言葉の魅力[第一稿]
岸田國士



       一


「言葉」といふものは、単に思想や感情を伝へる記号として、日常生活に欠くべからざるものであるばかりでなく、ある一人の使ふ「言葉」は、万人共通の意味をもつと同時に、その人に「固有にあるもの」を現はしてゐるのであつて、この点から見れば、それは人間の「表情」に近いものである。

 従つて、語学的に、又は文法的に正しい言葉遣ひといふものもなければならぬが、一方、文学的に、又は感覚的に美しい言葉遣ひといふものも生じるわけである。

 この研究は、専門的にはひつて行くと、なかなか複雑で、限られた紙数では論じ尽せないが、此処では、なるたけ「実用的」に、言葉について考へるべきことを述べておかうと思ふ。

 先づ、「話される言葉」又は「語られる言葉」といふ範囲で、われわれは、生れてからどういふ教育を受けたらうか?

 両親を中心とする家族のものから、先づ第一に「言葉」を教へられる。

 次に年齢に応じて、境遇経験を異にする友達から、「言葉」を教へられる。

 第三に、学校の教師から、所謂「標準語」として、実は「教師固有の言葉」を教へられる。

 かうして、丁年に達する頃には、略、「その人の言葉」なるものが出来上るのであるが、その「出来上つた言葉」は、正しいか、美しいかといふ問題を別にして、大体、その人の「人柄」をそのまゝ写してゐるものだと云ひ得るのである。

 この場合、方言とか訛とかは、その人の出身地を示すだけで、必ずしも「人柄」を現はすものではなく、「東京のもの」か「地方のものか」といふ区別は、なんら「言葉の値打」に関係はないのである。

 さて、「言葉」が「人柄」を現はすといふ事実から、「言葉」に対する興味が動いて来るのは、どうしても、ある程度以上の年齢に達してからである。所謂社交らしいものがはじまり、都会に学ぶ機会を得、小説に読み耽り、自分の「心」まで鏡に映してみようといふ年頃である。


       二


 さういふ時機に、はじめて、「言葉に対する批判」が開始されるわけであるが、先づその標準として、「東京の言葉」なるものが、「地方の言葉」よりも重んぜられるのが普通である。殊に、若い女学生の間などでは、「東京の流行語」がそのまゝお手本になるやうなことがある。

 東京は文化の中心であるといふ印象が、かういふ傾向を持ち来したのであるとすれば、それも止むを得ぬが、これがために、悲しむべき結果が生じてゐる。といふのは、地方の訛がぬけぬうちに、「東京の言葉」を強ひて使ふ可笑しさは、御本人にとんとわからぬと見えるからである。これでは折角「文化人」らしく見せようとする努力が、最も「野暮つたい」人物を作り上げてしまふことになるのである。

 かういふ無駄な努力をするよりも、それだけ「言葉」に神経を使ふなら、地方の人は地方の人らしく、「自分の言葉」を「教養」によつて、正しく、美しくすることに心掛けるがよろしい。東京の人達でも、教養のない人々の言葉は、決して、模範とするに足りないのである。

 そこで、「言葉」といふものは、同じ言葉でも、それを遣ふ人の教養如何によつて、全くその面貌を異にするものであることを知らねばならぬ。

 それと同時に、教養のある人々は、その教養から生じる洗練された趣味で、自分に適せぬ「言葉遣ひ」を排し自今、「自身の言葉遣ひ」を創り出すのである。それは、周囲の影響を、さう易々と受け容れるものではない。流行語などを得々と使ふ手合は、概ね教養に於て欠けるところがある人々である。

 所謂方言や訛を固執する必要もないが、時と場合を考へて、その方言や訛が、自分の「言ひたいこと」を、伝へるのに不便であり、不似合であると判断したなら、それを緩和し、標準語に近づけることができればそれでいゝ。さういふ時にでも、言葉に対する感覚が、言葉そのものよりも一層重要な役割をつとめるものである。この感覚は、つまり、教養から来るのであつて、文学の趣味などは、最もさういふ方面の助けになると思ふ。


       三


 正しい言葉といふものは、必ずしも、美しい言葉ではない。正しい言葉は、誰が遣つても正しい言葉であるが、美しい言葉は、遣ふ人によつて、美しい言葉となるのである。

 方言の美しさ、子供の片言の美しさなどを感じ得る人は、「言葉の魅力」について、世間の人達が、どんなに無関心であるかに気がつく筈である。

 装飾は借り物ですむ場合もあるが、「言葉」だけは、決して、「借り物」ですまされないところに、一つの秘密があるのである。

 言葉の魅力は、それ故、初めにも云つた通り、詮じつめれば、「表情の美」である。意識するとしないとに拘はらず、自分がそのまゝ「言葉」の中に出るものであるから、極端に云へば、「言葉」を美しくしようと思へば、自分自身を錬へ上げるより外はない。信念を披瀝する人間の言葉、愛情を吐露する人間の言葉が、常に、何等かの意味で美しいと同じく、素朴な人、感情の濃やかな人、控え目な人などと、それぞれ、その人らしい言葉を使ふものである。そして、それは、それぞれの意味で美しい響をもつてゐる。

