芝居と見物
売笑的舞台への攻撃
岸田國士
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現代日本の文化は、いろいろの部門に於て、もつと厳密な批判が加へられなければならぬと思ふが、私は、社会的に観て、最も時代の空気を反映すると考へられる演劇の立場から、この現状の憂ふべき傾向を指摘してみようと思ふ。
先づ東京だけについて、主なる商業劇場の出し物を調べてみると、「近代の教養ある人々」を楽しませるやうな戯曲を上演してゐることは先づ例外といつてよろしく、これを演ずる俳優のうち、高等教育を受けたといへるほどの者は一人ゐるかゐないかである。
劇場側は、所謂「高級な作品」を忌避し、それでは客が呼べぬと考へ、客さへ来れば、どんな「愚劣な脚本」でも有難さうに舞台へかける。俳優のうちには、学識は別として相当芸術的感覚を具へたものもゐるから、そんなものを真面目にやる気はせぬといふが、大体無理にでもやらされるやうな制度になつてゐる。
興行者は、劇場の文化的役割などといふものを念頭におかず、その周囲も彼等を「許し」てゐるから、「趣味の低劣さ」によつて紳士としてのプライドを失ふおそれもなく、単に事業家として成功しさへすれば、鼻を高くしてゐられるのである。
それなら見物はそれで満足してゐるかといふと、必ずしもさうでない。第一、一興行を欠損なしに打ち通すためには、「連中」といふ制度を設けて、俳優に切符の押し売りをさせ、割引の方法で団体を勧誘し、莫大な広告費を投じ、いはば、「無理矢理に」見物を掻き集めてゐるのであるから、見物の「嗜好」といふやうなものは、明かに知ることができない。
彼等は劇場に、「何かを求めに」来るのではない。何を与へられても、その時々、感興の起り方が違ふのである。価値批判などする余裕はない。刺激的なものほど、ざわめきが大きいといふだけである。その「ざわめき」の程度によつて、興行者は「当つた」かどうかを判断し、次の出し物を撰ぶ参考にする。それ故、劇評家の批評などは、役者が気にするだけで、興行者はなんとも思つてゐない。
しかし、興行者も、かういふことは考へてゐる。「当節は、見物が気まぐれで、どんなものを求めてゐるか見当がつかない。われわれは決して、これ以上のものをやらぬとはいはぬ。見物さへ満足してくれれば、どんないいものでもやる」と。
いいものなら、見物が満足しないわけはないと考へられないこともないが、必ずしも営利といふ立場からはさうは行くまい。一歩譲つて、せめて「文明国の体面を保つ」程度のものをやつてはどんなものであらうか。
これは今日、興行者に向つていふことは無駄である。見物の方でさういふ意志表示をしさへすればいいのである。換言すれば、観てゐて「恥かしくなる」やうな芝居に向つて、容赦なく忿懣の意を表すべきである。それを悦んで見てゐる連中に、「おや、さうだつたか」と反省させるやうに手段を取るべきである。営業妨害を奨励するやうだが、それは却つて、興行者を勇気づける唯一の手段であり、一般観衆の劇場に「求めるもの」を、各自の頭にはつきり描き出させる好機会である。
政治家が文化的指導力を失ひ、民衆が生活に喘いで、趣味の方向を誤りつつある時、最も端的に、そして最も朗らかに、国民的堕落を警告し得るものは、劇場に於ける「教養ある青年」の痛烈な掛声であると私は信じる。
この方法は単に、営利劇場の「悪趣味」に対して必要であるのみならず、所謂「新劇」と称する独りよがりの舞台に対しても、同様、その「無定見」と「退屈さ」の度合を知らしめるために役立つであらう。
私は、現在の芝居が「つまらぬ」から観に行かぬといふ人々を「頼もしき見物」と呼んでゐたが、それはあまりに消極的な考へ方であることに気づいた。
情熱のはけ口を求め、時代の病根に気づいてゐる人々は、劇場に押し寄せて、先づかの売笑的舞台を弥次り飛ばし、次いでかの「親不孝俳優」を立ちすくませてみてはどうか。若干のデマゴジイを許してもらへば、これこそ、昭和の歴史を飾る合法的愛国運動だと思ふが、賛成者はありませんか?(一九三三・四)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「帝国大学新聞」
1934(昭和9)年3月19日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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