脱退問題是非
岸田國士
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昨年の暮に、市川猿之助を筆頭とする歌舞伎俳優の一群が、松竹王国の手を離れて市村座に拠つたことは、いろいろの意味で世間の注目を惹いたが、これを以て、直に劇壇に一つの革新運動が起つたものと解することは早計である。
松竹が全国の大劇場、並びに著名俳優の悉くをその傘下に組合したことは、事業家としての華々しき成功であり、弊害の生ぜぬ限り、これを悪しざまに云ふ必要はなく、資本家横暴の声も、多少、その事実があつたにせよ、世間並のこととして、格別の問題にはならぬと思ふが、猿之助一派の脱退騒動は、いはば、様々な機運を巧に捉へたといへるのである。その上多少の経済的危険を伴ふだけに、相当の覚悟と興奮があり、これからの仕事にも、恐らく活気と野心を示すだらうといふ予想が、世間の人気を博する好条件となつた。
単なる脱退騒ぎは、由来劇壇には付きものであつて、その例は古今東西に溢れてゐる。
仏蘭西に例をとるなら、十七世紀といふ芝居の黄金時代に、モリエエルの喜劇団から、シャンメエレといふ女優が姿を消し、その蔭に新進悲劇作者ラシイヌが控へてゐて、この「脱退女優」を浚つて行つた話がある。この二人は、やがて、同じ巴里を舞台として、恋愛と芸術の羨ましい提携振りを見せる。これは、仏蘭西の演劇史上、唯一の華々しい脱退挿話だ。
近代になつて、われわれの知つてゐる顔では、ジェミエのアントワアヌ座脱退、デュランとジュヴエのヴィユウ・コロンビエ座逐次脱退、サルマン夫妻の制作座脱退、ララ夫人の国立第一劇場脱退等が記憶に新しい。
日本では、文芸協会から抱月須磨子、その抱月須磨子の芸術座から沢正一党が、沢正の新国劇から同志座一味が脱退したことと、築地小劇場の三重脱退が、その過程に於いてやや似てゐるから不思議である。
凡そ、脱退の理由は、表向きと内情とを綜合してはじめてこの真相がわかるのであつて、一方の云ふことだけ聞くと、あんまり堂々としすぎてゐるのが常である。
それにしても、止むに止まれぬ脱退といふ場合もあらう。不平を抑へることは時によると卑屈であり、その爆発は、形式如何によつて正義の烽火とも見える。かの、身辺華やかな「脱退者」に引きかへて、新派の頭目、伊井蓉峰の昨今は、誰も注意しないのであらうか。「日暮れて路遠し」と彼自ら云ふのを聞けば、感慨転た切なるものがある。この一座には、いつの間にか国民座を脱け出したらしい森英治郎が加はつてゐる。この新劇畑の逸才は、宝塚から浅草へ何をもつて来たか。
最後に、集散離合を日常茶飯事、又は、流行的見栄と考へる「無策な反逆者」のために、聊か「伯父さん」めいた忠告をさせて貰はう。
御承知でもあらう、モスコオ芸術座が、兎も角も、創立以来数十年間、世界第一の理想的劇団として輝かしい業績を残し得たのは、何よりも、一座の俳優達が、「些々たる小感情のために、自己の成長に便利な母体から、軽々しく離れ去ることの愚かさ」を知つてゐたからである。言ひ換へれば、これくらゐ、脱退者を出さなかつた劇団はなかつたのである。
これだけのことを云つて、さて、上述の脱退組は、恐らく、よりよき団結のために、遠大な抱負を以て最後の決心を断行したものと信じよう。
春秋座といひ、本国劇といひ、これからは、「今まで以上のもの」を、はつきり舞台の上で見せられると公言はできないであらう。しかし、さういふ約束は、させる方が無理である。遠い将来はいざ知らず、今後、二つの劇団に求むべきものは、ただ、多少とも「松竹の色を脱したもの」でありたい。(一九三一・一)
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「都新聞」
1931(昭和6)年1月15日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
2016年5月12日修正
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