〝現代風俗〟に就いて
岸田國士
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僕は近頃かういふことを考へる。日本といふ国はいつたい、何時になつたら風俗的に統一されるのであらうか?
こゝで風俗といふ意味は、勿論広い意味である。フランス語で mœurs といふあれである。世相と云つてもいゝが、少し漠然としすぎるから、日常生活の表現形式として、やはり風俗といふ言葉を使ふ。
風俗が統一されるといふことは、一国の文化が他国の文化の影響を表面的に受けなくなつた時、又は自国の伝統が絶対の魅力を失つてゐない時に、民衆がある一定の道徳的及び審美的標準を自己の生活のなかに求めるところから生れるのである。
西洋の文明諸国は、あらゆる革命に通じて、なほ確固たる民族意識を象徴する風俗的特色を失はずに今日に到つてゐる。ところが、明治維新以後の日本は、政治的変貌と同時に、好むと好まざるとに拘はらず、まつたく世界歴史に類似のない風俗上の伝統破壊を敢行した。つまり、文明開化の精神は、形式的には、西洋の風俗を出来得る限り採用することにあつたのである。
こゝで、ひとつ、問題があると思ふ。それは、今日と雖もさうであるが、抑々文明又は文化といふ観念の甚だしい混乱、不徹底、錯誤から、色々な悲喜劇が生じたことである。
例へば、西洋風俗は一から十まで「近代的」であると信じた誤りが一つ。そのうちに、西洋文明は単に「物質的」な面でのみ優れてゐると主張する認識不足がその二つ。
現代では「文化的」と云へば、きつと「西洋風」を連想する一方、これを遺憾とする風潮のなかゝらまた「日本文化」を過大評価する傾向が生れ「日本精神」又は「日本趣味」が、多くは「封建的」で「鎖国的」で「非人間的」でさへあることを忘れがちな議論が横行する始末である。
民族性を強調する場合、屡〻独善に陥り、国際性を説く者が須く自卑的な口吻をもらすのは、何れも「文化」に対する一面的な観察を土台とするからで、現代日本の姿といふものを、風俗的に観察すれば、悲観も楽観もしてゐられないのである。
行くところへ行くといふ自然法的な解決も考へられないことはない。混乱は統一への段階であると云へば云へるのであるが、それには、何処かに指導的な力が働かなければならぬ筈である。見渡すところ、そんなものは何処にもない。
少くとも、民衆は、偽瞞と矛盾のなかに、生活の方向を失はうとしてゐるのである。青年の無気力が云々され、インテリ階級の頽廃が論ぜられるといふのは、結局「日本はどうなるか」といふことの不安に原因があるばかりではない。さういふなかで「正しく生きる」道を指し示す「文化的標識」を見失つてゐるからである。
「正しく生きる」と云へば、非常にむつかしい議論になるが、要するに、分に応じて自己の仕事を選び、社会の一員として悔いのない生活を送ることである。生半可な政治知識で天下国家を論じる必要はないし、実行力なくして結社に投じてみてもはじまらぬ。たゞ、民衆としての要求は、それぞれの機会に与へられた公民権の行使によつて反映させる外はない。とすれば、個々の生活のなかに残された「理想」は、必ずしも装飾としてではなく、精神的欲求としての「生活の快適さ」であらう。
かういふことを云ふと、すぐに現代は享楽の目的物に事を欠かぬではないかと反駁して来るものがあるには違ひない。そこで僕はその享楽の目的物なるものについて若干検討を加へる必要を感じるのである。
全くその通りである。現代の日本は、民衆が、最も「生活そのもの」を楽しんでゐない時代、従つて、享楽を「生活以外」に求めてゐる時代なのである。
なぜかと云へば風俗の混乱が趣味の対立、教養の疎隔、言語の不通をまでもち来した結果、親子同胞隣人の間に同一物に対する共通の価値判断が行はれず、従つて、人間相互の感情に相通ずるものが少くなり、反感と軽蔑と無関心が日常の生活雰囲気を支配してゐるからである。
極端な例をあげると、総理大臣の施政方針が発表される。これに興味をもつほどのものが、先づ第一に感じることは、それに盛られた政策の内容が何よりも、その文体の、凡そ珍妙無類なことである。ところが、これを佳しとするものがまつたくゐないわけではない。いや寧ろ、官吏や政治家のうちには、相当に膝を打つて感心したものもゐるのであらう。政治家としての見識や、天才があるなしの問題ではなく、これはまつたく、総理大臣並びにこれを取巻く一部官僚の教養の質に関する問題で、現代日本ならでは見られない図である。かうなると、今日の常識といふものについて、われわれは大きな疑ひを抱かないわけに行かなくなる。
