舞台の笑顔
岸田國士
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此の標題は少し曖昧だが、俳優の笑顔を指してゐるのではない。舞台そのものの笑顔を云ふのである。舞台が顰め面をしたり、口角泡を飛ばしたり、めそめそ泣いたり、口を空いてポカンとしてゐたりするのではなく、絶えず──或は少くとも一と晩の半分くらゐは、見物に対し、快い微笑を送る──さういふことを指すのである。
かういふと、すぐに、それは喜劇をやるのかと問ひ返すものがあるだらう。喜劇固より可なりであるが、喜劇に限らず、一見それとは反対な悲劇の場合にしても、その舞台全体の相貌に、ある Accueillant な表情(一種の愛想よさ)を求むることは、現在の新劇を一層われわれに近ける所以だと思はれる。戯曲そのものは云ふに及ばず、俳優の演技にも、舞台の意匠にも、演出のトーンにも、われわれは、今日、あまりに屡々仏頂面に遭遇する。見物に背中を向けるといふところがある。取りつく島のない形である。少し言葉は悪いが「遠方をようこそ」といふ心持が現はれてゐない。これは誤解を招くかも知れぬ。決して見物の御機嫌を取れといふのではない。そんなことなら、大概の営利劇場では、とつくの昔やつてゐる。或は、もつと華やかに、けばけばしく、アクセントをつけろと云ふのでもない。そんなことは、多くの人気俳優が悉く心得てゐる。僕の言はうとするところは、もうわかつてゐる人もあるだらうが、言葉を換へて云へば、見物に無駄な努力を強ひるなといふことである。見物にもつと寛ろいだ気分を与へよといふことである。
かういふ注文は幾分趣味から来るのであらうが、今日の新劇の舞台は、一般に、必要以上暗く、必要以上固く、必要以上力み返つてゐるやうに思はれる。
例へば翻訳劇を日本の舞台で観たものが、一度西洋に行つて、同じ脚本を向うの舞台で観ると、等しく、それが全く別物であるやうな感銘を受けるだらう。どういふ点でさうかと云へば、日本では、概して、普通の人物を厳めしく、愉快な人物を真面目に、くだけた人物を勿体らしく演じる傾向があるからである。甚だしきは、喜劇的人物を、悲劇的に演じることさへあるのである。同様に、舞台の色調も、暗く、渋く、重く、理づめに施されてゐる。
いつか築地小劇場でやつた「空気饅頭」のやうなものでも、あれは喜劇であるが、露西亜でなら、もつともつと「喜劇的」な調子を高めて演じるに違ひない。日本では、それを茶番だと云ふかも知れない。茶番は笑劇で、フアルスである。フアルスは日本でこそ芸術的演劇の仲間入りはせられないが、西洋では、今日、立派に芸術的存在を主張してゐるものがあるのである。
同じく、「どん底」のルカといふ人物にしても、モスコオ芸術座あたりでは、モスコオフインの演技は、全く日本のそれと異り、あんな哲学者風な、聖人のやうな、達観したやうな、早く云へば理窟つぽい爺さんにせず、もつと剽軽で図々しく、そのくせ、おせつかいで、臆病で、口と腹とは違ふにしても、根は涙もろい苦労人といふ型に作り上げてある。従つて、もつとユウモアに富んだ、滑稽な人物である。「どん底」の舞台が、此の人物のさういふ性格以外に、全体としてもつと朗らかさといふか、呑気さといふか、さういふ露西亜独得の生活気分を漂はしてゐることは、誰が見ても分るのであるが、日本では、かの築地小劇場の傑れた演出を観ても、この点だけは、不思議に芸術座の演出と違つてゐる。あれはあれで一つの解釈であらうが、そこを、僕は、なんとかしなければならないのではないかと思ふのである。「どん底」の場合は、まあ、あれでいいとして、その調子が、どの脚本を演ずる場合にもついて廻るといふことは考へものである。勿論、築地小劇場ばかりについて云つてゐることではなく、新劇協会あたりでも此の弊は非常に多く、これが日本の新劇を救ふべからざる固苦しさ、窮窟さ、しめつぽさ、薄暗さ、に陥れてゐるのではあるまいか。
前にも何かの機会に云つたことであるが、日本のイプセン劇上演は、イプセンの微笑を悉く抹殺したと云つてもいい。
再び誤解を除くために云ふが、ここで微笑と云つたのは、極く広い意味で、明るさと云つてもよく、あたたかさと云つてもいい。要するに、翻訳劇なると創作劇なるとを問はず、舞台上のフアンテジイと、機智とを活かす作者演出者乃至俳優の感性は、教養ある見物を劇場に惹きつける最も鄭重な招待状であり、これを観客席に繋ぎ止める最も慇懃な接待法である。そして、これこそ、われわれが恋人のそれの如く渇望する舞台の笑顔である。
われわれは既に旧劇にも新派劇にも、此の笑顔を見ることは出来ない。笑顔を見せてゐるつもりかも知れないが、それは幽霊の微笑に似て、その凄みさへも感じられないものである。或は、どうかすると、田舎婆さんのもてなし然たる五月蠅さと気の毒さを感じることすらある。
われわれは、巧まずして親しみを籠め、狎れずして魅力に富む笑顔を求めてゐる。近代の選ばれたる男女は、此の微笑によつて、互ひに総てを語り得るのではあるまいか。
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「新選岸田國士集」改造社
1930(昭和5)年2月8日発行
初出:「悲劇喜劇 創刊号」
1928(昭和3)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月14日作成
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