近代劇論
岸田國士



     一 近代劇とは


 この名称は元来、あまりはつきりしない名称で、恐らく「近代」といふ言葉は、moderne の訳に相違なく、してみると、普通使はれてゐる「新時代」といふ意味もあると同時に、歴史上の「近世」を指すことにもなるのである。歴史の方では、中世の後を受けた文芸復興期以後を、詳しく言へば、宗教改革以後を指すのだと記憶してゐるが、仏蘭西歴史によると、Histoire moderne といへば、コンスタンチノオプル攻略(一四五三年)から仏蘭西革命(一七八九年)迄をいふのであるから、その後は「現代」の部にはひるわけである。それなら、「近代劇」とか、「近代文学」とかいふ名称は、文学史的分類である以上、歴史的解釈に従ふ方がいいやうでもあり、また、「近世」といはずして、特に「近代」といふところに、寧ろ文学的ニュアンスをもたせ、近世のうちでも特に現代に近い部分、或は現代を含めた最も「近代的」近代を意味するやうにも取れるのである。

 が、それと同時に、われわれが、近代文学、殊に近代小説とか近代劇とかいふ場合、それだけではまだこの言葉の概念を掴み得たとはいへないやうに思ふ。なぜなら、それはもう、時代そのものの年代的穿鑿を離れて、寧ろ、「近代的」なる質乃至色調の問題に重点をおくのが常識であり、更に、一歩進めて、近代小説といふ言葉よりも近代劇といふ名称の方が、一層、ある限られた、一と纏めになつた、特質のはつきりした部門を指してゐるとも考へられる。つまり、「劇」に於ける「近代的」要素は、小説に於けるそれよりも、何か目立つもの、浮き出たもの、ある一定の方向をとつてゐるものといふ感じがするのである。

 これはいふまでもなく、文化史的考察がその土台となつてをり、劇の方面では、それが単に漠然たる傾向の綜合的観念を越えて、殆ど、ある一定のジャンル、芸術上の種別に近いものを示してゐるからである。

 そこで、「近代劇」とは、所謂「近代文学」の流れに沿つて生れ出た「劇」ではあるが、ただ単に、近代思想を盛り、近代生活を描き、近代的感覚を織り込んだといふやうなこと以外に、「劇」といふ芸術形式に対する近代精神の働きかけ、即ち、「演劇的革新」を目標とする本質的努力を具現した劇であつて、そこには、明かに、意識的にもせよ無意識的にもせよ、因襲の破壊と伝統の探究が、何等かの形で示されてゐなければならぬ。

 その意味で、「現代劇」の様々な先駆的現象は、正しく近代劇の本流と結びつくのであるが、この講座(岩波世界文学講座)で私に与へられた課題は、寧ろ近代劇の源に遡ることにあるのだと解し、さういふ立場から、知つてゐることだけを述べてみようと思ふ。


     二 近代劇の血統


 近代劇が如何にして生れたかといふ問題はなかなかむづかしい問題だ。なぜなら、そのためには、先づ世界の演劇史を一と通り漁らなければならぬ。そして、それぞれの国のそれぞれの時代を照し合せて、その間に起つた文学、殊に劇文学の交流作用を見きはめる必要がある。比較文学の方法の利用は、この研究に欠くべからざるもののやうである。

 なほ、各国各時代各流派の代表的作家ばかりについて、何かを知るといふだけならそれほど困難でもないが、近代劇の祖先を誤りなく調べ上げるためには、各国戯曲史の上で、どうかするとささやかな存在として取扱はれてゐるかの慎ましき「先駆者」を見落してはいけないのである。それと同時に、超民族性ともいふべき特殊な素質によつて、或は偶然の機会に恵まれて、逸早く国境を越えたある種の作家が、真価以上の役割を自国以外で演じてゐる事実を警戒し、注意しなければならぬ。さうかと思ふと、ある国で最もその後代に影響を与へたやうな天才的作家が、その作品の純民族的特質に災され、他国の文壇に容れられず、その功績を過少に見積られてゐるやうな場合もある。

 で、私はこれから、自分の専門である仏蘭西劇を中心として、できるだけ大づかみに、近代劇の血統を尋ねてみることにしよう。断つておくが、これと同じ方法で、独逸劇、英国劇、露西亜劇等を中心とする近代劇の系図が組立てられるわけであるが、それは私の任ではない。

 さて、仏蘭西で、le théâtre moderne といふ言葉が使はれだしたのは相当古いことで、それは多分十七世紀の所謂古典劇時代からである。が、さういふ詮議は別として、この時代に仏蘭西の劇文学は名実ともに華々しい発展を遂げ、なかでも、ラシイヌ、コルネイユ、モリエエル、この三人は仏国戯曲史の巻頭を飾る大きな名前である。所謂古典主義又は擬古典主義なるものについては、特に面倒な説明を略して、ただ単に、その時代の代表的作家が、如何なる意味で「近代」に繋がつてゐるかを見ればよい。

 ラシイヌ(Racine, 1639-99)は、コルネイユ(Corneille, 1606-89)と比較される時、常に、より現実的であるとされるが、なるほど、恋愛心理の解剖に於て、当時としては驚くべき精緻さと鋭さを示したことは事実であつて、単にその一面から見ても、彼は、コルネイユよりも、一層「近代的」であつた。ところで、そればかりではない。コルネイユの理想主義は一種の型に陥つてゐるが、彼の現実主義は、希臘劇の影響は別として、その時代に於ける浪漫主義とも見らるべきもので、これはたしかに、各時代を通じ「近代的」なるものは浪漫的なりといふ見方に合致するのである。その証拠に、彼の作品は、最初、世間の物議を捲き起し、殊にその傑作「フェエドル」(Phèdre)の如きは、不道徳なりといふ非難で、彼の周囲は一時暗澹たる有様を呈した。これは丁度、十九世紀に於て、かのフロオベエルの小説「ボヷリイ夫人」、更に、ゴンクウルの戯曲「娼婦エリザ」が遭遇した運命によく似てゐる。

 彼は戯曲に「現実的な真理」或は「真理的な現実」を盛り得たことで仏蘭西劇を豊富にしたのみならず、最も大きな功績の一つは、その外にある。元来、劇の構成を、形態から見て二つの流儀に分けることができるが、その一つは、抑も彼ラシイヌによつて導かれ、完成されたといつてよろしい。即ち、複雑派に対して単純派がこれである。これはつまり、近代の「筋を重んじない文学」の始まりであり、「山のない芝居」の出発点である。即ち、メロドラマの排斥が近代劇の芸術的純化に役立つたことを考へ合せて、彼の拓いた路は決して無意義ではなかつたのである。

 これに反し、コルネイユは、西班牙劇を手本として、筋の込み入つた、恐ろしく山の多い劇的物語を書いたのである。この方は、将来、シェイクスピヤによつて代表される複雑派の中に合流さるべき一人である。

 その次に、モリエエル(Molière, 1622-73)はどうかといふと、これは、ラシイヌと並んで、仏蘭西劇の伝統を背負ふ大喜劇作家であるが、彼の喜劇の優れた特質は、所謂「高級喜劇オオト・コメディイ」と呼ばれる性格解剖の文学であり、バルザックの「人間喜劇」に通ずる最初の指標でもあるから、近代仏蘭西諷刺劇の登場人物は、多少ともモリエエル的扮装を施されてゐると考へられないこともない。

 その上、ラシイヌの典雅流麗な詩的格調が劇的文体の見事な創造を妨げなかつたことは、特に注意すべきで、これまた、モリエエルの自由奔放な即興的諧謔が、人間生活の苦味に浸つて、その色彩を鈍らさなかつたことと共に、後世の作家は、そこに多くの学ぶべきものを発見したのである。

 ところで、この仏蘭西劇の神ラシイヌには、やはり、多くの人間と同様、公平に見て少くとも三つの欠点がある。

 第一に、「言葉の綾」が今日から見て、少々神経に触りすぎるところがある。第二に、心理を追ふことに急で、人物の輪郭がぼやけてゐる。第三に、哲学が皆無である。その得意とする恋愛問題でさへも、それは問題となるまでに思索されてゐないのである。

 この点で寧ろ、コルネイユに軍配をあげる批評家もあるくらゐであるが、そのコルネイユは、時代の進むにつれて、少しつつ領土を失つて行くのに反し、ラシイヌは、益々多くの信奉者を作りつつある。

