三保寮を訪ふ
岸田國士



 夏前からの約束で、私はこの三日に、静岡県三保海岸にある国際学友会のサンマーハウスを訪れた。目的は、同会「収容指導」の留学生諸君のために、この夏開かれた日本文化講座の一科目として、日本の演劇の話をするためであつた。

 この国際学友会といふのは、外務省の斡旋で昭和十年に創設され、その事業の遂行機関たる国際学友会館は西大久保にあるのださうだが、私は、そつちのことはよく知らない。昨年度の会報をみると、最初は二十九名の留学生を収容してゐたものが、今日では五十名を超え、これを国別にすると、シヤム、アフガニスタン、印度、蘭領印度、コロンビヤ、比律賓、アルゼンチン、メキシコ、ブラジル、これに若干の日系米人及び海外に宣伝する日本人といふことになつてゐる。

 留学生の志望学科といふ一覧表によると、警察制度、水産商業、紡績、工業、機械工業、鉱山業、土木、医学、歯科、体育、航空学等がそれぞれ、二乃至十三といふ数を占め、演劇史、美術、文学が、何れも一名づゝある。

 参考のために、同会設立趣意書を左に写してみる。


     国際学友会設立趣意書


 方今世界各国ノ識者眼ヲ東方ニ注キ特ニ日本ヲ研究セムトスル機運顕著ナルモノアリ、隣邦中華民国及満洲国ヨリ夙ニ多数ノ学生本邦ニ留学セルハ周知ノ事実ナルカ近時諸外国人ノ親シク本邦ニ来リ学フモノ亦尠ナカラス就中東方諸国例ヘハ暹羅、比律賓、印度、阿富汗、爪哇等ヨリノ留学生日ニ多キヲ加ヘ更ニ本邦ニ於ケル外国留学生ニ関スル施設如何ニヨリ将来益々増加セムトスルノ趨勢ニアリ外国青年子弟ノ本邦留学ニ際シ必要ノ施設ヲ講シテ之ヲ斡旋善導シ其ノ業ヲ成サシムルハ実ニ人類文化ノ発展ニ貢献セントスル文明国家ノ責務タルト共ニ延テハ国際ノ融和ヲ増進シ通商ヲ円滑ナラシムル所以ナリ、之ヲ以テカ欧米列国ハ夙ニ莫大ナル費用ヲ投シテ外国留学生ノ為ニ官民協力諸般ノ施設ヲ行ヒツヽアリ

 本邦既存ノ斯種ノ施設ハ主トシテ中華民国及満洲国学生ヲ目的トスルモノニシテ諸外国殊ニ前記東方諸国ヨリノ留学生ニ適応スルモノニ至リテハ殆ト皆無ニ近キ現状ナリ蓋シ従来本邦ニ留学スルモノ満支両国青年子弟ノ外多カラサリシ実情ニ顕ミ或ハ已ムヲ得サリシ所ナルヘキモ今ヤ帝国ノ国際的地位益々揚リ我伝統ノ文化ハ泰西文明ノ吸収ト相俟チ愈々光輝ヲ発シ諸外国ノ青年子弟相率ヰテ本邦ニ留学シ今後益々其ノ数ヲ増サムトスル現勢ニ鑑ミ本邦ニ於テ之ニ必要ナル施設ヲ講シ以テ是等学生ヲシテ安シテ学ヲ励マシムルハ刻下ノ緊喫事タリ

 如上ノ事態ニ鑑ミ茲ニ国際学友会ヲ組織シテ諸外国特ニ東方諸国留日学生ノ保護善導ヲ計リ是等学生ニ対シ日常生活ノ便宜ノ供与、日本語ノ学習、本邦諸学校入学ノ斡旋等勉学上ノ援助其ノ他之カ指導啓発ニ必要ナル各種ノ事業ヲ行フヘキ中心機関タル会館ヲ設立経営セムトス固ヨリ本企画タルヤ其ノ性質上之カ遂行ハ容易ニ非スト雖モ官民協力将来ニ於テ仏蘭西ノ「シテ・ユニヴエルシテール」北米合衆国ノ各大学ニ設ケラレタル「インターナシヨナル・ハウス」等欧米列国ニ於ケル斯種ノ施設ニ比シ遜色ナキ設立完全ナルモノトナシ所期ノ目的ヲ達成セムコトヲ期ス

  昭和十一年一月


 会長は近衛公爵であるが、同会の事業について氏は左のやうな抱負を述べてゐる。


     国際学友会と其事業


国際学友会会長 公爵 近衛文麿

 国際間の平和と親善とを促進する最も有力なる方途の一つは温かき理解の下に行はれる各国文化の渋滞なき交流にあると信ずる。昨夏不幸にして惹起されたる支那事変を通じ我々の痛切に感ずる事は、如何に国家間の隔意なき意見の交換と提携が行はれ難いかと云ふ事である。

 近年国際関係が複雑多岐になつたが、各国間に文化の交換が不断に行はれ、国民的性格、教養を互に理解し合ひ真に人類の幸福に貢献せんとする意図を有するに至るならば世界は現在より以上の平和を享受することが出来るであらう。

 諸外国の日本に対する認識も、七十年前に較べれば、雲泥の相違であつて、その間日本の為した進歩に驚異の眼を瞠りつゝあつた世界の人士も最近に至つて、唯、表面に現はれた物質文明の形相のみならず、これを築き上げた原動力への認識探求、即ち日本精神の研究熱が澎湃として興つて来たのである。而してその最も顕著なる現はれは各国の留学生の本邦に渡来するものが著しくその数を増した事である。

