演劇論の一方向
岸田國士



 凡そ、如何なる芸術と雖も、若干の「法則」に従はないものはない。と同時に、それらの「法則」を無条件に受け容れることは、甚だ「保守的な」態度と考へられてゐる。新しい芸術運動は、常にそれらの法則に対する反抗であり、又は、既成の法則に代る別個の法則の発見を目指してゐたのを見てもわかる。

 偶々、あらゆる法則の無視といふ宣言がなされたにしても、何かを「創り出す」ためには、既に、何かに「拠る」ことが必要であり、意識するとしないとに拘はらず、厳として、創造を貫く精神の、つつましき母胎となるべきものが存在してゐることを見逃すことはできぬ。

 世界の戯曲史を繙く時、われわれは、古典主義の「法則」が、かの浪漫派の馬蹄に蹂躙される事実を見、近代の黎明が、輝やかしい希望を乗せて近づき来る姿に胸を躍らせた。

 そして、ある者は、今日、「戯曲文学」が、一切の「法則」から脱して、自由、且つ大胆な創造が許されてゐるものと信じてゐる。ところが、さう信じるものの手で、あらゆる試みがなされたに拘はらず、演劇そのものの進化はおろか、その行詰りが既に叫ばれてゐるのである。

 舞台の因襲が演劇を堕落に導きつつあると同様、その放埓さは、現在の演劇を観衆より遠ざけつつある事実を認めなければならぬ。言ひ換へれば、劇場は、真の「演劇精神」と絶縁しつつあるのである。「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ合言葉は、大戦後の欧羅巴に於て挙げられたが、この言葉は抑も何を意味するか。私の考へでは、演劇の法則なるものを更めて吟味すべしといふことである。そして、それが若し、演劇を生かし得るものならば、再びそれを取戻せといふことである。ここで、ポオル・ヴァレリイが、定形詩について述べてゐる一句を思ひ出す。

「定形詩が規定してゐるところの、脚韻、セジュウル・フィックス、綴音又は音脚の一定数等の規則は、すべて人体の機能の単調な制度を模するものであり、また、ともすれば、それは人生の行為を繰り返し、生命の要素と生命の要素とを結び合せて、恰も海中に珊瑚が聳え立つやうに、事物の間に生命の時をば築き上げる、かの根本的機能のメカニズムからその源を発してゐるのかもしれぬといふことは、正に考慮に値することである」

 この意味を極く楽に解釈すれば、詩の制約が、詩の「生命」を創り出すといふ一つの逆説である。逆説といふのは、その実、言葉から受ける感じで、彼はまた、別のところで、かうも云つてゐる。

「真の善き規則。善い規則といふのは、適当な時機に本質を思ひ出させ、且つこれを強ふる規則の謂であつて、もともと、それ等の特別の時機の分析から生じてゐるのである。つまりそれは、作品のためといふよりは、作者のための規則である」

 ところが古今を通じて、演劇に於ける一般法則といふやうなものは、事新しく吟味するまでもないやうなものであると私は思ふ。恰度俳句や和歌の「法則」のやうなもので、それを破ることが別に手柄にならず、この法則に従はないといふことは、即ち和歌なり俳句なりを棄てたといふことである。なにか別のことをしてゐるといふことである。

 順序として、演劇の一般的法則なるものをここで挙げなければならぬが、私は、常々従来の「戯曲論ドラマツルギイ」といふものに疑ひをもつてゐる。古今東西のあらゆる劇的ジャンルに亘り、その何れにも通ずる根本的な法則といふものは、誰もまだ的確にこれを挙げてゐないやうである。悲劇に於ける所謂「三単一の法則」といふものはあるが、これは今日もう議論済になつてゐるからここでは述べる必要はあるまい。ただ、私は、これについて若干の意見をもつてゐるので、別の機会に述べるつもりである。これを除くと、最早法則らしい法則はないと云つていい。或は、舞台の伝統又は習慣といふやうな意味に解し、技術的修熟によつてのみこれを会得し得るものであると考へたり、劇場といふ一定の場所で多数の観客を前にして一定時間に演じ終らねばならぬといふ制限に基く、「不自然で窮屈な」約束にすぎぬと思つてゐるやうである。