 十八世紀に至つて、繊細微妙な恋愛劇作者マリヴォオ(Marivaux, 1688-1763)が先づ、彼の直系と目される。しかも、ラシイヌの悲劇は、ここで、喜劇となつてゐることを忘れてはならぬ。つまり恋愛心理の悲劇面から急にその眼を喜劇面に転じたところに、マリヴォオの十八世紀的感覚が動いてゐる。

 この時代に、ヴォルテエル(Voltaire, 1694-1778)も亦戯曲を書いてゐる。彼は自分の豊富な才能を信じてゐたから、悲劇であれ喜劇であれ、なんでも書きまくつた。彼は、また英吉利に旅をして、どえらい土産を持つて来た。英語を三年間勉強して、シェイクスピヤを読んだのである。仏蘭西の文学者でシェイクスピヤを読んだのは、先づ彼が初めてだといつてよく、従つて、仏蘭西に、隣国が生んだこの大劇作家の名が伝はつたのもそれから後である。が、彼の土産はそれだけではなかつた。それ以後の悲劇に英国劇、殊にシェイクスピヤ調を混入したのである。大胆な試みであつた。が、種がわかつてみると、世間は「なあんだ」といふことになる。彼はまた、それまで仏蘭西の舞台では見られなかつた演出上の新工夫を行つた。地方色の尊重がそれである。が、結局、同時代の筆敵ディドロが評したやうに、「彼は何を書かせても二流どころだ」つた。しかし、この説は誤りだといふ批評家もある。それに従へば、「彼は成程悲劇に於て二流の位置を占めてはゐるが、喜劇に於てはびりつこけだ」といふのである。

 も一つ、ヴォルテエルとシェイクスピヤについて云ひたいことがあるが、その話は、本講座「シェイクスピアと世界文学」に本多顕彰氏が詳しく書いてをられるから省く。

 要するに、その剛邁不羈の精神をもつて、仏蘭西十八世紀を睥睨したヴォルテエルは、劇作家として何もしなかつたやうなものであるが、ただ僅かに、シェイクスピヤを自国に紹介し、自分の名と作品を独逸劇壇に送り込んだことで聊か慰められるであらう。

 独逸国民劇の創始者レッシングは、シェイクスピヤを以て範とし、従来の仏蘭西劇及びその模倣的傾向を一掃しようと企てた。なるほど、彼の評論集に収められた劇評によつて、当時ハンブルグ国民劇場だけで上演された脚本の比例を見ても、仏蘭西劇が大部分(約三分の二)を占めてゐるといふ有様である。その中でヴォルテエルのものがなかなか多い。そして、不思議なことには、ラシイヌが一つもないのである。序にもう少し新関良三氏の「独逸劇の特質」を参照すれば、ゲエテはヴォルテエルの悲劇を二つも訳してゐる。一方では、シルレルがラシイヌの「フェエドル」その他を訳してゐるさうである。が、何れも、仏蘭西劇の味方ではなかつたらしい。この辺の事情は、なかなかややこしいのであつて、それならこの二人が、仏蘭西劇の影響を絶対に受けなかつたかといふ問題になると、もう一度新関氏にお尋ねしてみなければわからなくなる。

 話を先に進めよう。独逸にはやがて、所謂シュトゥルム・ウント・ドランクの時代が来る。仏蘭西にも亦、十八世紀後半に於て、演劇革新運動の第一声が挙げられる。

 ニヴェル・ド・ラ・ショオセ(Nivelle de la Chaussé, 1692-1754)の「涙ぐます喜劇」が、影は薄くとも、第一に近代中産階級劇のトップを切り、悲劇と喜劇の固定型を破つて、仏蘭西に於ける新しい戯曲のジャンルを決定した。この頃から、十七世紀以来、総てのものの頭に食ひ入つてゐた──「人の性は悪なり」といふ観念が「人の性は善なり」といふ思想に代つた。ショオセを初め、この時代の劇作家は、勿論、この立場から人間を見た。喜劇は最早、単に人を笑はせるものでなくなつた。正しい人間の道徳感にある波紋を与へればいいのである。この楽天主義は、そのままの姿で続く筈はないが、逆に、近代厭世思想の上に、多少とも明るい微笑を投げかける習慣を与へたといへるのである。そこへ、シェイクスピヤの翻訳と翻案が続々と現れはじめた。ディドロが、例の戯曲論を発表した。曰く、「悲劇と喜劇の間には、真面目な劇といふものがなければならぬ。更にまた、真面目な劇と悲劇、また喜劇の間に幾つかの階梯があるに違ひない」

 戯曲ジャンルの混淆から、戯曲ジャンルの新発見に進んで来た。が、ディドロの百の議論よりも、当時の沈滞した劇壇に一風変つた意見を以てのぞみ、その「劇芸術論」に於いて、演劇に於ける写実主義レアリズムの歴史を開いた一人の作家に注意すべきである。彼は、メルシェと呼ぶ微々たる才能にすぎなかつたが、その云ふところはかうである──「書斎の中に材料を求めず、出でて実人生の頁を繰れ」。が、後にも先にも、十八世紀を通じて、唯一人天才の名に値する劇作家は、実は、本来の文学者ではなく、たまたま道楽に芝居を書いた一事業家であつた。

「セヴィラの床屋」の作者、ボオマルシェ(Beaumarchais, 1732-99)は、内容と文体とトリックの三方面から、空前の舞台的成功を収めた。しかも彼は、その傑作「フィガロの結婚」に於て、遂に仏蘭西革命の予感を時代の人心に植ゑつけた。民衆の声が初めて劇場にはひつたのである。彼の戯曲家的血液はどこから受け継いだか? 父系の一人にモリエエルのゐることはたしかだ。或は、デュシスの翻案を通じてシェイクスピヤの香を嗅いだかもしれぬ。が、時計屋の息子から宮廷の音楽教師となり、金持の未亡人を二人まで籠絡し、裁判に破れて牢に投ぜられ、冤されてルイ十六世の秘書役を勤め、米国の独立戦争に武器を売りつけ、巨万の富を蓄へた瞬間無一物となり、路傍に餓死するに至るまで、彼ほど世相の表裏に通じ、社会の上下を泳ぎ廻つたなら、そこから、無限の劇的霊感も受け得られようではないか。

 彼はしかし、それほどの傑作を書きながら、なんとなく人が真面目に取らないのである。つまり、ボオマルシェは天才だといふのを聞いて、多くの人は、あんな巫山戯た天才がゐるかしらと思ふのである。それでも、ある批評家は、彼に「近代劇の父」といふ名を奉つた。と同時に、「ボオマルシェ、又の名はフィガロである」と宣言する。フィガロは皮肉で、敏捷で、図々しくて、マテリアリストで、磊落で、意地ツ張りで、傷み易い心の持主である。彼は、たしかに、五十年ばかり早く生れすぎたといふ説もある。「近代劇の父」といふ名はそれでわかるとして、またかうも云へるのである──「ボオマルシェはたしかに、仏蘭西劇を沈滞から救つたが、その救ひぶりがあまり鮮かであつたのは、彼の作品中に、演劇の堕落が悉く約束されてゐたからだ」と。

 なるほど、近代に於ける「うまく作られた芝居」は、悉く「フィガロ」の落し胤に相違ないのである。

 仏蘭西革命が総てを破壊した如く、ボオマルシェの投じた一石は、劇壇にも、一時、無気味な沈黙状態を現出させた。何人も「新しい方向」に踏み出す勇気を失つたかの如く見えた。

 ただここに、ネポミュセエヌ・ルメルシェといふ、変な名前の男が、「おれが、二十二日間で、今まで芝居の畑になかつたやうなものを芝居のなかへ取り入れて御覧に入れる」と豪語し、その約束を実行した。「歴史喜劇」なる新様式を発明したのである。ところでそんなものを発明はしたが、批評家の多くは、それを「歴史でもなく喜劇でもない」と断定した。それにも拘はらず、四十年後に、スクリイブがこれに倣ひ、百年後に至り、エドモン・ロスタンが幾分、その手法を踏襲したと思はれる。

