演劇より文学を排除すべきか
岸田國士



 かういふ標題で、最近のヌウヴェル・リテレエルは、リュシアン・デカアヴの興味ある調査を掲げてゐる。別に結論らしい結論もないから、面白い「事実」だけを拾つてみる。


 モオリス・バレスは一八八四年、「墨痕タアシュ・ダンクル」といふ文芸雑誌を出したが、その創刊号に次の如き宣言を書いた。

「この雑誌は文芸雑誌であるから、滅多に演劇に関する記事は載せないつもりだ」

 十年後、彼は、「議会の一日」といふ一幕物を書いてアントワアヌの自由劇場に持ち込んだ。ところで、この戯曲を単行本にして出す時、その序文で、彼は、再び戯曲に筆を染めるかどうかわからぬと告白し、ヴィニイが「舞台の芸術くらゐ狭い芸術はない。しかもあらゆる拘束を受けなければならぬ」と云つた言葉を引いて、それとなく芝居は苦手だといふ顔をして見せた。


 シャトオブリヤンには、「モイズ」といふ詩劇があるが、一度も上演されなかつた。


 バルベエ・ドオルヴィリイは、芝居に縁のない作家の一人であるが、戯曲のことをかう書いてゐる。

「乞食芸術である。誰彼となく手を差し出す──劇場主に、背景画家に、衣裳係に、俳優に……。そして、何れの時代に於ても、大衆の頭と同じ水準に自分をおくことにのみ汲々としてゐる。それは、大衆に支へられて生き、大衆に向つて呼びかけるものだからである」。彼はなほ云ふ。「人類の総ての愚劣さのなかにあつて、劇文学のみは最も結構な愚劣さなのだらうか」


 大作家と呼ばれる人々のうちで、芝居に手をつけない人は少い。ラマルチィヌ、ミシュレ、テエヌ、などは芝居に関係がないらしい。


 アミアンの図書館に保管されてあるボオドレエルの遺稿の中から、韻文劇「イデオルス或はマノエル」の草案が発見された。これは、プラロンといふ無名の協力者と合作をする筈だつたらしい。


 三年前に、エドガア・ポオの未完成のドラマが、出版された。モルガン図書館で発見されたものである。断片的な草稿であるが、ポオの劇作家的天分を知らしめるといふほどのものではない。


 ルナンも一時芝居に食指を動かしたことがある。一八八六年、ヴィクトオル・ユゴオの誕生日に、「千八百〇二年」と題する対話劇をコメディイ・フランセエズで上演させてゐる。

 これは、死者の対話であつて、死者とは即ち、コルネイユ、ラシイヌ、ボアロオ、ヴォルテエル、ディドロの面々である。

 それからまた、「哲学劇」数篇を物してゐるが、ルナン自ら、「上演の意図毛頭これなし」と云つてゐるにも拘はらず、ラ・デュウゼが、そのうちの一篇「ジュアアルの尼院長」を伊太利で舞台にかけた。

 アントワアヌも、自由劇場の上演目録中にこれを加へようと思つて、ルナンに許を乞ふた。ところが、ルナンの返事は「ユゴオの誕生日に一寸した思ひつきをやつてみたのだが、その経験によると、自分の書くやうな仏蘭西語は、どうも役者が覚えにくいらしいから」といふのであつた。でも、兎に角といふ話になると、ルナンは、アントワアヌに、それでは、主人公ジュリイの役を誰がやる。心当りがあるかと問ふた。アントワアヌは早速サラ・ベルナアルのところへ駈けつけた。そして、ラ・デュウゼが演つた役だと話すと、サラは傍らの侍女を顧みて、「お前、ラ・デュウゼつて女を知つてるかい」と尋ねたものである。侍女の答はかうであつた。「はい、存じをります。でも、いい加減なもんでございますよ」

 そこで、「ジュアアルの尼院長」は自由劇場の上演目録から消え失せた次第である。


 一八〇四年頃はスタンダアルにとつて、芝居でなければ夜が明けぬ時代だつた。彼は、いろいろな脚本のプランを樹てた。悲劇二つ、浪漫劇一つ、オペラ一つ、喜劇数種、そのなかで、韻文の喜劇一つは書きかけて完成しなかつたが、標題を初め「ルテリエ家の人々」とし、次に「二人の男」と変へ、更に「果報」と改めた。彼は金のいる時代だつた。二十一歳の遊蕩児である。国立劇場に脚本を売り込む算段をしてゐたのである。彼は後年、その天職を他の形式に見出した。損はしてゐない筈だ。


 フロオベエルの劇文学侵入が、無残な結果を生んだことは周知の事実である。喜劇「候補者」、夢幻劇「心の城」は「ボヷリイ夫人」の足もとにも及ばない。


 ヴェルレエヌも、リラダンも舞台では失敗である。ヴェルレエヌの韻文狂言「お互に」は、ポオル・フォオルの肝入りでゴオギャン後援のために催された慈善興行の上演目録に加へられた。それから「オオバン夫人」といふ戯曲の草稿が遺つてゐることも附け加へよう。

 リラダンの戯曲「新世界」は、一八七五年、亜米利加独立記念賞金を受けたことで有名になつた。アントワアヌが、自由劇場で「脱走」一幕を上演したことも記録に遺つてゐる。ゴンクウルの「教姉フィロメエヌ」と同時である。それから、「反逆」といふのはデュマ・フィスにデディケエトされた脚本で、これもデュマの骨折りで脚光を見た筈である。

 ルコント・ド・リイル、ヴェルハアレン、ロデンバッハ、サマンなど詩人たちの戯曲は、何れも一時的の評判をとつただけである。


 ロチイ、マルグリット、ジイド、ボルドオなどの小説家も戯曲を書いたが、これも余技の程度を出ない。


 詩人にして小説家アナトオル・フランスはブウルジェと共に自作の小説を脚色してゐるが、若い頃、「ピエロの化身」といふ韻文劇一幕を書いたことを世人は大方忘れてゐる。


 新しい時代の有名な作家中、タロオ兄弟、アンドレ・モオロア、ポオル・モオラン、モオリヤックなどは、揃ひも揃つて、芝居に仏頂面を向けてゐる。しかし、立てまじきは誓ひである。現に、近頃まで木石と見えたアルヌウが、そろそろこの道の味を解し出した。(一九二九・五)

底本:「岸田國士全集21」岩波書店

   1990(平成2)年79日発行

底本の親本:「現代演劇論」白水社

   1936(昭和11)年1120日発行

初出:「悲劇喜劇 第八号」

   1929(昭和4)年51日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2007年1120日作成

2016年512日修正

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