世界人情覗眼鏡
岸田國士
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日本語の研究をしてゐるポリテクニツクの学生を紹介された。採鉱や金の専攻らしい。青年の家庭には、父君が外国貿易商であるせゐか、いろ〳〵珍しい人物が出入してゐた。
お茶の会をするといふので、僕は出かけて行つた。ほんたうをいふと、僕はあまりかういふ場所を好まない。殊にパリへ流れ込んで来てゐる外国人が、容易に出入できるやうな家は、たゞ雑然たるエキゾチズムの刺激があるばかりだ。
凡パリへ行つて、文学芸術の修業を心がけ、アヴアン・ギヤルドの運動に眼をつけてゐたほどの人は、詩人A・Mの「面会日」を知つてゐるはずだ。これまた一寸類のない人種展覧会である。僕がそこで紹介された人だけでも、メキシコの詩人兼雑誌記者、ハンガリーの舞台監督、チエコ・スロヴアキアの文学青年、トルコの版画家、セルヴイヤの映画俳優、コルシカの女城主!
主人のA・Mは、当日、アパートメントの入口に立つて、一々来訪者に名簿を差だし、そのサインを需める。狭いサロンはたちまち満員、書斎、寝室、いづれも立すゐの余地なきまでに後から後からつめ込んでくるのであるが、もちろん大部分は立つてゐるのである。脚が疲れると人込みを分けて歩きまはる。その間に知つた顔を探すのである。ぼんやりしてゐるのがゐると、主人のA・Mが、その辺の、またぼんやりしてゐるのに引合はせるのである。ぼんやり同士は、まづ相手が何語を解するかを確めねばならぬ。一方が英語しか話せず、一方が仏語しかわからぬとなると、また、黙つて眼を反らすのである。眼を反らして壁を見ると、これはまた、世界土産展覧会である。一々数へ上るわけにもゆかぬが、デンマークの陶器皿と並んでスペイン風のたてがかけてあり、支那の仏像の下にチロルのパイプがぶら下つてゐるといふ工合である。そこには、残念ながら安価な好奇心と、相殺された情調の効果があるのみである。
ところで、ポリテクニシヤンの家庭の茶話会はどうか。意外なことには、この席に、安南のプリンスと、日本のテノールがちやんと納まつてゐる。もちろん初対面であるが、不思議な気がした。一座にけい秀画家がゐて、今度のサロンに、そのプリンスをモデルにした肖像を出品したといつてゐる。プリンスは、満足げにその盛上つた小鼻を一段とふくらまして、物好きな女共の鑑賞に身を任してゐる。
やがて、話が北上して日本に来た。
見ると、わがテノールは、ポケツトから二三枚の楽譜を取りだし、イスから起ち上つて、もぢもぢしてゐる。
──君、一寸、この歌の意味をみんなに説明してくれませんか。僕、これから歌ひますから。……。
僕は、困つたことになつたと思つた。だれも歌へとはいはなかつたはずだ。それとも音楽家の敏感な聴覚は、一同の眼付から、その希望を聴き取つたのか。
僕は仕方なく
──この方が、歌を唱はれるさうです。歌の意味はかうです。芭蕉といふ有名な詩人、詳しくいへば、ハイカイの天才が……。
僕は、息がつまりさうになつた。あとは何をいつたか覚えてゐない。僕の説明が、途中でつかへてゐると、耳のそばで割れ鐘のやうな声が響きだした。歌がはじまつたのだ。
僕は聴手の顔を見ないやうにしてゐた。さうかといつて窓の外を見てゐると、表へ飛びだしたくなるに極つてゐる。眼のやり場に困つて、歌ひ手の口を見つめてゐた。僕は、はツとして、眼を伏せた。その口の一端から、あわ立つた液体が楽譜の上へ半透明な糸を引いてゐた。
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「東京朝日新聞」
1928(昭和3)年1月31日
初出:「東京朝日新聞」
1928(昭和3)年1月31日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年5月1日作成
2016年5月12日修正
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