「悲劇喜劇」発刊について
岸田國士


 私が雑誌を出すといふ話をすると、友人のあるものは、「そんな必要があるか」と問ひ返す。「面倒な仕事だからよせ」と云ふものさへある。

 私はたゞ笑つて之に応へてゐるのだが、実際私自身の気持としては、是非雑誌を出さなければならないといふ理由もなく、それがまたどんなに面倒な仕事か、ほゞ想像もついてゐる。

 そんならどうしてこんなことを思ひ立つたかと云ふと、私自身が、今、ある種の雑誌を読みたいのに、さういふ雑誌が一つもない、何処からか出さうなものだが、なかなか出てくれない、殊に、さういふ雑誌を求めてゐるのは私一人ではあるまい、と、かういふやうな考へから、いつそ、出してくれる本屋さへあれば、自分で編輯して見てもいゝ、依頼すべき有力者はいくらもある、よし、やれるところまでやつて見ろ、といふことになつたまでゞある。

 幸ひ第一書房は私と縁故も深く、房主長谷川巳之吉君は、演劇そのものに少なからぬ同情をもつてゐられるので、話は思ひの外早く運んだ。最初、私は、極く内輪に計画を立てたのだが、長谷川君は、どうせ出すなら立派なものをといふので、頁数こそ少いが、体裁内容とも充分見応へ、読み応へのするものにした。由来演劇雑誌の多くは舞台への交渉が殆ど惰性的に同一軌道を進んで来た傾きがある。その上、あまりに「演劇通」と、「演劇狂」のみを対象とし過ぎたゝめに、一種の独りよがり、乃至は、楽屋的合言葉が頁の大部分を埋めてゐた。

 これは、たしかに、所謂専門雑誌らしい色彩を濃厚にはしたが、一方、演劇運動をして、自ら、その周囲に高い城壁を築かしめる結果に陥つた。

 私は必ずしも、芸術上の貴族主義を排斥しない。しかし、現代の演劇運動が、われわれの求める対手を遂に振り向かしめないといふ一事は、その罪を、大概、一般演劇雑誌の編輯者に帰すべきだと思つてゐる。

 さうかと云つて、私は今度の雑誌で、強いて「調子を下ろす」意志は毛頭ない。文芸雑誌が、多く文芸家乃至文芸家志望者のみを相手として編輯される傾向がある我が国に於て、私は、真の文芸愛好者を相手として、その要求に応ずるやうな文芸雑誌が一つくらゐあつてもいゝと思つてゐるのであるが、それと同じ意味で、「悲劇喜劇」に幾分その特色が作られゝばいゝがと思つてゐる。

 私は此の雑誌で、読者と共に、もう一度、芝居といふものを観直してみようと思ふ。これまでの演劇雑誌は、有為な編輯者の個性を通して、それぞれ異つた特色を具へ、それによつて、充分、その時代を益し、読者を満足させたには相違ないが、前にも述べた如く、雑誌といふものゝ性質を尊重した結果が、殆ど例外なく、「演劇の流れ」の中に在つて、それを上下してゐたやうに思はれる。これは、空想の演劇をして実在の演劇と共に自滅せしめる危険を伴ふことになる。私はあくまでも、演劇雑誌といふ約束に囚はれず、「流れ」の外にあつて、演劇の相を観きわめたいと思ふ。

 従つて、「悲劇喜劇」は、一面、研究的であり、また、啓発的であるかも知れないが、それ以上に、趣味的であり、親和的であることを努めるつもりである。

 これは決して、一般向をねらつて、売行を多くするためではない。それどころか、私一個の考へでは、さうすることによつて、読者の範囲は一層限られるだらうと思つてゐる。これは止むを得ない。せめて、確実な読者を、ある数だけ維持することができれば、それで満足しなければなるまい。長谷川君の意向で、雑誌は市場に出さず、直接購読者を募ることにした。

 創作月刊編輯部の好意に甘へて、発行所は東京市芝区下高輪第一書房であること、定価毎五十銭送料二銭のこと、十月創刊九月下旬発送のこと、それから、なるべく早く申込んで欲しいことを附記させて貰ひます。

底本:「岸田國士全集21」岩波書店

   1990(平成2)年79日発行

底本の親本:「創作月刊 第一巻第八号」

   1928(昭和3)年91日発行

初出:「創作月刊 第一巻第八号」

   1928(昭和3)年91日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2007年72日作成

2016年512日修正

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