劇作を志す若い人々に
岸田國士
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自ら劇作家と名乗る資格があるかどうかわからないものが、劇作家たるべき道を説くことは甚だ可笑しいと思ひますが、私を一個の劇作家と見立てゝ、かういふ課題を与へた本誌編輯者の、表面的な責任の蔭にかくれ、私は、自分の信ずるところを述べて見ませう。
一体、「劇作家になる」といふこと、それ自身が問題なのです。
或る批評家の説によれば、「劇作家は生れながらにして劇作家である」べきださうです。此の点、電気技師や小説家が、修業によつてその道に至り得るのとは、根本に於て違ひがあるやうに思はれます。
しかし、此の説は、大きなパラドツクスが含まれてゐる。われ〳〵が、常に天稟の素質の前に頭を下げなければならないなら、腕を拱いて死を待つより外ないのです。
此の批評家が、何故に、劇作家だけが特に、「生れながら」劇作家でなければならないと主張するか、それは、劇作家だけが、当今、「誰でもなり得る」ものと信じられてゐるらしい風潮を揶揄したものであらうと思はれます。
ある批評家はまた、劇作に於ける art と métier とを区別して、作家の素質を論じてゐます。前者は云ふまでもなく芸術であり、後者は技術です。云ひかへれば、前者は霊感に属し、後者は、「思ひつき」に属すとも云ひませうか。或はまた、前者は先天的才能に負ふところが多く、後者は、職業的熟練に俟つべきものと云へば云へませう。
なるほど、かういふ風に考へれば、古今の劇作家について、一応その素質を吟味することができます。日本の現代作家についてもまた興味ある批判が加へられることゝ思ひます。
「劇作家は生れながら劇作家でなければならぬ」といふ議論も、結局、技術だけを生命とする劇作家は、真の劇作家とは云へないといふ主張が裏づけられてゐると見てよろしい。
それならば、ほんとの劇作家が具へてゐなければならないもの──即ち、劇作上の art とは如何なるものか。それはどういふところから生れて来るか。それはどういふ形で作品の中に表はれてゐるか。この難問題を解決して、扨て、諸君はどうすれば、この art を体得し、驚嘆すべき傑作を物することができるか──といふ結論を引出すことが、此の文章の役目だとすれば、私は、聊か心細さを感じます。なぜなら、そんなことはちつともわかつてゐないからです。恐らく、誰もわかつてゐないでせう。
古来作劇術(ドラマツルギイ)と称する書物が教へるところは、実は、此の art そのものには関係なく、たゞ僅かに、métier の一端に触れたものに過ぎません。従つて、ドラマツルギイなるものは、文法書と撰ぶところはない。否、文法は、それでも、例外を認めてゐる。ドラマツルギイは、此の例外をすら挙げてゐないのです。
凡て、芸術は、例外を作る術であるとも云へるではありませんか。劇作に於ても、その例外の生れるところを究めなくてはなりません。古来、戯曲の名作と称せられるものは、悉く、何等かの形で幾分の例外を含み、此の例外を生かす何者かによつて永遠性を有つてゐるのです。
今の私には、これだけのことがわかつてゐるだけだ。そこで私は、世の若き劇作家志望者諸君(並に諸嬢)に向つて、次のことを勧告して置きたいと思ひます。
第一に、古今東西の戯曲を読み、またはその舞台を観る際に、その戯曲の思想と形式、又は内容と表現を分析的に考察、批判することも肝要ですが、それ以上にその作品の魅力が、 art と métier との如何なる交錯融合によつて生れるかを吟味する用意が必要だと思ひます。勿論、どの部分が芸術で、どの部分が技術と、はつきり見分けがつくわけのものではありませんが、また、その両者が渾然一致してゐる場合こそ極度の魅力を発揮するのですが、その点を充分考慮に入れて戯曲を鑑賞すれば、おのづから作者の「心」と「手」とが、異つた質量と熱度で諸君の感覚に伝つて来る筈です。こゝでお断りをして置かなければならないのは、所謂「技巧」といふ言葉についてゞす。日本の文壇では、「技巧偏重」といふ、既にそのこと自身が、「技巧偏軽」を意味する批評を耳にしますが、私が、前に述べた métier は、決して技巧の全部を指すものではありません。技巧そのものゝうちには、立派に art の名に値するものもあるのです。さういふ技巧は如何に重んじても「偏重」にはなりません。
第二に、いろ〳〵な戯曲をその出来栄え、即ち、それ自身としての価値によつて批判すると同時に、その作品の内容と形態が作り出すある「特殊性」について、文学史的進化の法則と過程とを発見するやうに努めなくてはなりません。これは、今日の我が批評壇が、殆ど注意を向けてゐない点です。云ひ換へれば、文学上の「様式」(genre)に対して、一個の観点をもつといふ、当然な態度なのです。