 言葉は性格を反映するばかりでなく、その人の「品位」を決定する。この中には多少趣味といふものも含まれてゐるから、上品な言葉遣ひとか、下品な言葉遣ひとか云つても、それだけで、その人の「品位」全体を推断することはできないが、言葉の撰択に示されたある標準が、少くとも、この人を上品にし、又は下品にする。この場合、上品な言葉を遣ふからその人が上品であるとは限らない。練習次第では、どんな「言葉遣ひ」でも真似られるものである。それがたゞ、ほんとうに自分の撰択によつて、自分のものになつてゐるかゐないかである。例へば、俗に云ふ、「遊ばせ言葉」なる一種の上流語は、必ずしも「品位」のある言葉ではなく、時には、形式的な儀礼を示すに過ぎず、時には、相手の貴族的階級心に媚びる卑屈な調子ともなるのである。

 品位のある言葉とは、要するに、その人の「高い教養」から発する「矜持プライド」の現はれであつて、己れを識り、相手を識り、礼節と信念とを以て、真実を美しく語る言葉である。


       四


 とは云へ、日常の会話が、それほど「選択された言葉」である筈はなく、またその選択に、それほど時間と労力を費してゐては、話す方も大儀なら、聴く方も骨が折れ、従つて、結果は、「言葉の魅力」を発揮し得ないわけである。

 言葉は、「自然」であることが、比較的美しいといふのはそこである。従つて、不用意に発する言葉が、そのまゝ「魅力のある」言葉となる場合は屡々あるのである。

 が、同時に、「訓練された言葉」そのものは、一つの文化的魅力であつて、日本人はもつと「現代語」を美しくする工夫をしなければならぬと思ふ。

「語られる言葉の美」と題する一文の中で、私は嘗てこの問題を詳く論じたことがあるが、声と発音のことは別として、「言葉遣ひ」だけについて云へば、大体次のやうな注意が必要である。

 一、標準語は、文法的には正しいかも知れぬが、元来、「活きた言葉」として、自然な感情を盛るに適しない。従つて、方言を訂正する参考にはなるが、対話の呼吸を束縛する恐れがある。

 二、東京弁なるものの中に、実は、東京の方言が沢山混つてゐることを知らねばならぬ。殊に、同じ東京でも、山の手と下町では、言葉の性質が違ふ。その上、東京弁は、東京乃至関東人の「気質」を表はしてゐる言葉であつて、例へば、関西の人が東京弁を使つても、それは東京弁にはならないのである。

 三、地方の方言又は訛は、それ自身、少しも排斥すべきものではないが、習慣的に、他の地方、殊に東京では、耳障りになる。滑稽に聞える。それも「個人的」な話の場合はそれほどでもないが、「公」の場所、又は、「公」の問題だと、一層、不似合な感じを抱かせる。理屈に合はぬ話だが、これは「文化は東京を中心とし、学問は東京弁に近い標準語を以て学ぶ」といふ単純な理由からであらう。が、前にも述べた如く、地方語には地方語の特色魅力があり、また、ある地方の「言葉」は、その地方の「気質」を伝へるに適してゐるのだから、これを「利用」することによつて、「言葉」に生彩を与へることも忘れてはならぬ。

 四、最も忌むべきことは、正しい言葉を使はうとして、紋切型に陥ることである。月並な挨拶や、個性のない表現に囚はれることである。東京の女には、非常にこれが多い。殊に、女学校を出て家庭をもつた婦人といふのには、自ら社交的と信じてゐればゐるほど、この傾向が著しい。ぺらぺら喋る言葉が、一つとして「自分の言葉」でなく、従つて、真の魅力を具へてゐない。御座なりな文句ほど、その人間を安手に見せるものはないのである。

 五、東京の女学生は、同じ東京弁でも、やゝ変態的な言葉を好んで使ふ風がある。家庭で「上品ぶつた」言葉を使はせられる少女たちほど、学校で、友達とはぞんざいな言葉を使ひたがるのである。男の言葉を真似たり、「酒場バア」あたりから流れ出る流行語を口にしたりする。これは、しかし、意識的に、戯談に、反抗的に使つてゐる場合が多く、別に咎めだてをするには当らぬが、地方から出て来た少女が、これを真向から受け取ると厄介である。「言葉」をもてあそぶといふことは、一つの文化的遊戯には違ひないが、これは火遊びに類するもので、怪我をすることがある。


