歌舞伎劇の将来
岸田國士
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歌舞伎劇が、今日、我が国劇の主流を形造つてゐることは、如何なる点から見ても不合理であり、不自然である。しかし、その特異なスペクタクル的興味と、アカデミックな文学的平俗さと、世襲俳優の職業的素質とによつて、資本家の寛大な庇護を受け、民衆の伝統的嗜好に投じつつあることは、誰の罪でもないのである。
私は、決して、歌舞伎劇に代るものが、所謂「新劇」であるとは思はない。それは、やはり、新鮮なスペクタクルであり、刺激的で、同時に解り易き物語であり、美しく、勇しく、意気で、聡明な俳優によつて演ぜられるところの、「現代通俗劇」に外ならぬと思つてゐる。
ある時代の「新派」は、たしかに、この要素を備へてゐたやうに思はれる。しかし、かれ「新派」は、「現代」の何者たるかを解しなかつた。その証拠に、今日の「新派」は「現代」そのものの如きアメリカニズムにさへ没交渉ではないか!
これは戯談だが、われわれ、演劇研究者として考へなければならぬことは、わが国に於ける新劇運動なるものが、常に歌舞伎劇に対抗する気勢を示しながら、実は歌舞伎の勢力を助長することにしか役立たない結果を齎したといふ一事である。
その理由は、第叫に、外国の高級な作品並に、わが国の新しい文学的戯曲が、歌舞伎俳優によつて演ぜられ、当時、相当の芸術的効果を挙げたのに反し、新劇俳優の手にかかつた場合、多くは見るに堪へない事実を暴露したため、頓に歌舞伎俳優の信用を高め、引いて、「新劇」ぐらゐ歌舞伎俳優にでもやれるが、ただ、やつても客が来ないし、また、それが本職でもないから、やつぱり歌舞伎だけやつてゐれば文句はないといふ口実を成立せしめたのである。
ところで、今から考へてみると、歌舞伎俳優の演じた「新劇」なるものは、日本作家のある少数の作品を除けば、別に大した出来でもなく、寧ろ、滑稽な猿真似にすぎないのであつて、その点、あんなことをいつまでもやつてゐない方が結構なのである。
私の考へでは、一時、歌舞伎劇凋落のきざしが見えた頃、外国のブウルヴァアル作家に匹敵する優秀な通俗劇作家が現はれて、どしどし面白い脚本を書いてゐたなら、歌舞伎俳優のあるもの、又は、新派の連中が競つてこれを舞台にかけ、今頃はもう、立派に「現代通俗劇」が、歌舞伎劇に代つて巾をきかしてゐただらうと思ふ。そして、この「現代通俗劇」を向うに廻して、先駆的な、高蹈的な、純芸術的な立場から、ほんたうの「新劇運動」が起り得るのである。築地小劇場なども、さういふ場合にこそ、あの仕事に一層の意義が生じる筈である。
今日まで、わが国の「新劇運動」は、あまりに先走りをしすぎてゐた。「運動」の発生に必然性を欠き、その方法に結果の予測が含まれてゐなかつた。それは、「運動のための運動」にすぎなかつた。被治者のない政治であり、本隊のない前衛であり、そして、空腹にヂアスタアゼである。
歌舞伎劇は、将来、恐らく、現代大衆劇の勃興と倶に、現在の地位をこれに譲らなければなるまいが、さうなつても、歌舞伎劇の優れた伝統を受け継ぐ俳優の絶えない限り、かの能楽や、文楽の存続する如く、何等かの形式で、その特殊な生命を保ち続けるであらう。その時こそ、歌舞伎劇は、世界に誇るべき古典劇として、今日以上の芸術的地位が与へられるであらう。現在の歌舞伎劇は、その偶然なる世間的人気を繋ぐため、却つて本来の芸術的純粋さを失ひ、その上、一部劇壇の少数党から、嫉妬を交へた反動的蔑視を受けてゐる観がないでもない。
わが国の現代劇は、西洋近代劇の流を汲んで今日に至つたものと見るべきであるが、それなら、歌舞伎劇は、将来、新しき国劇に何等の影響をも与へないであらうか。この問題は、可なり重大な性質を帯びてゐて、十分専門的な研究が行はれなければならぬが、要するに、歌舞伎劇の美は、生活の様式化に出発した趣味と習慣を基調とするものであるから、遠き将来に於て、わが国民生活の様式的統一が完成した暁には、必ず、歌舞伎劇の舞台的条件が、その時代の演劇中に取り入れられるであらう。
尤も、今日以後、所謂新作史劇中には、脚本、演出、演技を通じて歌舞伎的手法が、いろいろの形で現はれるに相違ないが、新作の名の前に、そこでは却つて意識的な旧来の効果が避けられるため、歌舞伎劇の本質的なものを逸する結果になるだらう。
