『シラノ』雑感
岸田國士
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二月の帝劇で左団次一派が『シラノ・ド・ベルジユラツク』を出すといふ、先年沢田正二郎が翻案白野弁十郎を演つた時、原作の面影がどれほど伝へられたかは知らぬが、今度は時間の関係で多少のカツトをする外大体、辰野、鈴木両君の定評ある名訳によるとのことであるから、左団次の演技次第で、かのポルト・サンマルタン座初演の当時をしのぶことが出来るかも知れない。
なにしろ、フランスで芝居の歴史始まつて以来の大当りをとつた脚本であるのみならず、欧米各国でも、競つて上演し、いづれも華々しい成功を収めてゐる。そこで『シラノ』劇成功の第一理由として何人も認めてゐることは、無論これが不朽の傑作であるといふ事実は別として、その傑作が、たま〳〵その主題と色調とにおいて、国民的自負を満足せしめた一点にあるのである。
十九世紀末葉においてフランスの劇壇は、かの自由劇場式自然主義劇の跋扈と北欧風個人主義劇の侵入によつて『民衆を楽ませる劇』の極度な不振を招いた。舞台は卑わいな姦通劇と陰惨な苦悶劇によつて占められてゐた。
『シラノ』は、フランス国民が、あらゆる時代に示した特質を帽子の羽根飾として、華やかに、彼等の前に登場したのである。そしてこの人物は、一個の英雄には相違ないが、不幸な容貌の持主である。『岬の如き鼻』は、わらふにもわらへない民衆的弱点である。フランス国民は、そこに己れの姿を見なかつたであらうか。
その上、『シラノ』の性格には、幾多の矛盾があり、その言行はいはゆる道学者的標準によつてお手本化されてゐないところ、一層フランス人の気に入つたのである。こゝで日本の観客のために注意しておきたいことは、かくも欧米の観客をよろこばせた『シラノ』なる人物に、どこか『好み』の上で、日本の民衆を反ぱつさせるものがありはせぬかといふことである。殊にそれが英雄として示される場合、偶像的地位を占めてゐる場合、その英雄振り、偶像振りには、甚だ東洋的ならざるところがあり、殊に、作者が意識的に附加した時代的特色が、寧ろ一種の『気障つぽさ』であるところから、かういふ事情に通じない見物は『シラノ』の一言一行に反感をもたないものでもない。
さうなると、この戯曲は助からないことになる。無論、喜劇であるから、その辺の誇張もあり、その誇張から生じる効果は、作者の才気をうかゞふに足るものであることを知らなければならぬ。日本の旧劇俳優が、フランス風の機智をどこまで生かし得るか、これが恐らく、こんどの上演で一番興味のある問題であらう。この脚本は俳優コクランの為めに書卸ろされたものであるが、コクランといふ俳優は柄からいへばむしろ下世話風な、あるひは三枚目式な特色をもつてゐたので、ロスタンも、そこを考へて、『顔の不味い』主人公を選んだのだらうと思はれる。
ところが、左団次は多くの点でコクランと対照的に特色をもつた俳優といひ得るので、容貌はメイキヤツプで思ひ通りになるとしても、演技の方では、左団次独特の『シラノ』が出来上るわけである。これは無論差支へない。また、しかたがない。かへつて、これが為めにフランス人好みの『シラノ』から遠ざかり、日本人好みの『シラノ』が出来上ることになれば、もつけの幸ひであらう。
私も、『シラノ』の舞台はパリで再三見たが、コクランは残念ながらもうこの世にゐず、例の映画で日本にもお馴染のピエエル・マニエが主人公をやつてゐた。このマニエは顔はちよつと左団次に似てゐるが、芸はそれほどでなく、甘い通俗劇で『老けた色男』をやるのが身上である。
それにしても、舞台はなか〳〵面白かつた。第一幕の『詩的決闘』の場はあつけなく済むが、第二幕目の『鼻づくしの半畳』は無性に痛快であり、第三幕目の『露台の接吻』は『不滅のシイン』と定評があるだけ作劇上の一大創造であると感じた。第四幕から第五幕目にはいると、これは、日本人に最も受けさうな──フランスでも見物のすゝり泣きが聞えるところだが──修道院における『シラノ』臨終の場である。左団次の演技も、恐らく、この場において最もその真髄を発揮するだらうと思はれる。沈痛な『高島屋の声色』は、秋の夕日を浴びて木の葉の如く散つて行く『シラノ・ド・ベルジユラツク』の『桂の冠も薔薇の花も!』といふ名せりふにぴつたりはまつてゐるのではあるまいか。
ついでにいひたいことは、この種の翻訳戯曲が、今日の商業劇場で上演されることによつて、なにか日本の劇作家が損害をかうむるやうに考へてゐる人がゐるとすれば、それは大きな間違ひだと私は思ふ。勿論、この傾向が永久に続くことは考へものだが、こんなことはありつこないのである、第一、種も尽きやうし、俳優も見物もあきて来るにきまつてゐる。小説や映画の舞台化こそ、劇道擁護のために反対すべきであつて、たとひ外国のものであれ、よい戯曲の上演は、俳優の修業になり、見物の訓練になり、作家の刺戟になり、興行者の瀬踏みにもなり、目下の情勢からいつて、むしろ歓迎すべきことであると、私は信じてゐる。
たゞ希望するところは、徒らに大衆化に名を藉りて、原作を乱暴に変形し、その芸術的特色を誤り伝へるのみならず、結局本来の劇的価値を無視することがないやうに、当事者において充分、良心的な仕事をされたいといふ一事である。
その意味において、今度の『シラノ』に、どの程度の用意が払はれてゐるか、これは厳密な批評が下さるべきであらう。
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「報知新聞」
1931(昭和6)年1月30、31日
初出:「報知新聞」
1931(昭和6)年1月30、31日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
2016年5月12日修正
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