 革命時代及び帝政時代は、演劇的不毛の期間であつた。が、それは、浪漫主義の陣痛期に外ならぬ。

 やがて、ヴィクトオル・ユゴオ(Victor Hugo, 1802-85)が、戯曲「クロンウェル」を発表し、その序文に於て、浪漫劇の主張を振り翳した。

 彼は先づ、「人生そのものは、支離滅裂にして、矛盾撞着に充てり」と云ふ。それ故、戯曲も亦、条理整然たるを要せずといふのである。次に「戯曲の革新は、第一に文体より始めざるべからず」と云ふ。彼は韻文を棄てなかつたが、詩形に若干の自由を求めた。また「長台詞を封ぜよ。人物をして自ら語らしめよ」と云つた。彼は、舞台上に人間の全貌を描き出す野心を示した。政治的英雄が同時に家庭の玩具であり、戦場の勇士が、下手な詩人でありといふ風にクロンウェルを取扱つた。その意図は兎に角、それがためにこの戯曲は上演不可能なものとなつた。その後で「マリオン・ドロルム」を書き上げたが、これは思想過激とあつて検閲が通らなかつた。一八三〇年、遂に、「エルナニ」の幕が開いた。人、これを呼んで「エルナニ」の戦ひと云ふ。それほどこの戯曲初演の当夜は、物情騒然たるものがあつた。見物席は敵味方に分れて怒号し、弥次と喝采が入り乱れた。が、最後に、浪漫主義の勝利が宣せられた。

 彼ユゴオは、その実、生涯を通じて、真の劇作家となり得なかつた。詩人としての巨人的歩みにも拘はらず、戯曲に於ては、徒らに空想が言葉の虹を撒き散らすにすぎず、やうやく、ラシイヌの十二韻詩アレクサンドランが、一世紀を跨いで彼のペンに蘇つたにすぎぬのである。かくて古典主義劇の残塁に馬を進めながら、彼は遥かに先輩ラシイヌに脱帽したと私は信じるのである。その少し以前に英国俳優の一団が、海を越えて、巴里へ乗込んだことを特記せねばならぬ。最初は、一八二二年、出し物はシェイクスピヤの「オセロ」であつた。見物は、「大笑ひをした」と記録にある。そればかりではない。「けだもの」といふ半畳がはひる。生卵をぶつける。焼林檎を投げる。「シャケスパアル引つ込め」といふ始末であつた。

 それが、一八二七年に、ケンブルがその一座を率ゐて「ハムレット」を出した時、殊に、一八二九年、別の一座が「オセロ」と「コリオラン」を上演するに及んで、シェイクスピヤの声価は定つた。見物は無条件に、この異国の天才を享け容れたのである。殊にすさまじい熱狂の声が、若い劇壇の中に起つた。

 舞台の上で、ほんとに涙を流す俳優を、巴里の見物ははじめて見たのである。スミスソンといふ英国女優は、その時、オフェリヤに扮して、本物の狂女といふ印象を与へた。殊に、剣で刺されたり、毒を飲んだりする場合、眼もあてられぬ苦しみ方をするので、見物の女達は顔を蔽つた。

 シェイクスピヤの捲き起した旋風のなかで、わがヴィクトオル・ユゴオは、「クロンウェル」の序文を綴つたのであつた。彼は、ペンを投げて叫んだ──「この芝居の神様は、コルネイユとモリエエルとボオマルシェの天才を一人で背負つてゐる」と。

 が、シェイクスピヤから、最も好い影響を受けた浪漫派の劇作家はヴィニイ(Alfred de Vigny, 1797-1863)と、ミュッセ(A. de Musset, 1810-57)である。

 この二人は、ユゴオの如く喬木の感じこそしないが、その劇作家的才能に於ては、遥かに緻密豊富であり、その異常な感受性は、単にシェイクスピヤばかりでなく、バイロンからも、ゲエテからも、同様に、享け容れるものを享け容れ、ヴィニイは、「チャッタアトン」「アントニイ」の如き、粉飾を去つた世紀的苦悶の劇を書き、殊に、ミュッセは、柔軟繊細な近代的感覚を以て、ラシイヌの古典美とシェイクスピヤの野生美とを、併せてその作品の上に盛り、嫋々たる微風に沈痛な面を晒すが如き、正にユニックな喜劇を物したのである。

 ミュッセは、その処女作、「ヴェネチヤの夜」が舞台的失敗に終つた結果、その後、上演を断念して、自ら「書斎で観る芝居」なるものを書き続けたが、これが、作者の死後、今日に至つて、観客の心を酔はす比類なき近代古典の中に数へられてゐるのである。

 序に云ひ漏してはならぬことは、この期間に於ける独逸劇の侵入とその反響である。

 ゲエテの小説「ヴェルテル」が、一七七五年に脚色上演され、続いて、その翻訳が現はれて、仏蘭西の劇壇及び読書界に一大衝撃を与へた。が、それはあの偉大な純情と絶望の詩が、スタアル夫人の所謂「感情的及び政治的理由」によつて、革命直前の人心を捉へたのである。かくて仏蘭西浪漫主義は、ゲエテのうちから、「独逸的浪漫主義」を摂取した。次で、「ファウスト」の第一部が、一八〇八年、スタアル夫人の管理してゐる素人劇場の舞台で初演されたが、一八二八年、ジェラアル・ド・ネルヴァルの名訳が出版され、その深い哲学的瞑想が、やうやく当時の新精神に食ひ入つた。ここでも亦、ヴィニイとミュッセが、それぞれファウスト的の「不安」をその作品中で示してゐる。なほ、面白いことには、ずつと降つて、エドモン・ロスタンとアンリイ・バタイユが、何れも、「ドン・ジュアン」を描くに当つて、「ファウスト」の知的懊悩をさながら、その恋愛的懊悩の形に於て取扱つてゐるのである。

 十九世紀前半の喜劇作者を代表するスクリイブ(Eugène Scribe, 1791-1861)は、所謂「抽斗劇」と呼ばれるトリック万能の通俗劇作家であるが、その豊饒さと娯楽的要素によつて、当時の商業劇場を風靡し、なほ、国境を越えて英独伊等の劇壇を賑はした。

 彼はある意味でボオマルシェの不肖の子とも考へられるが、それよりも、重大なことは、この一作家の存在が、十九世紀後半の所謂「新劇運動」に非常な障碍を齎したことである。のみならず、独逸に於ては、名批評家シュレエゲルをいたく感心させ、そのある作品の如きは、正にモリエエルの「人間嫌ひ」以上といふ折紙を附けさせるに至つた。

 ルイ・フィリップの治下に於ては、もう劇場は一つの工場と化してゐた。

 若い浪漫主義は、デュマ(Alexandre Dumas père, 1802-70)と共に老い、スクリイブが十五年間に百五十の軽喜劇を書けば、デュマは、年に六十巻の小説を書く傍ら、一シイズンに十五乃至二十幕のチヤンバラ劇を上場せしめる有様である。

 その間、ただ一つポンサアル(François Ponsard, 1814-67)の「リュクレス」といふ作品の上場が、「良識のボン・サン劇」なる一流派をうち樹てた。「良識の劇」とは、要するに、浪漫主義の矯激を排し、穏健着実な古典精神を近代意識のなかに生かさうとする韻文劇であるが、どこかにまだ浪漫的な装飾を残してゐることは争へない。これが一八四三年のことであつた。

 ポンサアルの「リュクレス」が一方で盛んな喝采を浴びたのに反し、その年、ユゴオの「ビュルグラアヴ」(Les Burgraves)が国立劇場で、無残な失敗を招いた。作品の罪といふよりも、寧ろ、見物が過剰なリリシズムに飽きたのである。

 皮肉と云はうか、この時に乗じて、天下の名悲劇女優ラシェルが、同じ劇場の舞台に現はれた。すると、二十年来、絶えて客を惹かなかつたラシイヌ、コルネイユの古典悲劇が、忽ち見物席を満員にした。

 一八五〇年は、バルザックの死んだ年である。(序に云へば、イプセンが二十三で、その韻文史劇「カテリナ」を発表した年だ。)

 時代は急転する。所謂「近代精神」の色調が濃厚になり、仏蘭西の演劇史も亦、これ以後を現代と呼ぶのである。

 小説壇は、既にバルザックの作品によつて写実主義の黎明を告げ知らせた。その影響は、勿論戯曲界にも及んで、一八五二年、アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils, 1824-95)が、例の「椿姫」(La Dame aux Camélias)を発表した。現実生活と人情の機微を穿つた「身につまされる芝居」の標本で、それが当時の見物、殊に女たちを泣かせたことは非常なもので、世界新派悲劇の傑作である。彼は、その後の数多き作品に於て、社会制度、夫婦関係等に一種の常識哲学的批判を加へ、所謂問題劇の道を拓いた。エミイル・オオジエ(Emile Augier, 1820-89)も亦、「ポアリエ氏の婿」に於て、漸く環境描写の筆を進め、革命後の新興勢力、即ち金権階級に対する相当鋭い批判を取入れた。然しながら、この両者が、かのスクリイブの直系ヴィクトリアン・サルドゥウ(Victorien Sardou, 1831-1908)と共に、商業劇場のための作者として一代の人気を集め得たことはそこに何等かの停頓を意味するのであつて、近代劇芸術の本質的進化は、そのために前途を暗くした感があつた。なほこの期間に、ラビイシュ(E. Labiche, 1815-88)がモリエエルを挟んで中世ファルスの伝統を復活し、近代諷刺劇の一階梯を作つた事実を見逃してはならぬ。