兎に角、われわれにとつて、歌舞伎劇は、あまりに横暴な親爺であり、あまりに敏腕な先代である。息子たるもの、一度は、家を去つて都に出るもよいではないか。
歌舞伎劇の問題はこれくらゐにして、歌舞伎俳優の問題に移らう。歌舞伎俳優は、現在、わが国の俳優中その職業的訓練に於て、最も年功を積み最も光彩を放つてゐる人々である。少数の新派俳優、二三の新劇俳優を除いては、現在「芝居の出来る」俳優といへば、大部分歌舞伎畑に育つた人々である。これらの人々は、将来歌舞伎劇そのものと運命を倶にしなければならないだらうか。「おれが生きてゐる間は、歌舞伎の天下だ」と云つて安心してをられる人もあるだらうが、その人たちの子供はどうなるのだ。その人たちの若い弟子はどうなるのだ。
私は、前に、歌舞伎劇は滅びないと云つた。しかし、これからの劇場は、歌舞伎劇のために、座席の総てを与へようとはしない。二つか三つの劇場は、永久に歌舞伎の家として残されるだらう。或は、ことによると、たつた一つの劇場が、歌舞伎の守るべき城であるかもわからない。
さうなつた時、歌舞伎俳優はどうするか。
「さうしたら、新しいものをやるさ。腕に覚えはあるんだから……」
しかし、その時代には、もう、「新しいもの」をやる専門の俳優が生れてゐるのである。やれると思つてゐたことが、やれなくなつてゐるのである。
ところで、私は、現在の歌舞伎俳優が、「このままで大丈夫だ」といふ迷夢を醒ますことによつて、歌舞伎劇そのものの生命を永くさせると同時に、別に、一層広い仕事の領域を開拓し、次の時代に悠々濶歩し得ることに気づかないのは不思議だと思つてゐる。(ここで云ふことは少数の新派俳優にも適用する)なぜなら、現在、俳優といふ職業にあること、及び、真の「現代大衆劇」なるものが、まだ生れてゐないことは、次の時代の演劇を「人手」に渡さずに済む、最も乗ずべき機会を与へられてゐることになるからである。
そこで、「現代大衆劇」──面倒だから単に「現代劇」といふが──その「現代劇」を演ずるために、歌舞伎俳優は果してどういふ資格に欠けてゐるか。
この解答は至極簡単である。曰く、「彼等はあまりに現代を知らなさすぎる!」
例を挙げるまでもない。しかし、私は、今、ここで、あまり大きな註文は出すまい。私は、「大衆劇」の話をしてゐるのだ!
歌舞伎俳優が、自ら自分たちの生命を短くし、自分たちの前途を暗くし、自分たちの領域を狭くしてゐる原因が一つある。それはいふまでもなく、彼等の「生活」である。因襲に囚はれた非現代的な「生活」である。
日常の起居のみを云々するのではない。「生活」に胚胎するその因襲的制度について云ひたいのである。
先づ、彼等は、不必要に多数の弟子をもつてゐる。それらの弟子たちは、劇場から給料を貰ひ、しかも、師匠の下僕を勤めてゐるのである。
給料を貰ひながら、舞台に顔を出すことは稀である。劇場は幹部俳優の背中流しに余分の給料を払ふために、観客から無法な入場料を徴収しなければならぬのである。
次には、門閥及び階級制度の固執である。出し物と配役に絶えざる揉めを起す原因である。
大幹部の子弟を、所謂「公達」と呼び、才能の如何に拘はらず、よい地位を与へ、よい役を振り、然らざるものは、永久に出世の道を塞がれてゐるのが常である。かくの如き封建的遺習は、新時代の大衆と接触する上に、致命的障碍であることを知らなければならぬ。
わかり易い例は、かの映画の人気である。この時代的興行界の覇者は、花形の選択に最もデモクラチックな方法を採用してゐるではないか。
勿論、舞台俳優の資格は、映画俳優のそれの如く、単純な条件に支配されるものではなく、昨日のタイピスト、今日のスタアといふやうなわけには行かぬが、原則としての人材登用は、歌舞伎劇に新生命を吹き込むものであり、殊に、明日の運命を約束する重大な動機となるであらう。
俳優がそれぞれ、配役の軽重について対世間的な見栄を張りたがる結果、相当の地位にあるもののために、特別な「出し物」を据ゑなければならず、勢ひ、興行時間の延長を来たし、脚本の選択に無理を生じ、それだけならよいが、「俳優の都合で」くだらぬ脚本を並べるといふ不体裁を犯すのである。
かういふ状態であるから、われわれは、芝居見物に半日を費さなければならず、その上、高い入場料を払つて観たくないものまで見せられ、芝居は懲り懲りだと思ふのである。
