煽動性万能
岸田國士
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演劇は、それ自身、多少の煽動的要素をもつてをり、この煽動性によつて、最も民衆に受け容れられるのであるが、また一方、劇的美の厳密な批判からは、所謂「煽動性」なるものを重要な要素と見なすことはできないのである。なぜなら、露骨な煽動に乗ずる一般の感情は、概して、美的印象とは無関係であり、生々しい刺激によつて誘致される平俗な心理的動揺にすぎないからである。
対象をかかる興奮状態に陥れる最も著るしい例として、かの政談演説乃至未開人種の宗教的儀式を見ればわかるのである。
古来、一時代の人気を集め得た職業劇作家は、何れも、論理的に、道徳的に、又は、宗教的に、この種の煽動性をその作品の中に盛り、ある時は芸術的効果を助け、ある時は、これをもつて芸術的効果に代へてゐる。しかしながら、最も芸術的価値の高い、所謂不朽の傑作と称せられるもので、特に煽動性の目立つ作品は一つもないのである。
この事実は、俳優の演技についても云へるのである。ある俳優は、如何なる役を演じても、この煽動性によつて見物を惹きつけるのである。人物そのものの性格、心理に関係なく、俳優自身の芸風、又は「持ち味」とも称すべきもののなかに、自ら含まれてゐる一種の「弾み」は、これを如何ともすることができないのである。ところで、かういふ俳優は、多く、「立役」中の花形に多く、一座を統率する才幹もあり、人心収攬の術も心得、芸の上でも光つた一面をもつてゐるのである。
現代の日本に例をとれば、旧劇では第一に左団次と猿之助を推さねばならず、畑違ひの方面では、沢田正二郎が代表的存在であつた。
西洋では、伊太利にこの種の俳優が多く、ザッコニはその尤なるものであるが、仏蘭西にもなかなかあり、サラ・ベルナアルを初め、コクランなども、この部類に属すべきだらう。亜米利加の映画俳優中では、なんといつてもダグラスがその親玉で乾児はざらにゐる。近来、わが舞台の上に活躍しはじめた早川雪洲も、どちらかといへば、この煽動型俳優である。
戯曲の場合と違ひ、俳優にあつては、この傾向が幾分寛大な取扱ひを受くべきであらうが、ただ、危険なことは、彼等が、案外易々と「民衆の偶像」になり得ることであり、その結果、技量以上の人気を背負ひ、動もすれば煽動万能の舞台を見せたがるといふことである。そこには、当然、純粋な意味に於ける演劇の堕落があり、この風潮が一時代を支配するに至つては、劇的感動の総てが、デマゴジスムの一色に塗り上げられ、やがて「演劇の貧困」を誘致する原因になるかもしれないのである。
なほ、演劇に於ける煽動性は、復讐精神と結びついて、かの講談趣味、浪花節趣味舞台の全盛を来たし、ストライキ精神と結びついて、左翼劇運動に利用されつつあることは極めて自然であるが、その結果、遂に、封建的共産思想などといふ変なものが、民衆を戸惑ひさせないとも限らない。何となれば、俳優の煽動性は、常に英雄主義的色彩を放つものだからである。殊に、幼稚な俳優志望者が、概ね、一個の「成功夢想者」であるところからこの方面への影響も甚大である。
現に筆者の知つてゐる青年で将来舞台に立ちたいといふものがあり、彼は、その出発点も、通つた道も、その到達した理想をも、悉くこれを沢正に学ぶのだと公言してゐる。しかし、現代の若い俳優乃至俳優志望者で、これと同じ考へをもつてゐるものが意外に多からうと思ふ。煽動もここまで行けば恐ろしい。
そこで問題は、煽動性を除外して大衆劇が成立するかといふと、それは、比較的楽でないといふだけで、異色ある舞台は、今後、寧ろ、その方面から現はれるのではあるまいか。ここでも亦、見物と俳優と作者との、「ある方向への努力」が必要であらう。(一九三一・一)
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「都新聞」
1931(昭和6)年1月16日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
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