 さて、十九世紀に於て、最も素晴しい発展を遂げた小説文学は、物質文化の成長とこれに伴ふ科学万能の精神に刺激され、次第に、機械的人生観の立場から個人を観、社会を取扱ふやうになつて来た。この傾向からバルザックを初め、フロオベエル、ゾラ、ゴンクウル、ドオデ、モオパッサン等の非凡な才能を生んだが、彼等は各々ある時機に於て、一度は劇作に筆を染めたのである。ゾラの如きは、後に「演劇に於ける自然主義」なる一書を公にし、大いに、舞台の写実化を宣伝した。が、何れも、その作品は戯曲的生命に乏しく、凡作の域に止り得るものすら稀であつた。

 ところが、デュマ及びサルドゥウを友とする株式仲買人アンリ・ベック(Henry Becque, 1837-99)が、中年をすぎて、小遣取りにオペラの台本を書くことを思ひ立ち、やがて二篇の小喜劇を経て、遂に近代写実劇の典型、「鴉の群」を発表するに至つた。フロオベエルがかの「ボヷリイ夫人」に於て成し遂げたところを、彼は、戯曲に於て完全に近くこれを示したのである。が、この二作の上演は、一般から冷淡な眼で迎へられた。この初めて舞台にのせられた厳粛な「人生記録」の中に、当時の演劇批評家は、真に戯曲的なものを発見することができず、ベックはために作家として不遇な生涯を終らなければならなかつた。

 仏蘭西近代劇は、ここで、大きな飛躍時代にはひる。

 一八八七年、即ち、「鴉の群」が発表された翌年、世界演劇史上、劃期的の事業と目される自由劇場(Le Théâtre Libre)が、瓦斯会社の一集金人、アンドレ・アントワアヌ(André Antoine, 1858-)の手によつて創立された。彼は、もともと一素人劇団の首脳にすぎなかつたが、ふと、素人俳優があるからには、素人作家といふものがあつていい筈だと考へ、周囲を見廻してそこに無名作家の一群を発見した。これが、新流派のために、そして新流派によつて起たんとする年少気鋭の徒輩であつたから、アントワアヌも、自ら期せずして、彼等の抱懐する文学論に与みせざるを得ぬやうになつた。彼の自然主義的演技の目標は、初めて確乎たる主張を有ち、ここにはじめて自由劇場の名に於て、演劇革新運動の烽火が挙げられることになつたのである。

 自由劇場を繞る新作家のうちで、華々しくはないが、最も純粋な文学的立場を守り続け、透徹した自然主義演劇の理論づけを試みたのはジャン・ジュリヤン(Jean Julien, 1854-1919)であつた。彼は、その著「生ける演劇」に於て、「舞台は生活の断片なり」といふ名高い標語を作り出し、更に、演劇の本質を論じて、従来の「動きによる生命」の劇を排し、「生命による動き」(le mouvement par la vie)こそ真の演劇美を成すものであると喝破した。彼はしかし、有為な才能をその理論のために涸渇せしめた不幸な作家の一人であつた。

 一八八七年から九五年まで、アントワアヌの手によつて世に出で、しかも、相当の名声を齎し得た劇作家はその数に於て決して少くはないが、今日まで、その作品の生命がなほ続いてゐると思はれるのは、クウルトリイヌ、キュレル、ポルト・リシュの三人であらう。

 ウウジェエヌ・ブリュウ(Eugène Brieux, 1858-)は、最初から自由劇場の運動に参加した一人であつて、アントワアヌの名に連つて偶然世界的となり、バアナアド・ショウをして勇敢な提灯持ちの役を務めさせたが、これなどは、その真価を論ずる前に、彼の作品のもつ所謂「超民族性」について一応注意すべきであらう。雄弁に論議する劇は最も理解し易きものである。

 ジョルジュ・クウルトリイヌ(George Courteline, 1860-1929)の小喜劇はモリエエルからラビイシュにつながる仏蘭西喜劇の伝統を代表する不朽の作品である。数多き珠玉的作品中からその代表作を選ぶことは困難である。また、一作を取り上げて、これを古今の傑作なりと称することは聊か気が引けるくらゐ「何気なき」風を装つたものであるが、先づ定評として、「ブウブウロシュ」(Boubouroche)「我家の平和」(La Paix chez soi)等を挙ぐべきであらう。一見平俗なやうに見える彼の文体は、近代ファルスの最も純粋な風格を創造し、現代世相の犀利な観察による比類なき道化味ビュルレスクは、天才の眼によつてはじめて伝へられるものである。

 ジョルジュ・ド・ポルト・リシュ(Georges de Porte-Riche, 1849-1930)は、精密な恋愛心理の解剖家として、ラシイヌの衣鉢を継ぐ名作家である。アントワアヌに従へば、仏蘭西近代戯曲史の頂点は、ミュッセ、ベック、ポルト・リシュの三人によつて占められるといふのであるが、これは先づ何人も異議のないところであらう。彼は自然主義的苛烈さを有すると同時に、所謂「心理的詩味」の開拓者であり、その点で、既に純写実劇よりの離脱を示してゐる。その傑作の一つ「ふかなさけ」(Amoureuse)は、一八九四年の発表であるが、それから二十年を経て、同じく「過去」(Le Passé)「昔の男」(Le Vieil Homme)の諸作と共にその影響が新しい時代の上に目立ちはじめたのである。

 次に、フランソワ・ド・キュレル(François de Curel, 1854-)は、一方ポルト・リシュが恋愛心理を追ひ廻してゐる間に、思索と瞑想の淵を逍遥して、北方の巨星、ヘンリック・イプセンの呼吸に耳を傾けた。彼も亦、時代の苦悶を苦悶し、生命の不安と闘つた。が、イプセンが飽くまでも北方的であるのに反し、キュレルは、兎も角南方的である。ラインに近いヴォオジュの森が彼の魂を育てたとはいふものの、その哲学は明朗若葉の如く、彼の描く人間の獣性なるものは、屡々微笑ましい姿を以て舞台に踊るのである。出世作「新しき信仰」(La Foi Nouvelle)は科学の破産を問題とした点に時代精神を反応したものであり、「鏡の前の舞踏」(La Dance Devant le Miroir)は、象徴的手法の円熟と戯曲的構成の柔軟さを示す代表作であるが、結局、観念の深さが概して劇的リズムに乗り切らないところが、彼の作品を通じての一つの致命的欠陥であらう。

 自由劇場は、これらの偉才を見出す傍ら、外国の作家、殊に、ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen, 1828-1906)の「幽霊」を初めて仏蘭西の劇壇に紹介した。イプセンについては、他の部分で、独立した講座が設けられることと思ふから、ここでは例によつて、仏蘭西劇との交渉についてのみ語ることにしよう。

 イプセンの戯曲は、その後、相次いで自由劇場は勿論、若干の小劇場で上演せられたが、間もなくプロソオルの翻訳が出版され、一八九〇年前後に亘つて、その反響は相当大きかつたやうに思はれる。イプセンに対する当時の批評を読み返してみると、なかなか面白い。無条件に感歎の叫びを漏してゐるものもあるかと思へば、また、一方ジュウル・ルメエトルの如き批評家は、イプセン畏るるに足らずといふやうな口吻を漏してゐる。その理由とするところは、「イプセンの有するものは悉く従来の仏蘭西文学中に存在したものであつて、今更彼の作品から何物も取入れる必要はない」といふのである。

 恐らく若いジェネレエションの熱狂を戒めて、彼一流の婉曲な認め方をしたものに相違ない。

 事実、イプセン的主題は、これを概念として見れば、その思想はダアヸン以来既に「存在した」ものであり、イプセン的舞台技巧は、前にも述べた如く、スクリイブ以来の「うまく作られた芝居」に悉くその例を見出すと云つてもよく、また、「人物を生かす」才能に於ても、ミュッセとベックは既にその極致を示してゐるといふ風に云へるのである。しかしながら、イプセンは、今日から見ても、なほ且つ世界近代劇の最高峰と目さるべき理由があるのだ。それはつまり、平たく云へば、従来の天才的な仏蘭西劇作家が、個々に有つてゐたものを、彼は身一つに具へてゐたといふ驚くべき事実があるからである。しかも、これは決して、