今日、自発的に切符を買つて、芝居に行くものは意外に少いだらう。その証拠に、劇場には、「連中制度」といふものがある。俳優が自分で切符の押売りをするだけでは足りないので、劇場がその手伝ひをする。連中を多く作る俳優は、巾がきくのである。現在の劇場は、この制度なしに存在し得ぬとしたならば、劇場は、芝居を観に行くところではなくて、俳優の顔を立てに行くところではないか。数字的な根拠がないから、はつきりしたことは云へないが、「連中制度」を廃した場合の歌舞伎劇は、果して、今日の地位を保ち得るかどうか。劇場当事者及び歌舞伎剣俳優の焦慮もここにあらうと思はれる。
さらに、歌舞伎劇俳優(新派劇を含む)が「現代を知らぬ」著しい例として、現代人の諸種のタイプに対し、全く観察を怠つてゐるといふことがある。
現代生活の諸相に盲目である結果は、総ての類型から脱することができず、あらゆる階級、あらゆる職業、あらゆる性格の常識的な表現以外、個々の人物に何等の創造を盛ることができないのである。
しかも、そればかりではない。彼等は、近代的な表情と、姿態と、語調と、雰囲気とに鈍感であり、殊にその心理的陰翳に対して無神経そのものである。かういふ俳優が、近代的色彩の濃い作品を演じるのは無理であるし、「多少でも近代的教養をもつた人物」になれよう筈はないのである。興奮すれば粗野になるか、女々しくなり、ユウモアは下品になり、機智は擽りになり、ふわッとした味がなくなつた、ガサガサしたものになり、余韻が消えて、露骨さが目立ち、詩的情趣が変じてキザな詠歎となり、理窟を云はせれば三百代言の如く、恋愛をさせれば……ああ、もうこれくらゐでよしておかう。
私は、歌舞伎俳優がその伝統的演技を棄てることに賛成はしない。しかしながら、現代の観客は、如何なる作品の如何なる人物を通しても、これに扮する俳優の「現代人」たる資格を要求し、その生活、その教養、その趣味の一切を、演技の風格として鑑賞するのである。
例へば、花川戸助六に扮する俳優が、助六そのものの如き生活、教養、趣味をもつてをればよかつた時代──さういふ時代は、とうに過ぎ去つてゐる筈である。少くとも、その昔、助六といふ人物に対する観客の興味は、この人物に扮する俳優のそれと大差はなかつた。しかるに、今日では、その間に格段の違ひが生じてゐるではないか。この相違は、やがて、歌舞伎劇の運命を物語るものである。
ある者はかう云ふかもしれない。歌舞伎劇を演ずる俳優は、歌舞伎劇中の人物に近い生活、教養、趣味をもつてゐなければならぬ。それでなければ、時代的の空気は完全に出せないと。
この議論は、恐らく、歌舞伎俳優並に歌舞伎劇愛好家の大部によつて信ぜられてゐるものであるかもわからない。私は、この考へが絶対的に誤つてゐるとは思はない。しかし、これは、結局、小乗的芸術観であり、作者が殺人を描くためには、殺人の罪を犯さなければならぬといふ議論に等しいものであるといひたい。
余人は知らず、私が歌舞伎劇を観て、一番厭やになるのは、その脚本の時代遅れなことでもなく、演技そのものの不自然でもなく、ただ、諸種の人物に扮する俳優が、如何にも観客を甘く見てゐる、あの態度である。甘く見てゐるといふのは、彼等が、旧時代の教養や非個性的趣味から割出した演技の「トオン」を、さも大事らしく見せびらかすことである。舞踊劇は先づよいとして、時代物、殊に世話物などになると、この傾向は、最も著しく現はれる。今日、凡そ封建思想ほど滑稽で、不愉快なものはない。その思想は、せめて舞台上の俳優によつて、一度は十分に客観化されねばならぬのに、それがこのまま、俳優の演技を色づけてゐるのだから、馬鹿馬鹿しいのである。
現在の歌舞伎劇は、観客として、知識階級を失つた。遠からず民衆の悉くを失ふだらう。(一九二九・四)
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「悲劇喜劇 第七号」
1929(昭和4)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
2016年5月12日修正
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