚業的な存在でありまして、これを功利的に扱ふことは、その本質から云つて不純なことゝされてゐるのであります。
しかしながら、それはやはり、観念的に云つてさうなのでありまして、国家非常の時、文学、芸術に携る国民の一部のみが、同胞の希望と運命とをよそに、ただ個人一個の空想の天地に遊んでゐていゝといふ道理は断じてないのであります。
私は考へます。さきほど申しましたやうに、われわれは、特殊な職能をもつものとして、必ずしも日夜、天下国家を論じた方がよいとは思ひません。ペンを取り、カンバスに向ひ、楽譜をひろげる毎に、国策の向ふところを念頭に思ひ浮べねばならぬといふやうな、仕事の性質ではないのでありますが、しかし、今こゝで、文学に限つて、私の議論を進めて行きますと、文学の人類の進歩にもたらした今日までの功績に鑑みましても、国家の非常時に於る文学の役割といふものは、決して、消極的にさまざまな統制を受けさへすればそれですむといふやうな、自主性のないものではないのであります。
文学は、抑もその歴史から申しましても、それぞれの民族、それぞれの国家が、その発展途上に於て示した最も輝かしい旗じるしでありました。それは、ただ単に、人間の研究とか、人生への考察とか、現実の批判とかいふやうな、云はゞ、世界を通じての真理追求に終始してゐるのではありません。東西古今の文学者は、常に、自己の属してゐる民族の希望と、苦悩と、時代の運命について、それぞれの立場からその代弁をつとめてゐるのであります。
しかしながら、時に、或る作家は、沈黙を守らねばなりますまい。沈黙を守ることが国民としての義務だといふ場合もあり得るのであります。かういふ作家の良心は信じなければなりません。けれども、公然発表され得る作品について云へば、それらの作品は、それが文学と名のつく以上、狭い意味での政治的な意図を含まないまでも、広い意味に於る国民生活の推進力とならなければならぬと信じます。なぜならば、文学こそは、国民生活の、最も深い理解者であり、人間としてのわれわれの感情、意志、行動の監視者であり、批判者であり、そして屡々その誘導者であるからであります。
七
今日の政治は、既に文学に多くのものを求めてゐることがわかります。文学者も亦、その職能に応じて、国防国家建設の一区処を受けもつべきであることを自覚しはじめました。
しかし、私の見るところでは、現在の政治が文学に求めてゐるものは、或は愛国心の鼓舞とか、国策の宣伝とか、健全な娯楽の提供とか、少し大袈裟なところでは、民族理想の昂揚といふやうな方面に限られてゐるやうであります。更に、文学を含めての文化政策としては、思想戦への参加といふことも唱へられてゐますけれども、その思想といふ言葉の意味が狭い政治的な範囲に止まつてゐるやうに思はれます。
私は、こゝで、国防国家建設といふ極めて特殊な時局的表現を用ひましたから、かゝる国民的事業への邁進を、軍隊の戦闘行軍に譬へ、文学のこれに応ずる任務を大体二つに分けて考へてみたいと思ひます。
即ち、第一は前衛的任務、これは読んで字の如く、前方の敵に備へて、本隊の進路を開き、その行軍並に戦闘準備を容易ならしめる先駆部隊の任務です。日本でも嘗て左翼文学が盛んであつた頃、これに属するある団体が自ら称して前衛と名乗つたことがあります。前衛座といふ劇団もできました。しかし、この言葉が文学、芸術で用ひられたのは、これが最初のものではありません。フランスでは、すべて芸術の先駆的傾向を、アヴァン・ギャルド即ち、前衛、或は先駆と名づけてをります。
現在に於る文学の前衛的任務も決して忽せにはできません。前に申しましたやうな、狭い意味での政治的役割は、ほゞこれに当るものだと思ひます。しかし、これは、すべての文学に求めることは困難なのであります。なぜなら、国民のすべてに、政治家たれと要求することは、いかに政治万能の時代と雖も無理な話であります。第一、その必要もありません。そもそも政治家といふものには、それ相当の資格があり、さういふ資格のない自称政治家の言論や行動ほど国を危くするものはありません。
文学者は概して、政治家としては不向きにできてをり、また自らもそれを知つてをります。殊に、専門の政治家や官吏にできることを手伝ふ余裕もない。ただ、われわれがしなければならぬと思ふこと、しかも、主として創作活動を通じてなし得ると思ふことは、第二の側衛的任務であります。
文学の側衛的任務とは、前衛に対して本隊の側背を護り、前面の敵に気をとられて、不意に側面から攻撃を受けるのを防止する任務であります。国防国家として、この任務はまた極めて重要で、これに当る部門はほかにもありませうけれども、私は、文学こそ、その主力的なものだと信じて疑はないのであります。
八