1+1=2

といふ公式を以てすら示すことのできない現象で、Aの特質とBの特質とが加はることによつて、別にCの特質が生れるものなのである。即ち、イプセンに於ては、近代劇作家としてのあらゆる才能が、渾然としてその作品の偉大な力を築き上げてゐるのである。

 戯曲家としてのイプセンは、かういふ見方をしなければ理解し難き存在であると私は思つてゐる。イプセンの思想や、その創造になる各種の典型的人物について論ずるのもいいが、それだけでイプセンの戯曲は味へない。

 そこで、イプセンの仏蘭西戯曲壇に及ぼした影響についても、決してその局部的なものを見ようとしてはならぬ。無論、中には、キュレルの如く、所謂「イプセン流」と称せられる思想劇に向つたものもあるが、この「考へさせる芝居」の勃興は、近代劇の一エポックを作りはしたが、やがて、その反動も生じ、理論的にも実際的にも、戯曲論上の疑問を生むことになるのである。

 が、兎も角も、恋愛劇乃至世相劇全盛の仏蘭西の舞台に、幾分でも「意志」と「運命」の悲劇が現はれだしたこと、これはたしかにイプセンを初め北欧作家の感化であらう。

 自由劇場は、その他、外国作家として、主に独のハウプトマン、露のトルストイ、等を紹介したが、自由劇場の運動は、忽ち、全欧洲に演劇革新の機運を齎し、独、英、露等の諸国に於て、同様舞台の写実化乃至大劇場の商業主義に反抗し、新作家の発見擁護に努力する芸術劇団の創立を見た。

 仏蘭西に於ても、これを期として、二三この種の劇場が、それぞれの主張を以て生れたが、なかでも、ルュニェポオの制作劇場(La Maison de ĺ Œuvre)は、主として外国劇の先駆的傾向を取入れたが、ストリンドベリイの紹介は、最も意義ある仕事であつた。

 一方、「戯曲は飽くまでも演劇的ならざるべからず」と称し、明かに自由劇場的「生活の断片」劇に対抗して、ポオル・フォルの「芸術座」(Le Théâtre d'Art)が生れた。そこでは、ヴェルレエヌ、グウルモン、ラフォルグ、マラルメ等の詩人の後援によつて、先づ、詩の朗読が行はれ、次で詩的戯曲の上演が企図されたが、遂に予期の成果を収めることはできなかつた。

 が、その頃、既に、仏蘭西文壇の主潮は、写実主義よりの離脱に向ひ、象徴主義の運動が漸次勢力を占めつつあつた。

 イプセン後期の作品、ストリンドベリイのある作などに於て、象徴的傾向は十分見られるのであるが、白耳義の作家、マアテルランク(Maeterlinck, 1862-)が出づるに及んで、象徴主義の舞台は、完全に一つの様式をもつやうになつた。それと同時に、所謂「静劇」なるものの出現は、戯曲の文学的領土を拡大し、演劇的幻象イメエジの神秘な一面を附加するに役立つたのである。暗示と想念喚起の手法が、一九二〇年代の仏蘭西劇を、如何に導いたかを見れば、マアテルランクの影響も決して少くないと信じられる。

 自由劇場没落後の仏蘭西戯曲界は、必ずしも象徴主義に走らなかつた。要するに、新浪漫主義の名称で一括されるべき「反写実」の傾向が、次第に頭をもたげて来た。

 エドモン・ロスタン(Edmond Rostand, 1868-1918)の「シラノ・ド・ベルジュラック」(一八九七年)は、かかる機運を促進する一大警鐘となつた。なぜなら、この大時代で民衆的な韻文劇は、一見、「新劇的」ならずとの非難を受けさうであり、例へばアントワアヌの如きは、その初演の夜、見物席の中央に起ち上つて、「これでわが演劇は二十年後戻りをした」と叫んだほどであるが、なるほどさういふ落胆は尤もだとしても、ボオマルシェの「フィガロ」が傑作であつたと同じ意味に於てこれも亦傑作である事実を否むわけに行かぬ。ロスタンは飽くまで民衆的芸術家たる信念を以て、いきなり街頭に名乗りを揚げた。これが、写実劇の実験室的高踏性と相容れぬところである。ロスタンは、たしかに、平俗な主題を純粋な感情で高め、演劇の娯楽性を、その詩的才能によつて芸術化しようとする野心をもつてゐた。しかも、仏蘭西人なるが故に、仏蘭西人の趣味と性向とを、聊もこれに媚びることなく、朗らかに高らかに歌ひのめしたのである。これも亦、詩人には許さるべき天真爛漫の美徳だと考へることができる。これだけの前提をしておいて、さてロスタンには、天才的戯曲家といふ折紙をつけてもよく、その芸術に於ても、やはり一八八七年(自由劇場創立の年)以後の新機運に遅れてゐると断ずることはできない。なぜなら、その文体の凡そ古典的な匂ひのうちに、寧ろ自然主義作家の多くが企て及ばなかつた生命の躍動があり、その上、彼の詩的幻想は常に健康な舞台的脈搏を伴つてゐるからである。

 イプセンと並んで、アウグスト・ストリンドベリイ(August Strindberg, 1849-1912)の名も、その徹底自然主義とも名づくべき深刻無比の男女争闘劇によつて、仏蘭西劇壇に大きな刺激を与へた。しかしながら、彼の作品の主調たる北欧的苦悶は、イプセンのそれ以上、ラテン的頭脳と相容れないものがあり、その影響は寧ろ独逸の劇作家中にこれを見ることができる。彼も亦その後期に於て象徴的傾向を帯びるに至つたが、近代劇の目指した一つの頂上は、疑ひもなく彼によつて占められたと云つていい。

 最後に、露西亜劇は、トルストイの「闇の力」が自由劇場によつて演ぜられて以来、ゴオルキイの「どん底」、ゴオゴリの「検察官」等が紹介されたが、その他は多く翻訳として読まれたにすぎなかつた。大戦後、モスコオ芸術座の一行が巴里を訪れ、第一にチェエホフを上演して、この異色ある戯曲家の真価を完全に認めさせた。「桜の園」「伯父ワアニャ」「三人姉妹」等の諸作は、当時新機運に乗じた仏蘭西劇界に貴重な暗示を与へたことと思ふ。

 モスコオ芸術座は一八九八年、スタニスラフスキイ及びダンチェンコの協力によつて、理想的な計画と基礎の上に建てられた世界一の芸術劇団であるが、その巴里公演(一九二一年)に際し、スタニスラフスキイは、公衆の前に立つて一場の挨拶を述べた。

「われわれは仏蘭西の劇壇に何かを教へようとするものではありません。ただ、諸君にわれわれの仕事を見ていただきたいのです。このなかには、露西亜語のわからない方がおありのことと思ひますが、しかし、さういふ方々にも、われわれの演じる芝居は、七分通りわかつていただけるだらうと信じます」

 この宣言を聞き、そしてその舞台を観たものは、「近代劇はここまで来たのだ」といふ印象を受けたに相違ない。

 更に、仏蘭西人は、スタニスラフスキイの祖母が仏蘭西人であり、また、彼はその青年期の一部を巴里で過ごし、国立演劇学校に通つたといふ報道を耳にした。

 芸術的血統といふ問題に関連して、かういふ事実を思ひ出したのであるが、元来、ある作家が誰の影響を受けたといふやうな断定は、その作家にとつて迷惑なこともあらうし、また、意外な反証が挙る場合もあるであらう。

 しかしながら、「影響を受ける」といふことは、多くの場合、偶々彼が自己のうちに有つてゐたものがそれによつて眼覚め、それによつて育てられるといふことで、如何なる外部的な力と雖も、自己のうちにこれを享け容れる同様のものがない場合は、全く赤の他人で終るのである。例へば大戦後の独逸劇壇を席捲した表現主義の如きは、かのストリンドベリイを始祖とするものといはれてゐるが、遂に他の諸国には波及することなく終つたのである。(日本劇壇の新流行を迎へ入れる動機はこれと全く別である。)

