演劇の大衆性
岸田國士


 文学に於ける大衆性といふ問題が云々される今日、私は私で、一つの意見をもつてゐないでもないが、直接その問題に対する興味からでなく、いはば現代に於けるわが演劇壇の危機に直面して、その道の人達が誰でも考へてゐる空漠とした打開策の上に、私一個の理論を打ち樹ててみようと思ふのである。

 そこで先づ、「大衆性」といふ言葉の意味と、その価値について云つてみれば、この新らしい熟語は、既に両極端の相反する概念を生じてゐることがわかる。即ち政治的には、大衆万能時代のことであるから、十分、尊重の精神が含まれ、知識的には、表面は兎も角、一般教養の低さを示す意味で、まだまだ、幾分の軽蔑がまじつてゐる。ところで、さういふ大衆といふものの本体が、それを口にする人々の立場によつて、必ずしも一定しないといふ事実を見落してはならないので、例へば、社会的支配者の地位にあるものが、文化的にみれば、所謂大衆の末席に連つてゐるにすぎないことがある。

 最近、フェレロといふ人が書いてゐる通り、一民族の支配者等は、「権力」を護ると同時に「影響」を与へるといふことが通例であるのに、今日の亜米利加は、支配者が逆に被支配者の影響を受けなければならぬ状態で、これが、現代亜米利加文明の弱点である。この事実は日本にもそのまま当嵌るので、教へるつもりの相手から逆に、教へられなければならぬといふやうな現象が、今日、到るところ、ざらに見られるのである。

 演劇にしてもさうである。当事者の方では、近頃の見物は芝居がわからぬから、ちやんとしたものを観せても客が来ないのだと思つてゐると、豈計らんや、劇場に行かない人々のうちに、却つて、当事者よりも芝居のわかる人が沢山ゐて、そんなものをやつてゐるから見に行かないのだと、蔭で嗤つてゐるのである。

 結局、大衆といふものは得体の知れぬものとして、さて、芸術の方面からいへば、大衆とは、結局、これを鑑賞する相手全体を指す以外に意味はなく、若し仮に、芸術の鑑賞能力といふ点で、その低きものを意味するのであつたら、これは、大衆でなく、俗衆であり、極端にいへば、芸術とは無縁の衆生である。

 強ひて、芸術の「大衆性」なる言葉を翻訳すれば、これは、正しく、古来より使ひ慣らされた「普遍性」といふ一語に尽きるので、これならば、何も議論をする余地はなくなると思ふ。

「大衆性」といふ言葉に、「広さ」以外何か、「低さ」の感じをもたせることが、今日、演劇の前途を暗くしてゐるのである。その最も著るしい例は、「低く」さへあれば、「狭く」てもいいといふ認識不足が生れ、「狭い」ために多数の興味を惹かないことに気づかず、これでもまだ「高すぎる」のだと早合点をしてゐる向きがないでもない。

 現在の劇場で、見物が黙つてゐても見に来るといふのは、恐らく、一二の例外を除いては、全く考へられないことであらう。その原因は、何よりも、「狭さ」と「低さ」とにあるのである。仮に、大衆なるものがあるとしても、それは、演劇に今日の「愚劣さ」を望んでゐるのではなく、ただ、より「自分に近いもの」を望んでゐるだけだ。

 一方、新劇団と称する半職業団体は、さすがに、その伝統から、「低きもの」への限度をそれぞれに心得てゐるやうであるが、それでも、生活の必要に迫られて、「面白い」といふ別な云ひ廻しで、そろそろ、「大衆」に秋波を送りはじめてゐるが、これまた、「面白い」芝居とは、「調子をおろした」芝居だと勘違ひをし、或は賑やかな、或は凄まじい舞台を作り出すことにのみ汲々として、少しも「間口を拡げ」ることに気がつかない。依然として、「特殊な」人間の、「特殊な」興味にしか愬へないやうな色調を固執してゐる。

「狭い」といふのは、決して、「文学的」すぎることだけではない。脚本でいへば、描かれた世界についても云へるし、それを描く作者の態度にも、それに含まれる思想の偏向、それに用ひられてゐる文体の種類、それら、さまざまの要素についてである。また、演出の方法、即ち、演出家の独りよがり、気まぐれな試み、無意味な野心などは、演劇の「広さ」をわざわざ「狭く」するものである。俳優については、殊に、未熟、自信のなさ、鈍感さ、横着などは別として、そのマンネリズムが第一、芝居を「狭く」する。蓼食ふ虫もすきずきといふ域に達したら、本人はそれでも満足であらうが、決して、多くの人を悦ばす所以ではない。マンネリズムは、勿論、一種の臭味である。芸の臭味は、同時に、芝居の臭味である。さうなる頃には、その俳優は、もう、趣味の上にも、生活それ自身の上にも、知らず識らず、変な臭ひがついてゐて、これがまた、「大衆」の顔を背けさせるのである。

