明日の劇壇へ
岸田國士
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注文により、「劇壇へ!」と呼びかけはしましたが、少くとも今日の私にとつて、その相手は何処にゐるのかさつぱりわからないのであります。
劇壇とは、劇場を中心として、俳優、劇評家、作者、装置家、その他の演劇関係者を網羅した一社会を指すものであるなら、現に存在しないとは云へないのでありますが、その社会には、今や、脈絡なく、秩序なく、理想なく、希望なく、発言者なく、傾聴者なく、権威なく、輿論なく、たゞあるものは、商業主義の盲断と、これを繞る因襲の跋扈のみであります。
商業主義も可なり、因襲も亦可なりですが、演劇の社会にあつては、一方、これを刺戟しこれを誘導する創造的機運が、その何処かに動いてゐなくてはなりません。
わが「劇壇」の現状は、遺憾ながら、かういふ機運の成長を阻むあらゆる要素から成立つてゐます。
今日まで、新劇運動と称せられた少数者の青年的意気は、勿論、既成劇壇に対して一個の未来を対有すべき生命でありましたが、この生命は、これを育むものゝ独善主義によつて、早くも涸渇してしまひました。演劇の本質を無視した新しい演劇運動といふものが、遂に実を結ばないのは、今に始まつたことではありません。
私はこゝで、わが「明日の劇壇」のために、日本の現在にのみ適用する二三の希望を陳べておきたいと思ひます。
先づ第一に、これからの戯曲は文学としての評価に甘んじてはなりません。これは既に云ひ尽された議論であるかの如く見えますが、所謂「舞台的」といふ言葉が、もう一度吟味されてからのことです。
次に、これからの俳優は、所謂「演出者」の傀儡でなく、この点、もう一度「新劇以前」への逆戻りであつてかまひませんが、先づそれぞれ人間としての特殊な魅力を養ふべきです。
更にまた、これからの演出者は演出者である限り、俳優の「領分」に立ち入つてはなりません。それよりも、俳優に自分の「領分」を荒されないやうにすることが肝腎であります。
最後に、これからの観客は「面白くないもの」をはつきり面白くないと云つてかまはないでせう。欠伸を噛み殺して徒らに感心する必要はないのです。その代り、面白かつたら、遠慮なく盛んな拍手を送り、俳優に俳優たるの幸福を満喫させていたゞきたい。これはこれからの演劇のために、一般が与へ得る唯一無上の協力であります。
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「読売新聞」
1932(昭和7)年1月13日
初出:「読売新聞」
1932(昭和7)年1月13日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
2016年5月12日修正
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