       五


 現代の小説や戯曲は、大体、標準語たる口語体で書かれたものであるが、日本の口語体は、そのまゝ「話される言葉」でないことは誰でも知つてゐる。「話すやうに書く」と主張する作家もあるが、戯曲はとにかく、小説となると、どうしても叙述が主になるから、日常の対話とその趣を異にするのが普通である。

 それなら、小説の中の会話や、戯曲の中のせりふがどうかと云ふと、これまた、その人物の境遇、職業、年齢、教養、並に作者の好みによつて、所謂、「万人」の模範となるやうな言葉を使はせるわけに行かない。

 が、何れにせよ、文学に親しむことは、言葉の洗錬に役立つこと勿論で、字引のやうにそれをそのまゝ使はないまでも、言葉に対する感覚を鋭敏にし、豊富にすることはたしかである。

 それならば、文学を専門にやつてゐる人達の「言葉遣ひ」乃至、「言葉の調子」は、さぞ申分のないものであらうと想像されるかも知れぬが実はそんなものでなく、普通の人から見れば、その「文学的すぎる言葉の遣ひ方」が、既に、片寄つた好みと癖を示し、一種の臭みになつてゐることを気づくのである。

 言葉の中に含まれる「職業的臭味」といふものは、全く争はれないもので、これがその人の特徴にもなり、また多くの場合、気障きざつぽさや滑稽さを加へるものである。教師は何時でも「教師らしく」話し、女優は何時でも「女優らしく」話すものであつて、それを自分では知らずにゐるのである。


       六


 そこで、「言葉遣ひ」と共に、「言葉の調子」といふものが、如何に重大であるかといふことがわかる。

 方言や訛と共に、「アクセント」といふ問題が生じて来るが、これは、単語について云へば、関西と関東とで、大体あべこべと考へてよろしい。この習慣はなかなかなほらないもので、発音の訛はなくなつても、アクセントの誤りは、東京に三十年ゐてもそのまゝといふ人が随分多い。

 しかし、それよりも大事なのは、「言葉全体の調子」つまり、「話のしかた」とも云ふべき、抑揚高低緩急の操作である。これは、「言葉遣ひ」の中に含めることも出来るが、引離して考へる方が便利であるから、こゝで、一応述べておくことにしよう。

 言葉の調子を形容するのに、例へば、「甘つたれた調子」とか、「朗らかな調子」とか、「無愛想な調子」とか、「慇懃な調子」とか、「世間馴れた調子」とか、「分別臭い調子」とか、「軽薄な調子」とか、いろいろ云ふが、これはその時々の、又は単純な感情的色彩を指す場合もあり、一方、その人の性格、気風を表はしてゐるやうな時にも使ふのであつて、これこそ、寧ろ、「言葉の生命」であるとも云へるのである。例へば、

「昨日、久し振りで銀ブラをしたの。そしたら、あの風でせう。前を向いてなんか歩けないわ。袂をかうして、顔へあてたまゝ、蟹みたいに横歩きをしてたでせう。そん時、いきなり、肩を叩かれたもんで、あたし、びつくりしたわ。誰だとお思ひになつて? あなたのお兄さん……」

 こんな話をするにしても、或は、真面目に訴へる如く、或は、自嘲的に戯談めかして、或は、快活にうれしさを包まず、同じことを、同じ心持で云へるのである。が、それ以上に、これだけの言葉に、さまざまな「魅力」を添へる要素がある。技巧以上の技巧とも云ふべきものであらう。一例を挙げれば、機智の閃きである。機智は軽薄の中にもあり、慎しさの中にもある。後者が前者に優つてゐることは云ふまでもあるまい。

 要するに、「上品な言葉遣ひ」必ずしも上品でなく、「詩的な言葉」必ずしも、話して美しくなく、「六ヶ敷い云ひ廻し」必ずしも教養を物語るものではない。東京弁、必ずしも文化的でなく、方言、必ずしも滑稽ではないのである。

 その人が、その場合に、最もその人らしく、率直に、且つ、巧みに「思つてゐること」を云ひ表はし得た言葉が、常に最も魅力ある言葉であること、殆ど疑ふ余地はない。

 かういふ言葉の訓練は、現代日本の情勢では至極困難なことであるが、一般に、少なくとも教養ある婦人の間に、それが行はれなければ、「言葉の文化」が何時までも向上する筈はない。

底本:「岸田國士全集22」岩波書店

   1990(平成2)年108日発行

底本の親本:「婦人公論 第十九年六月号」

   1934(昭和9)年61日発行

初出:「婦人公論 第十九年六月号」

   1934(昭和9)年61日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年95日作成

青空文庫作成ファイル:

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