「女らしさ」について
岸田國士


 私はかういふ問題について特に興味をもつてゐるわけではないが、今時かういふ問題が婦人公論のやうな雑誌でとりあげられるといふ事実に多少時代的な意義を見出すのである。

 大体「女」といふ言葉は、古来、複雑微妙な語感をもち、時と場合で、その響き方がいろいろに変るのであるが、この「女らしさ」にしても、なにかさういふ捕捉しがたい模糊とした感覚のなかにその正体をつきとめなければならぬ厄介さがある。

 単純にこれを精神的なものと官能的なものとに分けてみてもはじまらぬ。淑かさと云へば精神的な「女らしさ」のすべてでなく、「艶めかしさ」と云つても、それが直ちに官能的な「女らしさ」だとは断言できぬ。

 また一切の女性的特質を「母性型」と「娼婦型」とに当てはめてみても「女らしさ」の本質を採り出す手がかりは与へられない。

 要するに、すべての女は、何等かの意味で女らしいといふよりほか、私には理窟のつけやうがない。たゞ、普通の標準に従へば、常に、時代と民族、階級或は職業などに通ずる女の典型なるものが考へられる。ある特定の生活と文化とが、特定の理想的「女らしさ」を作りだすのである。

 時によると、男の眼が「女らしさ」を発見し、それに価値を与へることもあるが、女も亦、同性のうちの「女らしさ」を鋭く感じ取るものである。従つて、好悪の別はあつても、それが「女らしい」といふ一点で、それを見るものの眼に、さう著しい違ひはないと思はれる。

 そこで問題は「女らしい」といふことが特に尊重されるべきかどうかといふことである。「女も人間である」といふたてまへから、また、女であるがために差別待遇を受ける不満から、「女は女らしく」あるばかりが能ではないといふ結論が生れる場合がないではない。例へば「女だてらに」男のするやうなことを好んでするとする。或は、さういふ習慣を身につけてしまつて、一見「女らしく」なくなつたものがあるとする。こだわるやうだが、私は、さういふ女をも「女らしくない」とは見ないのである。やつぱり「女らしい」ところがどこかに現はれてゐると思ふ。それは、結局のところ「女らしさ」といふものは、女である以上誰でも備へてゐるのが当然で、努力をしてそれを示す必要もなく、また、意識的にそれを隠してもなんにもならない性質のものである。

「女形」を手本にしたやうな「女らしさ」の誇張は、腕力を生命とする職業人の「男らしさ」の誇張とともに、現代に於ける一対の喜劇であることは云ふまでもないが、「女らしさ」を酔興にも脱ぎすてようとする女があるとすれば、それは、その目的を完全に達し得ないばかりでなく、人間としての一切の魅力を喪失する悲劇を演じるわけである。

 女は生れながら一種の僻みをもつてゐるといふ人がある。ほんとか知らと思ふくらゐだが、よく女のひとが、うつかり、または戯談めかして自分が女に生れたことを悔むやうな口吻をもらしたりするところをみると、日本の現状に於いては、或はそんな事情も察せられないこともない。少くとも現代のインテリ女性は、その僻みのために、非常に「女らしさ」の表現があやふやだ。

 それは固より個人の罪ばかりではない。さういふ現象を生む文化的な欠陥──或は未完成さが現在の日本にはあるのである。旧い伝統が次第に破壊されて、それに代るべき新しい生活様式がまだ統一した形で示されてゐないといふことはみんなが知つてゐることである。

 その生活様式の不統一といふことが、あらゆる風俗の混乱と趣味の低下を招いてゐるのである。

 新時代に応はしい「女らしさ」の表現は、さう易々と個人の工夫や努力で生れるわけはないのであるが、その方向だけは、なんとはなしに、近頃になつてきまりかゝつてゐるやうである。

 さう云へば、男の方でも、こゝしばらく「男らしさ」などといふことについての自己批判を忘れてゐたことは事実である。これは、たしかに重大なこととして今日省られなくてはならぬだらう。これも、結局は表現の貧しさに帰着する。男が男らしければ男らしいほど、女は女らしくなるとも云へ、その因果関係は案外単純なものではないかと思ふ。

 たゞ、この雑誌などで「女らしさ」といふ問題がまつさきにとりあげられるところからみても、まだ、女の方が自分を厳しく詮議するところがあるやうである。私は、だからと云つて、別に女の弁護をするつもりもないけれど、若し女のひとにも云ひ分があれば、それは是非、聴かしてほしいと思つてゐる。