 これらの通念は、その両極端に於て、或は技巧偏重の「トリック」万能劇を生み、或は、「自然」崇拝の「生活の断片」劇乃至は、観念暴露の小説的戯曲を横行せしめる結果となつた。のみならず、演劇論上の根拠を曖昧にし、「劇的本質」の探究に一大障害を与へ、舞台の芸術的進化を遅々たらしめ、引いて、劇場の文化的貧困を招く結果となつたのである。

 試みに、従来の戯曲論なるものを見るがよい。如何に、悲劇を解剖し、喜劇を分析してゐても、それは、単に、涙と笑ひの哲学を説くのみであつて、「劇」そのものの本質に触れてゐるものは、稀である。たまたま、悲劇と喜劇とには共通点があるといふ意見があるかと思ふと、それはなんでもない。人は笑ひながら涙を流すことができるといふ他愛もない落ちなのである。また古典劇と浪漫劇を比較する場合でも、何れも、古典悲劇と浪漫主義的ドラマの区別に熱中し、「三単一の法則」の難点を挙げるのみで、「劇」的本質の近代的発展が如何なる点にあるかを示してゐない。近代劇についての諸論に於ても然り。写実主義から表現主義に至る解説は十分呑み込めるのであるが、そのひまに、「舞台の生命」は、どこへか消え失せてゐる。思想劇、社会劇、心理劇、性格劇、気分劇などと分類はしても、「戯曲的」なものとさうでないものとの区別になると、大体標準は簡単である。前者は、才能ある作家の手に成り、後者は然らざるものの手に成つたのである。

 戯曲作法といふものがある。教ふるところ甚だ懇切であるが、誰もこれを読んで優れた作品を書いた例しはない。そんなものを読んで、戯曲作家になれると思ふのも間違ひであるが、さういふ種類の書物は、少くとも二つの弊害をもつてゐる。第一に戯曲の学び方を誤らせ、第二に、演劇の味ひ方を忘れさせる。

 ここにまた、もつともらしい「危機説」とか、「意志争闘説」とか、「第四壁論」とかいふものがある。前の二つは物語の主題として、多くの作者が興味本位の立場からでも、好んで択ぶ事件の内容であり、芸術の本質とは凡そ無縁のものであるし、「第四壁論」の方は、幾分、無自覚な演劇への刺激とはなつたが、近代写実主義の齎した「演劇の散文化」といふ一つの陥穽に通ずる最短の道であつた。更にまた、戯曲の定型として、誰しも口にする、発端、展開、高潮、解決、破局等の段取りの如きは、物語の諸形式の何れにも適用される「順序」にすぎず、敢て戯曲に限つたことではない。如何なる事件の全貌も、この順序を踏まずして、人に伝へることは困難なのである。

 私は今日まで、かういふ考へ方から、「演劇の本質」について、何か自分の腑に落ちるやうな理論を編み出さうと努力したが、これはなかなか困難な事業で、嘗て、やや独断的に樹てた「心理的リズム」説の如きも、それだけではなんのことかわからぬといふ人も出て来て、実はいろいろと苦心をしてゐたのである。そこで、やつと考へついたのが、やはりこれは「演劇の伝統」といふものを、更めて「吟味」してみる必要があるといふことだつた。わかりきつたことのやうだが、「本質」は結局、「伝統」から生れるものに違ひないといふことを、少し忘れすぎてゐたのである。

 近頃また、演劇の本質は、「言葉」にある、いや、寧ろ「動作」にあるといふやうな議論が生じ、なに、「言葉」と「動作」の何れにもあるといふ助太刀が現はれ、私自身も、「言葉派」などと云はれる理由のないことを釈明したりしたこともある。