 近代文化の歴史は、この原則なしに考へることはできないのみならず、文学の流派の消長、珠に戯曲の様式とその進化の跡を尋ねるに当つて、一時代、一傾向を代表する所謂「天才」の業績についても、専らその因つて来たるところ、その及ぼすところを究めようとする態度が必要であると思ふ。


     三 近代劇の諸相


 近代劇の諸相として、過去半世紀の演劇的現象を詳しく述べる代りに、多少無理なところはあると思ふが、所謂「近代劇」なる名称を以て呼ばれる「劇文学」及び「舞台芸術」を通じて、今日、漠然と感じ得られる若干の特色を挙げてみることにする。

 そのためには、先づ「近代劇運動」の全貌を、文学上の流派的色彩や、個々の舞台芸術論から引離し、一応、演劇の革新運動といふ意味に結びつけて考へる必要があるのであつて、この「革新」なる言葉の目指す一切の意義こそは、やがて、歴史的に、近代劇を貫く重要な精神であらうと思ふ。

 ところで、この「演劇革新」の叫びが、偶々自然主義勃興の時代に、最も痛烈な気勢を示し、最も根深く演劇の面貌を変ぜしめた結果から、この時代に君臨した作家及びその作品的主調が、最も「近代劇」の名に応はしく思はれがちであるが、時を隔ててこれを見る時は、近代劇の相貌は、より広く、より複雑なものであることがわかるのである。

 そこで、私は、近代芸術の進化途上に於ける演劇並に戯曲の「ジャンル」としての研究に基いて、その革新運動の流れを、更に、「演劇の純化」といふ大きな、ただ一つの目標に導いて行けるのではないかと思ふ。

 由来、演劇ぐらゐ「古く」なり易いものはなく、また、「夾雑物」のはひり易いものはないのである。

 それと同時に、演劇ぐらゐ「新しいもの」「純粋なもの」が、生れ出るために障碍が多いものもないのである。

 この事実を発見し、この意識を芸術的行動に連結させるといふことが、凡そ、演劇の先駆的役割であると同時に、演劇を他の芸術部門のレヴェルに引上げる唯一の道程でなければならぬ。

 そこで、近代劇の諸相は、要するに、様々な見地と方法による演劇の革新運動であり、また芸術的純化運動であつたと観るべきである。そして、これを戯曲としての文学的所産から、舞台を中心とする劇場の実際運動にまで押し拡めて考へる時、大体次のやうな推移を見出すことができる。

(一)演劇に近代精神殊に社会的苦悶乃至近代的人生観を盛ることによつて、一つの文学運動たらしめたこと。

(二)演劇の企業化に基くその営利主義的傾向に反抗して、一つの純芸術運動たらしめたこと。

(三)演劇の因襲的法則を打破し、その自由なる表現を求めたこと。

(四)演劇より非演劇的要素を排除し、その本質を探究せんとすること。

 さて、この第一の項目だけで、近代劇の特色は十分なやうであるが、それがさうは行かないのである。第一に、演劇は思想的内容だけで進化するものではない。更に、演劇より文学を排除せよといふ主張さへ、一方には起り得るのである。

 ただ、演劇が近代文学、殊に写実主義文学の洗礼を受けたことにより、著しくその面貌を一新したといふのは、先づ現実暴露のメスによつて、舞台を「厳粛」な「人生の断片」と化し、所謂「第四壁」論による演劇的イリュウジョンが、「生命による動き」といふ重大な発見を齎したことに在る。

「生命による動き」といふ言葉は、自由劇場の闘士ジャン・ジュリヤンの演劇論中に用ひられてゐる言葉であるが、これは幸か不幸か、自然主義演劇の精神を伝へたつもりで、その実は、古今の演劇を通じて、凡そ不朽なるもののみが達し得た本質的魅力を喝破した名言なのである。

 それまでは、何人も、演劇の本質は「動き」にありと信じ、その「動き」が舞台の生命となるのだと解してゐた。ジュリヤンは、この見解を「従来の演劇」にのみ当て嵌るものなりと説き、「動きによる生命の劇より生命による動きの劇へ」と、自ら標榜する自然主義劇の旗色を明かにしたのであつた。然るに、今日より見れば、「動きによる生命の劇」は、演劇の邪道であり、形骸であり、模造品であつて、「生命による動きの劇」こそ、希臘劇以来の劇的伝統──傑れた戯曲の、それによつて偉大さと光輝とを放つところのものであつた。

 しかしながら、演劇と文学の握手は、文学の観念的深化に伴つて、一つの行きづまりを来たさずにはおかないのである。演劇の本質と文学の本質とが、その一点で、相背馳することとなる。

「考へさせる芝居」は、その窮極に於て、芝居として通用しないものになる。

 が、そこまで行かない先に、演劇革新運動は、同時に、演劇の商業主義化に対する反撃となつて、芸術劇場の運動となり、高踏的小劇場の企画となつて、益々観客を制限するのである。

 そして、偶々、新浪漫派の舞台的成功などあつて、小劇場派と大劇場派の分離が行はれる。大劇場派とは、営利的通俗派には走らないが、演劇の民衆性を強調して小劇場派の貴族主義的傾向に対立するのである。

 ここで、近代劇の中に、民衆劇運動と称するものが加はつて来る。民衆劇であるから、一面に社会劇風の色調をも含むのであるが、それは次第に、擬古的な、原始的な、素朴味を貴ぶ祭典劇風なものに変化する。

 小劇場主義と大劇場主義は、両極端に於て、心理的要素と感覚的要素とに分裂し、「聴く芝居」と「観る芝居」、「対話劇」と「スペクタクル」とに対立するのである。

 その間に於て、故ら小劇場主義とか大劇場主義とかを標榜せず、単に、演劇の革新を目指して、それぞれ独創的な理論乃至新奇な試みを提示したもののうち、或は、演劇は綜合芸術なりとの説、或は、舞台装置の美術的効果に力点をおくもの、或は、演劇の革新は、舞台の完全なる機械化にありとなす説、或は、演劇芸術は、唯一人の芸術家の想意に統一さるべきものであるといふ説、即ち、戯曲家と装置家と舞台監督とを兼ねた一つの頭脳が、俳優を人形として操るところに真の演劇が生れるといふ説、その他、演劇より文学を排除し、「動性デイナミスム」による舞台の立体的表現によつて、演劇独自の物語を仕組まうとする企て等が相次いで行はれた。

 が、結局、演劇は演劇自身によつて再生するよりほか道はないことに気づき、「演劇の再演劇化」といふ合言葉が、流行するやうになつた。

 それはつまり、演劇革新の名によつて、様々な非演劇的要素を舞台に横行せしめた結果、遂に演劇本来の面目を失はうとする傾向を生じたからで、「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ叫びは、要するに、「演劇の本質を正しく認識せよ」といふ警告に外ならず、近代劇の多岐多端な流れは、この一標識に辿りついて、初めて、演劇の伝統といふ問題を取上げたのである。

 演劇の芸術的純化といふ目標が、やうやく、本質的な意義を伴ふやうになり、幾多の理論と古今の劇文学的生産が、その真価と生命を、「純粋演劇美」の立場から再批判されねばならぬ気運に到達したのである。

 これこそ、近代劇運動の総決算的収穫であり、現代演劇の受け継いだ最も貴重な遺産であらうと思ふ。


     四 近代劇の遺産


 前項、「近代劇の諸相」は、即ち、「現代の演劇」及び「現代戯曲の諸傾向」中にその脈絡を存してゐるものである。その意味で、本講座に於ける山田肇、山本修二、舟木重信、岩田豊雄、原久一郎諸氏の行き届いた研究を参照して欲しいと思ふが、凡そ芸術上の端睨すべからざる主義主張と、一見前人未踏の境地に分け入つたと思はれる個人的実績との夥しい錯綜のなかに、確乎たる歴史的意義を見出すことは、相当の時代を隔てない限り容易ならざることであり、今仮に「現代の演劇」を通じて、誰々の事業、誰々の作品が、既成観念の上から、「近代劇」の正統に位ゐするものであるといふ認定を下すとしても、それは最早、演劇としての価値批判にはならないのである。

 この見地から、私は、所謂「近代劇の亡霊」を封じ、真の劇的伝統に眼を注ぐことを以て、この小論の目的としたいのである。それ故、「近代劇の遺産」として、演劇の本質探究に関する当面の問題を捉へることが、最後に残された仕事であると思ふ。