例へば、此処に一篇の悲劇がある。その悲劇の価値を測る尺度で、一篇の喜劇を測ることは出来ない筈です。またこゝに一つの社会劇がある。もう一つは神秘劇です。此の二つの作品を、同一の筆法で論じることは無意味です。ところが、日本の文壇では、それが平気で行はれてゐる。従つて、喜劇に厳粛さが要求され、神秘劇に革命精神がなければならないことになる。これでは困る。勿論、劇作界に分業制度があるわけではありませんから、悲劇を書く傍ら喜劇を書き、社会劇を書く片手間に神秘劇を書いてもよろしいわけであるが、批評家の方でも少し考へてくれないと、喜劇を書いて悲劇の特性を与へることに腐心して神秘劇を書きながら社会劇の効果を挙げようと苦心する作家がないとも限らない。これでは何時までたつても、傑れた作品は書けないでせう。諸君に、此の無駄骨折をさせまいとするのが私の願ひです。
私は、また、必ずしも、様式の混合を認めない古典主義者ではありません。悲喜劇なる様式、乃至神秘的社会諷刺劇の存在をもわきまへてゐるつもりです。それも文学史的観点によつて整理されてこそ、権威ある批評が加へられるので、それにはそれの価値を測るべき特別な尺度を準備しなければなりません。
かういふと、中には、それなら、自分が脚本を書くとき、どういふ様式の脚本を書かうときめてかゝらなければならないのかといふ疑ひを起す人がないとも限りませんが、それとこれとは別問題で、きめてかゝつてもよし、かゝらなくつてもよしと答へるより外はない。それは要するに、霊感の支配を受くべきものだからです。
以上の注意に関連して、現代に於ける「戯曲の新しい歩み」を知ることが肝腎だと思ひます。私は前に、芸術は一つの例外を作る術だと云ひました。ヘンリツク・イプセンが舞台に初めて「生活の断片」を示し、メエテルリンクが見事に「争闘」のないドラマの型を築いたほどの花々しさはなくとも、過去三十年の劇界は、文学的にも、舞台的にも、著しい進化の跡を遺してゐます。そして現代は最早、例外が一つの規則であるかの観をさへ呈してゐるではありませんか。かういふ時代に、その表面に現はれた傾向のみに眼を奪はれて、この根柢をなすところの一つの流れ、即ち戯曲の伝統的本質を顧みなかつたならば、その新しさは単にかの métier の上の新しさ、それも技術にまでは到達しない嗤ふべき「素人の物真似」に終るでせう。
第三に、私は、「舞台を透して戯曲を見るな、人生を透して戯曲を観よ」と云ふ注意を守りたいと思ふ。これはどういふことかと云ふと戯曲を味はひ、その精神に触れ、その戯曲のもつ真の美を発見するのは、舞台のみを観た眼では駄目だといふのです。直接人生を視た眼でなければならないと云ふのです。至極平凡なことのやうですが、これが作家修業の要諦ではあるまいかと思はれます。この修業は、やがて、自ら筆を執つて戯曲を書かうとする時、徒らに舞台的因襲に拘束されず、自由に、大胆に、劇的霊感を紙上に活かし得る力となるのではありますまいか。
私は、劇作家が、その想像力を限られた舞台上にのみ働かすことは愚の極みであると思ふ。実際に上場出来ないやうなものでは困ると云ふかも知れない。しかし、現在の劇場人等が、実際上場出来るとか、出来ないとか云ふのは、何の標準にもなりません。今日上場出来ないものが明日は上場出来る。これが、演劇史の存在する理由です。しかし、私の云ふのは、さういふ意味ぢやない。劇作家は、人生を舞台の中に入れることを以て能事終れりとせず、舞台を人生の中に持ち出せと云ふのが私の主張です。人生とは、現実の人生、あるがまゝの人生、あなたにも私にも見える人生ではない。「作家の眼」にだけ見える人生です。現実と夢とを超越した人生です。かくあらば面白からんといふ人生です。
なぜかと云へば、人生を舞台の中に入れる時、その人生は往々ひからびてしまふからです。その人生の中では、各々の人物が、今迄はどんな生活をしてゐたか忘れてしまつたやうな顔をしてゐるからです。そこで、気を揉むのは作者です。観てゐられないのは見物です。
人生の中に舞台をもつて行つて御覧なさい。人生は野の花の如く伸びやかに、人物は、自分達の知らないうちに、芝居をさせられてゐるのです。作者は、見物と一緒に、のう〳〵と舞台を眺めてゐられる。
御話はまあ、これくらゐにして置きませう。原稿紙十枚は読むと十分かゝる。十分の講釈で「劇作家になる法」を会得する人があつたら、私はその人について「劇作家になる法」を学ぶでせう。
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「若草 第四巻第五号」
1928(昭和3)年5月1日発行
初出:「若草 第四巻第五号」
1928(昭和3)年5月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年7月2日作成
2016年5月12日修正
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