 その時の釈明は、まだ十分意を尽してゐない憾みがあつた。私は、「言葉」の中に、重要な本質が含まれてゐることを常に信じてゐたものであるが、「言葉」そのものは、単に、「要素」又は、「方法」であつて、その意味では、「動作」と何等異る地位を占めてはゐない。ただ、今日まで最も有名な説として、殆ど満場一致的支持を得てゐたのは、「劇の本質」はアクシヨンなりと断ずる説である。そのアクシヨンなる語は、恐らく、ドラマの語原から、又は「アクタア」の意味から、更に「三単一の法則」が要求するアクシヨンの単一といふ箇条などから来たのであらう。が、これを何れも同一の概念にひつくるめることは乱暴である。「劇の本質」はアクシヨンなりといふ場合、これを広く「行為」又は「言動」の意に解し、「生命の躍動」とか、「人間の生活活動」とかいふ風な意味に解するとすれば、それはもう、当り前のことで、「舞台の上で、何かが行はれてゐる」限り、アクシヨンは存在する理窟である。走ることも、喋ることも、共にアクシヨンであるし、泣くことも笑ふことも、殺すことも愛することもアクシヨン以外のものではない。が、これでみると、アクシヨンそれ自身は、まだ劇芸術の本質とは云へぬやうである。少くとも、「本質美」とは云へぬやうである。なぜなら、アクシヨンそのものに、「芸術性」があるとは限らず、その選択配列の如何にあるとすれば、寧ろその問題の方が、われわれにとつては重要である。

 そこで先づ演劇の本質を探究するに当つて、従来の文学的偏見と、職業的独り合点を戒め、あらゆる芸術的ジャンルの独自性に立脚して、演劇も亦「自己本来の方法条件に従つて発展するものなること」(アランより)を何よりも銘記すべきである。

 私は、これまで、「演劇」を定義する最も適確な言葉を探し求めた。が、要するに、広く「演劇的なるもの」を悉く内包する観念といふものは、甚だ掴みにくいのである。原始演劇は別として、希臘時代より今日に至る劇文学史の語る諸形式について、これを概括することは或は容易であるかもしれぬが、近世に於て、芸術ジャンルの混渚と、科学の発達から、演劇を形くる要素並に材料が拡大され、同時に、非演劇的方法の浸潤が極度に行はれた。オペラ、レヴュウ、バレエの類は固より、或は、「物語る絵画」といひ、或は、「動く浮彫」といひ、機械装置劇といひ、殊に映画といひ、これらを若し、演劇の部類に包括させるとなれば、問題は益々面倒になる。

 が、これは、常識的にも、截然と「演劇+X」といふ判断ができる筈であつて、演劇的要素乃至方法の若干に音楽舞踊又は美術的要素が加つてゐる場合が多く、その意味で、「演劇」が従属的地位におかれてゐるものも少くない。かかる種類のものは寧ろ、単にスペクタクルと名づけてよからう。

 しかしながら、「演劇」自体は、常にまた、多少のスペクタクル的要素を含むものであることは否まれない。ただ、そのスペクタクル的要素が、そのままに遊離して介在するのではなく、如何なる場合にも、「演劇的」に処理され、「演劇的効果」の計算内に組込まれてゐなければならぬ。ここまで来ると、最早、「演劇の本質」に関する吟味は、これを構成する「要素」又は、「材料」の問題よりも、その「方法」乃至「条件」の決定からはひつて行かねばならぬことに気づくのである。

 そこで、まづ念のために、演劇を構成する「方法」といふわかりきつた問ひに答へよう。曰く、演技、脚本、装置、これに見物を加へろといふ説もあるが、これはまづ預る。鑑賞者を予想しない芸術はないのであるし、これに働きかける情態の相違は、芸術自体のうちにその原因がひそんでゐるのである。また、音響効果とか、照明とか、衣裳とかいふやうなものは、広義の「装置」と考へて差支ない。そこで、以上のうち、何を欠いてゐても、これだけあれば、兎も角「演劇」に成り得るといふ「方法」は、ただ一つである。即ち、俳優の「演技」である。更にこれを分割すれば、「言葉」或は「身振り」である。その一方だけでも「演劇的」なものが出来上るのである。(ラヂオ・ドラマ、パントマイム)ただ、その「言葉」は、「語られる言葉」であつて、「書かれた言葉」であつてはならず、その「身振り」は、「しぐさ」の範囲に限られてゐる。即ち「意志」と「感情」を伴ふものでなければならぬ。(気狂ひじみた動作の連続は「演劇的」でない)

