文化勲章に就て
岸田國士



 標題のやうな意味の感想をもとめられた。私は文学にたづさはるものゝ一人として、むろん、多少の感想はないことはないが、それを今、なんのために、誰に向つて云ふべきであらう。元来、文学芸術の畑では、かゝる問題をかれこれ論議するものがないやうな状態が望ましく、少くとも個人としてこの種のことに必要以上の興味をもつなどは甚だ不可解だとさへ、私は信じてゐるのである。要するに、国家の恩典について専ら考慮をめぐらすべき地位にあるのは、ひとり政治家のみであつてほしいと、真面目な民衆は心に念じてゐるであらう。

 しかしながら、現代の事情は、皮肉にも、この劃期的な新制度の運用について、民衆自身を安堵せしめない一面をもつてゐるのである。率直にいへば、今日まで、新国家建設の責任を負つて廟堂に立つたわが国の政治家たちが、他の部門はいざ知らず、文芸の領域だけを見ると、殆んどなんらのインテレストを示してゐなかつたことは明瞭であり、従つて、たとへ幾人にもせよ、現代日本を代表すべき詩人、作家、評論家にして、所謂、「文化発達に関して勲績卓絶なるもの」を選び、確信をもつてこれが叙勲を奏請しうるかどうか甚だ疑はしいのである。

 もとより、その銓衡は、それぞれ専門的な評議機関を経ることになるのであらうが、その機関とはどういふものであるか、われ〳〵は先づそれを知りたいと思ふ。なぜなら、この制度が若しもいくらかは西欧諸国の例にならつたものだとすれば、既に私の知る限り、フランスなどでは、今や甚だ香しからぬ結果を示してゐるからである。

 なるほど、林首相の「謹話」なるものゝ趣旨を察すると、これは、必ずしも、フランスのレジヨン・ド・ヌウルや、パルム・アカデミツクと類似のものではないやうであり、寧ろその点で、わが国独特の性質を帯びるに相違ないが、それならそれだけに、せめて教養ある国民の「良識」を基礎として、苟も、社会的栄誉の戯画化に陥らないことを予め注意してかゝる必要がある。

 といふのは、文学者が一国の文化に貢献するといふ意味は、非常に複雑且つ微妙だからである。往々官憲の忌諱に触れたやうな作品が却て、民衆の貴い心の糧となり、且つ、国民全体の矜りとなるものであることが後世一般に認められるといふやうな例がいくらもあるのである。

 また、何処の国でも、民衆は「御用学者」とか「御用作家」とかいふ失礼な名称で、ある種の「国家的名士」を呼んでゐることも考へねばならぬ。

 科学文学芸術の領域では、官吏や実業家と違ひ、直接、国家へのサーヴイスの程度で、その仕事の「文化的価値」を判断するのは間違ひだといふことは、古今東西の歴史を通じて明かな点であるが、その間違ひが絶えず何処でも繰返されてゐるところをみると、日本だけは、なまじつか半可通を振りまはさない政治家によつて事が運ばれることに、十分期待がかけられないこともない。


 そこで、まだなんら具体的な発表をみないうちに、われわれとして、これ以上希望に類することを陳べる余地はないが、たゞもうひとつ、是非、この機会に当局の方針を質したいと思ふのは、林首相の「謹話」中、日本古来の精神歴史を特に尊重するやうな意味が含まれてゐるが、それは単に、広い意味の民族的伝統と解するなら差支ないが、若仮に、過去の文化的遺産乃至旧時代の社会的、道徳的規範制度風習に従つた文学芸術の意に取るべきだとすると、一方で「進歩」といふ言葉が極めて消極的となり、或は全く矛盾することになるが、これはどうかといふことである。

 甚だ愚問だとは思ふが、事、文学芸術に関する限り、現代日本の国家権力が、或は、日本的なものと鎖国的封建的なものとを混同し、西洋的なもの、影響、又は、その思想技法材料の採択による新文化運動を、一概に非民族的なものとして軽視し、若くは無視する意図があるのではないか、これをはつきり知つておきたいと思ふ。

 例へば、長唄や浄瑠璃は「日本精神」による音楽であり、歌舞伎劇は「新劇」より文化的に高級であり、裸体を描いた日本人の油絵より西洋人が富士山を描いた墨絵の方が一層日本のためになるといふやうな偏見がありはしないだらうか?

 こんなことをどうして今云はなければならないかといふと、政治家やお役人のうちには往々にしてそれに近い考へをもつてゐるか、或は、さういふ風を装つてゐるものが、かなりあることをわれ〳〵は気づいてゐるから、万一、今度のやうな勲章が、少数の人々に授けられる場合、さういふ標準で人選が行はれたら、民衆の大部分は失望し、或は、創造の何物であるかを見失ひ、悪くすると因襲的趣味に囚はれて「日本文化」を逆転させる恐れがないとは云へないのである。大袈裟な物云ひをするわけではない。国家が伝統を重んじ、輿論の定まつたものに価値を与へる賢明な途を撰ぶのは当然であらう。たゞ、懼れるところは、日本国民を甘やかす側の仕事に重点がおかれはせぬかといふことである。

 これが仮に、フランスの文学者が胸につけてゐるレジヨン・ド・ヌウルの赤いリボンの如きものなら、誰が持つてゐるといふことはもう問題でなく、誰がまだ貰はないといふことだけ、世間は注意するのであるから、当人よりも細君が一生懸命になり、友人知己を介して文部大臣にまだかまだかと責めたてる始末である。ところが、そんな運動をしないでゐると、つい当局は忘れてゐることがあるらしい。しかも、作家生活十年以上に及んで、相当文名があがる頃になると、もう勲章をもつてゐないことが一向目立たなくなるのだからよくできたものである。つまり、当然もつてゐることだとみんなが思ひ込んでしまふ。

 そのうちに、たまたま、新聞に誰それは今度勲三等コンマンドウウルになつたとか、勲一等グラン・クロアを貰つたとかいふ所謂昇叙の報道がでる。あ、さうかと思ふだけである。

 最近私の眼にふれたのは、たしか、ポオル・ブウルジエといふ老大家が勲一等になり、スゴン・ヴエヴエル夫人といふ若くない女優が勲一等になつた時がある。劇評家のエドモン・セエがもう勲三等で十数年前は未だぴいぴいの新進だつたと記憶する。これはなるほど出世の早さうな温厚篤実な劇評家であつたと私はちよつと愉快であつた。

 たゞこのレジヨン・ド・ヌウルは日本の金鵄勲章にも旭日章にも瑞宝章にも宝冠章にも、更にまた文化勲章にも相当するものであつて、職業を問はず、官民の区別なく、国家は平等にその国民としての社会的功績を表彰する形式をとつてゐることは、これまた国民性の然らしむるところであらうか。

底本:「岸田國士全集23」岩波書店

   1990(平成2)年127日発行

底本の親本:「東京朝日新聞」

   1937(昭和12)年21516

初出:「東京朝日新聞」

   1937(昭和12)年21516

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1112日作成

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