クロムランクとベルナアルに就いて
岸田國士
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欧洲大戦後、即ち千九百二十年から二十三年にかけて、仏蘭西の劇壇は空前の開花期を現出し、その間に、有為な新作家が相次いで「問題になる作品」を発表した。
クロムランクの「堂々たるコキュ」と、ジャン・ジャック・ベルナアルの「マルチイヌ」とは、サルマンの「幻の魚」などと共に、当時の批評壇を賑はしたものである。
ところが、今日、これを読み返してみると、「堂々たるコキュ」の方は相変らず面白いが、「マルチイヌ」の方はどうも感心できないといふ、甚だ残念な結果を発見して、訳者たる私は、しばらく途方に暮れた。感心できないものを訳すのは実際辛いものである。殊に翻訳といふ仕事を、幾分「楽しみ」にやつてゐるものにとつては!
なぜかういふものを訳す気になつたか?
ジャン・ジャック・ベルナアルといふ二十歳そこそこの作者が「マルチイヌ」といふ作をガストン・バチイの率ゐる新興劇団「ラ・シメエル」の舞台に上せた時(一九二二年)そして、その評判が相当高く、殊に、「沈黙派」といふ演劇の一傾向が、これによつてその見本を提出したのだと知り、私はわざわざサン・ジェルマン通りの小さなバラックを訪れたものである。
そして、その時は、なるほど、かなり清新な芸術的感銘をうけて帰つた。
その後、私は、同じ作者の「旅の誘ひ」(一九二四年)といふ作を読み、そこに一段の進境と、エドモン・セエの所謂 grande ligne(大きな系統)に属する作家の素質とを感じ、ひそかに未来の大成を期待してゐた。
第一書房の全集中に、ベルナアルの代表作を加へる案に躊躇なく賛成し、「旅の誘ひ」を私が受け持つことをうつかり承諾してしまつた後、「旅の誘ひ」は、既に白水社から川口篤君の訳が出てゐる以上、二重に出す必要はないといふ理由で、第二作の「マルチイヌ」を私がやる決心をしたわけである。
決心をして、取りかかつてみると、どうも最初上演の時得たやうに清新な感銘は得られない。のみならず、あの妙に「中学生の演説」然たる調子が鼻につき、沈黙派とは、結局、「思はせぶり第一」に過ぎないやうな気がして、少々、こつちが照れ臭くなつて来た。
しかし、この作品が上演された当時、批評家は、この「甘さ」に眼をつぶり、一斉に好意ある讃辞を呈したことを想ひ起し、時代と作家の運命といふ問題に就いて考へた。
ある批評家はかうも言つた──「音もなく咲いて音もなく凋む一輪の花の命を、ある限られた時間に観察することができるとしたら、それは恐らく、彼の戯曲を観ることになるであらう……」と。
実際、彼の企てたところは、あくまでも蕭やかな魂の囁きに耳を傾けることであり、繊細な暗示に富む心理描写の、清澄な詩的表現によつて、「沈黙」の底にひそむ人生の姿を掴まふとすることであらう。しかしながら、彼の早熟な才能は、父トリスタン・ベルナアルの血を享けてゐる証拠を示すだけで、未だ「黄吻」の域を脱してゐない。ただ、この作品は、発表当時、兎も角も、一つの理論を背景として新興劇壇に相当のセンセイションを惹き起したといふ事実だけでも、今日、顧みられる価値があるだらう。彼は、この外に、処女作として、「二度燃え上らない火」を、次いで、「他人の春」を発表してゐる。「旅の誘ひ」は恐らく彼の成熟を示すものであり、その後発表された「アンベエルの秘密」「ドゥニイズ・マレット」「悩める魂」「面影」等の諸作は、まだ読んでみる機会がないが、或は、その中に彼の傑作があるかもわからない。
之に反して、クロムランクの「堂々たるコキュ」は、訳し甲斐のあるものだつた。この戯曲が、初めて制作劇場の舞台にかかつた時(一九二〇年)その奇怪な筋と、大胆な表現とに、先づ巴里の観衆は驚いた。
コキュ(Cocu)といふ言葉は、「妻を寝取られた男」を意味し、仏蘭西の芝居は、昔から、屡〻これを好箇の「劇的人物」として取り扱つた。
この「堂々たるコキュ」も、中世のファルスからヒントを得た題材だと言はれてゐるが、クロムランクは、この古風なビュルレスクに近代人の神秘感を織り込み、素樸な心理を新しいファンテジイによつて塗り上げた。そこから生れたものは、憂鬱な幻想と朗らかなエロチシズム、かのフランドルの森と海とを包む香ばしい黄昏の唄である。
彼はその名から判断しても白耳義人に相違ない。果して仏蘭西人の血を引いてゐるかどうか詳かでないが、巴里の劇壇で名を成した以上、現代仏蘭西作家のうちに名を連ねても差支へあるまい。しかし、そんなことはどうでもいい。彼の稍〻北方的な素質は、マアテルランクなどと共通なものを感じさせはするが、同時に、彼のうちには多分のミュッセがあり、ロスタンがある。現代に於ける、最も興味ある作家の一人であらう。
彼は、「堂々たるコキュ」の外に、「面師」(一九一一年)及び「初々しき恋人」(一九二一年)の二作を上演し、次で、「千五百五十年創立の商店」「ドム君の思想」の発表を予告し、最近、「金の腸」及び「カリイヌ或は魂の狂つた少女」の新作を舞台にかけたが、これは何れも、「堂々たるコキュ」以上の面白さはないやうである。殊に、「初々しき恋人」に見える稍〻病的な主観は、その「余りに地方的な」感情と共に拡大し、作品を頗る晦渋なものにしてゐる。少くとも仏蘭西人の嗜好には適せぬものとなつた。
私は、「堂々たるコキュ」を訳しながら、久々で愉快な仕事をした。ただ、訳語を選択するにあたつて、困つたことが二つある。第一には、フランドルの田舎を場面とするこの戯曲の人物に、普通の言葉を使はせたくない。さうかと言つて、日本の田舎言葉はこつちが不案内である。原作の会話は、勿論、所謂「田舎言葉」の写実ではなく、十分様式化され、洗煉され、詩化された独得のスタイルであるからさういふ味も訳語のうちに現はしたい。ところが、そんな野心は悉く捨てなければならなかつた。それは、実に大事業である。もし出来るなら、北陸か山陰の海に近い地方で、その土地の生活と言葉とを研究した上、それを基礎にして、新らしい様式の会話体を創り出し、この戯曲の訳に利用したら、さぞ面白からうと思つただけである。
第二に、かなり露骨な表現で、検閲が危いと思ふ箇所が随分あつた。これはしかし、純粋に芸術的立場から見て、どうしても生かしておきたいものばかりであるし、当局も、この作品を玩味すれば、さういふ言葉の上の問題は、結局懼れるに足らないことがわかつてくれるだらうと思ひ、ただ単に、幾分手心を加へるに止めた。この手心を加へるといふことが、実に苦しい仕事だつた。
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「近代劇全集第二十一巻」第一書房
1930(昭和5)年8月10日発行
初出:「近代劇全集第二十一巻」第一書房
1930(昭和5)年8月10日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
2016年5月12日修正
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