 さて、これを約言すれば、俳優の演技によつて、ある「生命の発展」を示すことが「演劇」の必要条件として考へられる。つまり、俳優がある人物(或は擬人化されたもの)に扮して、その人物の「生活」を生活してみせるといふことである。(人形劇は、俳優の肉体と精神とが、人形とこれを操るものとに分裂しただけである)そして、その「生活」は、予め仕組まれた物語の形式による場合と、俳優が即興的に舞台上で仕組んで行く場合とあるが、何れも、言葉(対話)と動作(身振り)による「演技」と、その扮する人物の外貌を模した扮装、並に、その人物の生活環境を表示する装置とによつて、心理的に、又は感覚的に、物語の進展を印象づける。扮装及び装置は、絶対に必要とは云ひ難い。何者かに扮してゐるといふこと、即ち、「俳優」であるといふことがわかれば、それで十分な場合もある。装置も同様である。場所の暗示さへできてゐればよく、時によると舞台上の人物をして「此処は何処である」といふ説明をさせてそれですます方法さへある。

 それならば、演劇とは「物真似」にすぎぬかといふ疑問が起りさうであるが、「物真似」は勿論、演劇の原始形態ではあつても、決して、芸術ではない。前に述べたとほり、「生活の発展」から、ある種の「美」、しかも、創造的なものが生れなければ、如何なる意味に於ても芸術とは云ひ難い。そこで、演劇が、「物語」、すなはち、文学の「方法」と提携する。しかも、純然たる「叙事」と「抒情」の範囲から脱した、一種独特な「物語形式」を要求することになる。「戯曲」の「制約」は、即ちここから生れて来なければならぬ。

一、時間の経過に従つて物語が進められる。時間を経過させる速度の調節はできるが、後に起つたことをさきに現はすことはできぬ。

一、時間の経過を止める方法は、演劇を中断するより外はない。(合唱隊により、又は幕を下す等)

一、舞台は、同時にただ一つの場所を示すにすぎない。

一、舞台上の言葉は、その人物の間で取交されるのを原則とするが、その実、多数の見物に呼びかけてゐるのである。

一、見物は劇場にゐることを忘れることもできるが、劇場にゐることを想ひ出すことで悦びを感じるのである。即ち、俳優と、その扮する人物と、その人物を創造した作者、この三つの生命を同時に感じる時、最も完全な陶酔境に浸り得る。

一、観劇の時間は、疲労の度を考慮し、純然たるスペクタクルを交へるに非ざれば、約三時間を限度とする。

 私は、以上の諸点を以て、最も重要な「演劇的条件」と見做すものである。これらの条件を無視することによつて、演劇の領域を拡大しようとする試みもなされたが、何れもそれは試みに終つて、やうやく、変態的一例としての興味を惹くに止まるのである。そこでこれら「演劇的条件」がそのままテクストたる「戯曲」の制約となるのであるが、なほ、説明を加へれば、

一、登場人物は一人以上、舞台の広さに応じて幾人でもかまはぬが、場所の関係に於てのみ人物の生活が存在する。即ち、時と場所の関係を離れた人物を登場させることはできぬ。

一、舞台刻々のイメエジは、決して観念として沈潜又は停止を許さない。従つて、音声的といふよりも、寧ろ心理的な律動によつて、舞台の物語が誘導的に進展することを必要とする。

