女優リイヌ・ノロのこと
岸田國士
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最近 L'Assommoir といふ仏蘭西の発声映画を見る機会を得た。ゾラの小説を可なり忠実に脚色したものであり、画面全体は、例の自然主義的ロスリイに堕してはゐるが、出演俳優が悉く仏蘭西の舞台俳優であり、それらの俳優が、思ふ存分、「舞台的演技」を試み、監督がまたそれに見惚れた如くカメラを向けさせてゐる点で、一種の興味を惹いた。
が、何よりも僕を感動させたのは、この物語の女主人公ジェルヴェエズに扮するリイヌ・ノロといふ女優が、十三年前、巴里ヴィユウ・コロンビエ座の学校で、一緒にコポオの講義を聴いてゐた一研究生であり、その少女が、今、スクリインの上で、この大役を堂々としこなして、天晴れな成長ぶりを見せてゐることだつた。
彼女はたしか、僕の識つてゐる期間に於ては、平凡な一研究生として、二三度、ヴィユウ・コロンビエの舞台を踏んだことを記憶してゐるが、過分な役を振られて胸ををどらし、コポオの噛みつくやうな小言を浴びながら、臂を左右に張つて、おろおろと台詞を吐き出してゐた。
ところが、その後、僕は、日本に帰り、ヴィユウ・コロンビエ座が解散し、彼女をはじめ一座の人々の消息を、しかと伝へ聞く術がなかつた。
テシエなどと共にジュヴエの許に走つたか、十五人組と行動を共にしたか、それともどこかブウルヴァアルの劇場に入つたか、そのへんのところはまだ調べてもみないが、この映画に現はれた彼女は、僕の観るところ、定めし「よき修業」を重ねたに相違なく、再会の悦びを割引するとしても、当今、一流の「新劇女優」たるに恥ぢない技倆を認めさせるものであつた。
僕が特に「新劇女優」と呼ぶ所以は、彼女が、その驚くべき舞台的成長にも拘はらず、毫も芸人的「粉飾」によつて自らを目立たしめようとしてゐないからである。言ひ換へれば、その扮する人物の、厳粛素朴な構成を最高度に生命づける「芸術的演劇」の精神が、彼女の全身に漲つてゐるのを感じたのである。役柄も地味であるが、それだけに、この女優の「内的な」美しさが演技の魅力を醸し出し、誇張とマンネリズムを排した「魂の表現」は、正に堂に入つたものと、僕は、それだけで、不覚にも眼頭を熱くした。
よき環境に置かれ、よき指導者を得、彼女は遂にこれまでになつたのだ。
この映画からもう一つ発見をしたことは、同じ舞台俳優でも、「正しい訓練」を受けたものと、「因襲的教育」を受けたものとでは、その映画俳優としての感覚に雲泥の差が生じるものだといふことである。即ち、前者は、例へばリイヌ・ノロの場合で、映画に於ける「舞台的演技」の領域をおのづから感得し、後者は、共演の某々に見る如く、映画に於て舞台的習癖を不用意に暴露してゐる。これは、寧ろ、「正しい演技」といふものは、映画にも舞台にも、本質的に共通するものであるといふ結論になるのかもしれぬ。このシナリオとこの監督の前に立つたリイヌ・ノロのジェルヴェエズは、決して映画的純粋さを演技の上で発揮し得たとは云へぬが、さうかといつて、その舞台的魅力なるものが必ずしも映画性の没却とならぬところ、わが国映画批評家の一考を煩はしたい点である。
その証拠に、僕は、逆の例をも挙げることができる。
先日、ある目的で、PCLの「さくら音頭」といふトオキイを「見学」したのであるが、それには、日本の新劇俳優中、最も名声ある数名の人々が登場し、それぞれ所謂「舞台的経験」を示してゐた。しかるに、それらの人々は、僕の意見では、凡そぎごちない、重苦しい、凡そ「映画的」でない、従つて、魅力に乏しい演技を見せてゐるのである。
が、これを以て、舞台的経験が発声映画にとつて無用であると早合点してはならぬ。実は、舞台経験にもよりけりであつて、これらの人々は、なるほど今日の新劇界では錚々たる俳優であるかもしれぬが、そもそも、今日の新劇が、悉く「正しい訓練」を欠き、従つて、その最高レヴェルを代表するといふそれらの俳優の演技なるものが、凡そ「舞台的」でもなんでもなく、言ひ換へれば、舞台の上でも、ぎごちなく、重苦しく、凡そ魅力に乏しいものなのである。殊に、白の不味さ加減は、今日の新劇の致命的特徴であつて、それをわざわざ、エキスパアトとしてトオキイに採用した監督の了見が僕にはわからぬ。
これならば、監督の頭次第で、づぶの素人を使つた方がよほどましだと、僕は信じてゐる。
因に、この「さくら」映画で、一番気の毒な目に会つてゐるのは、ダイアロオグであることを附け加へておかう。(一九三四・四)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「劇作 第三巻第四号」
1934(昭和9)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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