「誰にでも魅力のある俳優」とは、畢竟、俳優臭くない俳優で、最も人間的品位とあらゆる「美」に対する感受性を備へた俳優でなければならない。

 かう考へて来ると、現在の演劇で、正しい意味の「普遍性」をもつた演劇といふものがどこにあるだらう。善きにしろ悪しきにしろ、何れも、「特殊演劇」ばかりである。これで、まだ、その「特殊さ」がまちまちででもあれば、「大衆」は、それぞれ好むところに従つて、その足を向けるだらうが、その「特殊さ」が、不思議に、大同小異である。

「エノケン」の人気は、或は一時的であるかもわからぬが、これは、必ずしも「大衆」の求めてゐたもののすべてではなくて、ただ、これまでの芝居と、「半同半異」の程度に、その「特殊さ」を独立させたことが原因である。どの部分が異なつてゐるかといへば、第一に、「型」のないこと、第二に、「現代の空気」らしきものを吹き込んだこと、第三に、「頓智」の要素を少々交へてゐること、などである。

 従つて、それだけ「間口が広く」なつた。あの「与太つぷり」は、一見、この一座の武器のやうであるが、私はさうは思はない。俳優の芸が進歩すれば、あれは不必要になるだらう。あれだけの機智が芸の中に現はれれば、それで見物は満足するのである。但し、さうなれば、今日の客が半分減ることは確かだ。その代り、それを填め合せる同数の新しい客を吸収できることも保証しておかう。

 半同半異と云つた、その「半同」とはどういふ意味か。それは、第一に、ほかの芝居と同様、まだ、「芝居でないもの」を芝居らしく見せかけてゐるところだ。第二に、だんだん「低い」ところばかりを狙ふ傾向があることだ。第三に、労働時間の多すぎることだ。第四に……まあ、これくらゐにしておかう。

 要するに、「大衆性」といふものは、少くとも演劇に於いては、決して「卑俗性」と同一に見做すべきものでなく、「大衆」が演劇に求めるものは、常に、演劇の純粋性であつて、しかも、その純粋性が、彼等の口に合ふやうに調味されてゐればいいのである。

 元来、演劇といふものは、それ自身、最も「普遍的」性質をもつた芸術であるから、いはば、誰にでも「わかる」ものなので、たまたま、「高踏的」と称せられるやうな脚本でも、俳優の演じ方次第では、ある種の魅力によつて、その「脚本」のわからないものにでも、相当、面白く見せられるといふやうな場合がある。勿論、善い脚本と悪い脚本、面白い戯曲と面白くない戯曲といふものはあるにはあるが、結局のところ、演劇全体の価値からいへば、それも、俳優を活かし得たか否かによつて決するものとみて差支へないのである。

 そこで、文学としての戯曲の大衆性といふことが最後の問題として残るのであるが、これは、前にも述べた通り、取材の範囲、思想的内容とその盛り方、文体の難易等いろいろの条件があるとしても、もともと、戯曲は、小説などと比較して、観念の密度及び深さが興味の対象ではないから、一定の速度を以て推移し得るやう、作者が誘導的な叙述を用ひてゐる。解つた上で快感を味ふのは小説であるが、先づ快感を与へ、それに従つて解らせて行くといふ方法が用意されてゐる。且、戯曲はまた、小説と違ひ、常に、演説の如く、一個の群集に呼びかけ、若くは、詩の如く、無数の群集を動かすやうに書かれてある(アランの散文論による)。それゆゑ、総ての人によつて認められた原理(常識とまでは行かなくても)を先づ持ち出さなければならない。これだけでも、戯曲文学が、普遍的でなければならない証拠になるであらう。してみると、あとは、興味の持ち方、即ち、快感の種類といふ問題になるのだが、これは、戯曲を読むのと、それが舞台で演ぜられたのを観るのと余程わけが違ひ、才能の優れた俳優は、如何なる戯曲の感情をも、一般の人の、即ち「大衆」の感性に愬へ得る能力を示すものである。

 結節を急げば、現在、各種の劇場に於いて上演せられつつある戯曲は、あらゆる意味に於て大衆の「要求」を満してはゐない。観劇の欲望と、余裕と、必要とをさへもつてゐる人々、娯楽と教養とのために演劇に親しまうとする最も健全なる大衆層、自発的に、人を誘つてでも、たまには少々の趣味的見栄にさへも劇場の切符を買はうとする頼もしい連中を、悉く拒避して、どこに大衆劇があるのであらう。

 新しい演劇の行くべき道は、今、明らかに示されてゐる。一方、研究的な、先駆的な演劇運動と併行して、いや、それよりも先に、演劇の真の「大衆性」を自覚した劇場事業が、何人の手によつてか、早晩企てられなければならぬであらう。その時が来て、はじめて、われわれは、現在の演劇的貧困から救はれるのだ。(一九三三・五)

底本:「岸田國士全集22」岩波書店

   1990(平成2)年108日発行

底本の親本:「現代演劇論」白水社

   1936(昭和11)年1120日発行

初出:「都新聞」

   1933(昭和8)年5171819

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年95日作成

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