一、作者がある人物をして語らしめようとすることは、一つの観念であるが、それが語られる時は、常にその人物の必然的な要求から発せられた言葉の如くでなければならぬ。

一、舞台上では、人物に如何なる行為をさせることもできる。ただ、その行為の「真らしさ」は、行為が激しければ激しいほど失はれ易い。

 これでまだ云ひ足りぬ部分もあるやうだが、大体右の「制約」は、作者に更に、次の如き注意を要求する。

一、人物の出し入れには必ず「理由」を与へねばならぬ。作者の「必要」は如何なる場合にも最も拙劣な理由である。従つて、何等理由を与へないことが却つてこれに優ることがある。

一、テクストたる言葉は、誘導的なる条件の下に、対話(独白、傍白を含む)、雄弁(西洋の éloquence に相当するもの)、及びの三要素に限られ、「散文的」なるものの混入を許さぬ。

一、物語の主観、結構、及び、人物の対話、科などに、所謂「真らしさ」を求めることは、結局、「真実の美しさ」を求めることで、決して「現実そのもの」を再現することではない。「真らしく」するために「嘘の醜さ」に陥ることがある。大声をあげて泣くとか、人を擲るとか、舞台の上を走るとかいふことは、「真らしく」見せれば見せるほど滑稽で、「嘘の醜さ」を暴露する。畢竟、「真らしさ」とは、「本当のやうに見せかける」ことではなく、舞台の「制約」を透して、現実の精神を生かし出すことである。

一、眼に見、耳に聴くところの刻々の幻象イメエジは、韻律的に、舞台の物語を運んで行くのであるが、この韻律は、戯曲の制約が作者の想像と感覚を弾ませつつ生じるので、作品に一定の色調トオンと、生命の躍動を感ぜしめるものである。

 ここで、私は仏蘭西の哲学者アランの、詩と雄弁並に散文についての数句を引用させてもらひたい。

律動リズムが自らの不変のいはば機械的な歩みをあくまで肯定しつつ、しかもその事物の在り方に従つて表現し得た時には、あだかも不変の自然がわれわれの自由意志を肯定せる時の如く、その一致から宗教的な偉大さをもつ効果が生じて来る。これこそ詩の本格的秘訣である。」

「脚韻(詩の)は意味に屈従すべきでなく、また意味は脚韻に屈従すべきでないことを知るのである。しかも美しい脚韻と美しい意味との応和が喜びを与へる。反対に苦労のあとが感じられるか、又は恩恵を請ひ求めるやうなものは、すべて醜悪である。」

「雄弁の特色は時間の法則の下に思考するといふことである。ここに於ては、一つの発展は他の発展を消して行くことを忘れてはならない。演説は聴官によつて幻覚されるものだからである。」

「演説的語句の構造は方向を含められてをり、誘ひゆくものであるに対し、散文の構造は注意力を分散させ、拡大させながら、しかも常にそれをしつかと把持することを忘れない。このことによつて、散文と雄弁との間には、推論と判断との間に於けると同様の相違が存することが解るのである。」

 これらの句は、演劇の本質に関する思考の上に、非常に大きな示唆となるものである。

 殊に、同じくアランの「演劇について」といふ論文(劇作所載)は、決して「専門的」ではないが、私の演劇論に一つの新しい道を拓いてくれたものである。序に、その中から、重要な句を拾つてみる。

「演劇は決して日常生活から拾ひ集めた感動的な、又は愉快な会話から作られるものでないことを、明かにしなければならない。」

「これは、舞踊、音楽、建築、デッサンがさうであるやうに、自己本来の方法及び条件に従つて発展するものである。」

「独白が行はれ、聴き役が現はれるといつたやうな、場所についての、つまり規則通りに行はれる邂逅に関するさまざまの約束は、決して勝手気儘なものではなく、正に反対に演劇の形式そのものに属するものであることは明白である。演劇精神がそれを課するのである。」

