翻訳劇と翻案劇
岸田國士
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翻訳劇といふ名称を私は好まぬ。翻訳は方便にすぎぬ。外国劇或は西洋劇で沢山だ。翻訳といふ言葉に妙に力を入れるのは、文化の幼稚さを証拠立てるやうなものだ。
翻訳劇といふものが、しかし、日本では新劇の一種目になつた観がある。演劇として最も不自然な演劇を指す。
先づ第一に、白に生命がない。第二に、日本人中、最も国際化されてゐない俳優によつて扮せられる西洋人は、仮装行列そのままであり、殊に、科と表情による模倣は観てゐて苦痛である。
が、しかし、西洋劇の紹介は、誰がなんと云はうと、必要かつ有益である。演出者の演出欲といふやうな問題は別にして日本の観衆は、それによつて、演劇の新しい領域を発見し得るわけである。そして、同時に俳優は、わが国の演劇的伝統からはなれて、近代演劇の心理的分野をその演技の基調として学び得るのである。
ところが、今日までの所謂「翻訳劇」は、私が常に繰り返す如く、西洋劇の本質的生命を忘れて、徒らに外貌の模写をこれ事とし、日本現代劇の基礎たる使命を果さずに終つたのである。
私は、十年前、築地小劇場の旗揚興行に際して、最も同情ある観客の一人として、忌憚のない批評を試みたが、その際も、特に、翻訳劇上演の意義と、その方法に関する私見を述べた記憶がある。一言で云へば、外国劇の上演には賛成だが、その方法を誤つては悔を後に遺すであらうといふ意味であつた。
私は、その頃から、翻訳劇のみを演らされてゐる俳優が、将来、どうなるであらうかを心配し、女形の問題などと引合せて、いろいろ考へてゐたのであるが、女形には、女形の存在理由と、根本的な修業方法があるに拘はらず、西洋人に扮する役にはその場限りの誤魔化しがあるばかりである。女形は、先づ女になることが芸であるが、西洋人になることは、「近代の演劇」に於て、芸とはいへないのである。少くとも、それは、演技の全般からいへば、第二義第三義的のものである。西洋人になるために、感情の表白が曖昧になり、俳優の個性が生かされないとなると、舞台の魅力は忽ち稀薄になることはわかりきつてゐる。
この問題を先づ解決しなければ、翻訳劇ぐらゐ演出者以外を楽しませない芝居はないだらうと思ふ。
そこで、私は、これも度々人には話したことで為るが、外国に於ける「翻訳劇」の上演方法を参考にするといいと思ふのである。
特に異国情調を売物にする芝居を除いては、外国人に扮するために、特に、その努力をする俳優を見たことがない。白人間の相違は知れたものだと云ふかもしれぬが、それが抑も認識不足で、例へば英国人と仏蘭西人との相違は、一目見ればわかる。が、「真面目な芝居」に於ては、演劇の精神を没却することを惧れ、俳優は、自己の全能力を、人物の個人的表現に傾倒し、恰も、それが「自国の劇」であるかの如き演じ振りをする。それ故、見物の方でも、舞台は外国でも、登場人物は、外国人であることを忘れさうになるのである。つまり仏蘭西の見物を前に演ぜられる翻訳英国劇は、英国で演ぜられるやうには演ぜられないにせよ、英国の見物が、自国の劇を観る如き、少くともそれに近い「印象」を与へ得る結果になる。
この方法こそ、自国劇を豊富にする唯一の道であり、殊に、日本の新劇は、この方法によらなかつたために、俳優の演技を訓練し得なかつたのである。
私の考では、外国劇を演ずる場合は、先づ、外国人の考へ方、感じ方を殺さない程度に、白を十分、日本語として「生命づけ」、その上で、日本人として特に、典型的な外貌及び習慣を封じて、一個の国際人たる生活表現を心がけ、科の如きも、わざわざ西洋人らしくする努力を省き、それよりも、活きた人間の神経を全身に通はせることを忘れなければよろしい。
かくして生れた舞台は、或は、西洋臭くないかもしれぬが、一層演劇的であり、皮相な異国趣味を求めるものには飽き足らぬかもしれぬが、ほんたうの趣味を解するものには、初めて、迎へられるであらう。
ところで、それならいつそ、翻案にしたらよいではないかといふ意見も出るであらう。私は、ある場合、殊に、外国の風俗習慣になじまぬ一般観衆のためには、その方がよいと思ふ。しかし、演劇に限らず、物語の興味は、ある程度まで、雰囲気の面白さ、生活事情の面白さを含んでゐる。さういふものを生かすためには、やはり、翻案では不十分である。
また、戯曲そのものの性質からいつても、翻案の方がよい場合もあり、翻訳に止めた方がよい場合もある。
今月の築地座は、その意味で、二つの好ましい例を示した、二つとも、方向を誤らない新劇の見本として、出来栄の如何に拘はらず、私は、大へん満足したことを特筆せねばならぬ。これがこの劇団の仕事として、最も意義あるものの一つになり得たことは、決して偶然ではないので、結局は、よき協力者の賜である。
稽古の日数がもつと十分与へられ、俳優諸君が、もう少し、これらの戯曲を演ずるに適した素質と教養とをもつてゐたら、この芝居は、その「面白さ」からいつて、日本の芝居の記録を破り得たであらう。
「ルリユ爺さん」の舞台が、装置衣裳を含めて、恐らく、新劇中の新劇であつたことも注意すべきである。「南の風」が、ルナアルよりも辰野隆氏の好みに近いものであるのは当然として、日本に若し、国立劇場でもあつたら、これは早速、その上演目録中に加へらるべきものだと私は感じた。歌舞伎にも新劇にも愛想をつかしてゐる紳士淑女は、これならと云つて飛びつきさうなものである。(一九三四・七)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「劇作 第三巻第七号」
1934(昭和9)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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