「文化勲章」制定に就て
岸田國士
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文化勲章の制定が公布せられたことは、私個人としていろいろ考へさせられる問題があると同時に、国民として、まことに慶賀すべきことだと思ふ。かねてから、民間、殊に文壇ヂヤアナリズムの上で、さういふ制度に関する論議があり、それについて私も若干意見を述べたこともあるが、いよいよそれが実現して見ると、やはり国家もさういふ処まで来てゐたのだと感慨うたゝ切なるものがある。
形式上のことはよくわからぬが、これは政府の仕事だとか、官僚の思ひつきだとか、強ひてさういふ風に解さない方がいゝ。林首相の謹話といふのを読むと、事理すこぶる明白で、かういふ制度が、これまで日本になかつたことをむしろ不思議に思ふくらゐであるが、たゞ、この種の表彰が、今日の政府の手で如何に正しく、公平に、且つ進歩的な意義をもつて行はれるかといふ疑問を先づ国民は抱くであらう。
「文化」といふ言葉自身に対する政治家乃至役人の観念を先づ質したいといふのが卒直なわれわれの感想であるが、さういふことは、国家が折角「文化」といふものに対して示さうとするインテレストを軽視することにはならないと思ふ。
特に「文化の発達に関し勲績卓絶なるもの」に与ふる勲章といふ例は、恐らく、世界に類例がないのではないかと、私は今ふと考へた。日本には、金鵄勲章といふ特別な武功章があるから、これに対して文功章が設けられる精神もわかりはするが、一般の勲章(旭日章、瑞宝章等)は、これで、科学者、芸術家には縁のないものとなるやうなことはないか。官民の国家待遇上の差別が、若しこの結果露骨になるとしたら、そのへんの考慮も当局としては是非払はねばなるまい。
最後に、科学者は別として、芸術家殊に文学者などのなかには、一種の「伝統的心境」から叙勲を辞退することをもつて礼節と考へるものがゐるかもしれないが、さういふ個人主義は、国家的見地からは問題とするに足りない。寧ろかゝる風潮を生む真の原因は、官民の間を流れる封建的感情にあるのである。
文化の装飾的意義が存在する期間においては、勲章も、またやむを得ぬ一個の「ビブロ」である。
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「報知新聞」
1937(昭和12)年2月12日
初出:「報知新聞」
1937(昭和12)年2月12日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
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