こゝで皆様の注意を喚起したいのは、この非常時といふ時の性格についてゞあります。これを歴史的転換期と申してもよろしい。国力、民心ともに、大きな政治的動揺のなかに、たゞ一つの進路を求め、すべての眼が前へ前へと注がれ、あらゆる希望と不安とが行く手に指し示され、破壊と建設とが目前に相次ぎ、遅れるな遅れるなといふ声が耳を覆ふのであります。
当面の敵は、なるほど、前に控へてゐます。これに対して、われわれは、武力と経済力とを動員し、今こゝに、国民の精神をもこれに向つて総動員しつゝあるのであります。
ところが、敵は前面にだけゐるのではありません。側面からも背後からもわれわれの隙を窺つてゐます。どういふ敵でありませうか? 油断大敵といふ洒落ではありませんが、正に、それに類する大敵であります。即ち、わが国民の人間としての品位と指導者としての信用を脅す敵であります。
これをもつと詳しく申しますと、非常時局に対してゐる国民のなかには、大きな三つの警戒すべき傾向が生じ勝ちなのであります。一つは、平衡を失つた自尊心。即ち、人がどう思ふかといふ懸念、自分の眼でたしかにものを見、自分の判断で行動しようとしない附和雷同性の原因。
一つは、習慣性になつた競争心理、人を押しのけて前へ出ようとする性急な粗暴な言動。
もう一つは、思考力の凝結とでも云ひますか、或ることを考へると、もうそのほかのことは考へられなくなる傾向。従つて、いろいろな現象を自分の都合のいい結論へ引つ張つて行き、とにかくその場を切りぬける便宜主義であります。この三つの現象を別の言葉で云へば、人間が人間の本性から遠ざかつて、機械と獣に近づくといふことであります。
これらの傾向は、既に政治的な大きな結束力によつて、現在国民の足並を乱させるに至らず、当面の戦争といふ目標には、さしたる不都合もなく、個人的な問題として看過される場合があります。
ところが、かういふ心理的傾向は、徐々にではありますが、先づ社会現象として、国民の能率を低下させ、活動力をすりへらします。生活に対する疲労倦怠と国民体位の下落もその最も大きな結果であります。またそれが、国民の文化的教養の程度といふかたちで示されると、風俗の混乱、意志表示の貧しさ等になるのであります。さてさうなると、これは必ず側面の敵をして乗ぜしめる絶好の機会なのでありまして、殊に、直接には敵に有利な宣伝の具を与へ、徐々にわが国内を紛糾に導く手がゝりに利用され、われわれの遠大な理想を冷然と揶揄する口実を捉へしめるのであります。
そればかりではありません。かゝる傾向が国民の上層部まで浸み込んで行く結果は、長期建設の途上、必ず、わが国民への他民族の軽侮、不信といふ形で表れて来ます。敵性を示す国々の軽蔑はまだこれを懲らしめる手段がありますけれども、われわれに手をさしのべる民族の不信は、どうしてこれを取返すことができませう。
われわれの生涯に於てはなほこれを忍ぶとしても、われわれの子孫後裔をかかる境遇に投げいれることは、これを黙視し得ないのであります。
日本の光栄は、私ども、祖先からこれを受けつぎ、更に、子々孫々に伝へなければなりません。
過去七十年、わが日本は、まことに、非常時につぐに非常時を以てしたと云はねばなりませんが、この歴史は、所謂国力の発展といふ一語に尽きるでありませうか? われわれ国民の生れ育つた時代は、実に、私のいふところの非常時的性格が同時に形づくられた時代であると云へるのであります。
私は、かゝる時代に生れ育つた国民の一人として、この非常時中の非常時に際し、切にわが為政者並に同胞の皆様がたに知つて戴きたいのであります。すぐれた文学とは、かゝる側面の敵に備へ、国民の心の隙を戒め、乱にゐて治を忘れない精神のひろさと静かさを与へる、重要な任務につくものなのであります。そして、時代に眼覚めた文学者は、この文学の側衛的任務のためにおのおの、その才能と努力と情熱とを傾けようとしてゐるのであります。
日本文学の伝統は、「ますらをぶり」と「もののあはれ」にあると云はれてをります。「ますらをぶり」とは、非常時をおそれない精神、戦ひにひるまぬ雄々しさであります。「もののあはれ」とは、移りゆく現実を直視して、そこに人間の偽りなき姿を発見することであります。万葉と源氏によつて代表されるこの二つの国民文学的血統は、日本文学者を、今こそ奮ひ立たしめるのであります。文学の側衛的任務とは、決して、文学者の遁避や躊躇を意味するものではなくて、寧ろ、文学の本質と伝統に即した貴重な使命を意味するものであります。(昭和十五年十二月)
底本:「岸田國士全集25」岩波書店
1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
1941(昭和16)年12月20日
初出:「文学界 第七巻第十二号」
1940(昭和15)年12月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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