もう一つ例をあげる。日本人は由来芸術を愛する国民だと西洋人の大多数は考へてゐるらしい。そのわけをきくと、日本人は殆ど誰でも「詩」を作る、「造庭術」を心得てゐる。老人でも「声楽」を勉強してゐるものが多い等々とその証拠を数へあげる。「詩」といふのは「俳句」のこと、「造庭術」は庭いぢりや盆栽のこと、「声楽」とは謡曲と義太夫である。なるほど、さうかも知れない。ところでこれらの芸術家は、最もアマチユアリズムの妙味を解しない手合であり常に何人かの軽蔑を買ひ、何人かを悩まし、何人かに甘やかされ利用されてゐるのである。つまり、何等かの意味で「生活」を孤立させてゐるのである。
われわれが、自分の生活の領域のなかに、絶えず、「和洋」の趣味を対立させ、その相容れない部分について、めいめいが感覚を焦ら立たせてゐる状態は、誠に惨憺たるものがある。いつたいこれはどうしたらいゝのか? この摩擦作用は、長い眼で見てゐればたしかに面白い現象に違ひないのであるが現代に生きてゐるわれわれは、その摩擦の不快な軋音に耳を塞ぐ術さへ知らないのである。
洋服を着た東洋豪傑がレコードの浪花節を聞いてゐれば世話はないやうなものゝ、この風俗が何時までも続くのかと思ふと、日本の前途が案じられる。和服でダンスをやる芸者がお酌をしながら「アイ・ラヴ・ユウ」なんてやるもんだから、こないだ日本へやつて来たコクトオといふフランスの詩人が顔をしかめたのである。なにがどう悪いとは云へない。なにがどうなつてゐるのかわからんところが勘に障るのである。
西洋と日本とを混ぜ合はす場合には、両方の悪いところばかりが目立つせいもあらう。大体に「文化何々」と称するものがインチキ性を帯びてゐるやうに、近頃のインテリ階級ぐらゐ当てにならぬものはない。といふのは、なまじつか西洋をかぢり、そのくせ伝来の封建性から脱けきらず、都合次第で「西洋」と「日本」を使ひ分けようとするから「意識的西洋」は歯の浮くやうなものになり、「無意識的日本」は、野暮そのものになり、次の時代は滔々としてこれに倣ふのである。
年寄は口癖のやうに、今の若いものは礼儀を知らんと云ふ。知らんわけではないが、年寄のいふ礼儀とは頭をさげることだと思つてゐるから、そんな卑屈な真似はしたくないと若いものは考へる。それなら、代りになにをするかと云へば、まさか握手や接吻もできないから、なんにもせずにゐるだけの話である。さういふところを年寄りは気がつかない。一度議論をしてみるといゝのだが、これがまた厄介である。年寄りは論語を持ち出すかも知れない。若いものはマルクスと来るかも知れない。どつちもちんぷんかんぷんである。それほどでなくても、両方で、自分たちの生きてゐる時代といふものに対する共通の認識がないから駄目だ。お互がそんなに距つたところにゐる原因を相手の方へ押しつけるだけでは話は進まない。
さて、結論を急がなければならぬが、どうせこの結論は、問題を即座に解決させるやうなものではない。
風俗の混乱は、風俗の頽廃と卑俗化を促すといふ僕の見方からすれば、この際、思ひ切つて一切を日本式に還元するか、すべてを西洋式(といつても英独仏露米伊等の何れを採用するか)に塗りつぶすか、その何れかに相談を纏めて、法律で厳重にその実行を促進するより外ないと思ふ。
僕は、もうこゝまで来たら、西洋式にする方が合理的だと思ふ。それには、西洋の風俗といふものを、始めから研究し直す必要がある。そして、その「近代的」「文化的」な部分を洩れなく取り入れる。さうすると案外「西洋人」の真似をしなくてもすむやうな気がするのである。
早い話が、和服といふものを廃止するとする。さうしてはじめて洋服が日本人向きに改造されるのである。日本音楽を絶対にやらせぬことにする(大体にセンチメンタルでいかんから)。すると、西洋楽器を使つて、現在の歌謡曲みたいなものもやれないことになる。程度の判別はむつかしいが、これはやつて出来ないことはない。かうなると、音楽家は本気になつて新日本音楽を作ることに努力するだらう。
所謂「頭をさげる」お辞儀を廃止する。そこで、握手をさせるとなると、その仕方を工夫するやうになる。日本人の性情に合つた、例へば指先だけを触れ合ふやうにつゝましい挨拶の方法を思ひつくだらう。
そういふ時代が早く来ないものか。
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「一橋新聞」
1937(昭和12)年4月12日
初出:「一橋新聞」
1937(昭和12)年4月12日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
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