 先づ「劇的」といふ言葉について、われわれは今新たな考察を加へなければならぬ。それには「劇的」即ち「ドラマチカル」といふことが、「演劇」乃至「戯曲」の本質であるかどうかといふ疑問をここで起してみる必要がある。普通用ひられてゐる意味での「劇的」といふ言葉は、「小説的」といふ言葉と同様、極めて概念的な形容詞であるが、小説に於て、所謂「小説的」(ロマネスク)なることが、作品の価値を評価する上に、第一義的要件でないといふことは、少くとも近代の文学論に於て一般に認められてゐる事実であるのに、ひとり、「演劇」乃至「戯曲」に於て、飽くまでも、所謂「劇的」なる要素を、本質的生命と結びつける習慣が継続されてゐるのは、どうしたわけであらう。

 小説に於て、「散文精神」の発見があり、詩に於て、「自由詩」の運動から「純粋詩」の理論に到達した過去半世紀の文学史が、独り、「戯曲」の本質を、旧来の原始的、自然発生的解釈に委ねておいたことは、実に不思議な時代錯誤であつて、これは正しく、「演劇」なる芸術形式の複雑さを証明する以上に、「演劇」と「文学」の完全な接触が企図されなかつた結果であらうと思ふ。言ひ換へれば、かの戯曲の文学的発展が著しく目立つた写実主義擡頭期に於てさへ、「戯曲」が常に「演劇」のために作製され、未だ嘗て、「戯曲」のための「演劇」が何人の頭脳をも支配しなかつたといへるのである。更にもう一歩を進めて云へば、舞台を予想しない戯曲、所謂「読む戯曲」の発生を促がした動機さへも、十分に闡明されず、「戯曲」なる文学の一ジャンルは、小説と詩の間を低迷して、自ら信ずべき領域を遂に自覚し得なかつたと考へられる。

 一般に「劇的感動」と称せられるものも、なるほど古今の傑作中からこれを受けることが尠くないが、この感動が純粋な芸術的感動であるかどうかは、案外説明のつきにくいものである。まして、この「劇的感動」なるものは、常に優れた戯曲の価値を決定せず、殊に、喜劇に於て、これを本質的生命と見做すことはできないのである。してみると、「劇的」なる言葉の内容は結局、「悲劇」を演劇の代表形式とし、演劇論の骨子が、実は「悲劇」の上に組立てられた時代の名残りを伝へてゐるともみられ、それと同時に、演劇の大衆性といふことが、戯曲の文学的評価に知らず識らず影響し、通俗的興味をつなぐための、物語の主題乃至技巧上の必要条件が、真の芸術的要素と混合された結果ではあるまいかと思はれる。

「生命による動き」を標榜した自然主義劇の行きづまりは、所謂「うまく作られた芝居」を排したことによつて、ある意味での「劇的要素」を軽視したからだといふ説は誤りである。それどころか、自然主義劇の大多数は、「劇的」境遇を濫用さへしてゐるのである。そこに堕落があり且つ矛盾がある。勿論、文学的抱負に於て敬意を表すべきものさへ、殆ど共通の過失を犯してゐる。即ち、戯曲に於ける「散文的なもの」の重視である。散文精神は「戯曲」によつても生かされ得るといふ誤謬を信じてゐるのである。

 仏蘭西の名小説家、フロオベエル、ゾラ、モオパッサン、ゴンクウル、等々は、何れも戯曲に筆を染めて、惨めな結果を示してゐる。これらの作家は、何れも、あつさり舞台を見限つたらしいのは賢明といふべきである。

 これらのグルウプから、ただ一人、ジュウル・ルナアルが、「生命による動き」の戯曲を、天衣無縫の形に於て示し得た。異例とすべきである。なるほど、彼は、詩的にして、且つ散文的なる、一種独特の精神を創造し、完成した。彼の戯曲が、偶然、その精神の故に、新しき意味に於ける「戯曲の本質」を捉へ得たといふ事実は注目に価する。


 詩がリズムを、散文(小説)が観念を生命とするなら、戯曲は、「観念のリズム」或は、「リズミカルな観念の抑揚」を生命とするものである。(この場合、リズムといふのは、詩に於ける如き言葉の音声的リズムではなくて、思想或は感情のリズミカルな波動である。)観念のある程度以上の探さは、このリズムの破綻を伴ひ、リズムのテンポは、観念の一定の流動を強要する。そこに、戯曲の第一の限界リミットがあるのである。第二の限界リミット、これは通常、「戯曲の制約」の一つとして誰でも知つてゐることであるが、戯曲作家は、自ら「物語」を語るのでなくて、「物語」自身に「語らせる」といふことである。即ち人物をして、一切を語らせなければならぬといふこと、作中の人物が、作者に代つて、作者の語るべきことをさへ語るといふ「不自然さ」である。ある数の幕を切るとか、一定の時間内に終るとか、主人公がなければならぬとかいふのは、別に、根本的な制約ではない。さて、これら、二つの限界リミットといふものは、実は、戯曲にとつて、「邪魔」なものではなく、「必要な」ものなのである。この限界は、詩の「約束」に類する「戯曲美」発生のルツボであつて、所謂、新しき意味の「劇的感覚」とは、このルツボを通して流れ出る観念とリズムの融合美を、最も純粋に感じ得る能力である。

 戯曲に於けるこの「観念」なるものを、特に、「心理的イメエジ」と呼んで差支ない。

 演劇に於て、このイメエジは、「聴官」と「視官」とによつて、ある時間内に、誘導的に感覚され、知覚されるが、この耳と眼に愬へるイメエジのリズムは、即ち演劇美を構成する要素で、それがここでまた舞台なる空間的制限と、俳優の肉体的条件といふ、別なルツボを通過しなければならぬ。

 さて、このルツボを通して最後に観客に愬へるものは、厳密に云へば、作者と、人物と、俳優、この三つの生命の同時的「滲出」である。この三つの生命がそれぞれ別々な力で観客に働きかける時、印象の不統一から来る感銘の混乱が生じ、そのうちのある一つを無視しても、完全な演劇鑑賞とはいへないのである。

 演劇に於ける「美」の本質は、かくの如く複雑であり、その完全な表現は、誠に難しとされてよいのであるが、その結果は、一に俳優を得るか得ないかに存し、この意味で、演劇そのものは、俳優の手に運命が委ねられてゐるといへるのである。

 舞台監督の所謂「演出」(mise en scène)なるものが、「演劇美」の如何なる領域に、その統制力を発揮し得るかといふと、主として視官に愬へる舞台の造形的イメエジに於て、戯曲の指定せざるエフェクトの適用と、俳優自身の意識外に拡大するイメエジの規整とを考慮しつつ、戯曲の「リズム」──即ち、「心理的流れ」に、最も適切な全体的色調トオンと、必要な傍線(アンダアライン)を加へることである。

 舞台監督の第一の役割は、俳優と同じく、「戯曲」の精神並に「リズム」を正確に捉へるといふことであるが、それから以後の任務は、原則として、俳優の領域を冒すことなく、俳優の演技を極度に且つ隙間なく戯曲の立体化に役立たしめる「非人称的」コンダクタアたることで尽きるのである。

 しかしながら、偶々、戯曲の性質に応じて、演出といふ仕事が、演劇の、より以上広大な領域を占める場合もないではない。それは主として、戯曲中の人物が、それぞれ一個の生命をもつて生活してゐるといふよりも、各人物の多少機械的な動きとの対立から、場面場面の生命感を作り出してゐる、乃至は、作り出さねばならぬやうな戯曲に於て、特に然りである。

 この種の演劇は、近代に於ける非写実的傾向のものに多く、同じ、写実劇でも、例へば、群集を用ひたものなどはその部類に属すべきで、舞台監督の責任が次第に重大となり、その権威が絶対的とまでなつた近代演劇の主潮は、一応合理的であるといつていい。

 が、この演出万能主義は、舞台に未だ嘗て見ざる統一と造形的工夫を齎したが、それと同時に、若干の弊害を残したことを看過するわけに行かぬ。

 即ち、演出家の戯曲冒涜と、俳優機械視である。如何なる戯曲をも、自己の好みに着色し、引き枉げる無謀と、一切の俳優を演技の上で拘束し、命令する大胆との、衒学的傾向である。

