戦死した友田恭助氏
岸田國士



 友田君戦死の通知を受けて、かねて覚悟はしてゐたことながらまだ半信半疑の気持である。

 俳優としての友田君は築地小劇場時代から知つてはゐたが、本統に知り合つて一緒に仕事をしはじめたのは昭和七年二月築地座結成以来である。

 築地小劇場解散以後『新築地』『左翼劇場』『地球座』等左翼的傾向をもつた新劇団が続出し、それにつれて多くの新人俳優が擡頭して来たが、友田君は『新東京』以来本格的な新劇舞台俳優として、断然群を抜いた卓越した演技と貫禄とをもつて他を圧してゐた。

 それは築地小劇場時代の多年にわたる、精進と修練とによる俳優としての技巧と天分とが、漸く円熟の境地に達した事を裏書きするもので、その将来には非常に大きな期待が持たれてゐた。

 昭和七年二月、当時の啓蒙的な左翼的演劇に不満を持ち、芸術的な新劇を上演する事を目的として、友田夫妻及び私等が集まつて『築地座』を結成したのであるが、その公演において友田君は、完成された俳優としての持味を遺憾なく発揮して、第一回公演の久保田万太郎氏の『冬』における下町の若旦那政吉、第五回公演の私の『牛山ホテル』の写真師岡、第十三回公演のモルナアルの『リリオム』のリリオム、第二十回公演の久保田万太郎氏の『大寺学校』の大寺三平、第二十二回公演のルナアルの『にんじん』のルピツク、及び第二十九回公演の内村直也氏の『秋水嶺』の山口等に好演技を示し、殊に後の三作における友田君の演技は当時最も秀れたものとして好劇家の絶讃を博したものである。俳優として友田君は非常に真面目で、芸術的良心が強く、そのための誤解なぞもあつたが、人間としての友田君は常識円満な温厚な理想的な紳士であつた。

 自分は今度久保田万太郎、岩田豊雄の諸君と『文学座』を組織し、幸ひに友田君夫妻の参加を得て今秋を期して大いに、新劇界のために精進すべく、諸般の準備を進めてゐたのであるが、友田君の召集のため一時延期の状態となつてゐた。今友田君を失つて『文学座』も大打撃を受けたわけである。しかし『文学座』の舞台に君の優れた演技を見られない事は非常に淋しい事ではあるが、一方君としては御国のために華々しく勇敢に戦つて死なれた事はさだめし男子の本望であつた事と思ふ。

 殊に俳優として熱心であつた如く、兵士としても戦場にあつて、例の負けず嫌ひの一本気であきらめのいい、江戸ツ子気質かたぎを充分に発揮して、大いに奮闘しただらう姿がホウフツと想像出来る。友人として一入彼の冥福を祈る次第である。(談)

底本:「岸田國士全集23」岩波書店

   1990(平成2)年127日発行

底本の親本:「報知新聞(夕刊)」

   1937(昭和12)年109

初出:「報知新聞(夕刊)」

   1937(昭和12)年109

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1112日作成

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