『赤鬼』の作者阪中正夫君
岸田國士
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新劇を見るほどの人で阪中正夫君の名を知らぬ人はあるまい。また、創作座の支持者で、『馬』の舞台から何か「新鮮なもの」を感じなかつた人もあるまい。
阪中君は、戯曲家として、やはり、リリシズムに出発し、現実の解剖に進んだ優れた作家の一人であるが、最近に至り、彼の着眼は次第に人間生活の複雑な機構、「利害」の心理ともいふべき一種素朴にして凄惨な情景に向けられはじめた。
しかしながら、彼は飽くまでも天成の芸術家であり、彼のうちの正義は冷やかな微笑をもつて、常にこの悲劇を見下してゐる。そこから、ファンテジイが生れ、道化味が湧き出るのである。
彼の企図するところは、恐らく、一つのタイプが発生する動機とミリュウ、そして、そのタイプが、過去と未来にまたがつて働きかける執拗な力であらうと思ふ。これは正しく、バルザックの世界を日本の、しかも、彼の身近な周囲に求めて、これを克明に描かうとする野心であり、そのためには、戯曲の形式は甚だ困難なものとなるのである。が、彼は、敢てこの形式を棄てない理由は、まさに「事相」に対する彼の詩的把握によるものだと思ふ。即ち、現実のイメエジは、彼の心眼に、ある姿態を映すよりも寧ろ、ある「韻律」を響かせて流れすぎるのである。
この意味で、彼の戯曲は、ユニックであり、今度創作座が取上げた『赤鬼』も亦、彼をして思ふ存分の筆をふるはせたなら──といふ意味は、もつと十分の枚数を与へたら──その出世作『馬』以上の特色と深さとを示し得たであらう。
由来、日本の劇作家は、所謂「新劇」の分野に於てすら、「大人」を大人として、即ち、年齢によつて熟しきつた性格の全貌を、そのまま対象として選ぶといふ必要な冒険を試みたものは極めて少いやうである。作家自身が一般に若いといふせゐもあるが、それよりも、何かもつと安易な動機からであるやうな気が僕はするのである。
阪中君の作品は、上演してみるとわかるが、俳優の巧拙は別として、それぞれの役に、少くともその年齢に達した俳優が扮しなければ、ほんたうの「面白い人物」にならないところに、恐るべき作品生理の秘密があるのである。これは、当然なことのやうだが、その当然さを、彼の作品ほどまざまざと感じさせるものが、今日までのわが戯曲界には存在しなかつたのである。この点、レアリズムの真の妙味は、新劇の舞台上に未だ嘗て現はれてゐないといふのが、僕の持論だ。
創作座は、このことを知つて、彼の作品にぶつかつてゐるかどうか?
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「創作座 第七号」
1935(昭和10)年6月28日発行
※初出時の題は「「赤鬼」の作者」。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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