 理論として、この演劇システムは、単純で、華やかで、活気に富んでゐる。そこに誘惑の陥穽があり、実行の行きづまりがある。


 演劇の一要素として、舞台装飾(舞台照明、舞台衣裳を含めて)を挙げるのが順序であらう。これは演出家の意図に従つて、舞台美術家が考案製作に従事すべきものであるが、これを演劇の最も重要な要素と考へることは、これまた近代演劇の過渡期に於ける迷妄である。なるほど、演劇の「視官」に愬へる部分、即ち造形的要素の一部であるといふ点に異存はないが、これは要するに、戯曲の「附属設備」である。人物の「生活する」状態を説明する一手段である以上、必要なものには相違なく、従つて、ある程度まで演劇の本質に触れるのであるが、結局、一般に考へられてゐるほど重要なものではない。但し、演劇の構成は、前に述べた如く、複雑極まるものであるし、時によると、第二義的なもの、附帯的なもの、殊に、本質を本質として活かすそれぞれの「材料」の価値によつて、決定的効果を挙げ得る場合もあるのである。

 この問題については、当然後で述べるが、舞台装飾も亦、ある戯曲の演出に於ては、演劇の本質的価値の発揮に、恐らく俳優の演技以上、重要な役割を演ずる異例がないでもない。

 が、通常の場合、戯曲さへ傑れたものであれば、その戯曲の本質的魅力は、「裸の舞台」に於ても、十分にこれを発揮し得るといふのが、正しい主張である。

 そこで、舞台装飾の必要、且つ、重要な度合は、上演する戯曲が、本質的に、所謂「スペクタクル」的要素を含んでゐる度合に比例するのが当然であり、また一方、如何なる演劇も、本質的に、多少とも、「スペクタクル」の要素を含んでゐないものは稀だといつてもいいのである。ただ、飽くまでも、所謂「スペクタクル」は、厳密な意味で、演劇ではない。少くとも、「スペクタクル」の要素を主とする演劇は、優れた演劇にはなり得ないのである。何となれば、「文学」を軽視した演劇なるものは、音楽を主体とする「舞踊劇」を除いては、如何なる意味に於ても、芸術的感銘に於て幼稚さを免れないからである。


 さて、戯曲乃至演劇の本質といふ問題について、簡単ながら説明を終つたと思ふが、なほ附け加へておかねばならぬことは、抑もその「本質」なるものは、戯曲乃至演劇の価値と如何なる関係があるかといふことである。

 話を前に戻せば、戯曲乃至演劇の「本質」を説く場合に、所謂「劇的」(ドラマチカル)なる言葉の、普通の意味に於ける解釈では、これを適用することができないといふのが、今までの論旨であつたが、それならば、「劇的」といふ言葉にどんな意味をもたせたらよいか?

 また、「戯曲的」「演劇的」等の語も、今日では、大体、旧来のままの意味で使つてゐるが、若しそれが「戯曲乃至演劇の本質的生命」を指すのであつたら、それを使ふ人の「演劇本質論」を一応訊ねてみる必要がある。

 これらは何れも、専門語として甚だ厄介な言葉となつた。

 戯曲について云へば、劇的主題といひ、劇的結構といひ、劇的文体といふ、それぞれの「劇的」なる形容詞は、人々によつて、また使用される場所によつて全く異つた内容を与へられてゐるといつていい。このことに注意を向けた上で、ある戯曲が、真に「戯曲的」であるといふことは、要するに、主題と結構と文体とを通じて、必ずしも、所謂「ドラマチカル」な要素を感ぜしめなくてもよい、その代り、一種のリズミカルな生命の流れ、統一と調和に富んだ心理的イメエジの進行、鮮明確実な舞台的脈搏、生彩ある魂の見事な交響楽、などと、名づければ名づけられるやうな印象を受け得た場合を指すのである。

 そして、この印象は、要するに、その戯曲の「本質的生命」から来るのであるから、その本質をして、最も光輝あらしめ、また、その本質によつて、更に偉大さを示した作品的要素は、戯曲の全体的感銘として、最後に評価さるべきである。例へば、作者の思想であるとか、人物の描写であるとか、時代的感覚であるとか、機智であるとか、ポエジイであるとか、観察であるとか……。

「本質」とは、要するに、「それがなければならぬもの」であり、「それだけで十分なもの」ではない。戯曲が先づ戯曲であるために、戯曲が他の文学の種目ジャンルと区別されるために、戯曲がそれによつて芸術的生命の核心を作るために、第一に具へてゐなければならない条件──やかましくいへば美学的要素を指すのである。これはかの、「戯曲的制約」と称する形式上の問題を離れるわけに行かぬが、制約は、死物である。何人も一度これを知れば足りるのである。芸術的本質とは云ひ難い。


 以上の「戯曲本質論」は、私が演劇の実際家として、日頃頭の中で捏ね返してゐることを記してみたのであつて、恐らく、説明の不備と体系を欠く故を以て、一部の人には受け容れられないかもしれぬが、これは、必ずしも独断ではなく、巴里ヴィユウ・コロンビエ座の首脳、ジャック・コポオ氏(Jacques Copeau)の主張と実際の仕事から、立論の根拠を与へられてゐるといつてよく、殊に、「裸の舞台」云々の一句は、そのまま氏から借用したものである。それと同時に、散文と詩との区別に関して、哲学者アラン氏の説から貴重な啓示を受け、十年来の自説に一層確定的な信念を加へ得た一方、戯曲の本質を定義する上に、推論上の一階梯を与へられたことを告白しなければならぬ。

 本講座で需められた「近代劇論」が、その歴史的記述から離れて、自説の紹介に終つたことは恐縮であるが、「近代劇運動」の方向が、演劇の、芸術的純化、その本質の探究に向けられてゐる事実からみても、自ら、その探究を続けることが、同時に、「近代劇」の研究にもなると信じてのことである。


 戯曲乃至演劇の本質を探り得た結果、「優れた」戯曲乃至演劇とは、その本質が十分発揮され、且つ、その本質によつて、その他の要素が最も効果的に表現され、且つ、それらの要素も亦、それ自身、それぞれの意味に於て価値の高いものであり、両々相俟つて、全体的感銘の深く美しいものであるといふことがわかつた。

 ところで、ここに一つ問題となるのは、それならば、戯曲乃至演劇の本質が、それのみによつて、少くとも、他の要素を最少限度に保つて、本質それ自身の魅力を極度に発揮したやうな戯曲乃至演劇の存在は考へ得ないものであらうか、といふことである。

 言ひ換へれば、戯曲乃至演劇の「蒸溜水」であり、「無煙炭」である。尤も、この比喩は、芸術的にいつて不純なものを除去するやうに聞えるが、さういふ意味ではなく、芸術的には仮に純粋であつても、今日まで存在した戯曲乃至演劇なるものには、当然、物語としての文学的要素──生活描写とか、筋の発展とか、人物の性格的興味とか、心理解剖とか、主題の思想的色彩とか、社会諷刺とか、風俗研究とか、様々な要素によつて、本質が生かされ、全体の価値が生じてゐるのである。それを、さういふ文学として他の部門と共通な要素をできるだけ省き、さうかといつて、詩の領域にも踏み込まず、即ち、言葉のリズムに重心をおくのでないことは勿論、所謂「抒情」の天地を逍遥するのでもなく、哲学的瞑想を歌ふのでもない。例へば、物語の発展をある程度無視し、人物の生活を描く代りに、その類型を示すに止め、言葉と表情姿態による瞬間的イメエジに、一種の心理的リズムを托し、音楽を聴く如くに、意味の連絡なき個々の観念を追つて、次第に情緒の満足と精神の喜悦に没入するといふやうな種類のものが出来上らないであらうか?

 私は、ここで、計らずも、能楽を連想する。この我が国特有の古典演劇は、たしかに、今述べたやうなジャンルに近いものだと思ふ。

 所謂、「純粋演劇」の抽象的模索が、明日の形に於て現はれる以前に、過去に於ける厳然たる存在にすぎなかつたとしたら、近代演劇の進化は、甚だ頼りないものであるが、芸術の歴史には、間々、この種の皮肉が繰り返される。

「演劇に革命の必要はない。演劇の本質は、古今の傑作戯曲の中に悉く含まれてゐる。われわれは、それらの作品の忠実な使徒たることを寧ろ矜りとするものである」

 この宣言は、近代仏蘭西演劇の最も先駆的な指導者の一人、ジャック・コポオ氏の口から発せられたものであるが、この謙譲にして確信に満ちた言葉を、私の「近代劇小論」の結語としておかう。(一九三四・二)

底本:「岸田國士全集22」岩波書店

   1990(平成2)年108日発行

底本の親本:「現代演劇論」白水社

   1936(昭和11)年1120日発行

初出:「岩波講座世界文学第十三回」岩波書店

   1934(昭和9)年25日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年95日作成

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