「すべて言葉を使用する芸術に於て、言葉の質料、即ち騒音、擦音、咿軋音などの支配力が大きくなれば、それだけ表親は貧弱になる。演劇も亦一つの言語なのである。」

「私は対話について語らねばならない。これはドラマの主要なる、しかも亦最も明瞭な方法である。」

「劇作家は、対話、独白、及び呼び返し得ない時の歩み以外の方法を有たない。」

「時の歩みが事物に価値あらしめるのである。フィガロの結婚の最後のフィガロの長台詞にしても同様である。フィガロをしてハムレットと共に不朽ならしめるこの台詞は、演劇的躍動の完璧の範例として、あらゆる雄弁に優るものであるが、しかも雄弁とは別の方法によつてゐる。ドラマを支へるために、人物の性格や思想に頼ることが如何に誤つてゐるかが理解されたであらう。それは画家が画題によつて人を喜ばさんとするのと同じ謬ちである。実際はその反対にその画題はその描線によつて喜ばすのでなければならない。同様に演劇に於ては、思想は状況と動きによつて人の心を持つのでなければならない。何ごとかを証明せんとするドラマほど世に冷いものはないのは、この故である。」

「詩がドラマのうちにおいて容易に発展し得ることは、シェイクスピヤの洞察した通りである。その舞台装置の見すぼらしさや場面の移り変りが大目に見られるのは、この鋭い詩の力によつてであり、第一、時の法則さへ尊重されてゐれば、そんなものは眼につかない筈である。しかしまた同一理由によつて、場面はいつも同一の特長のないものであつてもよく、また舞台に全く動作が欠けてゐてもかまはないことにもなるわけである。対話によるドラマの展開と、常に感じられる時の歩みが、全世界の附随し来るべきことを十分に保証するのだ。」

「身振りはどうかといふに、これは自ら言葉に従ふものである。」

「身振りや態度に変化を与へようとする幼稚な苦心ほど、まことに演劇の言葉から遠いものはない。」

「演劇の所作は時の法則に従ひ、その真実が表現されるのは継起のうちにおいてであつて、個々の部分においてではない。」

「拙劣な演劇に於いては、窮極に於ける道徳の勝利によつて、文体の欠如が救はれてゐるといふことさへできよう。」

 大分長くなつたから、これくらゐで引用は止めるが、要するに、当代の二大頭脳、ヴァレリイとアランの断言を信じるとしたならば、われわれは演劇の本質を、「舞台の制約によつて高められた生命ある幻象イメエジの発展的な律動」と解して差支なからう。

 さう考へて来ると、これまで舞台で観、活字として読んだいろいろな戯曲が顔に浮んで来る。それらの魅力──文学的にしろ、舞台的にしろ──の悉く、「劇的」と名づくべき魅力の一切は、時間と空間の「約束」に支配されるところから生れてゐることがわかる。作者の努力は、ある障壁にぶつかつて、想像の範囲を拡大し、そこに捉へられた幻象イメエジは異常な閃きと高さを示す。また、その感覚は、ある限られた境界の中で、鋭く顫へ、ぴんと張り切つてゐることを感じさせる。殊に、突発的に盛り上る「生彩に富んだ場面」は、殆んど常に、作者の思考から自然に生れたものではなく、実に、作者自身が、舞台にある「変化」を与へる必要に迫られ、即ち、「制約」の命ずるところに従つて、なんとかその瞬間の「調子」を決定しなければならぬ羽目に陥つた場合に、堆積の奥深く眠つてゐた「経験」の一つが、救ひの如く現はれた、その結果なのである。この幻象を捉へ得るか得ないか、しかも、かくの如き「経験」が蓄へられてゐるかどうかは、一に、その作者の稟質と才能によるのであらう。が、「束縛なき文体」に於ては、決して浮び出ない幻象が、「制約」の中に進展する律動に促されて、「奇蹟的に」発見されるといふ事実は、韻文の「言葉」に於ける如く、戯曲に於ても、亦常に真理である。

 俳優の演技、演出者の工夫も亦、この法則を破ることはできない。(一九三五・三)

底本:「岸田國士全集22」岩波書店

   1990(平成2)年108日発行

底本の親本:「現代演劇論」白水社

   1936(昭和11)年1120日発行

初出:「新潮 第三十二年第三号」

   1935(昭和10)年31日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年95日作成

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