 ともかくも、女性の特質たる「女らしさ」が、その肉体的精神的の表現として、最も魅力的なものであるために、ひとつの標準といふやうなものが自然に形づけられなければならぬ。それは、前にも述べたやうに、一時代、一民族或は一階級のうちに、それぞれの理想を見出すことはたしかだとして、一方、さういふ条件にとらはれない普遍にして且つ永遠な「女らしさ」といふものが想像できなくはないと思ふ。それは、かうと口で云ふことはむづかしいが、自然が女に求め、女はまたそれによつて自然を満たすところの霊妙な空気のやうなものである。自然と云ふ言葉が神秘めくとすれば、社会といふ言葉にかへてもいゝ。女らしくない女など一人もゐないのに、ある女が「女らしく」ないとみえる原因は、その女の「女らしさ」が、純粋で、適切で、豊富な表現をもたないからであるとわかれば、話は非常にはつきりしてくると思ふ。

 柔かみとか、潤ひとか、繊細さとかいふものが「女らしさ」の主要な色調になつてゐることは争へないとして、それさへも、やはりたゞそれだけでは、女の占有物ではない。寧ろさういふものの現はれ方の中に「女らしい」生命のリズムが感じられなければならぬ。従つて「女らしい」といふことは、もうそれだけで、まつたく独立した意味をもつことになり、どんな場合にでも、女のくせにといふやうな批難を受けるとすれば、それは、その女のやつてゐることからでなく、やり方にあるといふことだけは明瞭である。

 私は昨夜ニユース映画で英国の女兵隊といふものをみたが、なかには男か女かわからないやうなのもゐたけれども、大部分は、なかなか女らしいところがあつて、しかもさうグロテスクな感じはしなかつた。これはまあ特別な例であるが、よく世間で話題にのぼることは、高等教育を受けた女は、女らしくなくなるといふことである。私はあんまりさういふ意見を信じない方だが、それでも、なるほどと思はれるやうな例を少しはみてゐる。これはなにも学問が女に似合はないためではなく、学問そのものがそのひとの身についてゐないところから来るぎごちなさが「女らしさ」を覆ひかくしてゐる場合と、もうひとつは、男に負けず本を読み学校へ通つたのだといふ自負心がつい女の自然な感情を歪めてしまふ場合と、その何れかであると私は思ふ。

 これと好一対の例は、西洋の風習を表面的に真似てゐる女の、ごく日常的な態度物腰のなかにも、私は、女らしからざるものを屡々発見して苦笑することがある。西洋の女のどこか心惹かれるところを真似てみるのは、そんなにわるいことではないに相違ないが、そこにもう真似の悲しさがあるとすれば、誰がみても「あれで女か」といふことになる。所詮「女らしさ」はひとつの調和だからである。

 調和は必ずしも洗練のなかにあるとは限らない。素朴な、原始的なすがたのなかにもある。田舎にも、未開国にさへも、女らしい女はいくらでもゐると云へば当り前なことだが、女が「女らしく」なくなるのは、ある種の頽廃であることに気がつかなくてはならぬ。さういふ変化を故意に求める傾向が、不健康な社会には発生し易いのである。

 但し、現在の日本などで、ある種の女のひとが「女らしさ」を失つたと批難されたとしても、それは、まづ批難する方のひとを吟味してかゝらねばならぬ事情がありさうに思はれる。歌舞伎や新派のみを芝居だと思つてゐる人が、たまたま新しい芝居を見物して、これが芝居かと腑に落ちぬ顔をするやうなことが、今はざらに起つてゐる時代である。「女らしさ」を単に弱さとか、受動性(控へ目)とか、時には批判力のなさとかいふやうなことに結びつけて考へる人々、殊にそれが男性である場合には、十分警戒を要すると思ふが、その警戒が実は、屡々ほんたうの意味に於ける「女らしさ」を無意識に色褪せさせるものだといふことにもすべての女性は気をつけて欲しい。

 所謂女の「コケツトリイ」が「女らしさ」とどう関係があるかについて考へてみれば一層この間の消息は明らかになる。この言葉の意味は「おしやれ」「おめかし」を含めて「相手の気に入るやうに努めること」であつて、まあ、身だしなみから「媚態」までが含まつてゐるわけだから、どつちみち女性の性的誇示とも云へるものである。女は男の玩弄物に非ずといふ精神から、苟くも「コケチツシユ」と思はれる一切の言動を、慎み、斥ける主義がある種の女の間に履行されてゐる風がみえる。この堂々たるデモンストレイシヨンは、たしかに女性の苦難史を飾る一頁であらうが、私に云はせれば、女のコケツトリイはそれ自身として排撃せらるべきものではなく、時と場所と度合を誤るかどうかに問題のすべてがかゝつてゐるのだと思ふ。

 賢明な本誌の読者諸嬢は、もうとつくにご承知の筈だが、美しい恋愛も幸福な結婚も、男性の側から云へば、常に対手の女性の「清純なコケツトリイ」によつて導かれるものである。(「婦人公論」昭和十四年二月)

底本:「岸田國士全集24」岩波書店

   1991(平成3)年38日発行

底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房

   1940(昭和15)年725日発行

初出:「婦人公論 第二十四年二月号」

   1939(昭和14)年21日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1112日作成

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