〝にんじん〟を観て
岸田國士
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映画「にんじん」をみて、第一に感じたことは、監督デユヴイヴイエが、単にルナアルの小説及び戯曲からその主題を藉りたといふばかりでなく、ルナアル流の「文章的表現」を、映画のリズムによつて組立てやうと試みてゐることだ。
「イメージの猟人」たる原作者は或る意味に於て、キヤメラの魂に通ずるものがあるかも知れぬが、悲しい哉、暗示と省略の二点で、映画は文学に一歩を譲らねばならぬ。
但し、ルナアルの作品自体から、自然と生活の雰囲気を感ずることは、日本の読者には十分望めぬことであり、デユヴイヴイエの映画的表現によつて、仏蘭西の田園を包む影と光が、まざまざとわれわれの心に触れて来る。
俳優も、それぞれ先づ適役と云ふべきであらう。
主人公「にんじん」に扮するリナン少年は若干美少年過ぎるところが欠点。母親になるフオンツネエ夫人は、寓話的人物としてその持味を活かしてゐる。古典悲劇の侍女役然たるそのデイクションも、監督は参つたらうが、この映画にはさほど邪魔にならぬ。
父親のアリイ・ボオルは、「真情流露を逆に行く人物」として、後半が著しく好々爺になりすぎた。もう少し、ストイツクな半面が出せたら申分なかつたらうと思ふ。
女中のアンネツト、婆やのオノリイヌ、共に、ルナアル的タイプであつた。
総体に、「にんじん」が「好い子」になりすぎ、「ひねくれ」小僧の心理が描かれてゐない。従つて、原作のユウモアが薄らいで、人情味が眼立ちすぎる。殊に、「白」のわからぬ人には、ルナアルの機智が通じないであらう。
タイトルは私が責任者のやうになつてゐるが、楽屋をぶちまけていゝなら、写真を見ないで「会話」の翻訳だけさせられたのだから、出来栄は御覧の通りだ。責任を逃れる気はないが、別に得意でもない。
大した当て気もなく、しかも、これほど楽しんで観てゐられる映画は、自分との関係を離れて、さう滅多にないだらうと思ふ。
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「時事新報」
1934(昭和9)年4月27日
初出:「時事新報」
1934(昭和9)年4月27日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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