 顧れば、明治維新後、幾多の日本青年が青雲の志を抱いて世界各国に遊学した。その学び取りたる新知識と我国の伝統的精神との渾然たる融和こそ今日の日本を産んだのである。時代を異にし所を異にするも現在日本に学びつゝある健気な青年学生諸君の胸中には、曾ての日本人留学生と共通の愛国的な若々しい情熱が沸つて居ることであらう。

 我国際学友会並に国際学友会館を通じて、清新溌剌の気に充てる各国の秀才が、貴重なるその青春を捧げつゝ我文化の真髄を把握し、実相を認識し以て祖国の希求に応へんと努力しつゝあるのである。而してわが会並に会館の存在理由は、実にこゝにあるのである。余は衷心より留学生諸君の目的達成を祈ると共に、会並に会館当事者の撓まざる献身と努力を希望し、併せて、我官民一般も達観せる国民的協力を示されて、留学生諸君の成業に寄与せられんことを希望する次第である。


 さういふわけで、私は、同会から夏期講座に出講の交渉があつた時、実はいろいろ考へた揚句、外国の若い学生たちと膝を交へて話ができるのを楽しみに、これを引受けたのである。それも僕流の無精から、夏休みの終りに近い頃、山から東京へ帰つて来た序にといふ条件を附しておいた。


 私は勿論日本語で喋るので、それを国友忠夫氏といふ布哇大学の先生で、やはり学友会に籍をおき、目下日本演劇史の研究をしてゐるひとが通訳してくれるのである。前の晩に少しばかり宿で打合せをしただけであるが、当日、同氏は実に流暢な英語で、しかも専門的な言葉には詳しい註釈をつけて見事な通訳ぶりをみせたのには、私も感服した。

 私は、日本古来の演劇伝統についてひと通り話し、能、狂言、歌舞伎の特質を素人向きになるべく解り易く説明しておいて、さて、日本の古典劇のみを通じて現代の日本を知ることの困難を指摘し、日本人自らも、新時代の生活表現を新たな演劇形式のなかに見出さうとしてゐる努力の一部を紹介し、新協、新築地、文学座等の存在を記憶してゐてもらいたいといふ風に、我が田に水を引いておいた。

 三時間に亘る講演中、言葉のわからぬためか、内容に興味を感じないせいか、二三欠伸をしたり、居眠りをしたりしてゐるものもあつた。が、大体に、熱心に眼がこつちへ向けられてゐるやうであつた。

 食事の時刻になつた。館長の渡辺氏や、外務省嘱託の稲葉子爵や、通訳の国友氏や職員で仏文出の鈴木氏やと一緒に、学生と同じ献立の家庭料理を御馳走になつた。南育ちの人々が多いからといふので、特にカレー汁が食卓に用意されてゐた。

 夜は有志の人々と座談会をすることになつてゐる。

 東京では、六時から、日々新聞の主催で、今度の従軍作家のために、日比谷公会堂で、送別の催しがある筈だ。久米氏からもなんとかしてそれに列席するやうにと云はれてゐるのであるが、そんなわけで、その日はどうしても都合がつかず電話でメツセージを送つた。

 印度のチヤンドラ・ゴウタマ君から、日本演劇についてなかなか鋭い質問が出る。同じく印度のアドハム・バソリ君は世界演劇の最古のものについて、演劇学者の知識が如何にも乏しいといふことを難詰しはじめる。アルゼンチンの二名の学生は、それぞれ仏蘭西語を話し、これがやはり白人系の論理的頭脳と社交的習慣を目立たせてゐるのは面白い。ペンクラブの話など出る。

 寮の内部を案内してもらふ。簡素で、ハイカラで、家族的で、しかも、極めて合理的である。設計者、稲葉子爵はケンブリツヂ出の青年建築技師であるとは今まで知らなかつた。

 さて、私は宿へ引上げて考へたのであるが、世界の何処の国が、いつたい、外国の留学生に対して、こんな丁寧な、手のかゝる取扱ひをしてゐるであらう? アメリカあたりは、なかなか、その点、至れり尽せりだといふ話も聞いたが、私の見るところ、どうも日本人の世話の焼きかたには、一種特別な「型」があり、こつちのまともな気持が向うに通じないやうなもどかしさがありはせぬか?

 こつちで金を出して呼び寄せた留学生だから、日本への好感を十分に植ゑつけ、こつちの思ひどほりに教育して帰したいのは人情である。不自由のないやうに万事気をつけてやる親切は、これこそ、日本がサーヴイスの国と呼ばれる所以だが、お客様をもてなすために、自分たちが不断やつてゐないやうなことを努力してやらうとすることに無理があるのではないかと思ふ。

 国際学友会の意義ある使命と、この事業にたづさはる有能な職員諸氏の熱誠を信じるだけに、これら外国留学生たちが何故に、自分らは、日本の青年たちとこんなに違つた、理想的ではあるが、周囲の事情とかけ離れた形式と雰囲気の生活をしなければならないかを疑はしめないやうにしたいものである。

底本:「岸田國士全集24」岩波書店

   1991(平成3)年38日発行

底本の親本:「文学界 第五巻第十号」

   1938(昭和13)年101日発行

初出:「文学界 第五巻第十号」

   1938(昭和13)年101日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1112日作成

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